父のロマンはよく分かりません。
部屋をこっそり移動しつつも、あの猪突猛進なアギエルがいつ部屋に突撃して来てもおかしくないという話になり、とりあえず私と母はバレる前に早々に精霊界に帰ることにした。
特に明日、離婚調停の為の証拠の書類作成と色々とやることもあるらしい。
何だかその辺は地球と一緒で大変だなぁ、なんて思いながら、私はローレンに頭を撫でてもらっていた。
「明日が山場だ。見守っていてくれるかい?」
「勿論よ、あなた」
だが父は母の胸に顔を埋め、その細腰を抱いたまま離そうとはしない。
アギエルと対峙した事で相当神経が疲れている様であった。それに気付いている母は笑顔で父を甘やかしている。父の頭を撫でている母の姿は、女神そのものであった。
だが私の頭は現実をお知らせしていた。
おいおい、帰るんじゃなかったのかと私は呆れた。
「とーさまって本当にむっつりですね」
男はみんなパイが好きなのかとジト目で私が言うと、娘の聞き捨てならない言葉に焦った父がパイから顔を上げた。
「え、エレン!? どこでそんな言葉を!?」
「わたしは日々、学んでいるのです! とーさまはパイが大好き!」
「確かに大好きだけど! でもかーさまのだけだよ!?」
「むっつりを認めて開き直るなんて、とーさまは潔くて格好良いと思います」
「え? ほんと? 格好良い? も一回言って、エレン!!」
「むっつりなとーさまは格好良いです!」
「あれっ!? 何だか素直に喜べない!」
私と父が戯れていると、それを見守っている男三人が呆けた顔をしていた。
「……あれが兄上だなんて」
少々複雑そうにしているサウヴェルの言葉に、アルベルトも同意する。
「ですが、あれが本当のロヴェル様なのだと思います」
「ええ。とてもお幸せそうですな」
父に捕まって頬摺りされている私はきゃっきゃと笑う。
父は18歳程で年齢がほぼ止まっているので、殆ど髭が生えていない。と、いうより殆ど生えない体質の様だ。本人曰く、生える! 生えてるよ!! と力説しているが、頬ずりされても全くじょりじょりしないので心底良かったと思っている。
子供の肌はデリケートなのだ。あのじょりじょりは子供から言わせてもらうと凶器なのである。
だが父的にはじょりじょりして子供に嫌がられる、というのがロマンらしい。
……私には良くわからない。
父とローレンに思い切り遊ばせてもらってから、私は母と共に精霊界へと帰ることになった。
私が帰ると知ったローレンが酷く寂しそうな顔をしていた。
「じいじ、また来るね!」
「じいじは心よりお待ちしておりますぞ!!」
デレデレと相好を崩すじいじがとっても可愛くて、駆け寄ってじいじの頬にちゅっとキスを贈った。
バイバイと手を振りながら私達は転移した。
***
「……ロヴェル様」
突如、キリッとしたいつもの真面目な顔をしたローレンがこちらへと向き直る。先ほどまでデレデレと相好を崩していた好々爺とは思えない変わり身の早さである。
「素晴らしいです。見事としか言いようがありません。あの様な素晴らしく愛らしい御子などわたくしは今まで見たことがございません……!!」
拳を握りしめ、わなわなと震えながら涙ながらに力説するローレンにちょっと引きながらも、そうだろうとロヴェルは鼻が高くなった。
「俺の娘は世界一だ」
「全く以てその通りで御座います」
確かに娘は今まで見たこともない程に綺麗な瞳でこちらを見る。
見事な光沢を放つ髪に女神の顔立ちそのままの、将来は美しくなると約束された愛らしい顔立ちと、賞賛は言葉に尽くせない。
あの愛らしい顔で笑いかけられると、こちらの心まで温かくなるのだ。
「あの子は俺の血を引いているとはいえ、殆どが精霊だ。8歳になるが成長も遅れている。あの子は精霊界の中でも特に希有な存在なんだ。余り外には出したくないんだがな」
「なんと……それ程までに素晴らしい御子とは! 流石ロヴェル様の御子です。それにアギエル様の御子と同じ歳でございましたか。5歳程かと思っておりました」
「俺の子とも同じ齢なのか」
「ああ、市井に子がいると言っていたか。ならば余計にあの女の子供には用はないな」
アギエルと離婚できても跡継ぎの問題がある場合、子供だけでも残される可能性があった。その為の離婚調停なのだ。だが既にサウヴェルには別の女性との子供がいる。
更にアミエルと市井の子は同い年だというからロヴェルは少し驚いた。
アギエルの子がサウヴェルの子ではない可能性がある以上、籍をヴァンクライフト家に置けるはずがない。更にアギエルは使用人達の前でそう宣言してしまった。
子供がある意味、アギエルとそっくりだったのは幸いだろう。王家の血を引いているという証拠にはなるのだから。
この場合、アミエルがサウヴェルと全く似ていなかったのは幸いであったといえる。
「サウヴェル、何か聞かれる事があっても、あの女と子を作った記憶は無いと言え」
「……」
「それは事実だ。間違いないのだろう?」
「はい。それだけは確かだと言えます。俺があの女を抱けるはずがない。それ程までに互いに憎しみ合っている」
