58話 黒の帰還
ヤディカが思うに、カサンドラ・ブートキャンプ、レッスン1『一回死んでみようか』とは、当然だが本当に死んだり殺されたりすることではない。
きっと、たぶん、恐らく。
覚えやすいように強烈な言葉を使っているだけに過ぎない、筈だ。
(残念ながら弟子第一号、今のカサンドラは何度も死にながら死んでいるが、それは闇に葬られた歴史なのだ。)
カサンドラが使う武術に本来決まった名前はない。野生的なほど生き残る為に足掻く、そのための動作の集合であり、敢えて呼ぶとしたら『無銘の武術』とでも言うべきだろう。名前がないのだから、定まった技もない。技があると柔軟性を損なうというのが開祖の考えであるらしい。
カサンドラに言わせれば、名前を考えるのが面倒くさかっただけだろう、とのことだが。
技をイメージしないまま修得し柔軟に使用するなど、一握りの天才にしか出来ないことだということで、エルカ族には技の開発が許されている。
カサンドラも技名を叫んでいる。あの人も努力の人なのだろう。
エルカ族に対して、カサンドラは基本的な体力作りと運用、ごくごく初歩的な動作や考え方しか教えていない。
もっとも、その密度は穏やかなエルカ族には死を幻視させるものであったが。
基礎を修めた後、自分の描く理想の戦闘形態をイメージさせ、それに沿って技開発のアシストを実践形式で行っていた。
言うほど簡単なことではない。
まずカサンドラとの実践稽古が辛い。疲労から倒れ、嘔吐する物がなくなるまで吐き散らしても許してもらえず、一日に何度も死を覚悟することになる。
もちろんヤディカも例外ではなかった。
エルカ族の中で脱落者が出なかったのは奇跡みたいなものだろう。
それでいてカサンドラはケロッとしていて、稽古の後一人で修行していたりするのだ。
いっそ殺してくれとか、いっそ殺してやろうと思ったことも一度や二度ではない。
そんな地獄の特訓の中で生き残り、技術をれっきとした技に仕上げる。その為に必要なことが、今までの自分の体に染み付いてきた動きや考え方の癖を捨て、どんな状況でも柔軟に対応できるようにする基礎を作ること。
『一回死んでみようか』とはそのための目標なのだ。
だけど、ヤディカは今、敢えて間違った使い方をした。
本当に死んでしまうかもしれない。その覚悟はあるか、問うための言葉として。
カサンドラとの別れを惜しむヤディカに突っかかってきた新参の少女。
彼女の前に自分の腕を突き出す。
銀髪で金目、黙っていれば綺麗な感じがするのに、口を開けば粗雑な言葉が飛び出し、笑うときは歯を剥き出して獣のように笑い、大の大人よりも多くの料理を食い散らかした邪魔な奴。
何より、カサンドラのパートナー面しているのが気に入らない。
そこはもうあたしの場所だ。後から割り込んで来るな。
そんな気持ちで胸がもやもやする。
でも、言うだけあってそこそこ強い。
カサンドラと何度も組手を行っているヤディカに技を使わせるのだから。そこだけは少しは認めてもいい。
差し出された腕を前に、銀色は腕を組みながら唸ったりむにゃむにゃ何かを言ったりしていた。
「早く、して……」
「いや、マジで? アンタもしかして、自分の腕を食えって言ってるの? アタシに?」
眉を潜めるのが自分でも分かった。
察しが悪い奴だ。流石に全部食いちぎられるのは都合が悪いし、毒性が強すぎて万が一にも生き残れないだろう。こいつが。
「ちがう。噛みつく、だけ。血が、流れるように」
「アタシがやらなくちゃいけない意味があるのかよ? 自分でやればいいじゃんか」
「覚悟、ないの……?」
「うぅ……、あるさ、あるけどさ、その、友達に噛みつくのは、なんか違うんだよ、抵抗感が思ったよりあるって言うかさ……」
「友達……?」
一瞬何を言っているのか本気で分からなかった。
誰と誰がいつ友達になったのだろう?
まさか、ヤディカとインユゥがいつのまにかヤディカの知らないところで友達になっていたというのだろうか?
