連載②(完)
□一月二十五日 奥山勇太
紀子が来てから一週間ほどが経った。今日が何月何日かは、もう分からない。元の体に戻りたいという意志は相変わらず持ち続けていたが、具体的な前進は何一つなかった。異常事態も長く続けば日常になる。
再び紀子や岡部、高橋たちが来て、情報提供をして欲しい。いや、紀子は必ずまた来るだろう。一週間ほど前は、ジョニーから三メートルほど離れた隣の木に手を当て、おそらく会話をしていた。紀子と隣の木は主従の関係か、あるいは友達か、ひょっとしたら家族かもしれない。いずれにしろ仲間だから、定期的に来るだろう。
ここまで考えると奥山はいつも、もう一つの疑問にぶち当たった。
それでは、本物の岡部紀子は、どこにいるのか?
かわいそうだが、ジョニーと隣の木を除く群落の中、三十二本のどれかに吸い込まれたと考えるのが自然だった。本物の紀子は過去、何らかの理由で群落を訪れ、奥山と同様、木に襲われた。そして中身を入れ替えられてしまった。
それがいつの出来事かは分からないが、紀子は今でさえ幼稚園児だ。突然、木になってしまった少女は、自分の身に何が起きたのか、まるで把握できないだろう。紀子の戸惑いや悲痛を想像すると、奥山は不憫でならなかった。
と同時に、何の落ち度もない少女の将来を奪った木に対し、強い怒りが沸き起こる。
いや、この表現は適切では無い。
一口に木と言っても、人間を襲い、入れ替わるのはごく一部ではないだろうか。あらゆる木が襲いだしたら、さすがに人間側も気づくだろう。
奥山は人間と入れ替わる植物を、マングローブにちなみ「マングロ族」と名付けた。
奥山からすれば、マングロ族の全容や狙いを把握することこそ、人類にとって地球温暖化防止や核兵器削減を上回る差し迫った課題だった。しかし残念ながら、そこに気づいている者は無さそうだ。
奥山の分かる範囲で、今のところ確実にマングロ族と呼べるのは、人間としての岡部紀子と奥山勇太、それに十日ほど前、紀子が手を当てていた隣の木だ。
マングロ族に対抗するため、自分にできることは無いだろうか。
奥山は考えたすえ、二日前から一つの試みを始めた。昨年十二月十八日深夜、奥山を突き刺した枝に意識を集中し、動かそうとするのだ。
マングロ族に出来たのなら、自分にも出来るはずだ。
あのとき、暗闇の中で枝がムチのようにしなり、ビュンッと空気を切り裂く音がした。そして急に月明かりが周囲を照らし、紀子の「早くしろっ」という叫び声の直後、伸びた枝があっという間に奥山を突き刺した。
それにしても、あの叫び声は偉そうな口調だった。マングロ族という組織では、紀子がジョニーより格上なのは間違いない。
奥山は昨日と一昨日の二日間、枝を動かすための練習をした。しかし、予想通りピクリとも動かなかった。いやなに、気にすることは無い。何年かかってもいい。いつか自分の意思で動かせるようになり、ジョニーに支配された奥山が枝の届く範囲に来れば、そのときこそ、今度は俺が、思い切り突き刺してやるのだ。そして自分の体を取り戻す。今はその日を待ち望み、練習に明け暮れるだけだ。
困難な状況だが、諦めるわけにはいかない。
練習を初めて三日目。今日も朝から、例の枝に意識を集中させていた。
練習方法は、奥山の視点によって二通りある。
木の枝を人間の腕と見立てた場合、視点は幹の中央に置く。そして右腕を動かすつもりで意識を集中させる。
もう一つは枝を蛇に見立て、その先端に視点を置く方法だ。前へ前へ、突進するように力を入れる。
奥山は、どちらかといえば「蛇」方式の方が力を入れやすかった。
午前中は緩やかに時間が過ぎた。練習では思い切り力を入れたり、一休みをしたりした。
太陽の位置からして午後三時ごろ、二人の男子中学生が公園を通り抜け、群落へ向かって来た。日中、群落を目指して人が来るのは珍しい。こんな所へ何をしに来たのだろう。奥山は練習を中断し、様子を見守ることにした。
来訪者は二人とも上浦山の手中学校の制服を着ている。一人は小柄で眼鏡をかけ、もう一人は中肉中背の丸坊主だった。公園と緩衝地帯を隔てる高さ五センチほどの白いブロックの手前で、眼鏡が丸坊主に声をかける。
「ストップ、ストップ。念のため、ここから撮ろう。出してくれ」
「もう撮るのかよ。はいはい、はーい」
丸坊主は、人を馬鹿にするような軽い口調で言いながら、肩にかけた青色のバッグを開けた。中からビデオカメラを取り出すと、右手に持つ。数秒すると、レンズの下に録画中を示す赤いランプが点灯した。
「バッテリーはあるよな」
眼鏡が確認すると、丸坊主が薄ら笑いを浮かべて答えた。
「バッチリ満タンだよ。予備も持っているから、五時間は撮れるぞ。高倉がここで殺されても、俺が記録しているから犯人はすぐ捕まる。安心してくれ」
高倉と呼ばれた眼鏡がうなずきながら言った。
「お前も一緒に殺されないことを祈るよ」
高倉が先頭に立ち、二人は公園から雪野川へと向かう緩衝地帯を歩き出した。
一直線に、奥山が取り込まれた木に向かってくる。
幹の数メートル手前で立ち止まると、枝を見上げながら周囲を見て回った。少し離れて撮影している丸坊主が聞く。
「何か発見はあったかい?」
高倉は、首をかしげながら答えた。
「うーん、発見かどうか。でも、この木、ほとんど川の中から生えてるぞ。珍しくねぇか」
丸坊主はタコ足状の木の根元に目をやり、眉間に皺を寄せた。
「本当だ。なんだこりゃ?気持ちワリィ」
高倉は、丸坊主の感想を黙って受け流すと、手が届く範囲の枝を触り始めた。葉を一枚ちぎり、口に入れる。小刻みに噛むと「ペッ」と吐き出した。その様子を撮影しながら、丸坊主が言う。
「オゲー、よくやるぜ。さすが生物オタク」
「バカ、俺の専門は天文学だって」
「分かった分かった。で、もぎたての葉っぱは美味しかったかい?」
「いや、まずい。普通の葉と同じ苦さだ」
高倉の答えに、丸坊主は苦笑した。高倉は上空の枝を一本一本、注意深く見て回りながら呪文のように唱えた。
「今、ビデオカメラで撮影しているからな。悪さをするなよ。一部始終を映像に記録している。おとなしくしておいた方が身のためだぞ」
そう言いながら、高倉の視点は一本の枝で止まった。それは、奥山が「蛇」方式で朝から練習を繰り返している枝だった。
「どうもこれのような気がする」
高倉はそうつぶやくと、高さ二メートルほどの位置にある枝をジャンプしてつかんだ。地面に引き寄せ、ポケットから取り出したハサミで先端から十センチほどを切り取る。
パチン。
金属の乾いた音が、川辺の群落に響く。切り取られた枝には、数枚の葉も付いていた。
そのとき、もう一人、公園を通り抜け、群落へ向かう人影があった。
大柄な体格でスーツとコートを着ているが、どちらも適度にしわが寄り、首元に見えるネクタイは、だらしなく緩んでいる。
ん、あれは・・・まさか・・・松田じゃないか。
間違いない。松田だ。なぜだか分からないが松田が来た。
知り合いが群落を訪れるのは初めてだ。
奥山は嬉しくて、松田の名前を何度も呼んだ。
松田、松田、松田、松田ぁぁぁ。
もちろん声にはならなかったが、落胆はほとんどしなかった。何かを知っている素振りの中学生と新聞記者がマングローブの群落に集まった。
新たな発見がありそうな展開じゃないか。奥山の期待は自然と高まった。
松田は、公園と緩衝地帯を隔てる高さ五センチほどの白いブロックを越えた辺りで、立ち止まった。高倉と丸坊主を見つけ、わずかに目を見開く。松田にとって二人の存在は想定外だったようだ。
やがて口元に微笑を浮かべると、川辺に向かってゆっくりと歩き出した。
撮影中の丸坊主が松田に気づき、「おいっ」と高倉に声をかける。高倉は、切ったばかりの枝をビニール袋に入れながら、松田に警戒感の交じった視線を向けた。
松田は丸坊主に近づくと、にこやかに笑いながら「こんにちは」と声をかけた。
丸坊主は「あぁ、どうも」と言いながら、少し頭を下げる。松田に気を取られ、ビデオカメラを構えた右手が大きく下がった。
「おいおいっ、きちんと構えておいてくれ」
高倉が丸坊主に声を飛ばす。
「分かったよ、うるせぇな」
丸坊主は不満げにビデオカメラを胸元まで上げると、高倉の撮影を続けた。
松田は二人の様子を見つつ、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。手前にいた丸坊主に一枚渡す。続いて数メートル歩き、ビニール袋に包んだ木の枝をリュックサックに入れている高倉にも、同じように一枚、名刺を手渡した。
渡された名刺に見入っている二人へ、親しげな口調で話しかける。
「どうもどうも。僕は竹沢新聞上浦支局で記者をしている松田って言うんだ。以前、ここのマングローブの記事を書いたことがあってね。今日、暇だから、久しぶりに来てみたんだ」
高倉が、すぐに反応する。自分が枝を切った木を指差しながら、興奮気味に質問した。
「えっ、それって、この木の種類ですか?マングローブって言うんですか?」
松田はうなずいた。
「そうだよ。その木はマングローブの中のメヒルギって種類。その木だけじゃない。この辺りの木は全部そう。記事を書いた一年前に数えた時は三十四本あったな。君は、その木に興味があるの?」
松田の質問に、高倉はうつむいた。丸坊主が口をはさむ。
「コイツ、ちょっと頭おかしいんですよ。あっ、すみません。僕の名前は山路と言います。山路遼。コイツは高倉俊介」
山路は、ビデオカメラを持っていない左手で、高倉を指差しながら続けた。
「だって、木が動くとか言うんですよ」
「木が動く?」
高倉に視線を向けながら、松田は山路の言葉を繰り返した。
高倉が反論する。
「バカ、余計なこと言うなって、本当におかしな人だと思われるだろ。ところで新聞記者さんは、ここのマングローブのこと、詳しいんですか?」
松田はうなずいた。
「うん、ある程度は詳しいと思う。専門家じゃないけど、取材して記事にしたからね。基本的なことなら分かるよ」
高倉が嬉しそうに言った。
「あつかましくて恐縮ですが、興味があるのでちょっと教えて頂けませんか?」
「もちろんいいよ。でも、僕も高倉君に聞きたいことがある」
「もしかして、木が動くって話ですか」
「うん。それとかビデオカメラで撮影している話とか」
「頭がおかしいとか思いませんか?」
松田は首を左右に振った。
「大丈夫。この世にはおかしな事実があふれているから。それに、新しいことを始める人って、最初はいつも周囲から変人と思われているんだ」
高倉は眼鏡の奥で両目をギュッとつぶると、すぐに勢いよくパチッと広げた。
「僕は単純なんで、そんなことを言われると調子に乗ってしまいます。了解しました。僕の話で良いなら、いくらでも話しますよ。で、ぜひ記事にして下さい。なんてね。よっし、それじゃあ」
高倉は言葉を切り、奥山が取り込まれた木に視線を投げかけると、続けた。
「ちょっとこの木から離れませんか。公園との境の白いブロックの辺りまで行けば大丈夫だと思います」
山路が高倉をバカにするように言った。
「ここでも大丈夫だって、臆病な俊ちゃん」
高倉が、右手を左右に振りながら、松田に言った。
「山路の言うことは気にしないで下さい。無知なだけですから」
「ハハッ」と山路が鼻で笑う。高倉は、山路に向かって歩きながら付け加えた。
「ブロックの辺りまで行けば、撮影は止めよう。そうすれば楽になるから、山路にとっても良いだろ」
「へいへい、助かります」
わざとらしく感謝する山路を先頭に高倉、松田と続き、群落から白いブロックまで戻っていく。先頭の山路は後ろ向きに歩きながら、高倉たちを撮影していた。
群落から二十メートルほど離れた白いブロックまで着くと、山路が撮影を停止する。雪野川の方を向いて、三人は高さ五センチほどのブロックに腰かけた。
まず松田が口を開く。
「えっと、何の話だっけ。マングローブだよね。じゃ、僕から先に、知っていることを話そうか?」
「ちょっと待って下さい」
そう言って高倉は、リュックサックの中からノートとシャープペンシルを取り出した。メモを取る準備を整えると、まっすぐ松田の目を見つめた。
「お願いします」
高倉の言葉を受け、松田は記事に書いたことを口頭で説明する。熱心にメモを取っていた高倉は、松田の話が終わると、「以上ですか?」と確認した。「うん、とりあえず基本的な事柄は、以上って感じ」と松田は答えた。
高倉は、隣に座っていた山路に声をかける。
「聞いたか?突然変異体だって」
さっきまで高倉を小馬鹿にしていた山路が、神妙な面持ちでうなずいた。
「あぁ聞いた。驚いたな」
松田が反応する。
「オッ、どういうことかな?教えてよ。それって木が動く話と関係するの?」
山路の視線を受けた高倉は、数秒間沈黙してから答えた。
「関係します。次は僕が話をする番ですね。実は今日、僕が山路と一緒にここへ来たのは去年の年末、ちょっと変な光景を見たからなんです。もちろん、目の錯覚ということも十分考えられるのですが、双眼鏡の精度からして、それは無いな、と」
「双眼鏡?」
松田が尋ねると、山路が口を挟んだ。
「高倉、一から話さないと松田さんに分からねぇだろ。まず、お前は前から双眼鏡が欲しかった。誕生日に親から、その双眼鏡をプレゼントされた、嬉しくてベランダで双眼鏡を使っていた。そしたら木が動く光景を見た。こんな風に、順序立てて話さないと」
高倉は表情を曇らせながら、松田に謝った。
「そっか。そうですよね。すいません、説明するのが下手で。おおまかな筋は山路の言った通りです。えっと、順序立てて話しますね。始まりは去年の年末、親から双眼鏡を買ってもらったことです。僕、プロ野球観戦が大好きで、去年は父と五回くらい球場へ見に行ったのですが、内野席でも距離があって、好きな選手の顔が全然見えません。だから双眼鏡が欲しかったんです。しかもオペラグラスみたいな安物じゃなくて、バードウォッチングにも使えるような、一万円以上はするキチンとしたものが希望でした。秋に、父から誕生日プレゼントは何が良いか聞かれたので、迷わず双眼鏡と答えました。あの夜は僕の誕生日で、まさに双眼鏡をもらった当日だったんです」
山路が茶化す。
「で、コイツ、変態だから夜の街の覗き見を始めたんすよ」
「バカ、覗き見っていう言葉は家の中みたいなプライベート空間を盗み見るときに使うんだよ。公の場所ならいくら見ても、覗き見って言わねぇの。山路はしばらく黙ってろ」
「で?それからどうなったんだ?」
山路は、高倉の反論を全く気に留めず先を促した。松田は黙って聞いている。高倉は不満げな表情のまま続けた。
「そういえば学校の先生が双眼鏡でも月の観察ができると言っていたので、試そうと思い、早速、家のベランダへ出ました。でも、あいにくの曇り空で全然見えませんでした。あっ、そうだ。これを言っておかなくちゃ。僕の住むマンションは、ここから見えるんですよ」
高倉は立ち上がると、ブロック沿いに五メートルほど移動し、雪野川の対岸方向を指差した。
「遠いので分からないかもしれませんが、あそこに見えるサラ金の看板の左側に、十五階建てのマンションがあります。そこの十三階が僕の家です」
松田は立ち上がり、高倉の隣へ行くと、指差す方角を見ながら言った。
「なるほど、あれか。分かる分かる。上浦キャッシングローンって看板の横にある水色のマンションだね」
高倉はうなずいた。
「そうです。看板の文字まで読めるなんて松田さん、目がいいですね。僕は眼鏡をかけていてもよく見えません」
松田が微笑んだ。
「勉強してないから、昔から視力だけは良いんだ」
「ハハ。でも僕も学校の勉強は嫌いです」
高倉はそう言いながら、さっきまで腰かけていたブロックに戻った。松田も続き、二人は動かなかった山路の隣へ腰を下ろす。
「えっと、どこまで話したかな」
高倉が独り言のようにつぶやくと、すかさず山路が答えた。
「マンションのベランダから月を観測しようと思ったけど、曇り空で全然見えなかったという所までだよ」
高倉は山路に向かって軽く右手を挙げた。
「そうだった、サンキュサンキュ。そうです、曇りで全然見えなかったんです。ただ、雲の動きがとても早く、もう少し待てば月が顔を出しそうな予感がしたので、待つことにしました。夜の街を眺めながら、双眼鏡の性能を確かめようと思ったんです。そのときは、とにかく新しい双眼鏡を覗いて何かを見たかった。時間は午後十一時過ぎで、日曜日だったこともあり、出歩く人はほとんどいませんでした。適当に色んな場所を見下ろしていると、この公園の出入り口付近で目が留まったんです。というのも、小さな女の子が一人で立っていたからです。夜中ですよ。あれっ、と思いました」
高倉は言葉を切ると、ブロックに座ったまま後ろを振り向き、公園の出入り口に目をやった。松田と山路も顔を動かし、高倉の視線を追う。出入り口は、高さが大人の腰ほどの支柱二本にはさまれている。長さ五メートルほどの空間だ。何の変哲もない、日本全国どこにでもありそうな公園の出入り口を眺めながら、高倉が続ける。
