呪いとの同調。
先程まで何の変哲も無い只の森だと思われていた場所が、一瞬にして恐ろしいものへと変化していた。よくよく注意すれば、風は無く、森に住む動物達の気配が一切無い事に気付く。
「見方が変われば森が異常な事に気付くでしょう?」
まるで心を読んだかのように、ロヴェルが抑揚の無い声で言った。
「敏感な動物達は逃げていると思いますが、恐らく一部は魔物化している可能性もある事を視野に入れて行動して下さい。精霊達は一番影響を受けるので後方に下がらせます」
「わ、分かった」
動揺を隠しきれない声がガディエルから放たれた。だがその顔には一種の緊張があるだけで、怖じ気づいた様子では無い。むしろ、一種の決意が浮かび、森を見据えていた。
これに少なからずロヴェルは驚いた。だがふと気付いた。ロヴェルが経験したモンスターテンペストの時の自分の年齢と、ガディエルの歳がほぼ変わらないという事を。
(あの時の俺は、全て諦めていたな……)
自嘲気味に笑い飛ばしながら、何かを弾き飛ばすように右手を掲げて振り払った。するとロヴェルから光が放たれ、その光が一点に集結したと思ったら空へと吸い込まれていく。呆然と見上げる皆の頭上から、いきなり光が降り注いだ。
「な、何が……?」
「結界を張りました。ですが過信しないで下さい」
精霊に後方に下がるようにと指示を出し、ロヴェルが行きましょうかと促した。
「方角は……」
「地図は要らないでしょう。ご案内します」
ロヴェルが先頭に立って、森へと入っていく。その後ろからガディエルが慌てて追いながら聞いた。
「場所が分かるのか?」
「ええ。……叫び声が聞こえていますので」
「なに……?」
他の者達は耳を澄ますが、何も聞こえないと首を振る。
「呪いの声ですよ。殿下に触れ、娘はこの声に中てられた。殿下は今は聞こえていなくても、何度か聞いた事はあるでしょう?」
「……ああ」
苦い顔をしてガディエルが唇を噛みしめる。その声を聞いたからこそ、ガディエルは精霊という存在に興味を持ち、時を重ねる度にエレンの存在に心惹かれていったのだ。
「精霊は呪いに近付けば聞こえてくるのです。この声に囚われて飲み込まれてしまう」
ずんずんと足を動かして先を行くロヴェルに、皆が慌てて付いていく。
しかし、周囲を警戒もせずにこのまま向かって大丈夫なのかとサウヴェルが慌てて問うと、ロヴェルは鼻で笑った。
「大丈夫だ。既に人間は立っていられないはずだからな」
サウヴェルは何でも無い事の様に平然と言うロヴェルの様子がおかしい事にようやく気付いた。
このロヴェルの様子は、昔いつも屋敷で見ていた顔だった。
「あ、兄上……?」
久しく見ていないロヴェルの無表情な顔に、サウヴェルは嫌な汗をかく。
「双女神が言っていた事が今なら分かる……なんて忌々しい」
苦虫を噛み潰した様な顔をしているロヴェルにサウヴェルは一体何がと言おうとした瞬間、突如目の前の草むらがガサリと動いた。
皆が一斉に剣の柄に手をかけて体勢を低くした。
「……人間か」
まだ立っていられる者がいたのかと驚きの声がロヴェルから放たれた瞬間、草むらが二つに分かれて疲労困憊した男が現れ、草に足を取られてその場に昏倒した。
「ひ……た、助け……」
必死に手を伸ばしてロヴェル達に縋ろうとするその姿に、周囲の者達は目を見開く。
男の身体には黒い靄が纏わり付いていた。その靄をよく見ると、沢山の黒い小さな手が靄から生えて男の服を掴んでいたのだ。
それを目にした瞬間、一瞬で寒気が全身を襲う。全員が一気に男から距離を取り、男に向かって剣を抜くと、その状況に絶望を覚えたのか、男の目から涙がぼとぼととこぼれ落ちた。
「助けてくれ!! いやだいやだいやだ死にたくない!!」
男の叫び声に導かれるように、どんどんと黒い靄が男を包み込んでいく。まるで人を飲み込んでいるかのようにも見えるその光景に、誰も言葉を発する事が出来なかった。
