娘として、女神として。
手鏡の中で繰り広げられてる光景は目を疑うものだった。エレンの手は震えながらも、落ち着こうと何度も深呼吸しながら目を逸らさずにいた。
双女神から事前に聞いていたとはいえ、目の前で繰り広げられている現実に心が引き裂かれそうだ。
しかし、アミエルが放った一言で、全てが一瞬にして怒りに染まった。
「……っ! 姫様なりません!!」
ヴァンの声が耳に微かに過ぎった気がしたが、心の全てが何かに塗りつぶされたかのように一色になってしまった。
(これは いま なに を いった)
自問自答の様に繰り返した言葉の答えが、頭に、胸に突き刺さる。
爆発した怒りが身体から迸った。
それは力となって周囲の物を一瞬で吹き飛ばし粉々にしていく。
「姫様おやめ下さい……っ!!」
力の本流がエレンを中心に荒れ狂う。屋敷の調度品は嵐に直面したかのように壁に叩きつけられて粉々になっていった。ガラスが吹き飛び、地響きが辺りを襲った。
ヴァンは血の気が引いて青を通り越して白くなりつつあるカイの顔色に気付き、彼の頭部を瓦礫から守るために庇った。
カイは必死に耐えようと、血が滴り落ちる程に拳を握りしめて歯を食いしばる。精霊の加護をヴァンから受け取っていたからこそ、ここまで精霊の力に耐えられているが、本来の人間ならば直ぐに絶命していてもおかしくはなかった。
ヴァンは必死に叫ぶが、エレンの中で荒れ狂う怒りで打ち消されていた。
怒りに染まりすぎて真っ白になった脳裏に、ふと遠目から見る、ガディエルの笑顔が浮かんだ。
話しかけてよいものかと、こちらを伺うように、そわそわとしていた。
気になって思わず提案を許すと、とても嬉しそうに笑顔になっていた。その笑顔に毒気が抜かれ、彼が呪われているという事実すらも一瞬だが吹き飛ばされる事も多かった。
人気のないあの石碑の前で、頭を垂れ、日が暮れても暫くは頭を上げる事をしなかった。護衛から声がかかるまで、いつまでも祈る事を止めなかった。
本当は、初めて会ったあの時から、ずっとずっと、ガディエルの声が聞こえていた。
それに気付かないふりをして、エレンはずっと、勘違いだと自分に言い聞かせていた。
精霊は魂の声を聞く。それが絆となって導かれるように惹かれ、そして共にありたいと人と契約を結ぶのだ。
父と母が初めて会ったあの場所で、エレンもガディエルの魂の声を聞いていた。
***
目の前に迫る闇に、ロヴェルは声を聞いた。
ひどい、たすけて、いやだ、いたいいたい
苦しみ続けている精霊の声に混じって、それを助長する様に怒りの声がした。
なんでわたくしが、あいつのせいで、うばわれて、どうしてどうしてどうして
己を認めない周囲が悪いと、自分の欲しいものを与えない周囲がおかしいと闇の中から声がする。
(吐き気がする)
ロヴェルは今までずっと王家の我が儘に振り回されていたが、貴族の誇りで何とか耐え続けていた。
しかし己の人生とは何か、正直な気持ちと板挟みになって、自暴自棄に陥りかけていたあの時の心の叫びと似ていた気がして、鼻で笑う。
ロヴェルには救ってくれたオリジンがいた。全てを諦めていた自分に、そっと背後から包み込んでくれるように、安らぎを受け取り、愛を知り、そして共に育んだのだ。
ロヴェルはありったけの力を結界に込める。ここでは終われない。終わってたまるかと闇を睨んだその時、目の前に見知った愛しい小さな背中が現れた。
闇に対抗するような眩い光が小さな背中から一気に迸る。力の波動は、その勢いを闇にぶつけて一瞬で闇を消し去ってしまった。
「……な、」
ロヴェルは目の前で起こった出来事が信じられなかった。遠くでは闇ごと一部吹き飛ばされたアミエルらしき物体が痛みで叫び声を上げているが、それすらも視界に入らない。
口を開こうとするものの、頭が追いつかずに言葉にならなかった。
目の前の小さな背中は、ロヴェルの方を向きもせずに叫んだ。
「近くにいるのでしょう? 父様を連れて行きなさい!!」
姿を消して待機していた筈の大精霊達がロヴェルを取り囲む。両腕を掴まれ、まるで連行されるように転移の気配がしてようやく何が起きようとしているのか察した。
「やめろっ!! 離せーーッ!!」
こんな所に大事な娘を置いていけるかとロヴェルは必死に抵抗する。
だが、女神の力の恩恵を受けているとはいえ、元は人間なのだ。大精霊の力に叶うはずもない。
一瞬で目の前が変わり、娘の姿も何もかもが消えてしまった世界に取り残されていた。
「!?」
ここはどこだとロヴェルが周囲を見渡すと、真っ白な世界で何も無かった。白い世界にぽつんと己だけが立っていた。床があるような気もするが、水面に立っているかのような不可思議な感覚があった。足を踏み出せば水面の様な波紋が広がって消えていく。
「どういうことだ……!?」
混乱する頭ではあったが、戻ろうと転移を試みて、力が使えない事に気付いた。
ロヴェルは己の震える両手を見る。どういうことだと何度も試みるが、精霊の力は出ない。
オリジンと契約する前の、ただの人間と化してしまっていた。
「誰か! 誰かいないのかッ」
真っ白な世界で叫ぶ。エレン、オリジンと愛しい者の名を叫ぶ。
