私は姫ではありません!
テンバール王国の一角で、とある噂が静かに広がりつつあった。
事の発端は、各地を転々とする旅人や商人達の話であった。
半信半疑に噂されるそれは、問題を抱える者達やその家族にとって、藁にも縋る思いで噂の真偽を確かめている。
とある商人は家族で旅をしながら商いをしていた。
途中、ヴァンクライフト領を通りかかった所で、一人息子が流行病にかかってしまったのだ。
親は慌てて領地内の治療院へと駆け込んだ。
そして、今まで見たこともない薬を渡されたのだという。
「お子さまはこちらで三日ほどお預かりしましょう。なに、直ぐによくなりますよ」
そう治療師に言われたが、両親は疑問を感じたらしい。とても余裕のある表情で子供を預かるという治療師。その余裕さから不審に思ってしまった両親は、子供に付き添えるかお願いした。
「お子さまの病気が移ると困りますからそれは出来ません。ですが、毎日会いに来られると良いでしょう」
治療師の言い分はもっともだった。杞憂かとも思ったのだが、丁度その時、とあるお偉いお方が治療院を訪ねてきたらしく、治療師は慌てて子供の診察を終えた。
「他の者を寄越しますのでお子さんはこのままこちらで横になっているように」
慌てて出ていく後ろ姿に呆然としていた両親は、ここに子供を預けて大丈夫かと不安になった。
熱を持った息子の頭を心配そうに撫でる母親の横顔を見ていた父親は、別の所に行くべきじゃないかと話をした。
「やっぱりそうかしら……」
心配そうに周囲を二人で見渡して、ある違和感に気付いた。
この部屋はとても明るく、清潔に保たれていた。記憶にある治療院というものは、ここまで清潔な場所ではなかったからだ。
「でも……お部屋はとても綺麗ね」
「他の患者はいるのかね?」
カーテンで仕切られた隣のベッドを覗くと、そこにも寝ている他の患者がいた。男性の顔は熱があるのか息子と同じように赤らんでいたが、安らかに眠っていた。
音を立てずに、両親は周囲をそーっと覗いていくと、結構な数の患者が横になっていることに気付いた。
「……多くないか?」
「え、ええ。そうね……」
大部屋ともいえるベッドの数。およそ10人ほどが一部屋に入れられている。
隣同士はカーテンの仕切りがあって、隣のベッドに寝ている人の顔は覗き込まないと分からない。
商人の目で周囲を更に確認する。新しい建物と思わしき室内。窓が沢山取り付けられ、薄い布地のカーテンから通された柔らかな光が部屋に満たされている。そして何より、清潔に保たれた真っ白なシーツ。
机のチェストにはラベンダーが生けられており、室内にはほのかに花の香りがしていた。
今まで見てきた治療院とは全く違う。
他の治療院はとにかく薄暗く、薬特有の酷い悪臭が立ちこめている事が殆どだった。
精霊に祈祷すると、いきなりその場でお香を焚きだす治療師もいるのだ。
「あなた……なんだかこの治療院は不思議な場所ね」
「あ、ああ……」
もっとよく見れば、シーツはシミ一つ見あたらない程に真っ白に保たれている。まるで新品の様だ。
治療師の机の上にある装飾品に目を凝らせば、質素ではあったが、羽ペン、インク瓶、文鎮と一つ一つに相当にお金がかかっていることに気付いた。品が良いと言えるだろう。
「……ぼったくられるかもしれん」
「えっ!? なんですって!!?」
父親の言葉に驚いた母親は、隣で寝ている者がいるのにも関わらず、大きな声を上げてしまった。
途端、入り口のドアがコンコンとノックされた。驚いた母親の声で、誰かが覗きに来たらしい。
「……如何した?」
そこには貴族と思わしき男性が二人と、小さな綺麗な女の子が、男性の後ろからひょこりと顔を覗かせたのだ。
「……患者さんのご両親の方ですか?」
女の子の瞳は、とても綺麗な紫色をしていた。角度を変えて見ると、きらきらと色が変わって見えるような錯覚を起こす。宝石にも似たその瞳に見入られていた両親は、ハッと我に返った。
他の男性二人もかなり整った顔立ちをしている。二人の顔立ちに似通った部分を見たので、親族に近い者達なのかも知れない。
片方は厳つい顔立ちのきりりとした男性で、もう片方は少女と同じ髪色と目をしていた。こちらの青年もかなり顔が整っている。この青年と少女は兄妹だろうか?
