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金と紫 合流

 私たちは襲撃を受け、それを回避できた。

 思い切った逃亡で、正体不明の襲撃側は私たちの足取りを見失っている。

 今、彼奴らは血眼になって我々を捜索しているはずだ。普段、バラバラに行動するのが常の我々を、一度に把握出来たのは敵ながら上出来だったけれど、肝心の黒澤を取り逃がしたのは大きな失点だったに違いない。

 まさか、伊豆半島にまで監視の目を届かせているとは思わないけど、違和感は人の記憶に残り、それが巡って襲撃側の追跡の網にかかるリスクがある。

 敵を分析し、探し、反撃の計画を立てるまで、黒澤は自分たちを消してしまいたいのだ。

 それゆえの『大逃げ』なのだから。

 私は、石膏ボードの粉塵で汚れた髪を、洗面台でザッと流した。

 こんな時、ショートの髪は便利だ。

 ウイッグをかぶる時も、自毛が邪魔にならないという利点もある。

「準備OK。いくよ」

 桃山が、いかにも休日の若いサラリーマンというダサいポロシャツとコットンパンツに着替え、伊達メガネをかけていた。

 景色に溶け込むのが『迷彩』ならば、桃山のこれはれっきとした迷彩だ。

 もともと没個性の桃山は、仲間である我々でさえ、ともすれば顔を忘れてしまいそうになる。没個性も極めれば一つの芸になるということだ。

 私は、キャンピングカーを降りると、桃山と腕を組む。

 私たちは、観光に来ている仲の良いカップル。それになりきる。

 桃山は、リラックスしている。

 私が触れている腕に余計な力が入っていない。

 脈拍も正常。

 発汗もしていなかった。

「計測するのは止めてくださいよ」

 桃山が苦笑しながら言う。

 私が桃山のコンディションを測っているのが分かったのだろう。

 とぼけた顔をして、桃山は案外鋭い。


 入場料を払って、動物園に入る。

 ここは、日本でも有数の温泉地で、その熱を利用して熱帯に棲むワニの展示に力を入れている動物園だった。

 探す場所は分かる。ワニが展示されている場所だ。

 私と桃山は、ぶらぶらと園内を歩いている様に装いつつワニのエリアに近づいてゆく。

 キムは、ワニが放し飼いされている池を見下ろす柵に身を乗り出すようにして中を覗き込んでいた。

 同行者のゆかりは、池に背を向け柵に寄り掛かってタバコをふかしている。

 紫は、ワニにまったくと言ってよいほど興味がないと言っていたけど、それは本当みたい。紫が私たちをチラリと見る。

 はっと息を飲むほどの美人が彼女だった。

 艶やかな黒髪はストレートで長く、肌は雪のように白い。

 切れ長の目はネコ科の獰猛な獣を思わせ、気の弱い者なら一睨みで黙らせる事が出来た。

 容赦のない攻撃性は、紫を形成する因子の一つだった。

 私たちは、そのまま通り過ぎる。