何も返ってこない世界で、ロヴェルは焦りと絶望に塗りつぶされていくような気がした。
「だめよ」
「お前はだめなの」
突如聞こえてきた双女神の声に、ロヴェルは振り向いた。
宙に浮いた二人が、交互に言った。
「だめよ」
「いてはいけないの。あそこにいたら、お前のせいでこの世界が壊れてしまうわ」
「どういう、ことだ……」
混乱する頭で真意を聞こうと試みる。内心ではあの場に直ぐに戻りたいという焦りで思考が度々動かなくなっていた。
「わたくしは全てを見通す」
「そしてわたくしは断罪をするの。この世界を守るために」
「な……」
断罪と言われてロヴェルは更に混乱する。それは自分を裁くためかと聞こうとして、全てを見通すヴォールが笑った。
「いやね、お前ではないわよ」
「そうよ~。何を勘違いしているのかしら」
呆れたと言わんばかりの顔をした二人に、ロヴェルは眉を寄せた。
「裁かれるのはあの女の子供よ」
「裁きは既に始まっている。決行するのはエレンちゃん」
「何だと!? お前等俺の娘に何をさせる気だ!!」
一瞬で激高し、牙をむき出しにしたロヴェルを双女神は笑う。
「あらあら」
「女神に向かってお前等ですって、あらあら」
くすくすと笑っているが、瞬時に畏怖の恐怖がロヴェルを襲う。だが、負けじと拳を握って双女神を睨んだ。
「エレンちゃんは女神よ。女神としてこの世界を管理する義務がある」
「あの女の子供は既に人ではないものになってしまったわ。ここまで来たら裁きどころではないの。浄化しなければならないのよ」
「浄化、だと……?」
「わたくし達は一つの役目を授かるの。それは成長と共に力は育っていく。……エレンちゃんもそうよ」
「エレンは……確か、げんそ、だと?」
元素というものを説明されてもロヴェルは意味が分からなかった。だが、物を司る女神だと説明された記憶がある。
「それは物の元となるもの。エレンちゃんは命を司る事は出来ない。それはオリジンちゃんの役目だもの」
「でもエレンちゃんの能力は多岐に渡るの。人の傷を癒やす能力なんて本来出来ない筈なのに、エレンちゃんはそれを器用にこなしちゃったわ」
「……」
「エレンちゃんは元となるものを様々な形に変えて構成させていく。自分の成長すら操れる程に。でもそれは、逆も出来るという事なの」
「浄化とは……」
「構成している元を、羅列を変えて霧散させる。消してしまうの」
「エレンちゃんはこの世界を守るために、浄化という役目を担った女神よ」
エレンがなぜあの場に現れたのか。
その理由は知れたが、ロヴェルは叫ばずにはいられなかった。
「ではなぜ俺がここにいるんだ! あの場に戻せ!!」
それを双女神は無表情に見下ろした。
「お前は未だに立場が分かっていないのね」
「それとも、まだ精霊として自覚が薄いのかしら?」
冷たく言い放つ双女神に負けじと叫ぼうとして、背後から優しく抱きしめられたのに気付いた。
「……オーリ?」
ロヴェルの背中に縋るように腕を回すオリジンは、静かに泣いていた。
オリジンが現れた瞬間、双女神の姿が消える。
泣いている事に気付いて、ロヴェルはオリジンを抱いて、その背を優しく撫でた。
「オーリ、エレンの元に向かわないと。お願いだ」
ロヴェルの言葉に、オリジンは頷かない。
顔を俯かせたまま、静かに泣き続けていた。
「……オーリ?」
「あなた、ごめんなさい……だめなのよ」
「どういうことだ?」
「この世界はお姉様達が作った世界で、わたくしは干渉できないの……」
「な……」
また怒りが込み上げてきて、ロヴェルはおかしくなりそうだった。
「あなた、やめて」
「何を言っている! エレンが危ないんだぞ!?」
「ロヴェル……ごめんなさい。わたくしにエレンちゃんを救う力は無いの」
絶句してしまったロヴェルに、オリジンは続けた。
「わたくしは全ての母となる女神。生む事しかできないの。でもロヴェル、あなたに二度も何かあったら、もう耐えられないわ……」
「……え?」
「今は力の制御ができないの……ごめんなさい」
それはオリジンが妊娠しているからだ。不安定な今、些細な事で力が暴走しかねない。
それを失念していた事に気付き、ロヴェルは慌てた。
「それにあなたがあの女の手に落ちてしまったら……わたくし……」
ただ泣き続けるオリジンに、ロヴェルは戸惑う。
正直なところ、あの場でエレンが助けてくれなかったら、間違いなくロヴェルは闇に飲まれていただろう。
それを思い出すとゾッとするが、更にそんな事になった後の事に気付いていなかった自分を殴りたくなった。
双女神は言っていた。己の立場が未だに分かっていないのかと。
自分は半精霊になったときに決意した筈だった。精霊側に立つと。
「何と言う事だ……」
すまない……と、ロヴェルは泣き続けるオリジンを抱きしめて、助けてくれたエレンの無事を、オリジンの震える肩を抱いて祈った。
己が倒れた後にもたらされるものは、精霊が完全に人間を敵と見なした戦争しかなかったのだ。
エレンは父を救い、女神としての役目を全うするために、そして人と精霊の戦争を回避するために、あの場に現れたのだった。