閑話・過去を踏まえて
眠りから意識を浮上させたが、さらりとしたシーツの気持ち良さに負けて暫し微睡んでいた。
あの屋敷でいないものとして扱われ続けた日々から一変して、今ではヴァンクライフト家の屋敷で息子と共にお世話になっている。
息子は16歳という若さで王都で治療師として活躍している。
日々を重ねるごとに亡き夫の背中に似ていく息子。
息子の能力を買われて公爵家へと派遣された際、息子が母親もと願い出てくれたお陰で、今こうして生きていられるのだった。
息子はあの男の血を引いていない。更に王からの覚えもめでたいと聞いていた。治療師として情状酌量の余地もあったかもしれないが、あの男と結婚したままだったら、間違いなく自分は今ここにいなかっただろう。
目が覚めて程なくして、メイドが部屋へと入ってきた。
「おはようございます、リリアナ様。今日はとても良いお天気ですわ」
「おはようございます」
シーツの取り替えに来てくれたメイドが、顔を洗うための準備を終えて待ってくれていた。
お礼を言ってそちらへと向かっている間に、メイドはシーツを変える。
戻ってくると服を着替えるのだが、コルセットなどは一切なく、ゆったりとした服装を用意してくれている。
この屋敷に来て、先ず驚いたのがこの服だ。
身体を締め付けないようにと配慮されたこの服の着心地の良さに驚いた。
「ご当主様とヒューム様が食堂でお待ちです。さあどうぞ」
にこやかなメイドの笑顔に癒される。
同じように笑顔でお礼を言って、食堂へと一緒に向かった。
「おはようございます。遅くなってしまって申し訳ありません」
「ああ、おはよう。今日は調子が良さそうだな」
当主のサウヴェルがにこやかに挨拶を返してくれる。続いて息子が母さんと呼んだ。
「おはよう。本当に今日は顔色がいいね」
「おはよう。皆様が良くして下さっているからだわ。日に日に身体が軽くなるのが分かるの」
「それは良かった」
リリアナの言葉にサウヴェルが微笑んだ。
同じ頃にイザベラとラフィリアも集合して、一緒に朝食を食べる。
この屋敷に来てからというもの、ご家族の朝食に息子と共に取らせてもらっている。
最初こそ恐れ多いと慄いていたのだが、大事な息子さんを預かっているのだからとサウヴェルに押し切られた感じだ。
サウヴェルとヒュームが仕事の話をしながら食事をしている。
口を出さず、ゆっくりと朝食を取らせて貰っていると、サウヴェルがラフィリアを呼んだ。
「はい」
「午後からエレンが遊びに来るそうだ」
「ほんとっ!?」
「一緒に遊びたかったら午前の勉強を一生懸命にやりなさい」
「はーい」
サウヴェルの娘のラフィリアは、エレンが遊びに来ると聞いた途端に嬉しそうな顔をして食事を再開した。
そんな少女の姿が微笑ましくて思わず笑顔でいると、ラフィリアと目が合った。
「…………」
ちょっとばかり頬を染めてそっぽを向かれてしまった。
嫌われているわけでは無いのだろう。恥ずかしかったという所だろうか?
少女を見ていると、娘が欲しかったなぁと少しばかり思ってしまう。
自分が不甲斐ないばかりに、息子は人よりも早く大人になろうと努力した。
誇らしい面もあるが、巣立ってしまった様な寂しさもある。
そんな気持ちが同じ女性としてイザベラへと伝わってしまったのかもしれない。
こちらを見ているのに気付いたので微笑むと、微笑み返された。
「リリアナさん。お加減は如何かしら?」
「皆様のお陰で、今日は身体が軽いのです」
「あら、それでは無理をしない程度に後でお茶なんて如何かしら?」
「ええ、喜んで」
楽しみだわ、と喜んでくれるイザベラにこちらも嬉しくなる。
あの屋敷では腹のさぐり合いだった。気も休まらない周囲の目。言葉の棘ばかり投げ続けられていたのが嘘のようだ。
この屋敷は穏やかで、皆が優しい。
なんて素敵な人達だろうかと比べてしまう自分がいた。
***
夫は治療師だった。14年前のモンスターテンペストで召集がかかった夫は、私達と共に王都の真横に位置するベルンドゥール領へと移動した。
ここは王都との境にある学院を管理している一族が治めており、急遽学院を避難所として解放していたからだ。
夫はそのまま現地へと赴き、私は二歳になる息子と共に、この領地で夫の帰りを待つことになった。
だが、待っている間にも食事は必要となる。食べていくために働きながら夫の帰りを待っていた。
働かせてもらっていた宿で、掃除や食事の準備をしていた時に、宿に立ち寄ったあの男に会ったのだ。
しつこく言い寄られてはいたが、夫がいることと息子がいると伝えてずっと断り続けていた。
だがあの男はそれでも諦めなかった。夫と離婚するように迫ってくるのに恐怖を感じた頃、夫から帰ると手紙が来たのだ。
夫が無事に帰ってくる。やっと会えると胸をなで下ろした矢先、宿に来た騎士から、痛ましげに夫の遺髪と夫の名が刻まれた血に塗れたコインを渡された。このコインは治療師の証だった。