 五分程歩いたところで、私の携帯電話が鳴った。紫からだった。

「はーい、子猫ちゃん。今日もキュートだわ」

 軽口。機嫌のいい声。ああ……最悪だ。

 これらは、彼女がとても機嫌がすこぶる悪いことを示す兆候なのだから。

 こういう時は、ビジネスライクにいかないと彼女のペースに巻き込まれる。

 私は、キャンピングカーが置いてある位置と合流の時間だけを伝えて、通話を切った。

 金と紫の休暇の中止を決めたのは私ではない。

 彼女の八つ当たりは黒澤か赤崎が受ければいい。

「すこし、時間をつぶしてから、車に戻った方がいいみたいよ」

 私がそう言うと、共謀者の笑みを桃山が浮かべた。紫の毒気に当てられるのは、桃山も避けたいらしかった。


「ソフトクリームが食べたい」

 売店があり、一抱えほどもあるソフトクリームの模型がその店頭に飾られていた。

 それを見たら、無性に甘いものが食べたくなったのだ。

「こんなに寒いのに?」

 呆れたように桃山は言い、それでも売店に向ってくれている。

 空はどんよりとした天気。

 また、雨になるかも知れない。

 ふと、橙次とうじはどうなったのかと考えていた。

 広くて暖かい彼の背中を思い出す。

 でも、橙次の顔が、どうしても思い出せなかった。

 たっぷり時間をかけてソフトクリームを食べる。桃山は暖かいからという理由だけでコーヒーを買ったようだった。

 開園してそれほど時間は経っていないので、落としたてのコーヒーのはずだが、それなりの味らしい。

 運が悪いと、何時間もサーバーの中で煮詰められた黒い液体を飲まされることになる。

 コーヒーにこだわりをもつ桃山にとって、そんな代物を飲むのは耐えがたい事だろう。

「昨日の仕事は、お見事でした」

 ポツンと桃山がつぶやく。

 コーヒーを飲むふりをしながら、巧みに口元を隠している。読唇されない用心なのだが、今ここには監視カメラもないし、見張りの姿もない。

 まぁ、用心に越したことはないのだけれど。

「そりゃどうも」

 素っ気なく答える。桃山は、私が気分を害したかと少し怯んだようだった。

「青木が、敵の兵力を見誤った。標的の男が囲っていたスケも訓練を受けた兵隊だった。おかげで、私は撃たれた」

 あまりにも素っ気ない態度で悪かったと思い、私にしては饒舌にしゃべったつもりだった。

「はぁ……そうですか」

 今度は、桃山が気のない返事をした。

 桃山は私が苦手で、私も桃山が苦手だ。

 なぜか、いつも会話がかみ合わない。

 私はともかく桃山は口下手な方ではないのに。

「戻りますか?」

 くしゃくしゃと手のカップを潰しながら、桃山が言う。

「そうね、ちょっと寒くなってきたし」

 途中で食べる気を無くしたソフトクリームが無残にも溶け、その滴が私の手を汚していた。それを見て桃山が私からソフトクリームの残骸を受け取り、カップと一緒にそれを捨てる。