「死ぬのではないわ。お前も王族であるわたくし達の一部になるのよ。光栄でしょう?」
くすくすと笑う女の声が倒れた男の後ろ側から聞こえてきた。
その声に聞き覚えがあったガディエルは、呆然とその声がした方向を見る。
靄からにゅっと女の顔が生えた瞬間、周囲の者達から堪えきれない悲鳴が喉から漏れ出て周囲に木霊した。
「アミエル!?」
「ああ……なんということ……やっと来て下さったのね……」
ガディエルの叫びを無視して、アミエルはロヴェルを見つめて嬉しそうに言った。「お父様」と。
***
数年前から耳鳴りがしていた。
ヘルグナー王と手を組み、隔離されていた母を救い、ヘルグナー領へと逃げてきたのに、宛がわれたのは只の逃亡だった。
「どういうことなの? わたくしのロヴェル様はどこ!?」
変わらない母の姿に嬉しさを込み上げながら言った。もうすぐ会えますわ、お母様と。
ロヴェルが迎えに来ますと誘い、母を連れ出したアミエルは、追いかけてきた祖父を隠し持っていたナイフで刺した。
小さなナイフだったので祖父はまだ息があったが、それを永遠に止めたのはヘルグナーから護衛として遣わされた騎士だった。
目の前で祖父が切り伏せられようと、アミエルは平然と見ていた。こちらを呆然と見つめていた祖父の顔を思い出すと、今でも笑いが込み上げてくる。
平然とやってのけたアミエルに騎士は賞賛の言葉を贈る。それを当然だと受け取ったアミエルは言った。
「当然よ、本来王になるのはお父様なのだもの。こいつのせいで、お父様は精霊界へ行ってしまったのよ。わたくし達母娘が引き離された元凶なのだから死んで清々したわ」
仮面に隠された騎士の顔は分からなかったが、きっとそうだと頷いていたに違いない。
この頃から、耳鳴りはだんだんと酷くなっていった。
慣れない旅暮らしで苛立ちが積もり積もっていた母は、食に逃げていつも何かを口にしていた。
ずっと馬車の中で動かない生活をしていれば、記憶に残っていた頃よりも更に横幅が増えていく。
姿は変わっていたが、やっと母と一緒になれたのだ。これから本来の生活が戻ってくる。そう信じて母を宥めていた。
耳鳴りは始終止まず、いつしかそれは声として聞こえていた事に気付いた。
声に同調して忌々しさと煩わしさが胸に渦巻いて、自分が自分で無くなるような錯覚が時折起こる。
遠巻きにしながらも世話をしてくれるヘルグナーの者達はこちらとは一切目を合わせようとしない。必要最低限の言葉しか交わさない。それで良いと思っていたが、抑えきれない苛立ちをその者達にぶつけて解消する事を覚えれば、それは次第に激化していった。
どうして自分達が追い詰められなければならなかったのか、全く理解できなかった。
王族である自分達の言う事を聞く事が家臣達の役目である。自分達を立てて当然なのに、あのヴァンクライフト家は王女である母を断罪した。
叔父である陛下がいたいけな母娘を引きはがして、これが世のためだと宣い王家の教育を施す。それがどんなに忌々しかったか分かるだろうか?
王族が呪われていたのが分かったときも、半精霊と化した父が母と結ばれれば簡単に解決するというのに、それが何故分からないのか。
周囲の母への恨みと侮蔑に混じって、自分を罵る笑い声が聞こえてくる度に、いつか絶対に全員殺してやると心の中で叫んでいた。
耳に聞こえてくる声は、いつしか自分の心の叫びと重なっていった。
「やっと、やっと迎えに来て下さったのね……長かったわ……」
「……何を言っている?」
ロヴェルは眉間に皺を寄せてアミエルを見ると、お父様と目が合ったとアミエルは喜んだ。
「戦争になればお父様は迎えに来て下さる。だって、お父様は英雄だもの」
黒い靄の中で、アミエルはそう言って嬉しそうに微笑んだ。