私の仕事
雨が降りはじめた。
もう少し気温が下がれば霙に変わってしまいそうな冷たい雨。
私は、足踏みして脚部の血行を促し、手は腋下に突っ込んで悴まないようにしている。
ヒラヒラしたスカートと肌の露出が多い上着という服装のせいで体が冷え切って、かちかちと歯が鳴った。
こんな日にこんな格好をして、暗い路地で氷のように冷たい雨に打たれながら、ひたすら時機を待つのは苦行以外なにものでもない。
私たちの組織で情報収集を担当している青木はたまにガセをかませる。
わざとじゃないと信じてはいるけれど、私の仕事の時にガセが多いような気がするのは、このクソ寒い状況に私がイラついているためだろうか。
あと十分間待とう。
それで事態が変わらなければ、今回の仕事は中止して、ラム酒を一杯ひっかけて体を温めよう。
この日、この瞬間のために色々と準備をしてきたのだが、もう知ったことではない。
そして青木を一発殴ろう。
そうすれば、少なくとも気分だけは晴れる。
私はそんなことを考えながら暗い路地からキャバクラやバーばかりが入居しているケバケバしい雑居ビルの入り口に目を凝らしていた。
私が待っている男……つまり、私の標的は、七割五分の確率で木曜日にこのビルの中にある店で飲む。
この男が囲っている愛人がやっている店だ。
私の標的の男は、世間一般から見れば、まともな男ではない。
とある長老格の広域暴力団の組長の引退に伴い、その舎弟だったこの男は、その業界の通例により一線から足を洗い『顧問』といういわば名誉職に就かされ、事実上の引退とされるのだけど、金蔓を握ったまま離さずに隠然たる勢力を保っているらしいのだ。
当然、前の組長の跡目を継いだ新しい組長は組織の中に別勢力があるのを嫌う。しかし、新旧の勢力が争えば組織の弱体化を招き、組織全体の存続が危うくなる。
この『顧問』を、新しい組長が排除したいのはやまやまだけど、直接手を下せば組織の基盤が固まっていない現状では、離反者が出るリスクがある。
そこで、私たちのようなどこのグループにも属していない暴力の代行請負業を行う企業に金が流れるというわけ。
もちろん、契約書なんかは取り交わさないし、依頼した証拠も受諾した証拠もない。
某インターネットのオークションサイトで、匿名の人物が特定の品物を大量に購入した事実だけがあり、その電子化されたお金は、とある人物の口座に振り込まれるだけ。
即現金化された札束はいずこかに消える。
そういう仕組みだった。
私が標的とする「顧問」は用心深い男で、決まった場所にしか行かない。
そして単独行動は絶対にしない。
標的に関するデータを頭の中で反芻していると、スーツ姿の男が三人エレベーターから出てきた。
こいつらは素人ではない。動きに緊張感があるから。
護衛の先行班だろう。やっと待機時間という名の苦行は終わりそうだ。
私の身体機能も何らかのスイッチが入ったのか、あれほど寒いと感じていたのに震えはピタリと止まった。
標的の護衛につくだろうと予測されていた男たちは、いい体格をしている。何か格闘技をやっている体つきの男たちだった。そのうちの一人に見覚えがある。
特徴は右のこめかみからまっすぐ右頬にかけて走る刀傷。
相手を威圧するためだろう。わざと雑な手術をして目立つようにしている。
素人なら充分な威圧になるだろうが、人物を特定しやすいという欠点がある。
目立つということは、私のような相手を付け狙う者からすると目印になってしまうのだ。こんな『うすら馬鹿』をボディガードにしている『顧問』も頭が悪い。
私は何度も繰り返したシミュレーション通りに、路地から出る。
そして道路を渡る。突然の雨の中、傘を持っていないひらひらしたスカートの女が小走りになるのは不自然ではない。
私の事は、上客を見送りに出たホステスに見えるはずだ。
三人のいかつい男のうち、地味なスーツの目立たない男が、袖口に隠してあるマイクに何かを喋っていた。
実はこの男が手強い。
警視庁警備部出身の男。いわゆるSPという護衛のプロ出身なのだ。
銃社会のアメリカでは、民間の警備会社がクライアントの要望をうけシークレットサービスばりの警備を行うそうだけど、日本でもぼちぼちそういった「警備」を要求する者が出てきている。
私たちの組織が日陰の組織なら、彼らは日の当たる場所の組織だ。
誕生の発端は同じ。暴力や技術のアウトソーシング。つまり、現代の傭兵稼業だ。
日本での実情は、アメリカと違い、クライアントはヤクザばかりなのだけど。
ヤクザが護衛のプロを望むのは、昨年施行された『改正暴力団対策法』で骨抜きになった老舗のヤクザと、新興勢力や外国からの新規参入の連中とのドンパチが多くなってきたから。
暴力団対策法の連帯責任の部分をさらに強化した改正なのだけれど、所帯が大きければ大きいほどリスクが高い。構成員が多ければ、それだけ馬鹿が紛れ込む可能性が高くなるわけだから。
そして、所帯が大きいところは失うモノが多く、小さいところは少ない。どっちが有利か、考えなくてもわかるでしょ?
