出港
金は、黙々と黄のクルーザーから取引の品である銃器と弾薬を運び出し、死体袋に詰められ睡眠薬で眠らされている捕虜を搬入する。
我々は、黄の船に接近する事が許可されていないので、金の作業を見守るばかりだった。
「終わりました」
うっすらと汗をかいて、金がハンカチで首筋を拭う。
白いうなじが桜色に上気していて、色っぽい。金が男であることを一瞬忘れてしまうほど。
「情報を聞き出すまでは、殺すなよ」
携帯電話で、黒澤が言う。相手は出航準備を始めた黄だ。
「誰に依頼されたか。仲間はどこにいるか。この二点ね?」
黄色の声が黒澤の携帯電話から漏れ聞こえてくる。うきうきした声だった。
「聞き出した後は、好きにしていい」
黒澤はそれだけ言って、通話を終えた。
「何度か、試射しないといけません」
ゴルフバッグを担ぎながら金が言う。
バッグの中には、中国ノリンコ製の狙撃銃が入っている。
名称は『八五式狙撃歩槍』とか言うらしいけど、ロシアのドラグノフ狙撃銃を中国がライセンス生産したもの。
「ほんとうはM24A1の方がいいのですけど、黄さんが持っているのは、人民解放軍の銃ですからね」
金は優秀な狙撃兵で、アメリカ軍との共同作戦を前提とした金の祖国の軍では、アメリカ軍が使う狙撃銃を使っていたらしい。
狙撃兵に必要なのは、忍耐力と集中力。そしてイザという時の思い切り。
地獄を耐え抜き、一気に敵を殲滅した彼は、その素質は十分にあったのだと思う。事実、彼はかなり優秀な狙撃兵だ。
「調整は洋上になるけどいいか?」
黒澤が、黄のクルーザーよりやや大きめのクルーザーを指差しながら言う。
大逃げした後、黒澤は海路を使って東京に戻る気なのだと私は気が付いた。
今、私たちの敵は索敵範囲を広げながら、逃した我々の痕跡を探しているはず。
都内にメンバーの殆どが集中したタイミングで、各個撃破を狙ったのは秀逸だったが、敵にしてみればこのチャンスに黒澤を逃がしたのはいかにも痛い。
我々を見失っている時間と比例し、我々を捕捉する可能性はどんどん下がっていて、この襲撃の企画立案者は焦っているだろう。
そこで、我々は徹底的な捜索を終えた地点に逆上陸して裏をかく。これが黒澤の立てた戦術だった。
我々は一種の暴力装置だ。
よく整備された銃で、剃刀のように研ぎ澄まされたナイフだ。
八百屋は野菜を売り、魚屋は魚を売る。
それと同じように、我々は暴力を売る。
売り物である暴力は、圧倒的でなければ商品価値がない。ヤクザ以上に、なめられたら商売にならないのが私たちのシノギだ。
だから、反撃は速やかに実施する。そして、徹底的に行う。
敵は、そろそろ我々がキャンピングカーで逃げたと、気付く頃だろう。
移動手段を変えるにはいい時期だし、オートキャンプ場がある海沿いの観光地は、キャンピングカーを隠すのに丁度いい。
桃山と白井が灰谷を伴って、桟橋を歩いてくる。
この三人は、釣り好きの三人組に見えるよう、釣竿のケースとクーラーボックスを持っていた。船舶免許を持っている赤崎はクルーザーの出航準備にかかっている。
私は、黒澤が差し出した手を握って、クルーザーに飛び移る。本当は、一人で飛び移れるけど、普通の女性は手を借りるものだ。違和感は誰かの記憶に残る。その誰かの記憶によって、我々のルートが割り出されるリスクは避けたい。
さぁ、逃げるだけの時間は終わり。反撃の時間だ。小さくなってゆく黄のクルーザーを追う様に、我々は清水港のマリーナを出港したのだった。
バブル期に進水し、にわか成金のステータスとして活躍した豪華な個人所有の小型から中型のクルーザーは、バブル期の狂乱が収まると、その維持費の高さからオーナー権を手放す者が続出した。