「女の子は、あの支柱に手をかけて、しきりと長坂駅の方向を気にしていました。やがて、長坂駅方面から歩いて来た一人の男性と合流し、二人で公園への中へ入っていきました」
松田が質問した。
「そんな時間に?妙な光景だね。少女と男性は待ち合わせていたのかな?」
高倉は首を左右に振った。
「残念ながら、そこまでは分かりません。僕も胸騒ぎがしました。ひょっとしたら親子かなとも考えましたが、親子なら真冬の夜中に公園の前で待ち合わせて、そのまま中へ入っていくことはしないでしょう。その先に自宅があるのなら別ですが、この公園の先には雪野川があるだけで、別の場所へは抜けられません。妙な光景と言うより犯罪の匂いがしました」
山路は何度か小刻みにうなずき、高倉への同意を示した。
松田は黙って聞いている。高倉が話を前に進めた。
「中へ入った二人は駆け足で公園を抜け、今まさに僕たちが座っているブロックを越えると、雪野川の方へ向かいました。ますます変です。ただ、公園を抜けられると街灯の光が届きません。暗闇のなか、僕は二人の姿を見失ってしまいました。でも気になったので、川の周囲を色々な角度で眺めながら、二人の姿を探したんです。すると突然、雲が途切れて月の光が周囲を照らしました。男性と少女は川沿いの、僕がさっき見ていたあの木のすぐ近くにいました。そのとき」
高倉は言葉を切った。これまでさんざん軽口をたたいてきた山路だが、このときに限って何も言わない。足元の小石を拾い上げると、雪野川に向かって緩慢な動作で投げた。
沈黙に耐えられないように、松田が口を開いた。
「そのとき?」
高倉は続けた。
「そのとき、木の枝が伸びて、男性の胸を突き刺したんです。手品みたいに、枝が男性の背中へ突き抜けるのが見えました。嘘と思われるかもしれません。いや、嘘だと思うのが普通です。僕も逆の立場だったら絶対嘘だと思う。断定する。そして言った奴を指差しながら笑う。バカにする。ひょっとしたら、アブない奴というレッテルを貼って、みんなで無視するかもしれない。でも」
高倉は一気にそこまで言うと、深いため息をついた。
「でも、本当なんです。眼鏡はかけていたし、自分の目で見たから間違いない。枝が男性の胸を突き刺し、貫通したんです。おニューの双眼鏡に撮影機能が付いていればと心底思いました」
高倉はカメラのシャッターを連打するように、右手の人差し指を動かす。そしてもう一度ため息をついてから続けた。
「男性は、そのまま仰向けに倒れました。一方、枝は男性の胸から抜け、短くなると、ススッと元の位置へ戻りました。驚いたのは、その直後、胸を突き刺された男性が起き上がったことです。そして少女と握手をすると、何も無かったかのように、服へ付いた泥を両手で払い始めました。それから二人は、親しげに話しながら公園を通り抜け、同じ方角へ消えて行きました。後を追おうとしましたが、建物が邪魔をして無理でした。残念に思う一方、覗き見とは違いますが、双眼鏡を使ってストーカーみたいなことをしていると、こちらが犯罪者みたいだという負い目もあり、二人の観察は、そこで止めました。その後は月を見る気も無くなってしまい、モヤモヤした気分のまま、ベランダから家の中に戻りました。視野や距離感など双眼鏡の性能は十分確認できましたし」
高倉はいったん言葉を切り、すぐに続けた。
「とまぁ、僕の話は、こんなところです」
松田は鞄から革の手帳を取り出して質問した。
「それが起きた日付って覚えている?」
高倉はうなずいて答えた。
「もちろん覚えています。僕の誕生日ですから。昨年の十二月十八日です」
「昨年十二月十八日。十二月十八日ねぇ」
松田は手帳に日付を書き込むと考え込んだ。やがて、何か発見したかのように息をのみ、目を見開くと、気持ちを落ち着かせるように右手を左胸へ持っていった。その様子を見ていた高倉が尋ねる。
「どうかしましたか?」
松田は首を左右に振った。
「いや、なんでも無い。単なる偶然かもしれない。おっと、ごめん、独り言。スルーして」
松田は頭の中を整理するように数秒間、沈黙すると、再び口を開いた。
「なるほど、高倉君の話はよく分かった。で、事件から一カ月以上たった今日、山路君を連れて、ここへ調べに来たわけだ」
「その通りです。頭がおかしいと思われたくないから、あの事件のことは忘れようと頑張ったのですが、どうしても無理でした。逆に、本当かどうか確かめたいという気持ちは強まるばかりです。現場に行ったところで、何も分からない可能性は十分にありますが、行ってみないと始まらない。一方、お恥ずかしい話ですが、僕一人で行ったら、枝に胸を突き刺されるかもしれないという恐怖もありました。僕が目撃した男性は幸い無事でしたが、それでも突き刺されるのは嫌です。というわけで山路にも来てもらい、ビデオカメラを回してもらいました。一部始終を記録されていたら、木も変な動きは出来ないでしょう。防犯カメラみたいなものです」
「素晴らしい。既存の常識に縛られない自由な発想だ」
松田に褒められ、高倉は笑顔を見せた。
「ありがとうございます。山路は幼稚園から一緒の幼なじみなので、こういうクレイジーなことも頼めます」
山路が鼻で笑う。
「まったく、俺も人が良いぜ」
「まぁ、持ちつ持たれつの関係ですから。僕だって山路にいくつか貸しがある。今日は、そのうちの一つを返してもらっただけです。ちなみに山路の夏休みの自由研究は、ほとんど僕がやりました」
「おいおい、そんなこと、ここでばらすなって」
松田が割って入った。
「オッケー。君たちの仲が良いのはよく分かった。ところで、肝心の手がかりは、何か見つかった?」
高倉はリュックサックを開け、切り取った十センチほどの枝を取り出した。
「成果と言えるほどのものは無いですが、あえて挙げるなら、この枝ですかね。僕の頭に焼き付いている映像と、今日、実際に見た感じを比べて、どの枝が伸びたのかを推測したんです。で、少し、切り取りました」
高倉は、切り取った枝を松田に手渡した。松田は右手に枝を持つと、目を近づけたり離したりしながら、しげしげと観察して尋ねた。
「ちなみに、これ、どうするの?」
「とりあえず理科室の顕微鏡で見てみようと思っているのですが、その先は決まっていません」
松田は一呼吸置いてから、別の見解を示した。
「もし、この枝から人間の血液が検出されたら、直接証拠にはならないけれど、高倉君の話の信憑性は高まるんじゃないかな」
高倉はきょとんとした表情を見せたが、やがて小さくガッツポーズをした。
「なるほど。さすが松田さん、確かにその通りですね。でも、血液って、どのように調べたら良いんでしょう?」
松田は、高倉に枝を返しながら答えた。
「調べ方までは分からないけれど、警察なら簡単にできる。ルミノール反応と言って、事件現場で鑑識が使う一般的な方法だよ。一人、警察の科学捜査研究所に昔からの友人がいるから、内緒で頼んでやっても良いぜ」
高倉は目を輝かせた。
「本当ですか?ありがとうございます。それじゃ、この半分を松田さんに託しますね」
そう言って高倉はリュックサックからハサミを取り出すと、枝の真ん中辺りにハサミを入れ、松田に尋ねた。
「先端か、内側の方か、どっちが欲しいですか?」
松田は笑った。
「どっちでも良いよ。だって枝は完全に男の体を突き抜けたんだろ。だったら、どちらにもベッタリと血が付いていたはずさ。一カ月以上経っているから、残っているかどうかが問題だけどね。ところで、その男のことについて、もっと教えてくれないかな。何か覚えていること無い?なんでも良いんだ。何歳ぐらいだったか、太っていたか痩せていたか、服装、髪型、歩き方、その他、印象に残る特徴」
高倉は、眉間に皺を寄せながら、マングローブの群落を眺めた。一番手前のマングローブの枝に、一匹のカラスが止まっている。群落の向こう側には、雲一つない青空が広がっていた。風の音しか聞こえない。静かに時間が流れていく。山路が沈黙を破った。
「高倉、俺に話してくれた時、男はリュックを背負っていた、って言ってなかったっけ?」
高倉はすぐに同意した。
「そうそう、男はリュックを背負っていました。これといって特徴の無い普通のリュックです。あと覚えていることと言えば、およその年代。幅が広くて申し訳ないのですが、二十代から五十代ってとこです。子供や老人じゃありませんでした。ほかに言えるのは中肉中背だったことくらいかな。着ていたものは、すいません、覚えていません」
松田は首を左右に振った。
「いや、いいんだ。こちらこそ色々聞いて悪いね。最後に一点だけ。リュックの色を覚えている?」
「黒っぽかったと思います。黒か紺か、そんな感じ」
松田は何度もうなずきながら、聞き取ったことを手帳に書き取った。
「ありがとう。十分だよ」
山路が不思議そうに尋ねる。
「松田さん、高倉の話を信じるんですか?枝が動いて男を突き刺したって」
松田は嬉しそうに言った。
「もちろん、信じるよ。事実は小説より奇なり。先入観は新聞記者の大敵だからね。イタリアでは首相が少女買春しているんだぜ。アメリカでは、殺処分するためガス室に入れられた犬が一匹だけ死なず、作業終了後も元気に尻尾を振っていたんだ。世の中、何が起きてもおかしくないって話さ。それに山路君から見て、高倉君はいつもこんな荒唐無稽なことを言うキャラじゃないだろ?」
松田の逆質問に、山路が答えた。
「それは、確かにそうですね。真面目なガリベン君。言うことはいつも優等生で、面白みに欠けます」
高倉が反応する。
「まぁ、そう言うなって。それよりも僕が今回、自分に自信を持てたのは、松田さんに、この木が突然変異体だと教えてもらったことです。普通じゃない木なら、特別な力を持っていてもおかしくない」
「なるほど、一つの見方としてはありだね」
松田はそう言うと、腕時計を見た。
「おっと、いけね、もう四時か。次の取材のアポを入れているから、そろそろ行かなくちゃ。お二人さん、悪いけど今後のために、連絡先を教えてくれないかな」
松田は二人の携帯電話の番号とメールアドレスを聞き取り、手帳にメモした。常日頃、中学生ごときに携帯電話など必要ないと思っているが、こういうときは便利で助かる。松田は立ち上がると、左手にビジネスバッグ、右手に高倉から渡された枝を持ち、二人に軽く頭を下げた。
「貴重な情報をありがとう。血液反応については、結果が分かりしだい連絡するよ。僕の携帯番号は名刺に書いてある。何かあったら、いつでも電話してくれ。どんなにつまらない用事でも全然かまわないから」
松田はそう言い残すと、公園の出入り口へ向け、歩いて行った。
高倉と山路は、その後、十分ほど雑談し、肩を並べて公園から出て行った。
奥山は、三人が座っていた場所を見ながら、激しく興奮していた。あの夜の出来事の目撃者がいたとは、夢にも思わなかった。
正義は勝つ。神は悪を見逃さない。
正義は勝つ。神は悪を見逃さない。
胸が沸き立つような熱気に包まれながら、奥山は同じフレーズを何度も繰り返した。嬉しいのは、目撃者がいたことだけではない。事件の日付を十二月十八日と聞いた時の松田の反応。目を見開き、早まった心臓の鼓動を抑えるように、胸へ手をやった。
松田は何かを知っているのだ。
奥山の期待は否応なしに高まった。
やがて奥山は、午前中と同じように、枝へ視点を持って行った。切り取られた先端に意識を集中し、動かすための練習を再開する。この件で松田が動いているのなら、事態はどのように展開するか分からない。次の瞬間、ジョニーを枝で突き刺せるチャンスが訪れるかもしれない。
いくら練習したところで、枝を自由に動かせる可能性が極めて低いのは認識していた。しかし、練習不足による後悔だけはしたくなかった。先端は、高倉がハサミで斜めに切り取ったため、鋭利さが格段に増していた。
その夜のことだ。時間は、三太橋の車の通行量から推測して午後九時頃。
約一週間ぶりに少女の岡部紀子が公園を通り抜け、群落に現れた。
ゆっくり歩いて、こちらへ向かってくる。母親は、姿も気配もない。おそらく一人だろう。服装は前回と同じ紺色のジーパンにピンクのダウンジャケット。川辺まで着くと靴と靴下を脱ぎ、裸足になって中へ入った。前回と同じように奥山の隣の木へ手を当てる。
紀子はうなずいたり、イライラした様子で口から唾を吐いたりしている。約五分後、木から手を離すと、紀子は川辺に戻った。ダウンジャケットから取り出したハンカチで、濡れた足を丁寧に拭き、靴下と靴を履く。ハンカチをポケットに戻して立ち上がると、次の瞬間、驚くべき行動に出た。
紀子は奥山が取り込まれた木に突進し、ジャンプすると幹に激しく飛び蹴りをした。奥山の視点が、左右にゆらゆらと動く。
紀子は、それでも飽き足らない様子で何度も木を蹴った。
「クソ野郎がっ、クソッ、クソッ」
紀子は、少女らしからぬ言葉でわめきながら十回ほど蹴ると、荒い息づかいで切り取られた枝の先端を見上げた。それから高倉のマンションがある方向に目を向け、腹立たしげに吐き出した。
「枝を取り返さなければ、枝を。畜生。余計な仕事を増やしやがって、ボケどもが」
紀子は最後にもう一回、木の幹を激しく蹴りつけると、足早に公園の出口へ戻って行った。
□一月二十六日 響子
響子が気味の悪いi‐podを見つけてから二日が経過した。勇太の様子はこれまでと変わらず、表面上は平穏な日常が過ぎている。しかし、この二日間、響子の心臓は勇太に近づくたび、無意識のうちに激しく動きだし、同時に体が強張った。なぜ彼は家族の会話を、わざわざ持ち歩いて聴いているのか。考えれば考えるほど分からず、不安が響子の心身を蝕んでいた。
二十六日朝、響子はいつも通り平静さを装って勇太の出勤を見送った。何もする気がしないが、洗濯物は溜まるし、ほこりは部屋に積もる。気持ちは萎えているが、だからといって家事をせずに家の中が荒れるのは耐えられなかった。響子は残ったエネルギーを絞り出し、むしろ、いつも以上に精力的に家事をこなした。体を動かすと、嫌な気持ちも少しは薄らいだ。
ピンポーン
午前十一時頃、来訪者を告げるベルが鳴った。何も考えず、インターホンに出る。「はい」という響子の素っ気ない声に相手が答えた。
「あ、どうも、竹沢新聞の松田です。先日はどうもありがとうございました」
相手が知っている人なので、響子は安心した。しかし、すぐに疑問が沸く。
「あら松田さん、こんな時間に珍しいですね。勇太なら出勤したから、いないですよ」
松田はインターホンの向こう側で、咳払いをしてから答えた。
「いや、驚かれるかもしれませんが、今日は奥さんに聞きたいことがあるんです。昨年十二月十八日の勇太さんについてなのですが」
「昨年十二月十八日」
響子は、そうつぶやいて言葉を切った。十二月十八日は勇太が突然、マングローブに興味を持ち出した日だ。考えてみると、あの日を境に勇太のことが分からなくなり出した気がする。響子が尋ねた。
「十二月十八日の何についてですか?」
インターホンの受話器から、慌ただしい足音がした。松田の恐縮した声がする。
「あっ、すいません、宅配便の人が来たので、いったん切ります。またベルを鳴らします」
オートロックのマンションは十二階建てで六十世帯ほどが暮らす。そのため、松田が話している共同玄関には他の部屋へ用事がある人も訪れる。当然のことだ。響子が言った。
「いいわよ、いいわよ。私、降ります。そこで待っていて下さい。じゃあ」
どうせ再び話し始めたところで、別の来訪者によって話は中断されるだろう。響子は半ば一方的にインターホンの受話器を置くと、和室で絵本を読む香奈に話しかけた。心配だから一人にはできない。
「お母さん、ちょっと外出するから香奈も一緒に行こっか」
香奈は「はーい」と答え、絵本を閉じた。
マンション一階の共同玄関へ降りると、松田が申し訳なさそうに頭を下げた。
「どうも、すいません、突然。いつも突然なのですが」
響子は首を左右に振った。
「いいのよ、別に特別、何をしていた訳じゃ無いし。掃除に洗濯、食事の用意。毎日、同じことばかり。松田さんの取材を受ける時間くらい十分にあるわ」
今度は松田が首を左右に振った。
「いえいえ、取材ってほどじゃ無いです。当たり前ですが今日、奥さんから聞いたことを記事にするようなことは決してありませんから」
響子はプッと吹き出した。
「ハハッ、分かってるわよ。松田さんは真面目な人ね」
「いやぁ、普段は自他ともに認める不真面目な人間なのですが、気になることがあると、のめり込んじゃう性質なんですよ。良いのか悪いのか。そうだ、香奈ちゃんも一緒ですし、立ち話というのもなんですから、近くのファミリーレストランでも行きませんか。もちろん僕が支払いますので」
マンションから一分ほど歩いた場所に、オープンしたばかりのロイヤルホストがあった。あそこなら全席禁煙だから香奈も連れて行ける。
響子は遠慮がちに「えっ、いいんですか?」と尋ねた。松田は笑顔で「もちろんですとも」と答え、くるりと後ろを向くと共同玄関の出入り口に向けて歩き出した。