この『顧問』は、名を上げようとする新興勢力は勿論、身内すら信用できない状況なのだから、身辺警護に金をかけるのは当然の帰着と言える。
SP上がりの男は先に下りて安全を確保した事を袖口のマイクで連絡し、四方に視線を飛ばす。
彼は、一瞬だけ私に目を向けたけれど、突然近くで起きたバイクの空ぶかしの音の方に視線を転じる。
バイクの騒音は偶然ではない。私の仕込みだ。
保険は必要なら何重にもかける。失敗はゆるされないから。
SP上がりの男は、一緒にいる二人のうち頬傷がない方の男に指示を出して、バイクの方を見に行かせた。
情報を補足すると、刀傷の男は警備会社の人間ではない。
私の標的となっている男が直接飼っている用心棒のうちの一人だ。
SP上がりの警備会社の男にとっては、刀傷の男はクライアント側の人物なので指示しにくいということなのだろう。
護衛の訓練を受けた手強い相手が一人減る。それは私にとっていいことだ。
ビルに横付けされたリムジンの屋根をSP上がりが叩く。
家一軒買えるほどの価格の車のドアが重々しい音を立てて開いた。
エレベーターから、クラブのママらしき美人に付き添われてでっぷりした『顧問』と、彼が直接飼っている用心棒が出てきた。刀傷の男とはまた別の男だった。
この用心棒はこの寒空の下、コートを着ていない。なぜか?
答えは
「懐に拳銃を持っているから」
そして、すぐ拳銃を抜けるようにスーツの前ボタンもかけない。
多分、外国で銃の鍛錬を積み、護衛のノウハウを学んだ用心棒に違いない。
見込みのある若い衆を外国の「民間警備会社」という名の現代の傭兵集団に留学させることは、ここ数年のヤクザ社会の流行だった。
素人やチンピラは刀傷の男が担当し、暗殺者などのプロ対策はコートなしの男が担当する。そういう体制なのだと聞かされている。
SP上がりは、手強いとはいえ日本の民間企業に過ぎない。武装はせいぜいテーザー銃くらいだろう。
だから私が、優先的に排除するべきは、この直属の用心棒。
私は無言のまま、小走りに彼に近づく。
「パン」と、小さな爆竹が爆ぜたような音。
バイクの空ぶかしの音を確認にきた警備会社の男が撃たれた音だ。
私が配置したバイクの男には、誰かが様子を見に来たら、問答無用で撃てと言ってある。その銃声だった。
それにしても銃声がしたのに、この繁華街ではパニックが起きない。
銃が一般的ではない日本という国では、銃声が聞こえても通行人は全く気にも留めないから。
そもそも今響いた音が銃声であることにすら気が付かない。
物騒な国では、今のようなケースなら、通行人は一斉に身を低くするだろう。
日本は平和だ。平和なことは悪いことではない。私はこんな平和な日本が好きすぎて反吐がでそうだ。
コートなしの用心棒とSP上がりの警備会社の男は、さすがに即反応した。
SP上がりは、クライアントの『顧問』に覆いかぶさるようにして、彼を乱暴にリムジンの方に引っ張ってゆく。
防弾チョッキは着ているのだろうけど、元警察官が身を挺してヤクザを守ろうとするなんて、皮肉もいいところだ。
用意されたリムジンは、おそらく防弾仕様。
私が標的としている『顧問』を中に押し込んでしまえば護衛側の勝ち。
私が採るべき選択肢は、撤退の一択となってしまう。
用心棒は、ヒップホルスターからマカロフらしき小型拳銃を抜き体の側面にぴったりと押し付けて周囲を警戒している。
中国やロシアから流れてくる拳銃が日本では最も入手しやすい拳銃で、その中でマカロフは最も優秀な拳銃だった。
私が愛用しているワルサーPPKも用心棒が使っているマカロフも、小型拳銃に分類され、用心棒がやっているように、手で隠すように持てば目立たない。
銃社会のアメリカでは、目立たない事が要人暗殺に繫がるため、所持が規制されるほど秘匿性が高いのだ。
私は、標的の『顧問』と護衛たちの様子を一瞬で頭の中に入れ、周囲の風景を含め立体画像にして頭の中に再構築する。
これは瞬間的に視界を奪われた際、目をつぶっていても動けるようにするため。
スタングレネードのようなものはさすがにSP上がりも用心棒も持っていないとは思うけど、これは訓練によって身に着けた私のクセのようなものだ。
そのまま一気に用心棒との距離を詰める。
詰めながら、上着のポケットからワルサーPPKを抜いた。
何かを感じ取ったのか、コートを着ていない用心棒が私の方を向く。
SP上がりは、まだ銃声がした方向に目を向けていて私に気が付かない。
私は銃声と反対の方向から接近している。
だから、少しだけ用心棒の反応が遅れた。
「しまった……」
そんな顔を用心棒はしていた。




