二話
来てしまったものは仕方ない。
浅緋は寮門を潜り、 寝殿造りと呼ばれる平屋へ沓を脱いで上がり込む。
何処からともなく香ってくる荷葉の匂いと、 足袋越しに伝わる渡殿平たく言えば木の板を敷き詰めた廊下の感触、 虫の声。 トドメは渡殿から見える庭の白玉が容赦ない日差しに煌いている様子で、 夏を意識して体力が一気に削られる。
帰りたい。 やはり今からでも物忌みはどうだろうか?
何せここは陰陽寮、 物の怪相手に以下略なのだからたまたま運悪く出鼻をくじかれる勢いで怪異にあったからしばらく物忌みして穢れを持ち込まないようにしますと言っても何ら不自然はない。
ないに違いない。
「そうだ。 そうしよう」
「おや、 鈴原殿。 よくいらっしゃいましたね」
「これは……陰陽頭様」
何でこの時分に来るんだ。 せめてあと少し、 物忌みだと逃げ帰るまで来なければ!
踵を返した途端に背後から掛かった声に振り向けば、 この陰陽寮の最上位である人物、 賀茂義直が朗らかな笑顔と似合いの声でそこにいた。
御歳確か五十六。 少々白髪が混じる黒髪は上に立つものの宿命なのかもしれない。
藍に葵紋の直衣に指貫の色はごく薄い若草。 烏帽子を垂らすことなく被り、 丁寧に一礼されてしまえば浅緋もそれに習うほかない。
「同じ大内裏とはいえ、 他寮の方ですし迷われないようにやはり使いを出した方が良いだろうかと話していたのですが、 心配はいらなかったようですね」
大内裏とは言わば大きな職場囲い。 様々な職場が一つの大きな囲い、 敷地の中にある。
そして大内裏の中に全てを取りまとめるかのように、 また全てから守られる社長室のように鎮座しているのが、 帝の住居でもある内裏なのだ。
いくつもある寮はまさか文机一個というわけにもいかないから、 どんなに小さなものでも建物であり、 当然建物と建物の間や休息する為の庭なども入ればそれなりの広さとなる。
新人ではまず初出仕で必ず一人は自分の寮に辿り着けず迷子になったりする者が出るほどには広い。
「お気遣い有難う存じます」
頑張れ表情筋。 引きつるな。 笑顔を保つんだ!
「いえいえ。 では、 参りましょう。 鈴原殿にお引き合わせ致したい者がおりますゆえ」
それは間違いなく、 これから七日間共に行動しなければならない陰陽寮の新人だ。
できれば会いたくないです。 むしろ物忌みで期間を終えて話を無かった事に出来ませんか。
そんな浅緋の心の声など聞こえるわけもなく、 また聞かれても困るわけだが、 義直は渡殿を行き浅緋を一室へと案内した。
程よく日陰と風の通る部屋には、 渡殿と同じ板の間で文机が二つほど。
今は灯りのない背の高い灯台が机の横に起立している。
奥には書物を収めた棚と書類の束が綴じられる前の状態で置かれていた。
「その方が例の交換留学生ですか? 七日間のみの」
部屋の中を見回していた所に、 いきなり掛かった義直以外の声に浅緋の心臓が思わず飛び跳ねそうになる。
「これ、 吉野。 鈴原殿が驚いてしまわれるだろう」
「何故です。 ずっとこの部屋に居ましたし、 部屋を視界に入れれば姿も視認している筈ですよ。 その方の両眼が作り物でなければですが」
暗に節穴呼ばわりされている気がするんだが気のせいか!?
吉野と呼ばれた人物は、 年の頃は浅緋と同じか一つ下。 まだ幼さの抜けきらない顔立ちが、 男性と女性の境のような不思議な印象を与える。
というか、 下手すれば年下なのに妙に艶かしい何かがある。
黒い瞳と眼を合わせた一瞬、 どこかぞくりと背筋に震えが走ったのだが、 それは不吉とかそういうものではなく、 認めたくないが多分色気とかそういう類なのだろう。
華奢とも言える細い体に合わせた浅葱色の直衣と紺青の指貫に烏帽子と、 服装は至って地味なのだが。
「吉野」
「ふむ。 わかりました。 失礼致しました。 鈴原殿」
「申し訳ない。 吉野はどうにも常々このようなものでして、 悪気があるわけではないのですが御気に触る体たらくで失礼致しました」
「いえ、 私も気づきませんでしたし、 そう言われても仕方ありませんから。 こちらこそ、 失礼致しました」
「…………」
気のせいだろうか。 一瞬、 吉野殿の目が光ったような気がした。
「では改めまして、 鈴原殿、 こちらが陰陽生の吉野ついなです。 こちらでの滞在中、 何卒よろしくお願い致します」
「只今紹介に預かりました、 吉野ついなと申します。 どうぞお見知りおきを」
「典薬寮より参りました、 鈴原浅緋と申します。 どうぞよろしくお願い致します」
形式通りの挨拶を済ませ、 仕事はついなと同じものをと言う説明を受ける。
当たり前だが七日間のいわゆる相棒のようなもので、 加えて新人の組み合わせなのだから別々の仕事では話にならない。 ついなが問われて答えを返せるような仕事でならなければいけないのだから。
「それでは、 後は吉野と共にお願い致します」
「畏まりました。 お世話になります」
「吉野、 先ほどのような失礼を繰り返さなぬように」
「はい。 承知しております」
義直が去り、 ついなと浅緋の二人だけが部屋に残される。
「…………」
「…………」
互いに無言だが、 違うのは浅緋は立ち尽くし、 ついなはさっさと自分の仕事に戻り文机に向かっている事だ。
「ええと、 吉野殿」
「ついなで結構ですよ。 鈴原殿」
「では、 ついな殿」
「鈴原殿。 ついなで結構というのは、 殿もなしで良いと言う事ですよ一応言うと」
「え。 あ、 はい。 ……ついな」
「何でしょうか」
「何をすれば良いでしょうか」
具体的な指示はついなにと言われているわけで、 さて何をすれば良いのかと言う浅緋についなは徐に口を開き。