何それ恐い。
「あァ? だってお前、その……あれ? いや、え?」
「説明必要?」
「……………………あァ、そうだな、頼むわ」
なるほど、混乱しているらしい。だから訳の分からない言葉も飛び出したのだろう。
カサンドラも、ヤディカは言葉が少なすぎて相手に意図が伝わらないことがあるから気を付けなさいと言われていた。
つまりこいつはヤディカ腕に噛みつけと言われる説明が欲しいのだ。
顔を赤くして俯き、頭を抱えてしまった。悪いことをした。早く説明してやろう。
「私の血、毒になる。調合は、終わってる。でも、出せない。身の危険で、もっと強くなる。毒が強くて危ない、だけど、噛みついて?」
「……ッ噛みつく説明かよ! アタシは友達じゃないとかそういうことぉ――――」
「何? 聞き取れない」
まだもじょもじょと喋っているが、小さすぎて聞こえない。それに、余り時間を使っている余裕もない。
ペントーサの魔の手は今にもエルカ族に及ぼうとしているのだ。
エルカ族を守るのは戦士である自分の役目。エルカ族が強くなり、事実上その任を解かれた今になっても、ヤディカは自分を戦士だと思っている。
エルカ族の同胞が戦うのは、自分が倒れた後でいい。自分がこんな所で仲間が倒れていくのを見ているわけにはいかないのだ。
「いいから早く!」
「――――ッだぁ! 分かったよ! 血の流しすぎで死ぬなよな!」
それはこっちの言葉だ。
ペントーサ自慢の『強奪する檻』の能力無効化は強力で、並の毒では通用しないだろう。ヤディカの『毒血』も無効化される可能性が高い。
だが、無効化能力を上回る威力と複雑さを出すことができれば、 『強奪する檻』 を作り上げている魔法式を乱すことが出来るかもしれない。
『致死毒』『複合毒精製』『毒性強化』を『毒血』に注ぎ込んだ特別製。なかでも魔力に過剰に反応する組み合わせを選んだ『反魔力毒』とでも言うべき猛毒なら、可能性はある。
唯一の問題は、その毒に銀色が耐えられるかどうか、ということだ。
ヤディカの毒は『毒無効』さえ突破する。『毒無効』というスキルで無効化できる範囲を遥かに逸脱した効能を発揮できるからだ。
体に膨大な魔力を溜め込んでいる銀色に『反魔力毒』は効果覿面だろう。
ましてや、彼女に頼んだことは毒の威力を上げるためにヤディカに命の危険を感じさせること。
『毒血』が銀色に行かないように制御はするが、それでも、より凶悪になった毒がどのような影響を及ぼすか想像したくもない。
だが、思い付く限りで、この檻から脱出できる手段は、もうこれしかない。
銀色が馬鹿力で破壊できず、周囲からの支援も求められない現状では、ヤディカの持ち得る方法で脱出を試みるしかないのだ。
「ごめんな……」
「ごめんね……」
ずぶり、と鋭い歯が肉に食い込む感触と痛みが襲った。
歯並びを見れば普通に女の子らしいのに、何故か噛みつかれた跡は野獣の鋭い牙で抉られたかのようにギザギザしている。
「んッ、く……」
痛みで『毒血』の制御が覚束なくなりそうだった。
敵を殺すために毒を撒くことに比べ、味方のために毒の流れを制御する訓練はカサンドラに会ってから始めたことであり、精度が甘い。
「ゴハッ!?」
銀色が口から血を吹き出して倒れた。
まずい、 『反魔力毒』が僅かに流れ込んでしまったらしい。
猛毒が体内で暴れているのか、自身の体を抱きかかえながら踞っている。
血の流れる腕をそのままにしながら、ヤディカはおろおろとインユゥの様子を伺っていた。
ヤディカは毒で苦痛を感じるという経験をしたことがない。だが、毒で苦しんで死んでいく敵の姿ならば沢山見てきた。
銀色がそうなってしまうと思うと、とても恐ろしく感じたのだ。
