第八十九話
『が、あ…! コレ、は…!』
雷鎚を放とうとしていたアンドヴァリが突然苦しみ出した。
その強靭な手足が、巨大な頭部が融解し、苦悶の声を上げる。
「一体何が起こっているのー!」
「…まさか、レヴァンがやったのか!」
混乱するアルとヒルドの横で、ヴェルンドは冷静な目でアンドヴァリを見る。
「間違いない。玉座が破壊されたんです」
天へ集められていた魔力が霧散する。
暗雲は既に消え去り、アンドヴァリに満ちていた魔力も消えた。
魔術が解除される。
肉体が変質する苦痛に、アンドヴァリは絶叫する。
『まだ、だ。まだ、私は…私は…!』
アンドヴァリは救いを求めるように、天へ手を伸ばした。
『私は…』
――――二十年前。
アンドヴァリは騎士団長の地位にあった。
「………」
腐敗が横行する当時の騎士団は現在とは異なり、人々から忌み嫌われる存在だった。
疫病患者を家族から引き離し、ひそかに焼き払ったこともあった。
飢えた民の声を無視し、貧しい村を見捨てたこともあった。
その騎士団のトップであるアンドヴァリは『黒騎士』と呼ばれていた。
顔色一つ変えずに自身の父母さえ焼き殺したことを恐れられ、同じ騎士からも血も涙もない悪魔だと罵られていた。
「今度の任務は南部ですか?」
そんな彼にも、一人だけ友人と呼べる者が存在した。
部下の中で、アンドヴァリが唯一信頼できる女性。
名前はヨルズ。同郷の幼馴染だった。
「そうだ。出来れば、君にもついてきて欲しい」
彼女はアンドヴァリの理解者だった。
一見冷酷に見えるアンドヴァリの仮面の下の苦悩を理解してくれる女性だった。
「…? 別に構いませんが、今回の任務に私が必要ですかね?」
「いや、任務は関係ないんだ。折角、南部へ行く機会だからな」
「…もしかして、エルフですか?」
周囲の眼を気にしながらヨルズは小声で呟いた。
「ああ、君は確かエルフ語が話せただろう?」
「前に古文書を呼んだので多少は分かりますけど、流石にエルフと話したことはないですよ?」
「それはそうだろう」
エルフがアールヴの森を出ることはない。
逆に、人間がアールヴの森に入ったことも歴史上存在しない。
かつての文献からその森にエルフがいると知っているだけで、実際に見た者はいないのだ。
「父母を毒し、今も故郷を蝕んでいる疫病。俺は、エルフが疫病根絶の鍵を握っていると思うんだ」
「エルフが、ですか?」
「伝承によるとエルフは病気に罹ることなく、五百年以上生きるらしい。それはきっと、エルフに不老長寿の知恵があるからだろう」
「でも、エルフがそう簡単に教えてくれるでしょうか?」
「エルフの姿は我々と大差ないと言われる。彼らだって同じ国に住む生き物なんだ。きっと分かり合うことが出来る筈だよ」
そう言い、アンドヴァリはヨルズを連れてアールヴの森へ向かった。
若さ故に、考えが甘かったのだろう。
それとも黒騎士として助からない疫病者を介錯する日々に疲れていたのか。
「何故、我々の声に答えてくれないのですか? 森の隠者よ」
森に辿り着いた二人は、エルフの張った結界に阻まれていた。
「今、人類は未曽有の危機を迎えている。手を貸して頂きたい。あなた方の知恵を授けて下されば、人類はエルフへ心からの感謝を送るだろう!」
アンドヴァリの言葉を訳してヨルズが叫ぶが、森から返答はない。
「それとも、人類など救う価値がないと? 人類の命など、羽虫の命と変わらないと言うのか!」
段々と怒りを増してきたアンドヴァリが声を荒げる。
それが遂に届いたのか、森の奥からエルフが現れた。
「誤解しないで下さい、人の子よ。我々は人間に害意を持っていません」
一番の権力者と思えるエルフの女が穏やかな声で言った。
それはエルフ語ではなく、人間の言葉だった。
「では、何故! あなた方にとって人の病の治療など、造作もないことの筈だ!」
「…そうですね。病の治療は子供でも出来る初歩的な魔術です」