破綻したにわか成金から、抵当としてクルーザーを差し押さえたのはいいけれど、買い手がつかぬまま不良債権化し、ヤクザに買い叩かれるケースが頻発したのは、都内の小しゃれたホテルなどと同様だった。
それを、巣穴として利用しない手はなく、赤崎と灰谷が昔の伝手で、何艘か自由に使ってよいクルーザーを確保していて、今私たちが乗船している七十フィート級のクルーザーは、そのうちの一隻だった。
無駄に豪家なこの船は、随所に金ぴかの装飾が施されていて、これらが磨かれてキラキラと輝いていた頃は、実に下品だっただろうと連想させた。
今は、うっすらと埃が積もり、金メッキは潮風に剥げ、さながら航行する廃墟といった風情だった。
エンジンのメンテナンスや燃料の補給は、自由に使わせてもらう代償として私たちが負担することになっていて、赤崎が定期的に巡回整備していたので、すぐ洋上には出ることが出来たけれど、居住性は良い方ではない。
紫は、清掃を怠った赤崎に文句を言いながら掃除をしていて、金は無言のまま紫の二倍は働いていた。
白井さんと桃山は、キャビンの一つを病室に改造していて、機材を運び込んだり、消毒をしたりしている。
黒澤は赤崎を手伝って、船の運航を担当し、何もしていないのは、怪我人の灰谷と私だけだった。
なんとなく居場所がないので、吹きさらしの後部デッキに、私は灰谷と並んで座る。
幸いなことに、暖かい南風が吹いていて、後部デッキは思ったより寒くない。
私の隣に座っている灰谷の顔色はあまりよくない。
本来ならベッドで横になっていなければならないのに、オートキャンプ場からマリーナまで釣り道楽を装って歩いてきたのだから。
「大丈夫?」
背中をさすってやりながら、灰谷に言うと、彼はジャガイモめいた顔に笑みをうかべて大丈夫だと答える。
「鎮静剤、白井さんからもらってこようか?」
私がそういうと、灰谷はきっぱりと断った。
「反撃に入ったんだろ?ならば、頭をはっきりさせておきてぇ」
そう言って、薄い眉毛の上にたまった汗を、指で拭ったのだった。
腹を撃たれると痛い。
私は、初めてワルサーPPKを握らせてもらった時に、黒澤にそう教わった。
銃で撃たれれば、何処だって痛いのだが、腹部を撃たれると、その痛みはしつこく続き、適切な処置をしないと徐々に死んでゆく。
だから、敵を行動不能にすることが目的の警察は腹を撃つ。
私は、私を拉致して監禁し、暴行を加え続けた男たちを、黒澤から与えられたワルサーPPKで撃った。
長く苦しむように腹を。
死んでしまうように、何の処置もせずに。
私を貫き、辱め続けた奴らの股間も撃った。
痛みと屈辱を同時に味あわせることが出来るから。
そして、のたうち、もがき、苦しみ、哀願しながら、死んでゆく奴らの様子を、私はただ見ていたのだ。
私への暴行に加わった連中が、一人死んでゆく度に、私は私を縛っていた恐怖の記憶と屈辱の記憶から解放されていった。
十四人全員が苦しみ抜いて死んだ時、加えられる理不尽な暴力に泣き叫ぶだけだった弱い私は、バラバラに分解されて、今の私に再構築された。
その代償として、心が毀れてしまったのが、自分でも分かる。
でも、それが哀しいとは思わない。
後悔もしていない。
私にも家族という帰るべき場所はあったけれど、それは分厚くて透明度の低いガラスの先にあるように思えて、私を今までの世界に引き留めることは出来なかった。
憎悪だけを糧にした純粋な悪意とか、他者の痛みを想像することが出来なくなったサイコ野郎の刃とか、そういう圧倒的で理不尽な暴力に対抗しうるのは、それを凌駕する自らの暴力しかないと、私は学習してしまったから。