エルカ族がカサンドラと出会う前、耐性を獲得していなかった同胞と会うことが怖かった日々。自分の仲間が自分の毒で死んでしまう悪夢を何度も見た。
覚悟が足りていないのは自分の方だった。
自分の毒で“仲間”が死ぬかもしれないということを恐れる余り、その可能性を無意識に排除していたのだ。
「銀色!」
「心配すんな"、体ン"中掻き回ざれ"るの"は、初めでじゃね"ぇ」
「い、今、薬、作るから……」
慌てて中和剤を精製しようとするヤディカを、インユゥはギッと睨み付け、地面を叩いた。
「いい"がら、さっざどごの檻を"壊ぜ! ア"ダシは覚悟を決め"たんだぞ! ヤ"ディカ・エ"ルガ!」
「……ッ」
彼女を毒で蝕むというミスを犯してしまったのは自分。だけど、その償いは毒を打ち消すことではない。その毒を以てこの身を縛る檻を破壊することなのだ。
ヤディカは『毒血』に塗れた腕の力をだらりと抜いた。
滴る血には 『強奪する檻』 でも無効化しきることの出来ていない、複雑な迷路のように調合された毒が濃縮されている。
「あたしも、覚悟、決める。本気で」
カサンドラにも見せたことのない、奥の手の一つ。
文字どおり必殺の、『毒血』と『鞭打』の合わせ技。
「死毒赤鞭」
びしゃり、と鋭い音と共に透明な檻に鮮血の軌跡が描かれた。
毒血は檻に滲むように広がり、同時に亀裂が走っていく。
今まさにエルカ族老人同盟に飛び掛かろうとしていたペントーサは、驚愕の表情で振り返った。
「馬鹿な……、私の渾身の魔法だぞ……」
エルカ族と相対したネビ族のいったい何人がその言葉を口にしたか、ペントーサは知らないだろう。
カサンドラ・ブートキャンプをやり遂げ、心身共に魔改造されたエルカ族の真に恐ろしいところは、その戦闘力ではない。
命のぎりぎり、死の間際まで追い詰められ絶望させられても諦めない生汚さこそが『無銘の武術』の恐ろしさなのだ。
むしろ、追い詰めれば追い詰めるほど厄介であると言える。
最もカサンドラと共に鍛えたヤディカはその最たる者だ。
脱出不可能な檻に閉じ込め、村人の公開処刑を見せつけるという手間隙をかけてしまったが為に、ヤディカの生存本能に火を付けてしまったのだった。
存分に能力を振るえるようになったヤディカが、中和剤を混ぜ込んだ血をインユゥにぶっかける。
毒との戦いで体力と魔力を消耗していたインユゥは、そのまま崩れ落ちるように気を失った。
噛みつかれた痕も、薬効を持たせた血があっという間に癒していく。
ふらり、とヤディカが一歩を踏み出した。
その異様な雰囲気に、ペントーサの頬に冷や汗が一筋流れる。
「やれやれ、出番を奪われてしまったわい」
エルカの村長が肩をすくめ、筋肉から力を抜いた。
他の老人たちも無念そうに口々に苦笑を浮かべながら臨戦態勢を解いていく。
まるで、もうペントーサが脅威ではない、とでも言うように。
「蛙ども、なんの真似だ……」
「見ての通りじゃよ、ヤディカの番はまだ継続しておる。儂らは次じゃよ。まぁ、あればじゃがの」
「まだ分かっていないのか、この私の強さが」
「あまり吠えん方が良い。蛇だかミミズだか分からんようになるわい」
ペントーサはスッと目を細め、素早く氷の刃を生み出した。
それは腕に沿うように流麗に迅り、村長の首を狙う。
「死ね」
確実なる死の宣告。
氷の刃は次の瞬間には村長の無駄に太い首を切り飛ばしている……はずだった。
空を裂いて殺到した赤い鞭がペントーサの腕を縛り上げ、その動きを封じる。
ただの鞭ではない。ヤディカの『毒血』製の鞭だ。
巻き付かれた部分から毒の刺激臭と肉の焼けただれる悪臭が立ち上った。
「ぐぅぁああ!?」
「……」
『毒無効』など無かったかのように腕が毒に焼かれる。生まれて初めて感じる毒の苦痛に、ペントーサ顔が青ざめた。