ロイヤルホストに入ると、三人は窓際の席を選び、ドリンクバーを三つと香奈のパンケーキを注文した。それぞれ席を立ち、松田はホットコーヒー、響子は紅茶、香奈は白ぶどうジュースを持ってくる。席に座ると、響子は「ジュースは最初の一杯だけだからね。次からは甘くない飲み物だよ」と言いながら、香奈の頭をなでた。香奈は窓の外を見ながら「はーい」と答える。片側二車線の幹線道路には、車が絶え間なく走っていた。まっすぐ南へ行けば三太橋を渡り、長坂駅に着く。響子が言葉をつなげた。
「ところで、松田さんが聞きたい話って十二月十八日のことでしたよね。十二月十八日の何についてですか?」
松田はコーヒーに砂糖を混ぜながら答えた。
「はい。十二月十八日は、勇太さんが急にマングローブに興味を持ち始めた日ですよね。その日、勇太さんはどこかへ外出されたでしょうか?」
響子は松田から視線を外し、十秒ほど車の流れをぼんやり眺めながら答えた。
「あの日は、たしか夕方まで家にいて、夜は選挙戦を手伝ってくれた同級生と焼き肉を食べに行きました。帰ってきたのは午前零時を回っていたと思います」
「帰りは午前零時を回っていた。うーん」
松田は響子の言葉を繰り返すと、唸り声を漏らしてから続けた。
「同級生と言えば、三八本舗の佐倉さんなどですか?勇太さんの選挙戦を支えた同級生三人衆ですよね」
響子は微笑んだ。
「そうそう、仲良し四人組。勇太ったら選挙戦中、たとえ負けても四人の絆は一生の宝だ、って吠えていたから。わんぱくな男の子みたいに、まっすぐだった」
響子の話を聞きながら、松田はテーブルの上に両肘をのせ、両手を顔の前で組んだ。視線を伏し目がちにして、何かを考え込んでいる様子だ。やがて、思い出したように質問した。
「単刀直入に聞きますが、その夜、午前零時過ぎに帰ってきた勇太さんは、どこかにけがをしていませんでしたか?ひょっとして、血を流していたなどということは無いでしょうか?」
響子は、十二月十八日深夜、勇太が帰ってきたときの様子を思い出そうとした。しかし、徐々に質問への違和感が増し、逆に尋ねる。
「けがはしていなかったと思いますけど。松田さん、なぜそんなことを聞くんですか?」
松田は何度かうなずき、気持ちを落ち着かせるようにコーヒーを一口飲んだ。
「すいません、それはそうですよね。僕の質問に不信感を抱かれるのは当然です。我ながら奇妙な質問だと思います。理由を言いますね。とはいうものの、この理由じたいが奇妙なのですが。実は昨日、僕は一年ぶりにクリスマス公園へ、マングローブの群落を見に行ったのです。そしたら、二人の中学生がいました」
松田は高倉、山路とのやりとりを、そのまま響子に紹介した。
響子は、男が少女と落ち合った辺りから話に没頭し始めた。そして、マングローブの枝が男の胸を突き刺して貫通したという、一般的な感覚では最も荒唐無稽に聞こえる箇所へ強く魅かれた。
なぜだろう。
すぐには分からず、響子は頭の中で原因を探った。
ほどなく、一つのことに思い当たる。
まさか。
まさかね。
でも、この符合は何?偶然にしては、できすぎている。
松田の話が終わると、注文した香奈のパンケーキがテーブルの上に載っていた。響子は「うそ、全然気づかなかった」とつぶやきながら、香奈の前にパンケーキを移動し、右手で香奈の小さな頭をなでた。香奈はおとなしく窓の外を見ながら、少しずつ白ぶどうジュースを飲んでいる。
松田が補足した。
「二人の中学生の話を、作り話と一蹴するのは簡単です。でも、彼らがグルで僕に嘘を付く理由が、ありません。僕はあの日、事前に誰にも言わずクリスマス公園へ行ったので、彼らと出会ったのは全くの偶然です。それに、偏差値で人を判断するのは良くないですが、二人は上浦山の手中学です。少なくとも頭のおかしな人間じゃないはずだ。実際話した僕の印象からもそうです。さらに引っ掛かるのが、昨年十二月十八日の一致。奥山さんは、午前零時過ぎに帰ってきて、突然、マングローブに興味を持ち始めたんですよね。中学生が、群落で男と少女を見たのは、午後十一時過ぎです。時間的にはドンピシャリだ」
響子には、松田の言おうとしていることが、よく分かった。そのためだろうか、無意識のうちにうつむいてしまう。黙り込む響子を見て、松田が声のトーンを落とした。
「すいません。一気にこんなことをまくし立てられて、気を悪くされましたよね。申し訳ありません。僕のダメなところです。興奮すると、相手の気持ちを考えずに、言いたいことを言ってしまう」
響子は首を左右に振った。言いにくいことだが、頭の中を整理すると思い切って口にした。
「松田さんの考える通り、私もその男は勇太だと思います」
意外な展開だったのだろう、松田の目は大きく見開き、強張ったまま表情が固まった。
響子はテーブルの端に手を伸ばし、紙ナプキンを一枚取ると、松田のスーツの胸ポケットを指差し、「すいませんけど、ボールペンを一本、貸して頂けないかしら」と言った。松田は我に返ったように表情を崩すと、胸ポケットに二本ささっているボールペンのうち一本を抜き取り、手渡した。響子はボールペンを受け取ると、紙ナプキンに「私からも言いたいことがあるのですが、香奈にはあまり聞かせたくないの。どうしたらいいかしら?」と書き込み、松田に差し出した。松田は響子のメッセージを読み終えると、右手を挙げ、人差し指を立てた。
「これを使いましょう」
松田はビジネスバッグを開けると一台のノートパソコンを取り出した。テーブルの上に載せ、カチッと電源を入れる。
「ワードでファイルを新規作成し、チャットの要領で順番に書き込みましょう。終わったら、保存せずにバツ印で閉じる」
響子は黙ってうなずいた。パソコンの電源が立ち上がると、まず松田が打ち込んだ。「ノートとボールペンを使った筆談でも良いのですが、時間がかかるし、後に残りますからね。ところで、奥さんの言いたいこととは、何でしょうか?」。松田は、お互いが使いやすいように、パソコンをテーブルの中央へ置いた。響子が一語一語、確かめるように書き込む。「私なりに、その男を勇太だと考える理由が、いくつかあるのです。まず簡単なことから。勇太はタクシーが嫌いで歩くのが好きだから、お酒を飲んで帰宅する時はいつも、電車を使って長坂駅で降り、歩いて帰ります。だから中学生が目撃した、長坂駅方面から歩いて来た男の行動と矛盾しません。二つ目の理由は、あの日、十二月十八日。深夜に帰ってきた勇太は、ダウンジャケットの背中側とリュックサックが砂で汚れていました。理由を尋ねると、焼き肉屋でハンガーにかけていたのが、いつの間にか床に落ちていた、ということでした。しかし、それにしては不自然なほど広範囲にわたって砂が付いていました。この砂が、マングローブの群落で倒れた時に付いたものだと考えると納得できます。さらに、もう一点。実はこれが最も大きく、私にとって決定的なのですが」
響子はそこまで書くと松田の表情に目をやった。松田は眉間に皺を寄せて、響子の言葉に見入っている。響子と目が合うと、真剣な表情で数回うなずいた。右手を少し前に差し出し、先を促す。
響子は大きく深呼吸をしてから、書き込みを続けた。「一週間前、松田さんが家に来られた際、勇太が急にたくさん汗をかいて席を外しましたよね。私も心配で付いて行ったのですが、そのとき偶然、勇太の背中に直径五センチほどの傷を見つけました。ただ、驚いたのは傷自体にではなく、傷があるね、と軽い気持ちで声をかけた時の勇太の反応にです。というのも、ものすごく怒られたのです。私の知る勇太からは考えられない、理不尽な激しさでした」。響子は、嫌な思い出が胸によみがえり、また涙が出そうになった。信頼できる人だからといって、他人にこんな恥ずかしいことを打ち明けて良いのだろうかとも思った。しかし、一度書き出すと、感情を抑えることができない。響子の心に、あのときの悔しさが充満した。
松田が身振り手振りで、自分にも書き込みをさせてほしい、と伝えてきた。響子はパソコンのキーボードから手を離し、心を落ち着かせるために、冷めた紅茶を一口飲んだ。松田の言葉が画面に記されていく。「奥山さんの怒鳴り声は、居間にいた私の耳にも聞こえました。一人にさせろ、とか叫んでいましたよね。実は、私も不自然さを感じました。奥さんに比べたら短い付き合いですが、私に聞かれるかもしれない、あの状況で怒鳴り声をあげるような人ではありません。奥山さんは、情熱と冷静さを兼ね備えた人でした。人が変わってしまったのか、それとも、背中の傷がよほど彼にとって大事だったのか。大事と言うより、もしかしたら弱点なのかもしれません。しかし」。松田はそこまで書き込むと、いったん手を止めて、体全体を一時停止させた。蝋人形のように画面を見つめて固まる。三十秒ほどが経過したとき、松田のこめかみに一筋の汗が流れた。外は真冬の寒さだというのに、冷や汗なのかしら。響子がそう思ったところで、松田のキーボードが動き出した。「状況から推理すると、奥山さんの背中の傷は、木の枝に突き刺された時にできた、というわけですよね。まるでSF映画だ。常識では到底信じられない。しかし、辻褄は合っている」。
自分と同じ考えが綴られる画面を見ながら、響子は、不気味なi‐podを見つけて以来、胸に渦巻いていた不安が、少しずつ薄れていく感覚を得た。誰にも相談できなかった不可解な出来事を、思いもがけず松田と共有できて、心の負担が減ったのかもしれない。今後、どうすれば良いのか。松田と言葉を交わすことで、自分なりの最善策を見つけ出せる気がした。
松田の言葉は続く。「背中の傷は大きな判断材料ですね。ちなみに、背中とは反対側の胸はご覧になりました?」。響子は首を左右に振った。あのまま体を拭いていたら、胸を見ることもできたのだが。ひょっとしたら、勇太は胸まで見られたくないので響子を遠ざけたのかもしれない。いや、むしろそうだと考えるのが自然だった。松田に代わって、響子がキーボード打つ。「あのとき、私は勇太の上半身を拭いてあげていたのです。背中まで拭いたところで例の事件が起き、その後は部屋を追い出されてしまいました。だから胸までは見ていません。今後、見ようと思えば見られる機会があるとは思いますが、またあんなに怒鳴られると思うと、気が滅入ります」。
「ママ」
遠くから香奈の声がした。視界を覆う霧の向こう側から聞こえてくるような感覚だ。響子は、視線をパソコン画面から離し、香奈を見た。
「香奈、ママのこと呼んだ?どうかしたの?」
香奈は窓の外を見つめながら、小さな声でつぶやいた。
「さっきから、女の子がこっちを見てるよ。ママに用事があるんじゃない?」
「ん?女の子?」
響子は香奈の視線を追って窓の外を見た。片側二車線、計四車線を挟んだロイヤルホストの向こう側に、ピンク色の上着と青いズボンの少女がいた。歩道に立つ少女は、響子と目が合うと、すっと街路樹の裏に隠れた。明らかに響子を意識した行動だった。
次の瞬間、響子と同じように視線を動かしていた松田が立ち上がった。
「ちょっと事情を聴いてきます」
松田は、そう言い残すと、太った体からは想像できない機敏さで、ロイヤルホストの出入り口に向かった。松田の背中を見送ってから、響子は再び街路樹の方角へ目を向けた。すると、少女は街路樹の裏から飛び出し、ロイヤルホストから遠ざかるように走り出した。
響子は直感的に確信した。少女は逃げている。
響子が見ている少女の後ろ姿は、どんどん小さくなり、ほどなく建物の影に隠れて見えなくなった。
そのとき、松田はようやく、少女が隠れていた街路樹に到着していた。少女の後を追い、駆けていく。松田の後ろ姿もどんどん小さくなったが、少女の場合と違い、見えなくなる前に立ち止まった。肩を大きく上下に揺らしながら、Uターンして戻ってくる。
「松田さん、あきらめたみたいね。残念」
響子は独り言のように口にしながら、香奈に尋ねた。
「ねぇ香奈、あの女の子さ、いつぐらいから、あそこに居たの?」
パンケーキを食べていた香奈は、首を左右に振った。
「分かんない。けっこう前から。ずっと、ママの方を見てた」
「私の方を?なんだろう、香奈の友達?それとも知っている子?」
香奈は、また首を左右に振った。
「ううん、香奈の知らない子」
響子は、松田が出会った二人の中学生の話を思い返す。知らない少女が響子に絡む心当たりは、一つだけあった。
松田も当然、それに気付いているし、だからこそ少女の後を追ったのだろう。i‐podを見つけたとき以上に不気味な状況になってきた。サスペンス映画の世界に引きずり込まれたような感覚だ。
響子は紅茶が無くなったので席を立ち、ドリンクバーから三人分のウーロン茶を取ってきた。
やがて松田がロイヤルホストに帰ってきた。荒く息を吐きながら、なだれ込むように席へ座る。目の前に置かれたウーロン茶を見つけると、「おっ、僕のですか?」と響子に聞いた。響子が笑顔でうなずくと、松田は「ありがとうございます」と言いながら右手でコップをつかみ一気に飲み干す。そして一回、深く深呼吸をしてから話し始めた。
「いやぁ、久しぶりに走ったので、すぐ息が上がっちゃいました。ダメですね、車ばかり乗っていると」
松田は笑っていたが、響子には無理をしているように見えた。松田に申し訳ないと思いつつ、響子は話を本筋に戻す。
「今の女の子、松田さんから逃げましたよね」
松田の表情から笑顔が消える。響子の目をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「すいません。話をそらすつもりは無かったのですが、そうですね、女の子の話をしましょう。追いかけるのをあきらめてロイヤルホストに帰る途中、僕も色々考えていたのですが、大前提として、まず女の子の名前をA子にしましょう。その方が話しやすい。アルファベットのAです。確かにA子は僕から逃げました。その前、奥さんが視線を向けた時も、街路樹の裏に隠れました。これらの事実から一つの結論を出すとしたら、A子は僕らを見ていた。あるいは観察していたと、僕はそう思うのですが、まずこの点、奥さんはどう思われますか?」
松田は話を切って意見を求めた。響子が応じる。
「私もそう思います。A子は私たちを見ていた。やはり中学生の話に出てきた少女でしょうか?」
「それを聞きたくて追いかけたのですが、逃げられちゃったので、答えは分かりません。でも、見知らぬ少女から見つめられる理由が、他にありますかね。何か心当たりはありますか?」
響子は首を左右に振った。それを見て松田が続ける。
「それじゃあ今のところ、A子は昨年十二月十八日、クリスマス公園で勇太さんと一緒に居た少女としましょう。何らかの理由で」
「あっ、ちょっと、すいません」
響子は松田の話を遮り、パソコンを指差した。松田は「あっ、そうだった。失礼しました」と謝って、キーボードを打ち始める。
「何らかの理由で、A子は僕らの前に姿を見せた。でも、それ以外は分からないことだらけです。なぜ現れたのか?タイミング的な理由はあるのか?例えば僕が中学生から話を聞いたからとか、奥さんが夫の背中の傷を見つけたからとか。何かあるはずです。一方、こういう見方もできるのではないでしょうか。中学生の話が荒唐無稽ではないという裏付けが、奥さんの挙げた三つの理由に続いて、さらに一つ増えたと」。
松田がキーボードから手を離したので、響子が続いて書き込んだ。「そうですね。気味悪い話ですが、最悪のケースに基づいて推測した方が今後、色んな状況に対応できると思います。実際、勇太は年末から様子が変だし」。松田が書き込む。「昨年十二月十八日、焼き肉屋でダウンジャケットとリュックサックをハンガーから落としたのが事実かどうか、佐倉さんに聞いてみます。回答次第で、さらなる裏付け材料になるかもしれません。奥山さんの様子が変だと感じている人は、奥さんだけではありません。佐倉さんは、ほぼ確実に気付いています。緑視率の拡大に疑問を感じた私もそうです。それに昨年末、奥山さんは突然、市長室に一日中立てこもり、全く外に出なくなったそうです。市職員の一部も戸惑っています。夫の様子が少し変になり、奥さんは不安に思うこともあるでしょうが、どうか自分だけで抱え込まず、私に何でも相談してください。私は引き続き、この件について調べてみます。奥山さんが木に突き刺されてから少し変わってしまった、という仮説が正しいのかどうか。判断するためにはもっと材料が必要です。でも、原因が分かれば対処法も見つかるはずです。ちょっとズレてしまった奥山さんを元に戻す対処法が。そうすれば、この件は丸く収まる」。
ロイヤルホストを出ると、午後一時を回っていた。二時間近く居たことになるが、響子にはあっという間だった。それだけ会話が濃密だったのだろう。三人で響子のマンションまで歩く途中、付き添った松田が言った。