整形したので顔形が変わってしまって、家族は私を認識できないだろうし、毀れてしまった私はもう後戻りは出来ないところに来てしまった。
私は、今では苗字も名前も捨ててしまっていて、単なる記号である『翠』でしかない。
「お前こそ、大丈夫か?」
私の顔のすぐ横に灰谷の顔があった。
仕事の時間以外のとき、私は呆けたかのように自問自答に没入してしまう事がある。
これも、毀れてしまったことの代償の一つなのかも知れない。
「昔を思い出していたの」
三年前の私の身に何があったのか知っている灰谷は、渋面をつくる。
どういう顔をしていいのか、わからなかったのだろう。ジャガイモみたいな顔をして、灰谷は案外優しい男だった。
灰谷の分厚い唇に私の唇を近づける。
彼は慌てて顔を背け、「いててて……」と、わき腹を押さえた。
「くそっ大人をからかうな」
初心な灰谷はからかうと面白い。
ジャガイモみたいな顔をしているのにね。
「なんだ、キスしてほしいのかと思ったのに」
灰谷はあきれたような顔をして、ゆっくりと楽な姿勢をとった。
私は、赤崎が脱ぎ捨てたコートを拾い上げて、灰谷の腹の上に掛ける。
何か餌を投げてくれるかと、クルーザーに伴走していた十羽ほどのウミネコが、洋上に境界線でもあるのか、一斉に港の方に引き返してゆく。
いつの間にか、清水港は遠く小さくなっていた。
黄のクルーザーが自動航行の動きになった。
いよいよお楽しみの時間の始まりだろう。
短波無線の届く五十メートル前後まで、赤崎はクルーザーを接近させた。
見晴らしのいい海上では、遠くまで電波が届かないトランシーバーでの通信が、一番盗聴の危険が少ない。
私を銃の台尻で殴った男は、手術室の様な黄のキャビンの一室に横たわっているだろう。
特注で作られた黄のクルーザーを建造中に見たことがあるが、キャビンの一室はまさに手術室だった。
ステンレス製のベッド。
タイル張りの室内。
巨大な冷蔵庫。
様々な道具を収納する為のスチール製の棚。
用途すら私には分からない道具の数々。
これらは全て、黄が吟味した最高の品物らしい。
黄の趣味は、人の心を毀すこと。
私が、金の祖国の男たちにやられたみたいに、ただ乱暴にぶっ壊すのではない。
希望と絶望を巧妙に織り交ぜ、時には彼我の間に信頼関係を育むことなどもしながら、静かに腐食が進む様に、黒カビがじわじわと浸食してゆく様に、相手を蝕んでゆくのが好きなのだ。
手指を切り取ったり、眼球を摘出して食べさせるなど残虐な事もするけど、肉体を損壊させるのが主目的ではなく、それによって引き起こされる絶望を楽しむためだ。
黄に選ばれた『玩具』は、あたかもビスを丁寧に一つ一つ外されるかの如く、徐々に、そして確実に毀れてゆく。
黄は、極上のワインを口の中で転がすかのように、絶望や苦痛の悲鳴を楽しむ。
崩壊してゆく精神のプロセスを味わう。
双眼鏡で黄のクルーザーを監視していた桃山が唸った。
この辺りは、黄が好んで航行する海域らしく、サメの背びれが黄のクルーザーを追尾しているのが見えたらしい。
「もうちょっと沖にいかないといないんですけど、あれは多分ヨゴレですよ」
背鰭の先が白く汚れているような模様が特徴の外洋性のサメで、出合えばホオジロザメよりよっぽど危険な種類の人喰いサメだった。
黄のクルーザーについていけば、「餌」にありつけると学習したのかもしれない。果たして、サメにそんな知能があるのかどうか、私には分からないけれど。
もしそうなら、このサメは孤独な黄の静かなパートナーといったところだろうか。