夫は帰ってくる途中、盗賊に遭い、馬車に乗っていた者全て殺されてしまったという。
身ぐるみ全てが剥がされていた中、夫はこれだけはと頑なに握りしめていた。
指を切り落とそうとした跡があったと言われた。その最中に、同じく帰還中だった騎士達がたまたま通りかかり、コインだけは守られたのだ。
一瞬にして目の前が真っ暗になる感覚。何も考えられなくなった。
呆然としていると、二歳の息子がこちらを見上げて「おとーさんは?」と尋ねてくる。
込み上げる嗚咽に視界が涙で歪んだ。私の泣き声は殆ど叫びに近かっただろう。怯える息子はしばし呆然としていたが、私が悲しくて泣いていると分かったのか、一生懸命に「おかーさんおかーさん」と拙い声で呼びかけてくる。
息子を抱きしめて、私はその日、一日中泣き続けた。
だが泣き続けてもいられない。残された息子と共に生きていかなくては。
お世話になっている宿の主人に説明して、これからもお世話になりたいと申し出た所、申し訳なさそうに「出ていってくれないか」と言われた。
何度も頼み込むも話もさせてもらえず、息子と共に追い出されてしまった。
息子を抱えて働き先を探して転々とする。この領地を出るしかないと出ていこうとすれば、夫を殺した盗賊が捕まっていないので、外は危険だと出してもらえない。
途方に暮れていた所で、あの男が笑いながらやってきたのだ……。
「……ナさん。リリアナさん?」
イザベラの呼び声でハッとする。
今はイザベラと共にお茶の最中だったと慌ててしまった。
「気にしないで。……何かお悩みごとかしら?」
イザベラは母のように、優しく聞いてきてくれた。
今なら、もう話せるのではないだろうか。誰にも言えなかった心の内を少しずつ話すことにしたのだ。
14年も経つと、流石に心の何処かで整理はついていたらしい。
自分で話していて想いに囚われるかと思っていたが、予想外に言葉はするすると出た。
「リリアナさん、貴女は……」
涙を浮かべて優しく抱きしめられた。
自分も夫も、身寄りは誰もいなかった。母が生きていたら、イザベラと同じ年頃なのだろうか。
「もう……昔の話なんです。だけど、どうしてなのかしら。ここに来てから、妙に思い出してしまって……ごめんなさい」
「良いのよ。やっと心が休めると思い始めたのではないかしら? 時が解決するとはこういう事なのよ、きっと……」
身体の調子が整ってきたので、次は心の番だと、傷を癒そうとしている反動ではないかということだった。
それはこの暖かな場所が、心まで癒してくれている証であった。
「ここにいてくれて良いのよ? わたくしもね、娘が欲しかったの。だけど出来たのは息子が二人。ふふふ」
「はい。お嬢様を見ていると、娘が欲しいと思いますわ」
「あら、一緒ね」
「ええ。本当」
二人で共通点を見つけたと笑い合う。
庭の隅っこでテーブルを広げて暖かな陽気の中でお茶を飲んでいた。
そんな時に、ラフィリアともう一人の少女の陽気な笑い声がした。
「あら、エレンちゃんが来たかしら?」
いそいそとメイドに二人を呼んでくるようにと言うと、イザベラの様子がうきうきと弾んでいた。
椅子から降りて体勢を整えている姿を見て首を傾げていると、遠くから「おばあちゃまー!!」という叫びが聞こえてきた。
小さな可愛い女の子がイザベラへと飛びついて、全身で喜びを表している。
この子は私達を助けてくれた女の子だった。
二人でひしっと抱き合って喜んでいる姿は、本当に微笑ましい。
「リリアナ様もごきげんよう」
「ごきげんよう、エレンお嬢様」
小さな女の子がスカートの端を持ってお辞儀してくれる姿が可愛らしい。
後から息を切らせて走ってきたラフィリアがエレンー! と少し怒っていた。
「置いてくなんて酷いわ!!」
「あ、ごめんね。おばあちゃまに会えると思ったらつい……」
二人の少女は同い年だと聞いたが、その姿からは姉妹に見える程に身長差があった。
頬を膨らませるラフィリアを宥めようとする、小さな女の子達のやりとりは可愛らしい。
思わずふふふと笑っていると、イザベラに孫達は可愛いでしょう? と聞かれた。
「ええ。とっても」
とても和やかで、微笑ましい光景が広がっている。
この優しい空気が、昔の痛みを取り除こうとしている。
心の整理には時間がかかるのかもしれないけれど、いつかきっと。
(昔を想って悲しむのは、もう止めなくちゃ……)
息子にも言われたではないか。
過去に縛られるのはやめようと。
「……リリアナさん?」
イザベラの心配そうな声が横から投げかけられた。何だろうと瞬きをすると、涙がぼろりとこぼれた。
「……やだわ」
慌てて涙を拭おうとするが、次から次へと涙がこぼれてきた。
「良いのよ。今は泣きましょう? そうすることを身体が望んでいるのだわ」
イザベラに肩を抱かれる。
すると、堰を切った様に涙が溢れた。
庭には子供達の笑い声が聞こえていた。
隣のイザベラに優しく抱きしめられ、暖かな日の下で、私は泣き続けたのだった。