「日本映画の巨匠、黒沢明監督の話なのですが、少年時代に大震災か戦争かで、彼の家の周りが死体だらけになったそうです。その様子を一緒に見に行こうと兄から誘われ、彼は怖いから断ったのですが、半ば強引に連れて行かれました。最初はやっぱり怖かったのですが、しばらく歩くと見慣れたのか全然怖くなくなったそうです。それを兄に言ったら、こう返されました。『そうだろう。目を逸らすから怖いんだ。きちんと見れば、怖いものなんてあるもんか』」
松田が言葉を切った。響子は松田が何を言いたいのか掴みきれず沈黙する。それを見て松田が続けた。
「今の状況は、何が起きているか分からないので、奥さんは不安も感じると思います。もしも突然、人柄が少し変わってしまう病気があるとしたら、それはそれで怖いです。でも目を背けたら余計怖くなるから、どうか気持ちを強く持って、奥山さんと向かい合って欲しい。対決する必要は全くありません。でも、きちんと見てほしい。そして何か気づいたら教えて下さい。一緒に解決しましょう。僕は全力で支援します」
響子は無言でうなずいた。勇太のi‐podが頭に浮かぶ。響子が今、最も不安を感じる原因が、この気味悪いi‐podだったが、結局、松田には言えなかった。言い出せないというより、それ以前に話すことが多すぎて時間切れになってしまった。近い将来、伝えることになるだろう。勇太の様子が変わってしまった原因究明に役立つかもしれない。響子はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「でも、松田さんはどうして勇太の件に、そんな一生懸命になれるんですか?」
松田は十秒ほど考えてから答えた。
「知らないことを知りたいという、ただそれだけです。それに市長ですからね、一市民として、変になられたら困ります」
「そうよね、それは私も全く同感。税金払っているんだから、ちゃんとしてよねってこと」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。松田が付け足す。
「もしまたA子を見かけたら、教えて下さい。写真を撮れたらベストです。僕がさっき撮れば良かったのですが、後から思いついたもので。すみません」
「分かりました。でも、写真なんて言わずに、私だって次は追いかけて、捕まえて問い詰めてやります。あなた、なぜ私と松田さんを見てたの?って。名前は?どこに住んでるの?それくらい私にだって出来ます。だって、それが黒沢監督のメッセージでしょ」
松田は今日一番の笑顔を見せ、力強くうなずいた。
□一月二十六日 松田耕介
ロイヤルホストで響子と話し込んだ夜、午後九時ごろ、松田は自宅を兼ねた職場のソファーで、うたた寝をしていた。白濁した意識の中で、夢を見る。A子を追いかける夢だ。場所は、見覚えのない劇場。舞台の袖から、もう一方の袖に向かって、走り抜けるA子の背中を全速力で追いかける。松田は出演者なのだろうか。舞台を駆けると、向かって左側の観客席から大歓声が上がった。しかし、観客を見る余裕は無い。A子は舞台を駆け抜け、もう一方の袖に着くと、右側へカーブし、舞台の裏側に回る。逃がすものか。舞台の裏側は、夕暮れの草原だった。軽やかに弾む両足の裏に、太陽の光を目いっぱい浴びた草たちの生命力を感じる。ただ、A子との距離は一向に縮まらない。やがてA子は再び右へカーブし、舞台の袖に戻ってくる。さっきと同じように大歓声を浴びながら舞台を走り抜け、また裏側の草原へ。そんなことを何度繰り返しただろう。いつの間にか、舞台を駆け抜けても、大歓声を浴びなくなった。気配で分かる。さっきまで観客席を埋め尽くしていた人達が、今は一人残らず消えていた。彼らはステージに満足し、劇場の出口から帰ったのではない。自分たちの意思とは関係なく、その場から蒸発してしまったのだ。そして、A子も消えた。松田は一人、舞台の上に取り残された。と同時に、上空が圧迫されていく。思わず見上げると、天井が巨大な眼になって落ちてきていた。眼は、眼球ではなく平面だった。絵のようにも見えたが、小刻みに動く瞳孔は、力強く松田を見据えている。松田は確信した。これはA子の眼だ。不思議と恐怖は感じない。むしろチャンスだと心中でガッツポーズをした。俺はこの時を待っていたんだ。捕まえてやる。松田は両腕を真っ直ぐ上げ、十本の指先に全身の力を込めた。
ドスンッと音がして、左半身に痛みが走る。
「あいてっ」
目が覚めると、松田はソファーから転がり落ちていた。少女を捕まえようとして、力が入り過ぎたらしい。
「なんだ、夢かよ」
ファックスから、明日の紙面の刷りが出ていた。竹沢新聞本社の社会部からだ。松田が今日、出した原稿は、タクシーと乗用車が県道で正面衝突し、タクシーの運転手が死亡したという、ごく短いものだけだった。腰をさすりながら立ち上がり、刷りを手にする。記事には「タクシー運転手 正面衝突で死亡 上浦の県道」という見出しが付いていた。松田は見出しと、デスクの手が入った原稿をチェックすると、刷りにサインペンで「OK ▽上浦・松田」と書き、社会部に送り返した。壁にかかった飾り気のない時計に目をやると、九時二十分を指している。
「まだ、こんな時間か。どうするかな」
松田は、つぶやきながら考えた。鞄の中には昨日、クリスマス公園で高倉に渡されたマングローブの枝が、ハンカチに包まれて入っている。今から科学捜査研究所の友人へ渡しに行くか。彼の自宅へは、車に乗れば三十分ほどで着く。夜中に玄関のベルを押すのはためらわれるが、彼との間柄を考慮すると、午後十時までなら許容範囲だろう。ただ、念のため、事前に携帯電話へメールを送り、これから行く旨を伝えておくべきか。
そう考えた松田が、ファックスの隣に置いていた携帯電話を手に取ると、待っていたかのように着信音が鳴った。液晶画面を見ると、電話をかけてきたのは上浦タイムスの小河だ。
「もしもし、松田です」
上機嫌な小河の声が、耳に飛び込んできた。
「松田くんっ。小河です。今、どこで何してる?」
単刀直入な小河の質問に対し、松田は韻を踏むように答えた。
「支局でボーっとしています」
「ハッハー、期待通りの答えだ。嬉しいねぇ。今、福々にいるんだ。来れるだろ?」
「あぁ、はい、大丈夫です」
「ちょっと珍しい取り合わせで飲んでるんだ。誰かは来てのお楽しみ。俺以外に二人いるんだけれど、二人とも松田君が来ることを熱望している。しかも今宵は祝いの酒だ」
「祝いの酒?」
「そう。来たら分かるよ。じゃ、待ってるぜ」
小河は言いたいことを言うと、松田の返事を待たずに電話を切った。絶妙なタイミングだ。まだ科学捜査研究所の友人にはメールを送っていない。枝を持って行くのは明日にしよう。松田はソファーの背もたれへ無造作にかけていたコートを着ると、鞄を持って部屋を出た。
福々に着きドアを開けると、いつも通り女将の村井由佳里が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、松田さん。みなさん、お待ちですよ」
松田が由佳里の肩越しに店内を見ると、座敷に座った小河が「ヨォッ」と言いながら、右手を大きく上げた。一緒にいる二人は入り口に背中を向けているが、誰かはすぐに分かった。上浦山の手高校の事務局長、坂本と事務員の岡部だ。手を上げた小河につられて岡部が振り向く。松田と目が合うと、笑いながら小さく手を振った。
由佳里に案内され、松田は小河の右隣に腰をかける。正面に岡部、左斜め向かいに坂本が座っていた。由佳里に生ビールを注文し、松田が話しかける。
「いや、どうも。確かに珍しい取り合わせですねぇ。祝いの酒ってことですけど、誰かに何か良いことがあったんですか?」
小河が笑いをこらえるような意味深な表情を浮かべ、右腕を岡部の方へ動かす。岡部は恥ずかしそうに、しかし満面の笑みを浮かべながらうつむいた。坂本が口を開く。
「お祝いというのはですねぇ、ナント、このたび、岡部さんが学校法人上浦山の手学園の契約社員から正社員に昇格されるんですわ。というのも昨年末にウチへ入られたんですけど、えらい評判が良くてねぇ。まだ思いっきし契約の途中なんですが、理事長が是非、正社員として迎え入れたいというわけで、入社してからわずか一カ月ほどでのステップアップとなりました。ここだけの話、ウチの事務職員、結構、出入りが激しいんですわ。辞める人も多くてねぇ。良い人材はどんどん正社員にして囲い込むというのが、理事長の方針でもある訳です。それに岡部さんのトコは母子家庭でしょう。こう言うとなんですが、努力している社会的弱者を、契約だからといって、ある時期がきたら一方的に切るというのは、学校法人の、しかも文武両道の一流校として、あるべき姿なのかと」
由佳里が「お待ちどうさま」と、松田の前に生ビールを置いた。ジョッキを持ちながら、松田が応じる。
「素晴らしい。それは本当にお祝いだ。じゃ、一流校に乾杯」
「かんぱーい」
三人が声を合わせて日本酒のグラスを掲げ、松田のジョッキに軽く当てる。カチンと心地良い音が響いた。程よく酒が入っているのだろう、顔を赤らめた岡部が話す。
「あぁ、改めて幸せが胸の中に充満してきます。私、外でお酒を飲むなんて何年ぶりか、前回が思い出せないくらい久しぶりなんですよ。前の旦那が、お酒の問題を抱えていたから、ここ数年はアルコールに全然手を出していませんでした。去年の夏にやっと離婚が成立したのですが、そしたら娘の様子がちょっと変になってしまって。無職ですし、もう何をどうすれば良いのか。なんで神様は私にばかり、こんな試練を与えるのって。頭が混乱して、何かしでかすんじゃないかしらと、自分で自分が心配でした。それが今は上浦山の手高校の正社員だなんて、夢としか思えません。子育てもなんとか出来ていますし、捨てる神あれば拾う神ありですね。おまけに、今日は急にお呼び立てしたにもかかわらず松田さんに来ていただいて。本当にありがとうございます」
岡部は松田に深々と頭を下げた。ただ、岡部の話はすでに聞いた内容だったのか、小河が強引に話題を変える。
「岡部さん、そんな丁寧にお礼を言わなくても大丈夫ですよ。松田君は酒の誘いなら喜んで来ますから。それより車の話をしてやって下さいよ。松田君の愛車、オレンジ色の日産マーチ。なぁ松田君、ちなみにあのマーチって走行距離何キロ?」
松田は不意に自分の車のことが話題になり面食らったが、とりあえず聞かれたことを答えた。
「六万五千キロです。けっこう走っていますが調子いいですよ」
小河が笑いながら噴き出した。
「調子いいって、それはそれで結構なことなんだけど、だったらもっと愛情持って接してやれ、ってことだよ。じゃあ続きは、岡部さんの口からどうぞ」
岡部は慌てて両手を左右に振り、拒否反応を示した。
「そんなそんな、本人を前にして私の口からは言えません。小河さんからどうぞ」
松田は意識的に不満げな口調で言った。
「もぅ、何ですか一体。僕のマーチがどうしたんですか。どこにでもある大衆車ですよ」
小河が笑いながら松田の背中を軽くたたいた。
「スマンスマン。気を損ねないでくれ。単純な話、松田君の車の中が余りにも汚いんで、岡部さんが驚いちゃったって話さ。中だけじゃなくて外観も薄汚れているけど。たまには洗車したり、荷物というかゴミの整理をしたりした方が良いんじゃないか、と。さっき、その話題になって、そういえば松田君、今、どうしてるかなと思って、電話をかけたのさ」
なるほど、と松田は納得した。
「なんだ、そんなことですか。車の中を見られた訳ですね。確かに汚いです。認めます。すいません」
松田は岡部に向かって頭を下げた。「全然大丈夫ですぅ」と恐縮する岡部を見ながら、話を続ける。
「いやね、僕だって汚いという自覚はあるんですよ。ただ、慣れたら何とも思わなくなっちゃって。人を乗せることも無いし、誰も汚いとも綺麗とも言ってくれないし。でも分かりました、そういうことなら掃除しましょう。次の休日。やるとなったら徹底的にやりますよ。みんな次、僕の車を見たら、無茶苦茶驚きますから。ハッハッハ」
胸を張って生ビールを飲み干す松田を横目に、小河が提案する。
「よっし、それじゃあ次は、松田君の車が綺麗になったお祝い会をしますか。綺麗になったと言いながら相変わらず汚かったら、松田君の驕りということで」
「それはエェ考えですなぁ」
坂本が相槌を打つのとほぼ同時に、どこかから携帯電話の着信音が聞こえた。ディズニーのメロディーだが、松田にはタイトルまで分からない。岡部がガサガサと音を立てて鞄の中を探している。見つけ出した携帯電話の液晶画面を見ると「やばっ、お母さんからだ」とつぶやいた。岡部は携帯電話を持つと、「すいません、ちょっと席外します」と言い残し、足早に店の外へ出て行った。
松田が残った二人に尋ねる。
「お母さんって、岡部さんのお母さんですか?」
坂本が答える。
「そうですわ。岡部さんには五歳の娘さんがいましてね。ノリコちゃんと言うんですけど。国語辞典の典に子供の子。普段やったら家で一人にはさせられないんで、飲みになんて出られないんですけど、今日はたまたまお母さんが来てはってね。お母さんは竹沢市に住んでいるんで、ちょくちょく来はるみたいなんですけど、子守りしてもらってるんですわ。僕が思うに電話の用件は『あんた、いい加減、帰ってきなさい。私、もう帰るよ』じゃないですかね」
「ハハハ、なるほど。ちなみに岡部さんたちは何時ごろから飲んでるんですか?」
松田の質問に、今度は小河が答えた。
「坂本さんと岡部さんは七時頃から。俺は八時過ぎに一人で来て、偶然二人がいたから合流したんだ。お祝いだって言うしね」
松田が腕時計を見ると、あと五分ほどで午後十時だった。
「飲み始めて三時間なら、坂本さんと岡部さんにとっては酔いも回る頃ですね」
坂本がうなずく。
「いやまったく、頭がフラフラしてきました。でも明日は金曜日なんで、あと一日頑張りますわ。ふー、あと一日。でもこの調子じゃ明日は仕事になりませんな。せやけど岡部さんですけどね。外で飲むのは何年ぶりとか言いながら強いんですわ。二杯目からずっと日本酒。徳利何本追加したのか思い出せまへん。もう降参っちゅう感じで」
坂本がおどけた表情で万歳をする。
やがて、店外に出ていた岡部が帰ってきた。座敷には上がらず、三人に向かってすまなさそうに頭を下げる。
「大変申し訳ないのですが、娘の典子がまたフラッと外に出歩いちゃったみたいで。探しに行くので、先に帰ります」
「ほな、私も探しに行きますわ」
坂本が腰を上げると、岡部は激しく制止した。
「いえ、本当に結構です。お気持ちだけで十分。いつもの事ですから。さっき、話したじゃないですか。典子は勝手に出て行って、いつもケロリと帰って来るんです。母が来てなかったら、私も放っておきたいくらい。でも、その母がギャーギャー言っているから、そういう訳にも行きません。松田さん、すいません。せっかく来て頂いたのに、私の都合で中座してしまって。愛車が綺麗になったお祝い会には、ぜひ呼んで下さい」
事情を十分把握できない松田は「あぁ、はい、もちろんです」と曖昧にうなずいた。午後十時に五歳の娘がいなくなるのは、どれほど深刻なのだろう。悪く考えれば大騒ぎになりそうだが、岡部は落ち着いて対応している。松田は隣の小河を見た。小河の表情はいつも通りで、松田と目が合うと、「大丈夫だ」とでも言うように、二、三度うなずいた。
岡部が再び頭を下げる。
「じゃ、失礼します。小河さん、松田さん、また是非ご一緒させて下さい。今日は楽しかったです。あ、そうだ、お金、お金。いくら置いて行けば良いですか?」
鞄から財布を出そうとする岡部を、今度は坂本が激しく制止した。
「何を言うてるんです。要りません。当然でしょう、今日は岡部さんのお祝いなんですから。そんなんエェから、はよ、典子ちゃん見つけて、お母さんを安心させてあげてください」
「えっ、そんな、私、かなり飲み食いしましたけど、いいんですか?」
坂本は座敷から立ち上がり店のサンダルを履くと、躊躇する岡部の背中を押した。
「エェんです、エェんです。さぁ、行った行った。お二人さん、僕、送って行きますんで。ゆっくりしといて下さい」
坂本に背中を押されながら、しぶしぶ出口に向かう岡部を、松田と小河は「また飲みましょうね」と言いながら見送った。
二人の後ろ姿が店外へ消えると、松田が口を開いた。
「小河さんは全然心配していませんけど、お嬢ちゃん、大丈夫なんですか?僕らも探すのを手伝った方が良いんじゃないですか?」
小河はうなずいた。
「常識ならそう考えるべきだが、今回は静観して良いだろう。とりあえず。というのもだな、松田君が来る前に岡部が話していたんだが、娘が夜中に出歩くことは、半年ほど前から頻発しているらしい。最初は心配して探し回っていたけど、いつも一、二時間で、ただいまぁって何事も無かったかのように帰って来るので、最近はほとんど放置状態らしい。岡部は岡部で自分の事に精一杯なこともあるしな」
