核。
エレンは目の前の青年を無表情に見つめつつ、くるりと無防備にその背中を相手へと晒した。
エレンの行動にヘルグナー国の王、デュランはきょとんとした。
本来なら一国の王相手にこんなことなど許されるはずがない。案の定、デュランの隣に控えていた護衛達から不穏な空気が流れるが、デュランは護衛達を構うなと制して面白いとばかりにくすくすと笑ってエレンの背中を見続けている。
エレンはデュラン達に口元が見られないようにと背を向け、背後にいたカイを見て声を出さず、口をぱくぱくと動かした。
『ガディエルをお願い。私じゃ守れないの』
「……」
口話法を使いながらエレンはカイにお願いした。ヴァンとだけならば念話ができるが、人間であるカイとはできなかった。
ガディエルの護衛達は今は側にいない。ヴァンに頼んで呪いの影響を受ける前にと避難させたからだ。
精霊の動き封じるアミエルの呪いが側にある以上、ヴァンも満足に動けるとは限らない。いざとなったときにガディエルを守れるのはカイだけだった。
エレンはこれから女神としての使命がある。その間はガディエルを守れない。エレンは縋るようにカイを見た。
だがカイはエレンを守るためにここにいる。だからこそ、エレンのお願いに動揺して微かな迷いが見えた。
(ヴァン君、お願い)
(承知)
途端、ヴァンからの念話で怒鳴られたらしいカイは驚いてその肩をびくりと揺らした。
人間は契約をしている精霊の位が高ければ、契約した精霊とだけ念話ができる。エレンはヴァンを通してカイにお願いした。
話を聞いたカイは、ほんの少しの間ではあったが苦渋の決断のような顔をした。
顔を上げて、エレンを真っ直ぐに見て頷いた。
『ありがとう』
ほっとした安堵がエレンから漏れる。それを見たカイは少しだけ悲しそうな顔をした。
それに気付かないエレンではなかったが、見なかったふりをしてくるりとデュランへと向き直った。
カイからはもうエレンの後ろ姿しか見えない。小さく、華奢な背には人間からは想像できない程の大きな使命を背負っていた。
ーー時の流れが違うの。私は精霊なんだよ。
エレンの言葉が思い出された。
隣でヴァンと一緒に過ごしたからこそ分かる、エレンがもたらしてくれる安らぎと幸福。
ロヴェルの帰還と共にエレンがヴァンクライフト家へと訪れてから、周囲を幸せへと導いてくれるその笑顔が消えてしまうのだけは絶対に嫌だった。
ガディエルが倒れた時に聞こえてきたエレンの泣き叫ぶ声が頭から離れない。
カイはぎりりと奥歯を噛みしめた。エレンの心の向かう先を様々と見せつけられてしまった。なぜ自分では無いのだろうか。どうして精霊を虐殺した呪われた王族に、その愛しい心が向かうのだろう。
言い表せない程にガディエルに対する不快な気持ちが胸に渦巻いている。これは嫉妬だ。
だがそれをもかき消す程に、先程のエレンの泣き叫ぶ声を聞いてしまった。
エレンの願いを叶えるために、カイは拳を握りしめて必死に叫ぶ本心を閉ざしたのだった。
***
「内緒話は終わったのか?」
エレンがデュランとへと向き直ると、デュランは待っていましたとばかりににっこりと笑った。
「ごめんなさい。終わりました」
隠しもせずに正直に言って謝罪するエレンに、デュランは目許を細めた。
「エレン姫とお呼びしても?」
「どうぞ」
許可を貰ったデュランはそれは嬉しそうにするが、続かずに途切れた会話でデュランは少しだけ悲しそうな顔をしながらエレンに言った。
「私の名前を聞いてはくれないのか?」
社交辞令が返ってこないとデュランはエレンを促した。
それを聞いたエレンは手を顎に当てて首を傾げて考え込むふりをする。それでもエレンはデュランの名を聞こうとはしなかった。
「手厳しい。これは是非とも私の名前をエレン姫に呼ばせたいな」
笑顔で言い放ったデュランにエレンは顔には出なかったものの、心の中で「えっ」とたじろいだ。
押してはいけない何かを押してしまったような気がする。危ない人だと思っていたら、ヴァン達も同じように思ったようで、背後からぎりぎりと殺気が迸った。
ロヴェルがここにいたら、間違いなく剣を抜いてデュランに向けていただろう。
だがここで動揺を見せれば相手の思うつぼだとエレンは気合いを入れ直していると、デュランの方から早速切り出してきた。
「ここで会話も野暮だ。エレン姫、ぜひ我が城へと来るがいい」
デュランはまるでダンスの誘いをするかのようにエレンへ優雅に手を伸ばしてくる。エレンは己の手を動かしてその手を受け取ると思われたが、デュランの予想に反してするりと拒絶した。まさかの行動にデュランの笑顔は一瞬固まった。
動いたエレンの手は何かを指していた。そこに目をやると、アミエルを包み込み、宙を浮いたままの球体があった。
「あれはどうするの?」
エレンが発した言葉はまるで謎かけのようだった。
綺麗に輝く、宝石のような瞳でじっとデュランを見ている。それを受け止めたデュランは内心で喜びが溢れていた。こちらを見向きもしなかったローレとは違い、精霊が己をじっと見つめている。