「あ、ああ……息子が熱を出してしまってね。騒いですまなかった」
「ごめんなさいね」
「子供さんですか?」
きょとんと首を傾げる少女は、身長からして8歳位だろうか。息子と同じか、それよりも下くらいの歳に見えた。
10歳になる息子だと母親が教えると、それを聞いて両親の横で赤い顔をして眠っている子供に少女は目をやった。少女は寝ている子供の顔を覗き込む。
「病気が移るといけないわ」
母親があまり近づかないようにと少女に言うが、少女は物怖じせずに子供の額に手を置いた。
「熱が高いですね。……扁桃腺も腫れている。すみません、お子さんが熱を出したのはいつ頃ですか?」
「え? ええっと……今朝よ。昨日の夜、体調が悪そうではあったの。朝になったら高熱になっていて、ここに駆け込んだのよ」
「その前に咳をしていましたか? またはそういう人が数日前に近くにいましたか?」
少女は矢継ぎ早に両親に質問していく。それにしどろもどろ答えていくと、少女はいつの間にか後ろで控えていた、先ほど出ていった治療師に何かを渡した。
「解熱剤を早急に与えた方が良いでしょう。高熱が続くといけません。汗が酷いので脱水症状も気にしなくては。咳をしているようであれば、至急部屋を個室に移動させるように指示して下さい」
「畏まりました」
なんと少女の言うことを治療師が聞いている。この様子に両親がぽかんとしていると、少女は後ろにいた貴族に声をかけた。
「とーさま、薬を」
「えっと、こっちで良いのかな?」
「はい。ありがとうございます」
青年を父だと言った少女に両親は驚いた。青年の年齢は酷く若く見えた。10歳近い子供がいるとはとても見えなかったのだ。
両親のそんな驚きを余所に、少女は薬と称した見たこともない丸い粒をナイフを使って綺麗に砕いた。
「この一粒が大人用です。子供用にはこれを三等分にして、一日2回、12時間置きで与えて先ずは様子を見ましょう」
「はい」
「痛み止めには解熱作用もあるので、ひとまずこちらで。食事を取ってから抗生物質の方を投与するようにして下さい。他の患者さんの分はまとめてローレンから受け取って下さい」
「姫様、いつもありがとうございます」
恭しく少女から薬を受け取る治療師の姿に、両親は開いた口が塞がらなかった。
「あなた方は非常に運が良いですね。姫様自ら診て頂けるとは」
「あ、あの……姫様とは?」
王族の人なのだろうかと恐る恐る聞くと、少女が顔を赤らめて反論していた。
「姫じゃありません!」
ぷりぷりと怒ってはいるが、その怒りは照れからきているものだと直ぐに分かった。
商人は、子供が息子一人しかいない。母親は女の子を欲しがっているので、案の定その顔は可愛いと微笑ましそうに見ていた。
「姫様は治療のお姫様と呼ばれているんですよ」
「もー! それ止めてって言ってるのに!」
少女はぷりぷりと怒りながら治療師の背中をぽこぽこ叩いている。
それに治療師がすみませんと笑いながら謝っていた。微笑ましいその光景に、両親は毒が抜かれたかの様に、先ほどまで疑っていた事をすっかり忘れていた。
「お子さんは熱風邪かと思います。二、三日とりあえず様子を見て下さいね」
「は、はい……」
そう言って退出していった少女等を、両親は呆然と見送っていた。
「あの背の大きい方はヴァンクライフト家ご当主のサウヴェル様ですよ。外から来られた方は驚かれるでしょう?」
ははは、と笑う治療師の言葉に両親は驚いた。
ヴァンクライフト家は公爵家だ。貴族の中でも王族に近いほどの爵位を持つ。さらに、この国では有名なあの英雄ロヴェルの実家であった。
「英雄と姫様にもお会いできるなんて、本当に運が良いですね」
治療師の言葉に、両親は目を回してしまった。
***
王国のとある宿。裏町に近いこの場所で、商人は事前に連絡していた男と会った。
薄暗い部屋の中で、フードを被った男に報告する。
「その時にもらった薬を飲んだら、病が三日ほどで治ったというのか?」
「そうなんです! 次の日には息子の熱がすっかり引いていたんです!! 本当に吃驚しましたよ。精霊の加護を受けた薬という噂は本当なのでしょうね」
その商人は、あまりにも素晴らしい薬の効果に商いで少し取り扱わせて貰えないかと交渉したらしい。
「姫様がお持ち下さる薬で商いだと?」
その直後、治療師の激怒した顔に慌てて冗談だと言い繕った。
「周囲でも少し話を聞きましたが、他の場所ではヴァンクライフト家お抱えの腕の良い治療師がいるという評判だったようです。姫様がその治療師を見つけだしたとかなんとか……まあ、この辺は噂でしたが。治療師達周辺は事情を知っている様な気配はありましたが、結束が非常に固いですね。口を割りません」
「……ふむ」
「魔法で治療が出来る精霊と契約した精霊魔法使いだと狙いを付けていたのですがね。どうやら薬師のようでした」
「……そうか。ところでその少女の容姿は?」
商人は男に、逐一報告していた。
***
陛下に呼ばれたガディエルは、足早に陛下の執務室へと向かっていた。
今年成人を迎えるガディエルは、この国の第一王子として成人したら直ぐに陛下の職務手伝いをすることが決まっている。
恐らく、その話だろうとガディエルは気を引き締めていた。近衛兵が両脇に立ち、守っているドアを緊張を持って叩いた。
入れ、という声を聞いて、一礼して部屋へ足を踏み入れる。
「お呼びですか、陛下」
「ああ、ガディエル。そちらにかけなさい」
向かいのソファーに一礼して座ると、陛下は向かいに座ってにこりと微笑んだ。
「直ぐに本題に入ろう。ガディエルは最近、ヴァンクライフト家のお嬢さんに会っているかい?」
「……いえ、最近は余り会っておりません。手紙のやり取りの方が多いです。直接会ったのはラスエルと共に二か月前に会ったきりです」
「二ヶ月前か……。そこで何か噂を聞いた事はないかい?」
「噂、ですか?」
「そう。どうも最近、ヴァンクライフト家は腕の良い薬師を雇い入れたようでね」
「薬師……いえ、聞いたこともありません」
「そうか……。ところで、君達はまだ精霊のお姫様に会いたいかい?」
陛下の言葉にガディエルは肩がぴくりと揺れる。兄弟と誓った石碑への報告は、毎年欠かさず行っていた。
「勿論です」
一目でも会いたい。会って謝罪したい。きちんと向き合って話がしたい。
昔、一目だけ見た少女の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。この想いは、なんという名のものなのかは自覚していた。
だが、どうして急に陛下はそんなことを口にするのかとガディエルは訝し気に眉を寄せた。
「どうもね、その薬師を雇い入れたのが、精霊のお姫様だと噂されていてね……」
陛下からもたらされた内容に、ガディエルは目を見開いた。
ついに会えるかもしれない。
ガディエルは期待から胸が高鳴るのを止められなかった。