「十分だ」
四人の男達は、明日に備えて書類を調達し報告し合う。その時、メイドからアギエルがロヴェルとの食事を一緒にしたいとの報告が入った。
「俺達は明日の事で書類を作らなければならない。先に食っておけと言え」
「承知しました」
頭を下げるメイドを横目に、ローレンにメイドに付き添うようにと指示を出す。
「あの女の事だ。癇癪を起すだろう。食事は場が落ち着いてからだと俺が言っていたと伝えろ」
「畏まりました」
そう頭を下げ、ローレンとメイドは下がっていった。
ローレンが付くと聞いて、メイドの顔が酷くほっとした顔をしていた。あの女は日頃から使用人に当たり散らしているのだろう。
「ここはお前の玩具箱じゃないぞ」
眉を寄せ、忌々しく放つ。
用意できる全てのものを使ってあの女を追い出す。ロヴェルとサウヴェルは夜遅くまで二人で話し合っていた。
***
城にもたらされた知らせに周囲は騒然となった。
『明日、英雄が城へと帰還する』
その言葉に王は慌てた。10年行方不明であった男が戻ってくる。
男の実家はアギエルの存在を使って陞爵させたとはいえ、ロヴェル自身に何か褒美を施したわけではない。
さらにその実家は既に弟が継いでいる。ロヴェルへの褒美は何を取らせるべきかと王と側近達はずっと話し合っていた。
「アギエル様はどうします……?」
突如上がった声に王は頭を抱えた。
アギエルのロヴェルに対する執着は昔から度を超していた。遅くに出来た子だったからと甘やかし放題にしてしまったことが今更だが悔やまれる。孫までできてはいたが、確実に元鞘に戻りたがるだろう。
「……ヴァンクライフト現当主との仲は最悪だと聞く。離婚を言い出すだろうな」
「ロヴェル殿は10年前に婚約破棄をしております。だからこそ、サウヴェル殿との結婚が可能だったのです。元鞘にはロヴェル殿が戻りたがらないでしょう。弟君の妻ですぞ」
アギエルの奔放さは周囲から目に余り、酷く嫌われていると報告が入っている。
10年前の褒美と称してアギエルを城で引き取れとまで言われるかも知れない。
「ついにこの時が来てしまったか……」
頭を抱える王の姿に臣下達は何も言えない。
ラヴィスエルを呼べ、と王は力無く言った。
「王太子様をここへ!」
王の命に臣下が叫ぶ。
10年前のモンスターテンペストで疲弊した国を纏める為、手っとり早く、一番手のかかる子をヴァンクライフト家へ押しつけてしまった。そのツケの精算がやってきた。
ただでさえヴァンクライフト家は当時の主と跡継ぎを同時に失っていた。
成人前の残された子に家と領地がまとめられる筈がないと理解できた筈だったのに、民の声に負け、目先のことに捕らわれて押しつけてしまったのだ。
定期的にヴァンクライフト家へは少なくない金を送り続けていたが、それを見事にアギエルが全て使い潰しているとの報告が入っていた。
さらに足りないとばかりに家の金に手を出して、今やヴァンクライフト家はアギエルのせいで火の車だと噂されている。
子が出来、齢を重ねれば大人になると思っていた。アギエルの我儘は当時未成年だったからこそ許されていたのだ。
ロヴェルが見つかったと騒ぎになって、王は目を背けていた現実を思い出した。
忙しさにかまけて放置するだけしてしまった娘の存在が、初めて煩わしいと思ってしまった。
***
ロヴェルが城へとやってくるという噂は瞬く間に掛け上っていった。
歴史的なその場に居合わせようと、人々は王へと謁見を申し出る。殆どのそれらは、ロヴェルが帰還報告をする場を見たいという申し出であった。
英雄の帰還は非常に喜ばしいことである。ましてロヴェルは当時、軍のトップにいた程の力の持ち主だったのだ。
最近、国の国境周辺はきな臭い匂いが立ちこめていた。だが、それがロヴェルの帰還が知れ渡った瞬間、ピタリとその陰が無くなったのだ。
国の防衛をこれほどまでに影響させる男の存在を、国が黙っている筈がなかった。
「ロヴェル・ヴァンクライフト様が参りました!」
兵士から声がかかり、大広間のドアがゆっくりと開く。そこから堂々と現れたその姿に、人々は息を飲んだ。
10年前から歳を重ねた様子のない青年。髪と目の色は、昔との面影が全く無い。その様子からモンスターテンペストの壮絶さが垣間見えた。
死に瀕する程の力を使い果たしたせいで色が抜け落ち、銀の糸に変わったと想像出来る髪色。
精霊界という未知の世界を見続けたせいで変わってしまった瞳の色。
長い間眠りについた青年は、時を止めてしまった様である。
昔から娘達が執着を見せるほどに整った顔立ちをしていたが、その姿は更に磨きが掛かっていた。
ロヴェルは王の前まで来て、その膝をつく。
「面を上げよ」
王の言葉で、頭を上げたロヴェルは目が全く笑っていなかった。
帰還した誇らしい顔立ちではない。まるで敵と対峙しているような、そんな顔だったのだ。
これに王達はぞくりと背が震えた。
これから、良くないことが起きると分かってしまったのだった。