「ソフトクリームなんか、食べるから冷えるのですよ」

 桃山は、ちょっと小言を言い、そしてポケットからウエットティッシュを取り出して、私に差し出す。

「お母さんかよ」

 私は毒づいて、ベトベトになった手を拭う。

 桃山は、ちょっと傷ついたような顔をした。

 いや、『傷ついた演技』なのかも知れない。

 桃山のような、その場に溶け込むのが上手い男は、演技上手な男だ。

 演技上手な男は、たいがい嘘つきだ。

 私の桃山への苦手意識はそこからきているのかも知れない。

 私と桃山がキャンピングカーに戻ると、予想通り空気がピリついていた。

 白井さんは、桃山が淹れておいたコーヒーを片手に将棋の雑誌を読んでいて我関せずといった風情。

 黒澤は私を見てくるりと目を回して見せていた。

 赤崎は紫の標的になった様で、奥歯をかみしめた形に彼のこめかみの筋肉が動いている。

 金が私に目礼を送ってくる。まつ毛が長くてつぶらな瞳。体つきは華奢で、彼は本当に美少女と見まごう外見だった。

 紫は、私にねっとりとした視線を送ってきた。

 レズビアンの彼女は、私にだけは態度が軟化する傾向にある。例外は金ただ一人。

 金は、遺伝子上は男性だが、女性のメンタルを持ついわゆる『性同一性障害』なのだった。むつけき男ばかりの兵舎は、さぞ地獄だっただろう。可哀想に。

 保守的な思考を持つ赤崎や灰谷あたりには、金や紫みたいな人種は理解できない。理解できないものは怖いし、本能的に嫌悪を感じる。

 そうした赤崎たちの無意識の感情を、肌で感じ取るから紫はいつも赤崎と灰谷に絡むのだ。私と黒澤は金と紫の関係には全く関心はない。

 一緒に組んで仕事をした時に、きちんと自分の役割をこなしてくれるかどうかだけに興味があって、その点に関しては、金も紫も申し分ない。

 同情したり、理解者ぶったりしない分、気が楽なのだと、いつだったか紫は言っていた。

 灰谷が起きていた。

 私は、灰谷のベッドの横に座り、短くて硬いデッキブラシのような彼の髪を撫でた。

「翠じゃないか。久しぶりに顔を見る」

 かすれた灰谷の声。丸々二十四時間寝ていたのだから、喉も乾いているだろう。

「水飲ませても平気?」

 私の声に白井さんが頷く。将棋の雑誌を見ていながら、耳はこっちに向けているのだろう。喰えない爺さんだ。

 冷蔵庫には色んな種類のミネラルウォーターのペットボトルがあって、そのうちの一本を適当に取り出す。

 なんでも、コーヒー豆の種類によって、軟質な水や硬質な水なんかを使い分けるらしい。

 私は水の違いなどちっともわからないけど。だって、味なんかないでしょ?

 冷えたミネラルウォーターを灰谷に差し出す。

「ありがてぇ」

 灰谷は喉を鳴らしてそれを飲んだ。

「揃いも揃って、怪我人を労りゃしねぇ。紫と赤崎は俺の枕元で怒鳴り合うし」

 袖口で口の水滴を拭いながら、灰谷が聞こえよがしに毒づく。

 紫はフンと横を向き、赤崎は疲れた顔で頭を掻いた。

「腹を撃たれたって?」

 私の質問に、灰谷の顔が怒気にふくれた。

「出合い頭にズドンさ」

 灰谷は咄嗟に身をよじって、急所への直撃を避け、ヤクザの頃から愛用している短刀で相手の心臓を抉ったそうだ。

 そのまま、自力で他の追手を撒き、白井さんに合流したという。

「弾は二二口径だった。相手はプロだよ」

 灰谷は非番ということもあって、多分油断していた。そこを襲撃されたのだ。

 彼は、よく生き残ったと思う。今回は、運も良かったし、勘も良かった。次回はどうかわからないけど。

「次はどこに向かいます?」

 運転席についた桃山が黒澤に言う。

「清水港に向ってくれ。そこでホァンと合流する」

 黄と聞いて、紫が露骨に嫌な顔をする。

 紫は、黄が特に嫌いなのだ。

 そもそも黄の事が好きな奴は、彼を知る者なら誰もいないだろう。

 殆ど他人に感心の無い私ですら、黄に対しては嫌な気分がする程なのだから。

「ああ……例の『お楽しみ』ですね……」

 桃山の声のトーンが下がる。

 黄が船を沖合で使う時は、彼の胸糞悪い趣味に傾注している時。彼にとっては至高の時間を過ごしている事を示している。

「そういうこと」

 車内の空気が急に冷えたような気がする中、黒澤の声だけがいつもと変わりなかった。


 黄は、中国の人民解放軍出身の男だ。

 エリート揃いの特殊工作員の中でも、漁民に偽装してスパイ活動を行う「海龍組」の一員だった。

 副業として犯罪行為にも手を出していた。

 というより、スパイ活動より副業の方に精を出していたと言ってよい。

 『黒社会』と呼ばれる犯罪組織から北朝鮮経由のシャブ、汚職の人民解放軍の幹部から銃器、有名な『蛇頭スネークヘッド』から人身売買、金三角ゴールデントライアングルというケシの花の栽培で有名な地域からアヘンと、漁船に偽装した工作船で違法に越境しつつ、手広くビジネス展開していた。

 黄は海軍の中にある軍閥のトップの血縁者で、血縁を大事にする中国において、黄はある程度自由に振舞うことができたらしい。

 風向きが変わったのは、軍閥の勢力争いに黄の一族が敗れたこと。

 黄は、一瞬で一族を見捨て、ストックしてある麻薬と銃器をごっそり奪って逃亡したのだった。

 黒社会から、人民解放軍からも、金三角からも、かつての仲間からも追われる立場になった黄は日本に逃げ、現在に至っている。



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