「…当然ながら、疫病根絶の暁には、人類はエルフへ最大限の感謝を送るつもりです! あなた方の要望にも喜んで答えましょう!」
「…ええ、人の作り出す物には多少興味があります」
「では…!」
期待を込めてアンドヴァリは顔を上げる。
それを見て、エルフは悲し気な表情を浮かべていた。
「ですが、人類に我々の知恵を授けることは出来ません」
「な、何故ですか?」
「それが掟だからです。人類とエルフは決して干渉しない。千年前にエルフが定めた掟」
理解が、出来なかった。
掟。
千年も前に顔も知らない誰かが定めた物を今も守っているのか。
そんな物の為に、人類は見捨てられるのか。
「これまで千年、この掟を守ることでエルフは平穏を保ってきました。それはこの先、千年も同じ」
「馬鹿な。あなたは何も思わないのか! 自身と同じ容姿をした種族が滅亡の危機を迎えても、何も思うことはないのか!」
「エルフと人間は違う種族です。決して交わることはない」
その瞬間、アンドヴァリは理解した。
エルフと人類は同じ種族ではない。
こんな心無い種族が、人間である筈がない。
「…お前達は獣だ。人の心を持たない獣だ!」
そう吐き捨て、アンドヴァリは結界の前から立ち去った。
絶望していた。
きっと彼らにも心があると信じていた。
だが、実際は古き習慣を守り続け、自分の種族以外に関心を持たない獣だった。
「アンドヴァリ…」
「…ああ、すまない。俺が間違っていたみたいだ」
「いえ、あなたは間違ってないと思いますよ」
傷心のアンドヴァリを元気づけるように、ヨルズは笑みを浮かべた。
「あなたはいつも正しかった。あなたが父母を殺した時、皆はあなたを非難したけど…あの時、ああしていなかったら故郷は疫病で滅んでいた」
もう助からない重度の疫病者を集め、それを焼き払った所業は悪魔のように見えた。
だが、それはより多くの人々を救う為の苦渋の決断だった。
黒騎士と呼ばれるアンドヴァリの所業の中には、必ず救われた人間がいた。
その行動には、必ず正義があった。
「今だって、皆が恐れるエルフに直接交渉に来ました。全て、自分以外の人々を救う為に」
「…買い被り過ぎだ。俺は君の思うような騎士ではない」
「いえいえ、だって私はあなたに憧れて…」
『見つけた』
その時、聞き覚えのない声が聞こえた。
人間の言葉ではない。
それがエルフの使う言葉だと理解した時には、アンドヴァリの右腕が宙を舞っていた。
「あ、ああああああああ!」
『キヒヒ! クソ人間如きが、ベイラにあんな言葉を吐いて無事に帰れると思ったか!』
姿が見えない相手が、笑い声を上げる。
血を流す肩を抑えるアンドヴァリの前で、風を切る音が響く。
ここで終わりか、と諦めが脳を過ぎった。
『あん…?』
しかし、衝撃はいつまで経っても来なかった。
ゆっくりと顔を上げたアンドヴァリの眼に飛び込んできたのは、力なく笑うヨルズ。
血に塗れながら倒れ込むその身体。
『キヒヒ! 女が庇ったか! 弱い蛆虫如きが滑稽だな!』
ゲラゲラと笑う声が遠い。
『笑わせて貰った礼に男の方は見逃してやるよ! せいぜい、自身の愚かさを自覚し、他の人間にエルフの恐怖を伝えてきな! キヒヒヒ!』
エルフの気配が消えた。
アンドヴァリは恐る恐る倒れたヨルズへ近づく。
「アンドヴァリ、良かった、無事で…」
「何故だ。何故、俺を庇った! 斬られるべきなのは俺だ! 殺されるべきなのは俺だろう!」
甘い考えでエルフの森を訪れ、浅い考えでエルフを罵倒した。
その報復を受けるのはアンドヴァリだった筈だ。
「あなたは、私の、憧れの騎士だった。あなたに憧れて、私は騎士になった…」
「ッ!」
「それに、気にしないで下さい。私はどのみち長くは生きられない…私は…」
「…知っていたとも! 君が疫病だったことは!」
「え…?」
血溜まりに沈みながらも、ヨルズは少し驚いたような顔をした。
「君の身体が病魔に蝕まれ、もう長くないことは知っていた! 知って、いたんだ」