「魔力を解放した私の耐性と防御を突き抜ける攻撃だと……!? ただの、亜人の小娘が!?」
血液で作られただろう毒の鞭、それだけの技の筈だ。なのに毒は体を蝕み、振りほどくことも出来ない。それどころか、今もぎりぎりと締め上げられている。
「……のう、ネビ族の長殿よ、降参は出来んかのぉ?」
「ふざけたことを、ほんの僅かに私を驚かせた程度で、もう勝ったつもりか!」
エルカ族の村長がゆっくりと問いかけるが、ペントーサは噛みつくように返した。
だが、エルカ族の村長は空しそうに首を振るのだった。
「この戦いはアンタが勝てるかも知れん。だが、もうアンタの勝ちはない」
「何を……ぐぅ!」
毒鞭が腕を一層締め上げ、乱れた魔力とただれた皮膚は防御力を失っている。
この上毒に蝕まれ続ければペントーサの継戦能力は失われるだろう。
だが、それは腕が捕らえられ続ければの話だ。
同胞たるネビ族さえも捨てた男に、今さら腕の一本など価値がない。魔力さえ戻ればいくらでも埋め合わせることが出来る。
「勝ち誇るな、蛙がぁ!」
縛られた腕の周りに魔力を集め、無理矢理魔法を起動させる。
乱された魔力ではまともな魔法にならないが、過剰に注がれた魔力は暴走し、爆発を引き起こす。
「ッがぁあああ!」
縛られていた腕を肩から吹き飛ばし、毒で汚染された血も抜き去る。
制御の戻った魔力で傷を塞げば、戦況は元通りだ。
あのカエル娘の毒だけに気を付ければ、ペントーサの優位は揺るがない。
この失敗は取り戻せる。
まだ人化した体を使いこなせていなかったのだ。時間がたてば経つほど、この体はペントーサに馴染んでいく。有利なのは自分だ。勝利するのは自分だ。
「違うのだ、ネビ族の長よ。毒でも腕の拘束でもない。お主の勝てぬ理由はそんな些末なことではないのだ」
「なん……だと……」
赤い鞭をうねらせながらこちらに向かってくる少女を振り替える。
先程までの不可解な脅威は感じない。格下の存在だ。あんな者が島の支配者になるペントーサに勝てるというのか?
「まだ分からぬのかね? 魔力が見えすぎるというのも考えものじゃな……。儂にははっきりと見えるというのに」
「さっきから何なのだ、貴様は何を言っている!」
「あの方が、帰ってきたんじゃよ」
エルカ族の村長が空を見上げる。
釣られてペントーサも空を見上げた。
なんの変哲もない夜空が広がっているだけだ。強いて言うなら今日は星一つ見えない真っ暗闇だということだが……。
いや、待て。
なんの変哲もない夜空?
いったいいつの間に夜になったと言うんだ?
星明かり一つ見えないというのなら、今のこの明るさは何なのだ?
あの空の黒さはなんだ?
いったい何が起こっているというのだ!?
突如、視界まで闇に染まった。
違う。
包まれたのだ。
想像を絶する量の魔力に。
空を多い尽くすほど壮大な真っ黒な魔力の波に。
底知れない闇の底で、感覚という感覚が塗り潰されているかのようだった。
だが、それでも分かった。肌で理解できた。
この魔力の中心に、今まで見たこともないような、とんでもないバケモノがいるのだと。
「カサンドラ……おかえり……」
あのカエル娘の声が闇の向こうから聞こえてきた。
いや、闇はもう無くなっていた。包まれていたのは一瞬だったのだ。
数日にも感じられるような、長い一瞬だった。
それは走馬灯と呼ばれる死を感じた脳が極限まで集中することで起こる現象であったが、ペントーサはそれを知らなかった。
「うむ。ただいま、ヤディカ」
黒い、全てを飲み込み押し潰すような、それでいて埃一つたてないほど静かで優しい魔力の嵐の中心に立っていたのは、映像でみたあの黒いスケルトンだった。