「えぇっ、でも、それってなんだかやばくないですか。だって五歳でしょう。僕は子供を育てたことが無いから分かりませんが、普通、夜中に一人で出歩かないでしょう。行き先は分かっているんですか?」
小河が日本酒を飲みながら答える。
「あぁ、大体分かっているようだ。娘の趣味は植物の観察。特に樹木が大好きなんだとさ。変わっているだろう。動物より植物の方が好きな女の子。で、岡部いわく、夜中に色んな公園へ行って、木をペタペタ触って喜んでいるらしい。行きつけは丸山公園、三角公園、クリスマス公園、大倉山公園といったところ。帰って来るといつも靴が泥で汚れている」
「ふーん、クリスマス公園もですか」
松田は独り言のようにつぶやいた。
一つの仮説が松田の中で渦を巻き始める。まさかとは思うが、上浦山の手中学の高倉が望遠鏡で見た少女、すなわちA子が岡部典子ということは考えられるだろうか。根拠は薄いが、可能性はある。
ただ、白黒を判断するためには昨年十二月十八日、もしくは今日の昼間の典子の行動を岡部に確認しなければならない。
いや、しかし。
松田は頭を左右に振った。五歳の少女を相手に、ここまでするのは度を超しているのではないだろうか。娘のことを色々聞けば、岡部に不審がられるかもしれない。
そこまで考えたとき、なぜか急に響子の顔が思い浮かんだ。おっとりした表情、言葉の端々ににじむ優しさ、だからこそ兼ね備えた強さ。「守ってあげたい」と一切の誇張なしに感じる人だった。その響子に、松田は「全力で支援します」と約束をした。響子は黙ってうなずいてくれた。
松田は思い直した。A子の正体が分かれば、事態の解明は劇的に進むだろう。響子に実りある報告も出来る。奥山市長の様子が少し変わってしまった理由に近づけるなら、迷う余地は無い。岡部典子については可能性こそ低いが、つぶす必要のあるグレーな案件だ。
小河が不思議そうな声を出す。
「どうしたんだい、松田君。柄にもなく考え込んじゃって。クリスマス公園がどうかしたのか?」
松田は我に返り、適当に返事をした。
「いや、別にどうもしません」
小河が笑みを浮かべながら食い下がる。
「どうもしません、って顔じゃなかったぞ。何かあるなら酒の肴に話してくれよ。俺と松田君の仲じゃないか」
小河のまっすぐな視線を受けながら、松田はどこまで本当のことを話すか考えた。しかし、短時間で明確な線引きなど出来るわけがなく、早々に考えることをあきらめた。
「そうですね、僕と小河さんの仲ですもんね。あぁ、そうだ、先日、小河さんに教えてもらった緑視率の件は、実現しないようです。奥山は相当粘ったみたいですが、事務方が跳ね返しました。奥山に直接経緯を確認したから間違いありません」
松田はごく自然に話題をクリスマス公園からそらした。小河がうなずく。
「みたいだな。市民環境課の松浦課長は職員の間じゃちょっとした英雄だぜ。でも奥山は懲りずに来年度へ向けて執念を燃やしているみたいじゃないか。この前、ある市職員が奥山のことを緑の暴れ馬って呼んでいてさ、笑っちゃったよ。しかしなぁ」
小河はいったん言葉を切り、数秒間、物思いにふけると、続けた。
「改めてなんだが、果たして奥山がそんなキャラだったかというのが引っ掛かるんだよなぁ。というのも一昨日、商工会議所の取材で佐倉さんにバッタリ会ったんだが、今年に入ってから奥山に連絡しても、多忙を理由にロクな返事が返ってこないらしい。考えられるか?佐倉さん抜きに今の奥山の地位は考えられない。何より不思議なのは、佐倉さんにとって心当たりが無いことだ。『喧嘩をしたのなら分かるけど、避けられる理由が分からないんだよ。俺、何かしたかなぁ』って不思議がっていたぜ。松田君、次はそのあたりも取材してくれよ。もちろん俺も探るけど」
松田は、中学生二人とのやり取りを小河に話したい誘惑に駆られた。しかし、口から出る一歩手前で、まだ早いと考え直し、飲み込んだ。響子にはどうしても聞きたいことがあったから打ち明けたものの、この話はあまりにも突拍子が無いし、A子が登場すれば典子と結び付けられる可能性も高い。それに、会話の成り行きで昼間、響子に聞いたことを漏らしてしまう恐れがあった。響子の話は、自分の胸だけに閉まっておきたい。市長の妻という立場にも関わらず、松田を信頼して言いにくいことを教えてくれたのだ。簡単に第三者へ漏らすことは、響子への裏切り行為といえた。
「了解です。誰に聞くとその辺のことは分かるかなぁ」
松田は、心底そう思っているかのように装いながら、小河に返した。
その後、坂本は席に戻ってきたが、午後十時半ごろ「もう限界ですわ。お二人さん、またやりましょう」と言い残して帰宅した。松田と小河は、とりとめのない話に花が咲き、気が付けば閉店時間の午前零時を過ぎていた。
「ありがとうございました。またいらして下さいね」と笑顔を見せる由佳里の見送りを受け、二人は福々を出た。小河が「それじゃあ、またな」と軽く右手を上げる。帰る方向が違う松田は「おつかれさまでした。またよろしくお願いします」と頭を下げた。
小河と別れると、松田は職場兼自宅へと続く道を、ゆっくり歩いた。日付が変わる頃、路上の人通りはほとんどなく、たまに車が松田の横を通り過ぎるくらいだ。上浦支局の入るマンションは福々から一キロほど離れている。タクシーを拾うことも考えたが、夜の空気が心地よいので乗りたくなかった。
松田は何も考えずに空を見上げる。雲が空を覆っているのだろうか。月も星も見えない真っ暗な夜だった。
三十分ほどかけてマンションの敷地内に着くと、松田は駐車場を横切り、正面玄関に向かう。
「ん?」
松田は小さく声を上げた。駐車スペースには一番から二十番までの番号が振ってあり、いつも通り十七番には松田のマーチが止まっている。目に留まったのは、上浦支局への来訪者用に竹沢新聞社が確保している隣の十八番だ。当然空いているはずのスペースに、グレーのホンダ・フィットが止まっている。午後九時過ぎ、松田が福々へ行くときには無かった。
誰かは知らないが、明日の朝までには空けてくれよ。
松田は心中で不満を漏らしながら、フィットの脇を通り過ぎようとした。
しかし、グレーのフィット。
知り合いの誰かが乗っていた気がする。松田は思い出そうとしたが、酔いがまわっていることもあり無理だった。
まぁ誰でも乗っているありきたりな車だからな。そういう俺が乗っているのは、もっとありきたりなマーチだけれど。
「おじさん」
ふいに後ろから声をかけられた。酒で体全体の感覚が麻痺しているため、驚きは無い。松田が振り向くと、ベージュのズボンにクマのプーさんのトレーナを着た少女が立っていた。背の高さから推測して、幼稚園児とみられる。
「おじさん、クリスマス公園で中学生のお兄ちゃんから枝をもらったでしょ。ちょっと見せて欲しいのだけれど」
「枝?あぁ高倉君からもらった枝ね。持ってるよ」
松田は、目の前の少女がA子だろうと思いながらも、頭の回転が遅すぎて、どう対応すべきか答えを見つけられなかった。なぜ少女が枝の事を知っているのかという、当然感じるべき疑問にも思いが至らない。二速までしかないマニュアル車のようだ。チャンスだぞ、千載一遇のチャンスが向こうから飛び込んできたんだ。頭の奥底から、もう一人の自分が訴えるものの、少女が話しかける内容に対応するのが精いっぱいだった。松田は鞄を開け、ハンカチに包まれた枝を取り出す。
「この枝のことだよね」
松田は腰を落とし、枝を少女の顔の前に差し出した。少女はゆっくりした動作で枝を受け取ると、くるりと後ろを向き、何も言わずに駆け出した。松田が声を上げる。
「ねぇ、どこ行くんだい?僕の枝だよ」
少女は何の反応も示さず、どんどん遠ざかっていく。肩まで伸びた髪がテンポよく左右に揺れた。
当然、戻ってくるよな。
楽観的な松田の推測とは裏腹に、少女が走り去る速度は一向に緩まらない。むしろスピードを上げているように見えた。
なんだ、あの子は。参ったな、まさか盗られたってことか?
戸惑いと怒りが体の中に沸きあがった途端、松田の頭の中を「娘の趣味は植物の観察」という小河の言葉が横切った。流れ星のようなひらめきは、あっという間に枝を持って逃げる少女とつながる。気が付くと、松田は少女の背中に向かって叫んでいた。
「のーりーこーちゃーん」
もうあと数秒で夜の闇の中に溶け込みそうなほど小さくなっていた少女の後ろ姿が、ピタリと止まった。少女は何かを考え込むように静止する。やがて意を決したかのように勢いよく振り向くと、松田に向かって歩き出した。松田がつぶやく。
「ビンゴ。そうか、君は岡部典子だったんだな。いくら植物が好きだといっても、人のモノを盗んじゃいけないなぁ。説教して親元まで送り返してやる」
松田はスーツの内ポケットに手をあて、携帯電話の存在を確認した。岡部の電話番号は知らないが、坂本なら知っている。真夜中だが突発的な案件だ。坂本に電話をかけ、岡部と連絡を取ってもらおう。岡部には迎えに来てもらうのがベストだが、場合によってはタクシーを呼び、こちらから典子を自宅に送り届けても良い。
少女は松田に向かって一直線に歩いてくる。走り去った倍ほどの時間をかけて、再び松田に声をかけた場所まで戻ってきた。右手には松田から手渡された枝を持っている。松田は少女に言った。
「岡部典子ちゃんだろう。お母さんは上浦山の手高校に勤めている。まだ五歳なのに、こんな時間に出歩くとは感心できないな。いくら親不孝の不良娘といっても、深夜に徘徊するのはせいぜい中学生からだよ。あとさ」
松田は再び腰を落とすと、少女と同じ目線で話しかけた。
「今日の昼、ファミリーレストランにいる俺たちを見ていただろ。あれはなぜかな?それと奥山市長の様子が最近変なんだ。君は理由を知っているんじゃないか?十二月十八日、クリスマス公園で何があったのか、教えてくれないかな」
松田はそう言って、鞄の中からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出すと、勢いよく飲んだ。一息つき、毅然とした口調で付け足す。
「次、逃げても追いかけるからな。悪いけど君とは歩幅が違う。とりあえず枝を返してもらおうか」
松田は少女の右手から枝を取った。抵抗せずに応じた少女は、唇の端に笑みを浮かべながら、低くてよく通る声を発した。
「せっかく穏便に済ませようとしたのになぁ。愚鈍な見た目からは想像もできない見事な調査力だ。感心するよ、松田さん。でも、ここまでだ」
少女が万歳をするように、両腕を高く上に上げた。松田の後ろに人の気配が走る。振り向こうとした瞬間、頭のてっぺんに激痛が走った。何か堅いもので殴られたようだ。一気に意識が薄れる。体全体から力が抜け、目の前が真っ暗になった。
土と草の冷たい感覚が松田の左頬を伝わる。視界の焦点が徐々に合ってくる。髪の毛の間にぬめりを感じた。右手を動かし、触ってみる。生温かい。そのまま右手を鼻へ動かし、臭ってみる。これは血だ。背後で男の声がした。
「目を覚ましたぞ」
「よし、上半身を起き上がらせろ」
少女の声が指示をする。何があったのか、思い出そうとする間もなく、松田は後ろから何者かに両手で背中を抱きかかえられた。目の前には一本の木があった。堂々とした立派な枝葉が付いている。
「行け」
少女の落ち着いた号令を合図に、木の枝の一本がムチのようにしなり、松田の胸に向かって一直線に伸びた。
ビュンッ
次の瞬間、カチンという鈍い感覚とともに、松田の胸に衝撃が走り、背中を支えていた何者かと一緒に後ろへなぎ倒された。
伸びた枝は、松田のスーツに入っていた携帯電話を直撃していた。何が起きたのか理解しきれないまま、松田は左胸に手をやる。スーツの胸ポケットには穴が空いていた。その穴から携帯電話を取り出すと、表面を覆うプラスチックが壊れ、中の電子基板がむき出しになっている。視界の隅に、両手で頭を抱える少女が目に入った。少女は、さっきとは打って変わって切羽詰まった声で叫ぶ。
「バカ。まずいぞ。何としても仕留めろ」
仕留めるって、俺をか?
中途半端に伸びたまま行き場を失ったように宙で止まっていた枝が、再び松田に向かって勢いよく伸びる。松田は反射的に右へ転がった。枝の先端は、間一髪の差で、松田の数センチ横の砂地に突き刺ささる。
逃げなければ。
松田はよろめきながら立ち上がると周囲を一瞥し、ここがクリスマス公園の奥、マングローブの群落だと把握した。地図は頭に入っている。出口は、松田を襲った木とは逆方向だ。方向を見定めて走ろうとした瞬間、左足に何かが絡み付き、激しく転倒した。鼻や口に砂が飛び込み、右足の靴が脱げる。足元を見ると、少女が松田の左足にしがみついていた。松田は振りほどくために躊躇せず、靴の脱げた右足で少女を蹴る。少女の頭頂部に向けて、全身の力を込めた。
ガンッ、ガンッ、ガンッ
鈍い手応えが右足を通して松田の体全体に伝わるが、少女はびくともしない。
この野郎、早く離れろ。
松田の生存本能が、持っている以上の力を右足へ注ぐ。何度目かの蹴りで、やっと少女は手を離したが、ホッとしたのも束の間、流れるような動きで地面の砂を一掴みすると、今度は、松田の目に向かって思い切り投げつけた。
「グゥッ」
松田は叫んだつもりだが、口から出たのはうめき声だった。ふいをつかれ、無防備だった目に激痛が走る。痛くて目を開けられない。それでも松田は走ろうとした。足が動けば、逃げることはできる。
気を取り直し、二、三歩走ったところで、後ろから首に何かが巻き付いた。柔らかいと感じたのも束の間、その何かはどんどんきつく絞まっていく。下へと引っ張られ、松田は尻もちをついた。両腕をばたつかせたが、空をつかむだけだ。
やめろ。死ぬ。なぜだ。
疑問と悔しさが頭の中で明滅し、一筋の涙が右頬を伝わった。
□一月二十六日 奥山勇太
上浦山の手中学校の二人と松田が偶然出会った日の翌日。奥山は相変わらず枝を動かす練習に精を出していた。まず高倉に切られた枝の先端に視点を持って行く。ゆっくりと視点を枝の付け根まで後退させ、一気に先端へ動かす。枝の両端、わずか三メートルほどの距離を、チーターがガゼルを襲うように、全身の力で突進する。
突進の仕方は二通りあった。何度も繰り返すことは同じだが、一つは一回ごとに枝の付け根で止まり、力を入れ直す。もう一つは、激しいピストン運動のようにノンストップで動き続ける。
練習を繰り返すと、体力など使っていないはずだが、心地よい疲労を感じることができた。木に取り込まれ、動けなくなったうえ、希望さえ無くしてしまったら廃人になるしかない。枝を動かすための練習が、自分の体をジョニーから取り返すことにつながる。その目標だけが、折れそうになる奥山の心を支えていた。
日中、十分に練習を重ねた奥山は夜、視点をジョニーの最上部へ持って行き、まどろんでいた。ジョニーに取り込まれて以来、眠気を感じないが、夜になると気力が薄れていく。長年の生活習慣が沁みついているのだろう。
正確な時間は分からないが、深夜には違いない。公園の入り口に一台の車が止まった。
その車を見た瞬間、奥山の頭はみるみる覚醒する。ジョニーの最上部から見ても、車種とナンバーはすぐに分かった。グレーのホンダ・フィット。忘れようもない、三年前、香奈の誕生に合わせて奥山が購入した車だ。ナンバーも合致する。
エンジンを切った車の運転席から男が降りた。
俺だ。
十二月十八日、ジョニーに取り込まれた直後以来、自分の姿を目にするのは初めてだった。いつか会えると思っていたが、ついにこの日がきたか。興奮と緊張が、奥山の中で急上昇する。男に続いて後部の車道側のドアが開き、少女が出てきた。岡部紀子。
昨日、さんざん奥山を蹴り、捨て台詞を残して帰って行った二重人格者。今日は何の用事だ。
奥山は二人の一挙手一投足を、息をひそめるように観察した。
男は車のトランクを開け、周囲を見渡す。誰もいないことを確認すると、中から折り畳み式の台車を取り出した。長さが一メートルほどある大型の手押し式だ。奥山は台車など持っていないので、男が調達したに違いない。
男は、公園に面した歩道側の後部ドアに台車をピタリと付けた。少女がドアを開ける。一人の人間が台車の上に倒れ落ちてきた。あの体格を見れば、顔を確認するまでもない。
松田だ。
何があったのだろうか。松田はグッタリと動かない。嫌な予感がする。昨夜、クリスマス公園に現れた少女は「枝を取り返さなければ」と激怒していた。取り返す相手は、上浦山の手中学校の高倉と松田しかいない。松田から取り返そうとした結果が、目の前の状況なのか。
男が台車を押し、クリスマス公園に入ってきた。少女は男の一メートルほど後ろを歩く。砂場、滑り台、ブランコの前を通り過ぎ、高さ五センチほどの白いブロックを乗り越える。
雪野川と公園の間に広がる緩衝地帯へ入ると、男はまっすぐ、奥山の隣の木に向かった。これまで何度か、紀子が右手を当て、「会話」を交わしていた木だ。男は隣の木の三メートルほど手前で台車を止めると、右足で松田の肩を押し、台車から蹴り落とした。「ウゥッ」。松田の口から低い声が漏れる。