「…そう、だったんですか。ふふ、それでも私を補佐にしてくれた。私の願いを叶えてくれた。やっぱり、あなたは私の理想の騎士です」
ヨルズは嬉しそうに、本当に幸せそうに微笑んだ。
アンドヴァリはその眼を、笑顔を直視することが出来なかった。
「違う。違うんだ! 俺はそんな立派な人間ではない! 会ったこともない者の為に命をかけられるような人間ではないんだ!」
身体が震える。
眼から涙が零れる。
「俺はただ…君を、君を救いたくて…!」
故郷よりも、帝国よりも、ただ愛した人を救いたかった。
ただ、それだけだったのだ。
「………」
ヨルズは答えなかった。
満ち足りたような笑みのまま、死んでいた。
「―――」
俺は、理想の騎士になろう。
彼女が望んだ理想を、全て叶えよう。
全ての人々を救う偉業を成し遂げよう。
彼女はその為の犠牲だった。
その死を決して無価値になど、させない。
崩壊が止まらない。
肉体だけではなく、精神も同様だ。
玉座によって保たれていたアンドヴァリの自我が砕ける。
混濁の中に沈んでいく。
『が、ああああああああァァァ!』
消える。消える。消える。
アンドヴァリの記憶が、理想が、誓いが。
これまで生きてきた人生が、アンドヴァリの全てが消える。
―――飲み込まれる。
『ああああああ…はは、あはははははははははははァ!』
唐突に、絶叫が狂笑に変わった。
『―――蛆虫共。今だけは感謝してやるぞ』
アンドヴァリの背から尾のように伸びていた大蛇が口を開いた。
それはエルフ語だったが、聞き覚えのある声だった。
「この声…あの時の怪物、か?」
『貴様達のお陰で我を抑え付ける魔力が消えた。これで、この依り代は我の物だ』
今度はアンドヴァリの口が開き、人間の言葉を吐き出す。
『今回の依り代は素晴らしい。これなら今度こそ蛆虫共を滅ぼせる』
「くっ、ファフニールの時と同じか!」
アンドヴァリの魔術が壊れた瞬間に、種子に宿る本来の魔術が起動してしまった。
即ち、人間を依り代に創世術式『ニドヘグ』を顕現させる魔術を。
『既に喰らった生命を全て魔力に変換。これで一日は保つ。それだけあれば蛆虫の群れなど、三度は滅ぼすことが出来る!』
破壊神は滅びを告げる。
手始めに、目の前の者達から滅ぼそうと腕を振り上げる。
『――――――何?』
その腕が、アル達に振り下ろされることはなかった。
破壊神の意志を無視して動いた腕は、自らの肉体を貫き、心臓を握り潰したのだ。
『貴様…!まだ自我が残って…!』
依り代が死亡しては術式を保てない。
纏いつつあった魔力が完全に霧散し、破壊神の気配が薄れる。
『おのれ! 今度こそ、今度こそ貴様らを滅ぼせる筈が…!』
憎悪を含んだ単眼がアルの姿を捉えた。
『忌々しい、黒エルフ共め』
「…え?」
憎々し気にそう言い残し、神と呼ばれた存在は完全に消失した。
その瞬間、全ての力を失ったアンドヴァリの肉体が崩れ落ちる。
魔力は失われた。
最後の魔術も自ら潰した。
後は、死を迎えるだけだ。
「は、私にも、意地がある。人類を救おうとした身として、人類の破壊者になる訳には、いかなかった」
自ら心臓を握り潰し、死期を早めたことをアンドヴァリは淡々と言った。
こう言う男だった。
それでより多くの者が救われると信じれば、例え誰であろうと犠牲にする。
何も知らない村人だろうと、
大切な家族だろうと、
自らの命だろうと、
「私は、自分が間違っていたとは、今でも思わない。全て最善だった。常に最良を選んできた…」
「…アンドヴァリ」
「だが、予感はしていた。私の理想を壊す者がいるとしたら、それは私が切り捨てた者だろうと、あの日に拾った子供だろうと、な」
段々とアンドヴァリの瞼が閉じていく。
暗い死の気配が近付いてくる。
それを感じて、アンドヴァリは自虐するような笑みを浮かべた。
「すまない、ヨルズ。やはり俺は、理想の騎士になることが出来なかったよ…」
最期に、そう告げてアンドヴァリは命を落とした。