精霊に試されているのだ。噂通り、一筋縄ではいかない姫だとデュランは笑った。
「あれはエレン姫が封印してくれたのだろう?」
デュランもエレンを試すように答えた。精霊の姫であるエレンのプライドに触るようにわざと言ったつもりであったが、エレンはきょとんとした顔をした。
「貴方自身が招いた災いを、どうして私が封印しなければならないの?」
そんな義理など無いと突き放したエレンの言葉に、デュランとそのすぐ横に控えていた護衛は顔には出さなかったものの、他の周囲にいた護衛達は明らかに動揺した。
遠くでアミエルが何をしていたのか見ていたのだろう。
「それは封印したわけではないわ。ただ一時的に閉じ込めただけ。閉じ込めている魔法の本質に呪いが気付けばすぐに破られてしまうわ」
呪いは魔素の塊だ。魔法もまた魔素の具現化に過ぎなかった。
アミエルの呪いはその形を変え、生きるもの全てを飲み込もうとしていた。
エレンが閉じ込めている魔法の本質に気付けば、すぐに飲み込まれてしまうだろう。
「それは困ったな」
棒読みで返してくるデュランは、エレンが何を言いたいのかすでに分かっているようであった。
エレンの望んでいると思っている答えを寄越す。
「エレン姫、これはどうすればいい?」
エレンが素直に対価としての条件を出してくるだろうとデュランは考えていた。
デュランの目的はテンバール王族一族を消すことでもあり、そしてエレンと関係を築くことである。どのように転ぼうとも、デュランの願い通りになる、と。
「これはもう人では無い。人で無いならば我々ではどうすることもできない。エレン姫の力が必要だ」
「先程も言ったわ。どうして私が貴方が招いた災いに手を貸さなければならないの? こんなことになるなんて思いもしなかったのだろうけれど、私がこの国を助けなければいけない理由があると思うの?」
エレンはきっぱりと拒絶した。エレンの物言いに、流石に憤りを感じたのか、隣に控えていた護衛が動いた。
「やめろ」
すぐに射殺さんばかりにデュランは護衛を睨み付けた。
デュランの態度に少なからずエレン達は驚いた。どうして味方のはずの護衛に向かってそのような態度を取るのだろうか?
双女神はデュランのことを「精霊が大好きだ」と称していたが、エレン達はその事を知るよしも無い。
謝罪をしてまたデュランの一歩後ろに下がった護衛を確認した後、デュランは少しだけ考える風な装いをしてエレンに切り出した。
「ならば聞こう。精霊に忌み嫌われ、呪われている王家と我々を天秤にかけるならば、皿が傾くのは我々の方ではないだろうか?」
「……」
「テンバールの王族は敬うべき精霊を蔑ろし、道具とした。呪われた分際でなぜあいつらが精霊の恩恵を受け続ける必要がある? 聞けばヴァンクライフト家は奴らから酷い仕打ちをされているとも聞いているぞ。どうしてそこまで……」
ここまで言ったデュランの言葉が不意に途切れて、エレンは思わずデュランの顔をどうしたのだと見た。
デュランの形相は凄まじい程の怒りを彩っていた。それを目の当たりにしたエレンはびくりと怯えを滲ませる。
後ろで控えていたヴァンとカイが、すぐにエレンの前に立ちはだかってエレンを隠した。
エレンの様子に気付いたデュランは気持ちを落ちつかせようと、深く、ゆっくりと深呼吸を一回だけ吐いた。
「……ああ、すまない。本当に、テンバールの王族は忌々しくてな」
くっくっくと笑いながらデュランはエレンに謝罪した。
「どうだろう、エレン姫。我々ならばヴァンクライフト家を助けられると思うのだが」
「……」
「やっかい事ばかりを押しつける奴等になど見切りを付けて、我々の元へ来ないか? 我々ならば奴等のような真似などしない。我々にとって精霊は敬うべき存在なのだから」
当然だろうと満面の笑みを浮かべて、デュランは言った。
だがエレンはそれを見て、とても悲しい気持ちになった。
「……そうやって、あの子にも言ったのね」
上手くいったら報酬としてロヴェルをやれると。
それに期待したアミエルが取った行動が、全ての発端となった。
アミエルの憎しみを理解したふりをして利用した。物事が上手く転んだとしても、憎む血を持つアミエルを最後までこの男が赦すはずが無いことくらい手に取るように分かる。
「貴方は私の家族から父様を奪おうとしたのよ」
エレンはキッとデュランを睨むと、アミエルの物体を指さして言った。
「もうあの子は助からない! 呪いに取り込まれて周囲までも変質させてしまったわ。淀んだ魔素は収束を繰り返し、渦巻いて、そして行き場を無くして爆発するの!」
これが何か分かる? とエレンはデュランに問うた。
「……知らんな」
エレンの怒りに少しばかりの動揺を見せるデュランに、エレンは悲しそうに言った。
「あの子は、モンスターテンペストの核になってしまったわ……」
歴史に残る程に各地で起きる厄災。
今まさに、その厄災がこの地で起きようとしていたのだ。