ジョニーの野郎、ずいぶん荒っぽいやり方じゃないか。
奥山の胸を怒りが渦巻いた。植物の分際で松田に手を出すな。今すぐ俺の体を返しやがれ。奥山はこれまでの練習通り、枝を動かそうと試みた。しかし、どんなに視点を勢いよく動かしても、枝はびくともしない。
やがて、寝そべっていた松田が動き出した。右手で頭を触っている。奥山は松田の指先を見て、衝撃を受けた。血だ。松田は頭から出血している。
原因は、ジョニーと紀子に違いない。こいつらはどこかで松田を襲い、拉致したのだ。そして気を失っている間に、松田をクリスマス公園へ連れてきた。
奥山がそう推測した矢先、隣の木の枝が松田の胸に向かって一直線に伸びた。
目の前で繰り広げられる攻防が、奥山にはテレビのワンシーンのように見えた。松田が紀子とジョニーに襲われている。奥山の隣の木は、松田と入れ替わることを狙ったが失敗した。奥山は必死に自分へ言い聞かせる。
これは現実だ。なんとかしなければ。
しかし、奥山に出来ることと言えば、枝を動かそうと努力することくらいだった。慌てて枝の付け根へ視点を移動させ、先端に向けて一気に突進させる。何度も挑戦するが、練習のように力が入らなかった。情けないことに、三人の様子が気になって集中できない。枝を動かそうとすると、どうしても三人から視点が外れてしまう。焦りばかりが募った。
そんな奥山の試行錯誤をよそに、攻防は、あっという間に終わりを告げた。
紀子がジョニーから渡されたネクタイで、後ろから松田の首を絞める。激しく動いていた松田の両腕から力が抜け、だらりと垂れ下がった。ドサリと音を立てて、松田が仰向けに倒れ込む。顔がぐるりと横を向いた。松田の意思で動いたのではない。松田の体からは、すでに生気が失われていた。ただ単に、重力によって雪野川の方向へ引っ張られただけだ。
奥山の位置からは、松田の表情がよく見えた。目や鼻は苦痛にゆがみ、口からは泡を噴いている。
嘘だろ。松田、松田、松田ぁ。
松田が死にもの狂いで戦っているときに、奥山は何もできなかった。
一年前、品川駅の近くで初めて松田に会ったときは、とても勇気づけられた。昨年秋の選挙戦中には、事務所で松田と話し込み、新しいアイディアに気付かされた。自宅に来てくれたときは、家族と夕食をともにした。いくつもの思い出が、奥山の胸を去来する。奥山にとって松田は、お互いが今の仕事を辞めても変わらずに付き合える友人だった。
しかし、友人は奥山の目の前でマングロ族に殺された。
横たわった松田の隣に、ジョニーと紀子がうずくまっている。ジョニーはこちらを向き、紀子は背中を向けていた。二人ともうつむき気味で、肩を激しく上下に動かしながら荒々しい息を吐いている。
松田は目を見開いたまま息絶えていた。奥山は、涙を浮かべた松田の目が、自分に話しかけているように感じた。
奥山さん、僕の仇を討って下さい。まだ間に合います。早く、早く。
松田の声を受け、奥山は迷わず枝の付け根に視点を動かした。松田の無念さ、紀子とジョニーに対する絶対許せない怒りを自分の中に充満させる。
善良な一市民である松田が、なぜお前らなんかに命を奪われなくてはならないんだ。目には目を、歯には歯を。今度は俺がお前らを殺す番だ。人間を甘く見るな。
殺す、殺す、殺してやるー
奥山は、自分にしか聞こえない絶叫と共に、枝の先端に向けて突進した。
わずかな抵抗と共に、何かを突き破ったような手ごたえを感じる。
視点が、宙に投げ出された。
やった、やったぞ。しかし、喜ぶのはまだ早い。
奥山はジョニーの位置を確認し、再び突進した。
奥山の枝に気づいたジョニーが、とっさに体を横にずらす。こしゃくな。奥山は軌道修正を試みたが、枝は制御を失った状態で、さらにスピードを上げる。次の瞬間、枝はジョニーの隣にいた紀子の背中に深々と刺さり、貫通した。奥山に背を向けていた紀子は、枝に全く気づいていなかった。
奥山の意思が紀子の体内へ侵入する。全身の神経、毛細血管の隅々へ、奥山自身が広がっていく。逆に紀子の意思が、正確には紀子を乗っ取っていたマングロ族の意思が、縮む枝に連れ去られていく。奥山にとって明らかな異物が、紀子の体内からみるみる引き抜かれる。わずか数秒で、奥山の意思が紀子の頭脳を支配下に置き、異物は完全に取り除かれた。
奥山は、目を開ける。
最初に視界へ飛び込んできたのは、警戒感に満ちたジョニーの顔だった。
「貴様は、まさか」
座ったままのジョニーが、喉の奥からかすれた声を絞り出す。
奥山は、乗っ取ったばかりの頭をフル回転して考えた。どうやら、入れ替わった先は紀子のようだ。しかし、人間には戻れた。動けるようになったからには一刻も早く、この危険極まりないクリスマス公園から離れ、ジョニーからも逃げ切らなければならない。ただ、この小さな紀子の体では、まともに走っても、すぐジョニーに追いつかれてしまう。奥山は咄嗟に機転をきかせ、できる限り低い声を出した。
「大丈夫だ。心配するな」
ジョニーの表情から警戒感が緩む。しかし完全には取り除かれていない。会話を重ねれば、早々にばれるのは必至だった。ジョニーは、奥山が取り込まれていた木に背を向けている。奥山は、一ケ月以上過ごした忌々しい木を見つめながら、短く叫んだ。
「むっ、また来たぞ」
ジョニーが弾かれたように振り向く。奥山から視線が外れた。今だ。奥山は腰を落とし、足元の砂を右手と左手でそれぞれつかんだ。ギュッと拳を握る。ジョニーとの距離は一メートルほど。奥山は砂を投げやすいように、両腕を振り上げた状態で言った。
「大丈夫なようだな」
ジョニーがまた奥山の方に向き直る。その瞬間、奥山は思い切り腕を振った。両手から解き放たれた砂が、狙い通りジョニーの両目を直撃する。
「何をっ、貴様、やっぱり」
ジョニーが両目を抑えながら、苦々しげに吐き出した。奥山は何も答えず、クリスマス公園の出口に向かって、全力で走り出した。
マングローブの群落と公園を隔てる白いブロックを勢いよく乗り越え、遊具の横をわき目も振らずに駆け抜ける。冷たい風が頬にあたり、口から吸い込んだ新鮮な酸素が全身に染み渡った。自分で動き、どこまでも行ける。ジョニーから逃げる緊張感に、表現しようのない嬉しさが加わった。もう二度と、木に戻るわけにはいかない。
公園を出ると、奥山は迷わず左に折れた。もし逆方向に曲がると、雪野川にかかる三太橋に出て、橋の上からクリスマス公園を見下ろすことができる。ということは、マングローブからも奥山が見える。危険だ。今、向かうという選択肢はあり得なかった。
ジョニーが駐車したホンダ・フィットの脇を通り過ぎる。運転して逃げたいところだが、キーが差さっているか分からないし、たとえ差さっていたとしても、この体ではブレーキに足が届かない。公園の出口から五十メートルほど走り、最初の信号を右に曲がるとき、奥山は初めて後ろを振り向いた。
誰もいない。ジョニーが追って来る様子はなかった。
しかし油断大敵だ。相手は人間ではない。どこかで待ち伏せているかもしれない。追ってこないのは、かえって不気味だった。何が起こるか分からない恐怖が、疲れた奥山の体に、全力で走るエネルギーを与える。
奥山はクリスマス公園から遠ざかるように逃げた。追跡を避けるため、信号のある交差点では、必ずどちらかに曲がった。
何分後か、何十分後か、時間の見当が付かないが、さすがの奥山も息が上がり、走るのをやめた。ここは見覚えのある県道だ。竹沢市に通じる片側二車線の道路。広いので、深夜でもたまに車が行き交う。
荒く吐いた息が口元で白く変わり、奥山の顔に当たった。久しぶりに喉が渇く。これからどうすれば良いのか、奥山は歩きながら頭を落ち着かせて考えた。ジョニーと入れ替わったのなら自宅に帰って一件落着だが、今の自分は岡部紀子だ。帰っても「あなた、誰?」という話だし、奥山の自宅には、いずれジョニーが帰って来る。
いっそのこと、自宅の前でジョニーが帰るのを待ち伏せして、俺が襲うか。ジョニーの野郎、まさか自分が襲われるとは考えていまい。そして、奥山が有利な状況で、体を交換する交渉に入る。
奥山は実行のために必要な手順を考えたが、ほどなく首を左右に振った。ダメだ。この小さな体で今、ジョニーと接するのは危険すぎる。こちらが取り押さえられ、再び木に戻されるリスクも考慮しなければならない。もう二度と、木に戻るわけにはいかないのだ。それぐらいなら紀子の体で一時期を過ごし、ジョニーから自分の体を取り返す、もっと成功率の高い方法を考え出すべきだ。
だとしたら今は、紀子として岡部の自宅に帰った方が良いのか。奥山は再び首を振った。そもそも岡部の自宅を知らないし、分かったからといって、その場所は当然、ジョニーも把握している。寝ている間にジョニーに拉致され、クリスマス公園に連れて行かれ、気づいたら再び木の中ということもあり得る。
なるほど、そうか、そうに違いない。
ジョニーが慌てふためいて奥山の後を追ってこないのは、泳がしておいても早晩、確保できるという見通しがあるからではないか。
だとすれば、何としてでもジョニーの裏をかき、手の届かない場所へ逃げ切らなければならない。人間とマングロ族の知恵比べだ。植物などに負けてたまるか。
奥山は、また同じ言葉を頭の中で繰り返した。とにかく、もう二度と、絶対、木に戻るわけにはいかないのだ。すべての言動は、これをベースに決めなければならない。
現状は、とりあえずクリスマス公園から離れたものの、マングロ族の全容は全く分からない。奥山にとって圧倒的に不利なことは、疑いようがなかった。
そのとき。
ぼんやりと視界の隅に入っていた街路樹の枝が柔らかく、ムチのようにしなった。奥山の全身が硬直する。いったん立ち止まると、その街路樹から目を離さずに、一歩ずつ後退した。距離は五メートルほど。大丈夫。準備さえできていれば、枝が鋭く伸びても避けられる。落ち着け、落ち着け。
奥山はゆっくりと後ずさりを続ける。
十秒ほどが経過した。街路樹との距離が倍ほどに開く。
ムチのようにしなったのは、気のせいだったのだろうか。枝は、何事も無かったかのように、自然な形で静止していた。背後から一台の車が、奥山の背中と街路樹にヘッドライトを浴びせながら通り過ぎる。
いや、気のせいだったとしても油断禁物だ。ひょっとしたらドライバーに目撃されるのを恐れ、奥山を襲うのを中断しただけかもしれない。とりあえず、あの街路樹からは離れよう。そこを迷う理由は無い。そう考えた奥山は、片側二車線の車道を横切り、反対車線の歩道へ渡ろうと決めた。
突然、背後で一度だけ、甲高いサイレンが鳴った。
ウゥーッン
聞き覚えのある音だ。街路樹から目を離せない奥山のそばを、速度を落とした一台のパトカーがサイレンの余韻をひきずりながら通り過ぎた。数メートルほど追い越すと、停止する。
ガチャッ
助手席のドアが開き、制服姿の警察官が一人、降りてきた。体格が良い。身長一八〇センチはあるだろう、今の奥山からすれば見上げるような巨人だ。警察官はガードレールを軽々と乗り越え、枝が動いたように見えた街路樹の脇を通り過ぎ、こちらへ歩いてくる。おそらく二十代後半。髪型は角刈りで、表情にはごく自然な笑顔を浮かべている。
奥山はとりあえず安心した。警察官の目の前で、街路樹が襲ってくることは無いだろう。
角刈りは奥山の前に来ると腰を落とし、目線を合わせて話しかけた。
「こんばんわ。お嬢ちゃん、今、一人?」
奥山はうなずいた。こんな深夜に小さな女の子が一人で出歩いていたら、警察官に声をかけられるのは当然だ。奥山はとりあえず、素直に対応することにした。と同時に、少女らしく振舞うように気をつけなければならない、と自分に言い聞かせた。角刈りが、また尋ねる。
「お母さんか、お父さんは?」
奥山は、適度なうつむき加減を意識しながら答えた。
「いません」
「いない。家にはいるかな?」
「たぶん、お母さんが」
角刈りは笑みを絶やさずにうなずいた。
「どこかで、はぐれちゃったのかな?途中までは一緒にいたの?」
奥山は何も言わずに下を向いた。角刈りが言う。
「なるほど。よし、分かった。お巡りさんが、おうちまで送っていってあげるよ。お嬢ちゃん、名前は、なんて言うのかな?」
奥山は、一呼吸置いてからつぶやく。
「おかべのりこ」
角刈りは胸のポケットから手帳を取り出して、メモを取った。
「おーかーべ、のーりーこ、ちゃん。漢字は分からないよね。いや、いいんだ。こっちの話。今、いくつかな?としは?」
奥山は二週間ほど前、岡部と高橋がクリスマス公園で交わしていた会話を思い出す。何度も思い返した二人の会話は、紀子へ乗り移っても完全に頭に残っていた。奥山は、ゆっくりと右手を開き、五本の指を広げる。今春に小学校へ入学するなら、おそらく五歳だ。角刈りは、またメモを取った。
「いつつね。オッケー。賢くて良い子だな。家の場所は分かる?お巡りさんを案内できるかな?」
奥山は首を左右に振って、悲しそうに言う。
「分からない」
角刈りが大きな手で、奥山の頭をなでる。
「大丈夫、大丈夫。すぐに分かるから、心配しないで。もう一つ質問。五歳だよね。幼稚園には行ってるかな?」
奥山は、小さくうなずく。角刈りが奥山の頭から手を離し、ゆっくりと聞く。
「幼稚園の名前、分かる?」
奥山は、考え込むように一度、漆黒の夜空を見上げてから答えた。
「白川幼稚園」
「白川幼稚園か。ここから近いね。じゃ、家も近くだ。間違いない。よし、行こう。もう午前一時半だ。お母さん、心配してるよ、たぶん」
角刈りは立ち上がると両腕を広げ、奥山を抱きかかえた。視点がみるみる高くなる。頂上に達すると、角刈りの顔が奥山のすぐ隣にあった。耳がつぶれている。柔道をしているのだろう。
パトカーに向かって歩く角刈りの堅い髪の毛を頬に感じながら、奥山は、視線を歩道や街路樹に移した。街路樹は何も無かったかのようにたたずみ、ジョニーの姿も依然、見えない。遠くの街灯の上にカラスが一匹止まり、小刻みに首を動かしていた。その隣のコンビニには、煌々と人工的な光が灯る。見慣れた日常の風景。しかし奥山には、まるで違ったものに見えた。マングローブに取り込まれる前と比べたら、違う星にでも来たようだ。
角刈りがパトカーのドアを開け、奥山を後部座席に座らせた。運転席に座ったままだった警察官が、振り向いて奥山を眺める。こちらが先輩だろう。四十代で中肉中背。眼鏡をかけ、髪の毛が薄い。顔に刻まれたいくつもの皺が、何事にも手を抜かない厳しい性格を物語っていた。眼鏡が話しかける。
「やぁ。すぐに家へ帰してあげるから。安心して、くつろいでね」
奥山は何も言わずにうなずいた。
助手席のドアが開き、角刈りが戻ってくる。眼鏡が尋ねた。
「どうしたんだい、この子は?」
角刈りは首を左右に振った。
「事情はよく分からないんですけど、家の場所が分からなくなったようです。名前と幼稚園を確認したので、家を調べて送り届けましょう」
眼鏡が呆れたようにため息をついた。
「そりゃ、いいんだけどさ。お前、服、ちゃんと見たか?泥だらけだし、穴が空いてるじゃないか。普通じゃない空き方だぞ」
奥山は自分の胸と背中にそっと手をやった。確かにどちらも中央部分が破れている。枝が貫通したとき、トレーナーに穴が空いたのだ。逃げるのに必死で、全然気づかなかった。
眼鏡が声の音量を下げる。
「児童虐待の可能性もある。親に引き渡すときは十分注意しろよ。児相に知らせる必要があるかもしれない。でも児相なんか当てにならんからな。ウチが把握したからには、この子に何かあったらウチの責任だ。ただの迷子事案と思うなよ」
角刈りがうなだれた。
「すいません、気をつけます」
眼鏡が右ウィンカーを点滅させ、パトカーを発進させた。
「とりあえず、いったん署に戻って、この子にジュースでも飲ませてやろう。で、お前は当直に状況を報告し、住所を調べさせておけ」
「分かりました」
角刈りはすぐに無線を手に取り、紀子の名前や年齢などを伝え始めた。その声を聞きながら、奥山は紀子の母親について考えた。二週間ほど前、クリスマス公園で見かけた。小太りで明るい性格のおばさん。彼女が児童虐待などする訳がない。あの時の会話によると、上浦山の手高校に勤めているらしい。警察から児童相談所に通報されたら、彼女の職場にも影響が及ぶかもしれない。最悪の場合、職を失ってしまう。それはまずい。事実無根の冤罪だ。奥山は紀子の立場で、岡部の母親に被害が及ぶのを食い止めなければならない。
それにしても。奥山は視線を落とした。彼女も間違いなく、マングロ族の被害者だと実感したら、気が滅入った。
上浦警察署は、市役所から道路一本を隔てた隣にある。昨年十一月、市長に当選したときは、奥山自ら上浦警察署へ行き、就任のあいさつをした。上浦市では従来、無投票であれ選挙戦であれ、市長が当選した翌日は、警察署長の方が市役所へ出向き、お祝いを兼ねたあいさつをしていた。しかし奥山は自分から行くことにこだわった。「今後ともよろしくお願いします」と頭を下げるのは、新参者がするべきだと思ったからだ。奥山は、前市長時代までに築かれた、何かにつけて市長の顔色をうかがう上浦市の風土を変えたかった。そのためには細部にこそ、こだわらなければならない。
