第百三話
「う、おおおおおおおおおォ!」
残り少ない命を燃やしてヴェルンドは魔術を行使する。
元より命など惜しくはない。
計画さえ果たせれば、報われることさえあれば、その果てに死んだって構わない。
「ヴェルンド…!」
泥に埋め尽くされた地上を見下ろしながら、アルは空を駆ける。
アルの跨る黄土色の騎馬は大気を踏み締め、天空を走り抜けた。
広がり続ける泥の沼を越え、中心にいるヴェルンドを狙う。
「は、ははは…! その乗り物ごと地獄に叩き落としてあげますよ!」
ヴェルンドは泥を操る手を止め、虚空に文字を描く。
虚空を走るヴェルンドの指先が輝き、大気中に陣が浮かび上がった。
「…行け!」
「何…!」
アルの思考が一瞬止まる。
ヴェルンドが虚空に描いた陣と全く同じ物が目の前の空間に現れたのだ。
「俺の魔術は風属性。俺の陣は風に乗り、どこにでも刻むことが出来る…!」
(…マズイ!)
その意味を悟ったアルは騎馬から飛び降りた。
瞬間、陣から大量の泥が放たれ、騎馬が呑み込まれた。
「地獄の底まで堕ちろ!」
足場を失ったアルはそのまま地上へ落ちていく。
着地地点には、死の泥が口を開けて待っていた。
「…ッ!」
アルが着地する寸前、泥が流されるように消えた。
泥が消え、現れた地面の上にアルは着地する。
剥き出しの土には青色の陣が浮かび上がっていた。
「…また、アルファルですか」
ヴェルンドは忌々しそうに舌打ちをした。
あらゆる物を呑み込む泥だが、アルファルの結界とは相性が悪いようだ。
「捕えた時に殺しておくべきでしたね。別に死体だろうと、力を奪うのに支障はないので」
結界越しにアルと向かい合ったヴェルンドは冷徹に言う。
「…初めから、力を奪う為にアルファルに近付いたのか?」
最早、意味のない問いだと思いながらもアルは尋ねた。
その疑問に、ヴェルンドは表情を消す。
「少しだけ違います。最初は計画を説明し、協力してもらうつもりだった」
感情を押し殺すようにヴェルンドは言った。
恐らく、理解者が欲しかったのだろう。
たった一人で人類を滅ぼす実力はあっても、その意思が弱かったのだろう。
「ですが、アルファルの口からあなたの名前が出た時点で、俺は半ば諦めていましたよ。エルフに味方する人間がいるなんて………本当に、想定外でした」
アルファルは人間を憎んでいると思っていた。
自分の計画に心から賛同してくれると考えていた。
そうならなかったのは、ヴェルンドより先にアルファルと出会った人間がいたから。
「俺はあなたに興味を持ちました。エルフを自らの手で滅ぼしておきながら、エルフの為にかつての友さえ敵に回す。一体どんな人間なのかと」
「………」
「実際に会ってみて、何て馬鹿な人かと思いましたよ。あなたには大義なんてない。ただ自分の中のちっぽけな善性に従って生きている」
それは、ヴェルンドが今までに一度も出会ったことのない人間だった。
根拠なんて二の次。
ただ自分が救いたい者を救い、味方したい者に味方する。
だからこそ、アルファルに受け入れられた。
その心があまりにも素直だから。
自分から悪人だと告げる人でなしに、温かい言葉をかけてしまう程に。
「…正直、全てを投げ出したいと思ったこともありました」
計画も悲願も捨てて、ただアルの味方になる。
そうなれば、どれだけ幸せだろうか、とありもしない夢を描いた。
それは所詮、夢に過ぎない。
そんな夢を見るにはヴェルンドの手は血に汚れすぎている。
アルの故郷を滅ぼしたのは他ならぬ自分自身なのだ。
「………」
「…誰だって、良かったんですよ」
ぽつり、とヴェルンドは呟いた。
それは小さな小さな、ヴェルンド偽りない本心だった。
「ただ、自分を愛してくれれば、自分を受け入れてくれれば、それだけで良かった」
家族が欲しかった。
褒めて欲しかった。頭を撫でて欲しかった。
一人は、嫌だった。
「…『ナーストレンド』憑依」
地面に広がっていた泥が集まり、ヴェルンドの身体に取り込まれていく。
明らかにヴェルンドの体積を越えた質量が飲み込まれ、ヴェルンドの肉体が膨張する。
ヴェルンドの肉体が所々裂け、溢れた泥が流れ出す。
「が、あああああああああァァ!」
「くっ…!」
絶叫するヴェルンドの口から黒球が放たれる。
それは濃縮した魔力そのもの。
アルファルの結界さえ容易く突き破ったそれを見て、アルは急いで距離を取る。
瞬間、黒球が弾け、周囲一帯を根こそぎ削り取った。
「創生『グングニル』…穿て!」
アルの手から翡翠の槍が投擲される。
弾ける泥に削られながら放たれた槍は、ヴェルンドに触れた途端に消滅してしまった。
(…もう魔力が)
「アンドヴァリが最初から悪人だったなら、迷うことはなかった! エルフが最後まで悪人だったなら、迷うことはなかった!」
誰にも受け入れられない絶望と孤独を叫びながらヴェルンドは腕を構える。
内側から裂けた腕から泥が溢れ出る。
「俺は人間に拒絶され、エルフを拒絶した! だからやり直すんだ!」
地面を広がる泥がアルの逃げ場を塞ぐ。
足を止めたアルに狙い、新たな黒球を放つ。
「今度は間違えない! 俺は…!」
その時、ヴェルンドの眼に淡い光が映った。
木漏れ日のような温かい光。
それに包まれ、ヴェルンドの身体から泥が消えていく。
「アルファルの、結界…? 魔術を封じたつもりか…?」
地面に浮かび上がる青色の陣を一瞥し、ヴェルンドは視線をアルファルに向けた。
結界に閉じ込めたつもりだろうか、と訝し気な顔をする。
確かに結界内では魔術が使えないが、簡単に抜け出せる。
こんな物は何の意味もない、と言う目をアルファルに向けた。
「…ごめん、なさい」
小さく、そんな声が聞こえた。
今にも泣きそうな、アルファルの声だった。
「ッ…あ、ぐ…!」
その声の意味を考えた時、ヴェルンドは強い痛みを感じて胸を抑えた。
あまりの痛みに、膝をついて呻き声を上げる。
…そうだった。
アルファルの結界内では全ての魔術が無効化される。
そう、全てだ。
ヴェルンドの魔術ナーストレンドも。
体内に仕掛けられた『心臓』も
「アンド、ヴァリ…!」
それを自らに仕込んだ男の名を呟いた。
自身の家族でありながら、自分を裏切った父を呪った。
「ヴェルンド…」
意識が霞むヴェルンドの耳に、アルの声が届いた。
もうその顔を見ることは出来ないが、今どんな顔を浮かべているか手に取るように分かった。
きっと、悲しむような憐れむような顔を浮かべているのだろう。
この男は、そう言う男だ。
強大な力を持ちながらも、甘さが抜けない。
自分の故郷を滅ぼした張本人すら、あっさりと信じてしまう。
人を疑うことを知らない。
(…呆れて物も言えないな)
ヴェルンドは自嘲するような笑みを浮かべた。
「…あなたみたいな家族が、欲しかった」
本当に呆れる。
今更、こんなことを口にするなんて。