奥山が上浦警察署に入るのは、市長就任のあいさつ以来、二度目だった。まさかこんな形で二度目の訪問をする羽目になるとは夢にも思わなかった。
奥山を乗せたパトカーが上浦警察署の駐車場に止まる。後部座席の奥山を角刈りが再び抱きかかえて、警察署に入って行った。薄暗い出入り口をくぐると、一階ロビーの奥、カウンターの向こうの警務課に、五人ほどの警察官がいた。テレビを見ながら雑談している。当直とみて間違いない。角刈りは、ロビーの黒い長椅子に奥山を降ろすと、腰を落として言った。
「しばらく、ここで待っていてね」
奥山はうなずいた。
正面には誰もいない運転免許課。壁には逃亡中の凶悪犯の写真がずらりと並んだポスターが貼られている。凶悪犯か。ジョニーは今、どこで何をしているのだろう。
ジョニーは凶悪犯だ。三十分ほど前、クリスマス公園で新聞記者が殺される事件が発生した。警察はまだ発生にさえ気づいていないが、犯人は市長と幼稚園児。こんなことが表沙汰になれば、マングロ族の存在を抜きにしても、マスコミは大騒ぎになるだろう。
奥山は深く長いため息をついた。
少し気が抜けてぼんやりとしていると、眼鏡が右手に大きな湯呑みを持って近づいてきた。湯呑みには力士の似顔絵がたくさん描かれている。
「ごめんね。こんなオヤジ丸出しのコップしか無いんだ。中身は果汁百パーセントのリンゴジュースだから、安心して飲んでね」
奥山に湯呑みを手渡しながら、眼鏡は照れ臭そうに眼を細めた。奥山は警察官の気遣いに感謝しながら湯呑みへ口を付ける。冷たい甘みと酸味が口いっぱいに広がった。なんて美味しいんだろう。頭が真っ白になり、意識が飛びそうになった。奥山は我を忘れ、一気に飲み干す。その様子を見ていた眼鏡が、驚いたように眉毛を二回、上下に動かした。
「そっか、紀子ちゃんは、のどが渇いていたんだな。じゃ、もう一杯入れてきてあげよう。冷蔵庫にまだたくさんあるんだ」
奥山から湯呑みを受け取った眼鏡は、警務課と逆の方向へ向かった。暗い廊下の奥で一室だけ、電気が灯っている。入り口の上に「炊事室」と書かれた小さな看板が出ていた。
「清水さーん」
五メートルほど離れた警務課で電話の応対をしていた角刈りが、大声で眼鏡を呼びとめた。
清水と呼ばれた眼鏡が面倒臭そうに振り向く。
「なんだよ、今、忙しいんだ」
湯呑みを右手に持った清水は、角刈りの呼びかけを無視して歩く。角刈りが弾かれるように警務課から飛び出してきた。奥山の方をちらりと見ながら眼鏡のそばに駆け寄ると、意味深に耳元で何かをささやく。清水がつぶやいた。
「はぁ?なんだ、そりゃ」
角刈りは右手の人差し指を口にやり、首を左右に振った。静かにしてください、というジェスチャーだ。眼鏡が諭すように言う。
「大げさなんだよ、お前は、いちいち。いいから業務に戻れ」
「でも」
口ごもる角刈りに、清水が繰り返した。
「用件は分かったから、業務にもーどーれ」
「分かりました」
角刈りはうなずくと、Uターンして警務課に戻った。清水は何事も無かったかのように廊下を歩き、炊事室に入る。やがて戻ってきて、再びリンゴジュースで満たされた湯呑みを奥山に渡すと、今度は警務課へ向かった。
奥山は、二杯目のリンゴジュースを一口ずつ噛みしめるように口にした。ペットボトルか瓶か分からないが、たくさん残っているのなら、それごと欲しいものだ。
清水は警務課に入るとカウンターの奥へ消えたが、すぐに出てきた。ズボンのポケットにキーホルダーのついた鍵を突っ込みながら、奥山に声をかける。
「あのさ、ここだとちょっと落ち着かないから、上で待とうか。お母さん、連絡ついたよ。すぐ迎えに来てくれるって」
清水はそう言うと、出入り口脇のエレベーターの前へ行き、上行きのボタンを押す。奥山も一緒に来るよう手招きをした。奥山は湯呑みを両手で持ち、清水の隣まで歩いた。
エレベーターの扉が開くと、清水が先に乗り、二階のボタンを押す。警察署は四階まであるが、今の奥山の背丈では一階のボタンまでしか届きそうにない。
チンッ
乾いた音と共にエレベーターの扉が開き、二人は二階に降りた。二階の廊下は一階より明るい。一階は当直態勢のため、照明を間引いている印象があったが、二階は全ての蛍光灯を点けているようだ。清水が先導し、「署長室」と書かれた看板の下で止まると、ポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。二カ月前の午前中、奥山が市長として署長にあいさつをした場所だ。清水が先に中へ入り、壁際のスイッチを押す。署長室の蛍光灯が次々と点き、広い室内を照らした。
清水は奥山の目を見て、中央部分の茶色いソファーを指差す。「じゃ、紀子ちゃん、あそこに座って待っていてくれるかな。一階の長椅子より百倍ふかふかだよ。僕はまたすぐ迎えに来るからね」
そう言い残すと、清水は署長室を出て行った。カチッ。外から鍵をかける音がする。
一人になった奥山は、とりあえず持ちっぱなしの湯呑みを置くため、茶色いソファーを目指した。中央には約二メートル四方のガラスのテーブルが置かれ、背の低いソファーが周りを取り囲んでいる。テーブルの上にはガラス製の大きな灰皿と卓上用の小型カレンダー、高さ十センチほどの鑑賞用サボテンが置かれていた。奥山はテーブルの上に湯呑みを置くと、ソファーには座らず、室内を歩き始めた。
何か変だ。
警務課から飛び出してきた角刈りは、清水に何を伝えたのか。それに、警察署の常識は分からないが、迷子の五歳を署長室に通すだろうか。
奥山はそこまで考えたところで首を大きく左右に振った。いや、だめだ、だめだ、考えたところで答えなど見つからない。大事なのは行動だ。
奥山は不測の事態に対応するため、まず逃げ道を探した。署長室には窓が多くあるが、いずれも施錠されている。鍵に手が届きそうな窓は、一見したところ無い。しかし奥山は、そのうちの一カ所に目をつけた。窓の脇に、奥山の背丈ほどの本棚が設置されている場所があった。あそこなら、本棚の上に乗って鍵を開けられるかもしれない。
奥山は迷わず本棚に向かい、難なく上に昇った。背伸びをして、鍵に手をかける。よしっ、と心中で呟きながら、開錠した。窓から外を見ると、すぐ下は駐車場で、ちょうど二台のパトカーが停めてある。それを確認した奥山は、右手を握りガッツポーズをした。
いくら窓が開いても、二階から飛び降りるのは危ない。しかし、車があればクッション材になる。万が一のときは躊躇せず窓を開け、飛び降りよう。今の奥山は体重が軽い。心の準備さえできていれば、怪我無くパトカーの上に着地できるはずだ。
奥山は本棚を降りると、開錠した窓をスライドした。ガラガラッと古めかしい音を立てながら窓が開き、冷たい夜風が入ってくる。奥山は窓の隙間を五センチほどに戻すと、うなずきながら次の作業に取り掛かった。
簡単なものでいいから武器が欲しい。
奥山は署長の仕事机に向かった。背もたれの高い椅子の上に乗り、机を物色する。隅にあった深緑色のペン立てにボールペン、マジック、色鉛筆、ハサミ、定規などが無造作に詰め込められていた。奥山は細いボールペンを一本だけ取り出し、ズボンのポケットに入れた。こんな小さな文房具でも、油断した相手に思い切り突き刺せば立派な武器になる。ただし、相手のふいをついてこそ威力を発揮する代物だ。何本も持つことに意味は無い。
コンコン
署長室のドアがノックされ、奥山は慌ててソファーに戻った。リンゴジュースが入った湯呑みの前に立つと、ドアへ視線を向ける。ドアは奥山がソファーに戻るのを待っていたかのように数秒、時間を置いてから開いた。
入ってきたのは、スーツを着た男性だった。奥山と目が合うと、ニコリと微笑む。
「岡部紀子ちゃんだね、こんばんわ」
奥山は軽くうなずいた。初めて会うが、どこかで見たような気がする。年齢は四十代後半。背は一六〇センチほどと低いが、肩幅は相当広い。夜中なのに髪の毛をリーゼントで固めている。右手に黒革のビジネスバッグを持ち、左手の付け根に金色の腕時計が見えた。身に付けているもの全てが高そうだ。
思い出した。コイツは県警本部長だ。
名前は島野淳。竹沢県警のトップで、半年ほど前に警察庁から異動してきた。奥山は、竹沢新聞に載っていた島野のインタビュー記事を読んだ記憶があった。毎月、市長室に送られてくる県警の広報誌にも、顔写真付きのコラムが載っている。目の前にいる男は、確かに同じ顔だ。直接会ったことは無いが、いずれ何かの席であいさつをする機会もあるかと思い、顔と名前を頭に入れておいた人物だった。
島野は奥山から目を離さずに、入り口の脇に置かれた高さ一・五メートルほどの観葉植物をさらりと撫でる。微笑みながら歩き出すと、奥山の立つソファーの脇を通り過ぎた。そして、ついさっき奥山が五センチほど開けた窓へ一直線に向かう。
ガラガラガラッ
島野は窓の隙間に手を入れ、窓ガラスを全開にした。外の風景を一瞥してから中央のソファーに近づき、奥山の向かい側にドカッと座る。窓が全開になったので、室内の温度はみるみる下がった。
奥山はテーブルの脇に立ったまま、島野の動きを観察する。無意識のうちにズボンのポケットへ手を入れ、ボールペンを握っていた。
「岡部紀子ちゃん、私が誰か分かるかな?」
奥山の顔を見ながら、島野が尋ねた。奥山は困ったように視線を下げ、首を左右に振る。島野が言った。
「ふふ、いいんだぜ、もう演技しなくて、奥山さん。五歳のマネは大変だろう」
嫌な予感が的中し、奥山はのけぞった。反射的に体を反転させ、署長室のドアに向かって駆け出す。
まさか警察署でマングロ族に出くわすとは。とにかく逃げなければならない。
次の瞬間、後方から何かが勢いよく近づいてきた。小さくて黒いものが、猛烈なスピードで奥山との距離を縮める。
首筋に気配を感じると同時に、その何かが背後から奥山の襟をつかみ、力強く後ろに引いた。首の後ろに堅くてとがったものを感じ、奥山はあっという間に仰向けに倒される。大きな羽音を聞いた。背中と後頭部を強く床に打ちつけ、瞬間的に息ができなくなる。意識が飛びそうなほど目まいがした。視界には天井しか見えない。
再び羽音が聞こえ、黒い影が奥山から離れるのが分かった。しかし、まだ室内にはいる。
奥山は後頭部をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。ソファーに目をやると、島野がさっきと同じ姿勢で座っている。その隣に、大きなカラスが一匹いた。奥山と目が合うと、島野は右腕を前に伸ばし、向かいのソファーへ座るように促した。部屋に入ってきたときと同じように微笑みながら、奥山に話しかける。
「奥山市長、あなたの気持ちはよく分かるが、まず安心したまえ。我々は、あなたを元の木に戻すため、ここへ来たのではない。話し合いに来たのだ」
奥山は直感的に観念した。今、この空間を支配しているのは間違いなく島野で、勝つことはできない。たとえ一瞬の隙を突き、この場から離れられたとしても、そのまま一生、島野たちから逃げ切るのは限りなく困難だ。
奥山は、ゆっくり歩いて島野の向かいのソファーに腰をかけた。島野とカラスが、奥山の動きを目で追う。
奥山がソファーに座るのを待ってから、島野が言った。
「奥山さん、あなたは賢い人だ。そして、とてつもないことをした。私は冗談抜きで、あなたに敬意を表したいのだ」
奥山は島野とカラスの顔を交互に見ながら、話しの続きを待った。
「ところで奥山さん、若干唐突だが、地球上に生物が誕生したのは何年前か知っているかな?」
奥山は、たしかに唐突だと思いながら答えた。
「知りません」
「そうか、知らないか。まぁそんなことを知っていても、市政運営にはなんの足しにもならんからな。三十八億年前だ。三十八億年前、広大な海にたった一つの微生物が誕生した。動物も植物も含めて現在、地球上に生きるすべての生物は、この微生物が進化した一つの形に過ぎない。我々植物の誕生は二十七億年前だ。太陽の光と海水を使って光合成をする藻が現れた。当時の大気は二酸化炭素や硫化水素などが主で、酸素は無かった。しかし、海中の藻が光合成をして大気中に酸素を送り始めた。それが増えてオゾン層を形成し、地上に降り注ぐ有害な紫外線を大幅に減らした。だから生命は陸上に進出できた。奥山さん、こんな話は退屈かな?」
「いえ」
奥山は戸惑いがちに答えた。緊張で体内の全神経が張りつめ、内側から奥山を圧迫する。
島野は一度、言葉を切って耳たぶを触り始めた。次に何を話そうか、頭の中を整理しているように見える。それから続けた。
「生命は子孫を残すために、様々な進化を経てきた。植物の葉っぱ一つとっても、それは分かる。色んな形があるだろう。例えば熱帯の渓流沿いに生える植物の葉は、サンマのように細くて長い。雨季に水没しても流されないよう、抵抗が少ない形に進化したのだ。自然界ではすべての形に理由がある。同じように我々の存在にも理由がある。奥山さん、重要なことを打ち明けるのだが、我々が人間の体を拝借できるようになったのは、実は、ここ数年の話なんだ。ヒトが誕生した百六十五万年前から、人間と動植物は共存共栄の関係だった。しかし二十世紀、科学技術は急激に進歩する一方、扱う人間の中身が向上せず、世界中のあちこちで看過できない重大な問題が起き始めた。それはあなたも、よくご存知なはずだ。無知、自己中心的。目先の利益に目を奪われ、あまりにも多くの木を切ったことや、我々の祖先が作ってくれた偉大なるオゾン層に穴を空けたのも、そのほんの一例だ。現在、人類以外の動植物の生存は著しく脅かされ、問題は収束の気配すら見えない。むしろ拡大している。解決できるのは人間だけだというのに、ほとんど何も実行していない。目を覆うばかりの愚かさだ。だから我々自身が、色んな事柄を元に戻すべく行動を始めた」
島野は言葉を区切り、奥山の反応を確かめる。奥山が言った。
「人間だけには任せられないので、植物が人間の体を奪って問題解決に動き始めた、と言う理論ですか。その挙げ句、世界中の重大な問題には、まるで関与していない松田を殺した」
島野は満足そうにうなずいた。
「いいねぇ奥山さん、その調子で言いたいことを率直に言って欲しい。私は出来る限り誠実に回答しよう。さっきも言ったように、私はあなたに敬意を表しているのだ。そして話し合いに来た」
奥山は、島野の言葉に勢いを得て尋ねた。
「まず、それが分からない。なぜ僕は、あなたに敬意を表されなければならないのか」
「まぁそう慌てなさんな。順番に説明しよう。我々は、力づくではなく、穏便に問題を解決しようとしている。決して人間に気づかれないよう、必要最小限の入れ替わりで確実な成果を出したいのだ。そのためには権力者の体を奪うのが最も効果的だと判断した。戦争を始められるのは首相で、無策によって原子力発電所を爆発させられるのは電力会社の社長だ。逆に言えば、最悪の事態を止められるのも同じ立場の人間だ。竹沢県は、我々が問題解決へ本格的に動く直前のテスト地域に選ばれた。県警本部長や上浦市長、その他、複数の権力者の体を我々はすでに奪い、社会を変えるモデル戦略を構築すべく努力を重ねている。しかし」
島野はここで初めて、自信みなぎる表情を崩し、言葉をつないだ。
「どんな組織にも出来の悪い奴が一人か二人はいるものでね。あるものが・・・そうだな、便宜上、名前を付けた方が分かりやすいな」
島野はテーブルの上の灰皿を指差して、奥山に尋ねた。
「灰皿は英語で何と言うんだ?」
奥山は英語が得意ではないが、それくらいなら答えられる。
「アッシュトレーじゃないですか」
島野は顎の下を親指で触った。
「アッシュトレーか。よし、それじゃあ、アッシュにしよう。アッシュは奥山さんの前に岡部紀子の体を支配していたものだ。極めて出来の悪い奴だった。にもかかわらず、ある程度の温情をかけたのが、結果的には失敗だった。アッシュの蛮行は、まず第一に、間違って、権力者の要素が全くない、まだ五歳の少女と入れ替わってしまったことだ。加えて、目撃される恐れがあった月光の下で奥山市長、あなたの体を仲間に奪わせた。極めつけが、ついさっきの事件だ。確かに松田記者は偶然も味方につけ、恐るべきスピードで真実に近づいていた。我々にとって危険な存在だった。だが、殺されるほどの理由は、もちろん無い。我々は問題解決に向け、ひとつの絶対的なルールを作っている。それは人を殺さないということだ。目指すのは共存共栄で、人間と対立することではない。ひと昔前まで、人間と自然はお互いの存在を認め合い、生息地域も明確に住み分けていた。しかし残念ながら、今は変わってしまった。自然破壊はご覧のとおり。さらに軍事技術が発達し、人類滅亡だって、あっという間に何度も引き起こせる。単に人類だけが滅亡してくれるのなら我々にとって大歓迎だが、実際に起これば、その過程で、今とは比べものにならないくらいの動植物が巻き添えになるだろう。人間というのは本当に厄介な存在だ。それなのに大国の政治は権力争いに終始し、問題は一向に解決しない。もう誰がやっても同じという国民の政治的ニヒリズム、無力感を突いて、いつ妙なリーダーが出てきてもおかしくない。危険な状況だ。奥山さん、あなたもそれが分かっているから政治家を志したわけだろう。我々にとっても同じことだ。傍観できる時代は終わった。終わってしまった。そして進化した。決して自ら望んだことではない。追い詰められた結果の進化なのだよ」
島野は奥山の目を見ながら一気に話すと、軽く咳払いをした。
「アッシュの話からずれてしまった。申し訳ない。アッシュはルールを破った。だから処分した。奥山さん、後日、散歩がてら、クリスマス公園に行くといい。私の言った処分の意味が分かるはずだ。さて、いよいよ、お尋ねのあった、私が奥山さんに敬意を表している理由を説明しよう。それは、あなたが、木に取り込まれながら自力で脱出した初めての人間だからだ。我々は竹沢県で複数の人間を、奥山さんと同じように木へ閉じ込めている。自力で脱出した人間はいないし、そんなことは出来る訳ないと思い込んでいた。新たな発見だよ。こういうことがあるから、物事を本格的に始める前は、必ずテストしなくちゃいけない。我々は奥山さんが脱出できた原因を早急に解明し、何らかの対応策を施す。奥山さんだから出来たのか。相手がアッシュだったから可能だったのか。あまり時間をかける訳にもいかないが、我々も手探りなのだ。何せ初めてのことなのでね」
島野の話が途切れた。奥山は、頭に浮かんだ幾つもの疑問を一つずつ投げかけることにした。
「島野さん、あなたが、この計画のリーダーなのですか?」
島野は無表情に答えた。
「違う。私なんか下の下の方だ。アッシュよりは上だがね」
奥山は一呼吸置き、意を決すると、懇願するように頭を下げた。
「お願いです、私を自分の体に戻してほしい。あなたたちの主張は分かった。存在は誰にも言わない。でも私には妻と子供がいる。市長を辞職してもいい。家族の元に帰らせて下さい。それだけが、私の願いです」
島野は相変わらずの無表情で即答した。
「無理だ。奥山さん、考えてほしい。我々は、その気になりさえすれば、十分後にでもあなたをマングローブの群落に戻すことができる。しかし、木の中から脱出した第一号としての敬意を表し、特別待遇をするのだ。これだけでも最大限の譲歩で、特例中の特例だと理解してほしい。今日から、あなたの家族は岡部順子、三十八歳だ。母子家庭で苦労している。奥山さん、あなたが支えてあげて欲しい。新しい人生を生きるのだ。動けず、話せず、毎日、雪野川とクリスマス公園を眺めているだけの生活よりは、遥かにマシだろ?」
島野の回答に対し、奥山は思ったほど落胆せず、そのことに自分でも驚いた。政治家を志すうえで、胸に刻んだことがある。それは、交渉とは、どんなケースでも妥協点の探り合いで、こちら側の要求を百パーセント通すのは不可能だということだ。折れるところは折れ、然るべき果実をもぎとらないと、問題の解決へは一歩も近づけない。それを今の自分に当てはめると、どうだろう。島野の言葉を信じるのなら、奥山は五歳の少女という立場を受け入れるものの、マングロ族の襲撃に怯えず、人間として平穏な日常を過ごすことができる。今は、その果実を得ただけで、十分満足するべきではないか。将来的に奥山勇太へ戻る方法は、また時間をかけて考えれば良い。ただ、念のため、聞いておくに越したことはない。奥山はそう思い、新たな疑問を口にした。
「もし私が、島野さんの対応に不満を抱き、例えばあなたたちの存在を世間にばらすような反抗的な態度に出た場合、どうなってしまうのでしょうか。やはり即座にマングローブへ戻される?でも将来、成長した私は、何らかの方法を考えだし、あなたたちに気づかれないように、反逆への準備を進めるかもしれない。もちろん、そんなつもりはさらさらないが、最悪の場合、どのような展開をたどって、あなたたち流の処罰を受けるのか。あらかじめ知っておきたいのですが」
島野は、無表情だった顔に再び微笑みを浮かべた。
「奥山さん、右手を動かさない方がいい」
「右手?」
奥山は、脈絡のない島野の言葉に面食らい、右手へ視線を移す途中、無意識のうちにほんの一センチほど前へ動かしてしまった。その途端、中指にチクリと痛みが走る。
「あいたっ」
奥山は身をのけぞらせて右手を大きく上げると、急いで中指を目の前に持ってきた。小さな指の白い腹に、赤い血が一カ所だけ付いている。針のように尖った何かで刺されたようだ。
島野が「クックックッ」と笑いをこらえながら、空中の一点を指差した。ついさっき奥山の指に痛みが走った所に、一滴の血が浮かんでいる。奥山の血とみて間違いない。
血が、空中に浮かんでいる?
どういうことだろう。
奥山は、恐る恐る目を近づけた。
まもなく、何が起きたのか把握した。
血は空中に浮かんでいるのでは無かった。テーブルの中央に置かれたサボテンの棘が一本だけ、一メートルほど伸び、その先端に血が付いているのだった。奥山が確認すると、サボテンの棘はみるみる縮み、数秒で元の通り、一センチ弱の長さに戻った。しかし、棘の先端には相変わらず奥山の血が残っている。わずか一滴の血のしずくが、見間違えかもしれないという奥山の淡い期待を、明確に打ち消していた。
島野は表情に笑みを浮かべたまま、質問をする。
「奥山さん、今、目撃したことから何が分かる?」
奥山はうつむき、脱力したように息を吐きながら答えた。
「サボテンの棘が意思を持ったように伸び縮みした。あなたたちはマングローブだけではなく、あらゆる植物を意のままに動かせるようだ。マングローブは本来、熱帯にしか生息しないが、雪野川沿いには三十四本が群落を作っている。僕は、寒い地域でも生きられる突然変異体だからこそ、特別な力を持っているのだと解釈していたのですが、違うのですね」
「なるほど。確かに、突然変異体というのは一つのキーワードではあるのだが、それ自身が特別な力につながっているわけではない。そもそも特別な力などでは無いのだ。さっきも説明した通り、ただ進化しただけ。昔の常識が今の非常識になることは、人間社会でもよくあることだろ?それに、私がサボテンを動かしたのではない。サボテンが、自分の意思で動いたのだ」
島野が肩の凝りをほぐすように、ぐるりと首を回した。奥山は、島野の話を聞きながら、導き出した結論を口にした。
「身の回りのあらゆる植物が僕の言動をチェックし、攻撃しようと思えばいつでも出来る。だから、あなたたちに反抗するような無謀な試みは止めておけ、ということですね」
「まぁ、そんなところだ。のみ込みが早いね、奥山さん、助かるよ。さらに、ご覧のとおり、あなたを監視しているのは植物だけではない」と島野は言い、隣に座るカラスに目をやってから続けた。「我々が体を拝借できるのは人間だけではないということだ。そのほかにも、短時間では伝えきれないほど様々な方法で、世界中に情報網を張り巡らせている。収集量と正確さは人工衛星なんかの比じゃないよ。時には盗聴器のようなアナログな手段を使うこともあるがね。とにかく人間が我々から秘密裏に何かをすることは、絶対不可能だと断言しよう」
コンコン
署長室のドアが外からノックされた。島野はドアの外まで届くような大きく低い声で「はい」と答える。「岡部の母親が到着しました」。緊張感を帯びた角刈りの声が、ドアの外から聞こえた。「すぐ行くから下で待っておけ」。威圧感を帯びた島野の声が響く。「了解しましたっ」という返事とともに、角刈りの気配がドアから遠ざかった。
島野は立ち上がり、室内照明のスイッチがある壁際まで歩く。スイッチの脇に立つと、ソファーの上のカラスに向かって軽くうなずいた。それから一気にすべての照明を落とす。
真っ暗になった署長室で、カラスは静かにソファーから飛び立つと、一カ所だけ開け放たれた窓に向かって、糸を引くように飛んでいく。そして窓枠に細い両足を乗せると、羽音を出さず、溶け込むように夜の闇に消えていった。
島野は、カラスが出て行った窓際まで歩き、全開だったガラスを閉めると鍵をかけた。そして再び、奥山の前まで来る。ソファーに座ると、すぐに話し始めた。
「奥山さん。あなたはさっき、我々の存在を世間にばらすという仮の話をしたが、もし今、私が奥山さんに説明したことを、世間の誰もが知る状況になれば、人間はどういう行動に出るか、それに対して私たちはどのように立ち向かい、結果、お互いにとって、どんな悲惨な結果が待ち受けるのか、想像して欲しい。実は奥山さん、今回の事態を受けて、我々の仲間には、奥山さんを殺すべきだという意見が少なからずあった。しかし、それは適当ではないと、私を始めとする一部が反論し、押し返した。奥山さん、あなたは今日から五歳の少女だし、仕事もない。その代わり時間はある。私が今日、あなたに話したことを足がかりにして、我々の存在や目的について、じっくり考えて欲しい。私はあなたを認めている。将来的には、我々の活動における何らかの役割を担ってほしい、とさえ思っている。木から脱出できた奥山さんの可能性に賭けているのだ。そして一刻も早く、ことを荒立てずに、目的を達成したい。目的は改革だ。政治家なら誰もが簡単に口にする言葉じゃないか。奥山さんも、いつかきっと理解してくれるはずだ。改革さえ実現できれば、我々は潮が引くように人間の世界から手を引く。それは決まっていることだ」
島野は、周囲が暗闇に包まれていることをまるで気にせず、一気に話すと立ち上がった。
「さぁ行こう。母親が一階で待っている」
奥山が島野とエレベーターで一階に下りると、ロビーの黒い長椅子に岡部順子が座っていた。岡部は、奥山を見つけると「ノリコッ」と声を上げながら駆け寄り、太い両腕で強く抱きしめた。腰を落とした岡部の口から、ほのかにアルコールの匂いがする。そうか、当たり前だが五歳だと酒が飲めなくなるのか。奥山はビールの無い生活を想像すると、気持ちが萎えた。岡部は五秒ほどして両腕をほどくと、怒りのこもった目をして言った。
「ノリコ、もう夜の外出は禁止だからね。家に帰れない場所までさまよい歩いて、午前二時に警察のお世話になるなんて、お母さん、涙が出る。このままじゃ、アンタ、不良一直線だよ。明日から学童クラブに行ってもらうから。学童クラブの終わる午後六時半までに、必ず私が迎えに行く。ノリコをまっとうな人間に育てるため、お母さんも夜の外出は一切しない。私も母親としての自覚が足りなかった。警察署にノリコを迎えに来るなんて、これが絶対、最初で最後。もう二度とこんなことさせない。それにはノリコの自覚が何より大切なの。ノリコ、次、こんなことしたら、そんな悪い子はお母さんの子じゃないから。家にも入れない。絶対入れない。分かった?」
優しいなりに真剣な岡部を前に、奥山は消え入るような声で答えた。
「ごめんなさい。もう二度と、夜に出歩くようなことはしません」
娘の殊勝な対応に岡部の表情が一瞬緩む。だが、破れたトレーナーに目をやると、再び眉間に皺が寄った。
「ノリコ、ここ、どうして破れたの?何があったの?」
奥山はうつむいて、つぶやいた。
「分からない」
岡部は、破れた部分に右手の人差し指をグリグリ入れながら追及する。
「分からない訳ないでしょ。こんなに大きい穴。なんだろ?想像もできない。自分で破ったんじゃないわよね。どこかで一度、服、脱いだの?」
近くで見守っていた角刈りが割って入った。
「岡部さん、もう結構ですよ。時間も時間ですし、紀子ちゃんも岡部さんも疲れているでしょうから、今夜は帰宅してゆっくり眠って下さい」
岡部は、破れた部分から指を出すと、立ち上がり、角刈りに頭を下げた。
「優しくして頂いて申し訳ありません。それじゃあ、今日はお言葉に甘えさせて頂きます。このたびは本当にご迷惑をおかけしました。もう二度とこういうことの無いようにしますので」
角刈りは短い自分の髪の毛をさすりながら言った。
「いえいえ、子育ては大変ですからね。また適当な時期に、ご自宅へ寄せて頂きますが、そのときはよろしくお願いします」
「分かりました。狭い家ですが、いつでもいらして下さい。本当にありがとうございました」
岡部はそう言って再び頭を下げると、奥山の右手を取り、警察署の出口へ向かった。長椅子から出口まで、わずか五メートルほどの距離を歩く途中、岡部は何度も振り返り、角刈りに頭を下げた。
警察署の外へ出ると、岡部は駐輪場へ向かった。岡部の自転車は、紺色のママチャリで、後部に子供用の座席が取り付けられている。後輪の泥除け部分には、住所に続き「岡部順子・典子」と書かれたステッカーが貼ってあった。紀子の正しい漢字は典子だったのか。この名前とは、どれほど長く付き合うことになるのだろう。それにしても、並べて書かれた名前は、親子というより姉妹のようだ。
岡部は奥山を抱え上げると、子供用の座席に座らせた。続いて自分も自転車に乗り、勢いよくこぎ始める。奥山は振り落とされないように、手前のレバーを両手でしっかり握った。岡部の背中に遮られ、前が見えない不満はあるものの、乗り心地は悪くない。警察署の敷地を出るとき、奥山は二階の署長室を見上げた。白昼夢のような時間を過ごした一室は、何事も無かったかのように暗く、窓ガラスが閉ざされている。
そういえば島野は、いつの間にいなくなったのだろう。
遠くから、カラスの鳴き声が聞こえる。
アーアーアーアーアー
数秒経って、別の方角からも同じようにカラスの鳴き声がする。
アーアーアーアーアー
奥山は、カラスが会話をしているように聞こえた。話題は自分のことだろうか。だとしたら、今日はおとなしく帰るから安心してくれよ。奥山はそう心中でぼやいた。
□十カ月後 十一月二十六日 響子
晴れ渡った冬空の下、響子は一人で車を走らせていた。月曜日の昼間。寒さが厳しくなったので、郊外のユニクロへ足りない衣類を買いに行く途中だった。
二十六日は、響子にとって大切な日だ。一月二十六日に松田と最後に会ってから、今日でちょうど十カ月。あの日、ロイヤルホストで話した時、松田からは例えようもないほどたくさんの勇気をもらった。新たな心の支えを得て、響子は心から松田に感謝していた。しかし、あの日を最後に、松田は響子の前から消えてしまった。後任として二月に竹沢新聞上浦支局へ着任した若い記者によると、松田は行方不明になったそうだ。警察は、事件の可能性を否定し、自分の意思で失踪したと見ているらしい。なおも聞こうとする響子に対し、若い記者は「すみません、この件については外部に言わないよう上から口止めされているんです。勘弁してください」とすまなそうに言った。
松田が自ら失踪する訳がない、と響子は確信していた。竹沢新聞の上層部が隠蔽しようとするのも怪しい。しかし、だからといって一主婦の響子に出来ることは思いつかず、月日だけが過ぎ去っていた。
響子は運転席の窓を少し開ける。冬の冷たい風を頬に感じた。心地良い。年齢を重ねるごとに、冬が好きになっていく。
右手にクリスマス公園を見ながら、車が三太橋に差し掛かったとき、響子はハッと息をのんだ。少女が一人、三太橋の欄干に手をかけて、クリスマス公園を見下ろしている。ピンクのダウンジャケットに青のジーンズ。響子の頭に、一月二十六日、ロイヤルホストの窓を挟んで目が合った少女の表情が、浮かび上がった。松田が追いかけたら走って逃げた、あの少女。ロイヤルホストに戻った松田は、少女をA子と呼んだ。今、三太橋からクリスマス公園をぼんやり眺めている少女は、A子ではないか。
響子は、橋を渡り終えるとすぐ、左側の路肩に車を停車した。後方に注意しながら車を降りる。少女はさっきと同じ場所にたたずんでいた。
響子は車が途切れるのを待って、片側二車線の車道を走って横切った。ガードレールをまたいで、向かい側の歩道に入る。視界の中央にいる少女との距離は、橋の長さと同じ四十メートルほど。響子は歩きながら、A子の視線に釣られるように左斜め前方のクリスマス公園を見下ろした。松田に教えてもらったマングローブの群落が、寒風のなか悠然と生い茂っている。しかし一本だけ、木が根元から掘り起こされたうえ、十個ほどの輪切りにされて雪野川にばらまかれていた。一体誰があんな無意味なことをしたのだろう。
A子との距離が十メートルほどに縮まる。A子は響子に全然気づいていなかった。あと五メートルほど。響子はA子の横顔に向かって声をかけた。
「こんにちは」
A子は両肩をビクリと動かせてから、ゆっくりと響子の方へ顔を向けた。
この反応、この表情。やっぱり、あなたはA子ね。もう逃がさないから。
響子は気を引き締め、宣戦布告をするように言った。
「私のこと知っているよね。あなたに聞きたいことがあるの」
了