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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

GirlfriEND

作者: いぐさこ

とあるところで書いたものの転載。

一部、刺激の強い描写があるのでご注意ください。


気付けば、部屋は無音になっていた。手紙を書く手を止めて、窓の外を見てみる。

窓枠で縁取られた暗闇の片隅に、向かい側の家の明かりが浮かんでいた。

机の位置から分かったのは、それだけだった。


シャーペンを置いて立ち上がり、窓へと向かう。

目線が上がったからだろうか。暗闇の中に他の家の明かりがひとつ、またひとつと灯っていく。


鍵を外して窓を開けると、朝から降り続いていた雨は止んでいた。

外の空気が緩やかに流れ込んでくる。少し季節が戻ったような冷たさが、優しく頬を撫でる。

雨の匂いと、都市特有の臭気が、わたしの鼻をかすめていった。


雨上がりも、夜も、わたしは好きだ。

雨は誰も掃除しようとしない汚れを、綺麗に洗い流してくれる。

夜は淀んだ空気を、植物の呼吸さながら澄んだ空気に変えてくれる。

何もかもを手つかずの、まっさらな状態に戻してくれる。そんな気がするからだ。


「きゃっ」


ぼんやりとしている鼻っつらを叩くように、強風が吹いた。

とっさに閉じたまぶたに水滴が当たる。同時に、全身を鋭い寒さが襲った。

大きく一度、体が勝手に震える。長袖のシャツ一枚でいられるのは、部屋の中だけだと悟った。


どこかに置き去りにされていた冬が、今ごろやってきたのかもしれない。

窓を閉めながら、そんなことを考えた。


窓に背を向け、クローゼットへと向かう。

雨が止んだら家を出よう。ずっと前から、そう決めていた。

止むまでだいぶかかると思って書き始めた手紙は、まだ途中だ。

けれど、元々書く予定はなかったものだし、あとは適当に付け加えればいい。


クローゼットを開くと、見慣れたわたしの服が並んでいる。

淡く、明るい色遣いのもの。レースのあしらわれたもの。小さな花が刺繍されたもの。様々だ。

どれも褒められるときは決まって、かわいい、と言われた記憶があった。


その中から、地味さのせいで目立つ、灰色のカーディガンを取り出した。

羽織ると、薄手の生地が肌をそっと包み込む。まるで、抱きしめられたような安心感を覚えた。


目を閉じて、それに身を委ねてみる。呼吸が自然と深く、遅くなっていった。

少し冷えた部屋の空気が、温もりを持った吐息に変わっていく。


ふと、吹きこんできた風の冷たさを思い出す。このカーディガンで外に出たら、きっと寒い。

それでも、わたしは目を開くと、そっとクローゼットを閉じた。

中にもっと暖かい服があるけど、これでいい。むしろ、この服じゃないとだめだ。


これから久しぶりに、凛ちゃんに会いに行くんだから。


今のうちに家を出ないと、また雨が降り出してしまうかもしれない。

そう思い、書きかけの手紙の残りを急いで書いた。

少し尻切れになってしまったけど、書くべきことは書いてあるし、きっと大丈夫だろう。


手紙を机の上に置いて、部屋を出た。電気をつけて階段を降りていく。

家の中は静まり返っていて、階段の軋む音がいつもより大きく響いた。


明かりの消えた居間の横を通り抜け、玄関に向かう。

わたしの親は共働きだ。帰りもふたりして遅いことがほとんどだ。

だから、夜の12時に外出しようしても、何も言われない。

それどころか、自分たちがいないときに、わたしが何をしているかも知らない。


昔からずっとそうだったし、もう慣れてしまった。特に寂しいとも感じない。

今までは、凛ちゃんがいた頃はそう思っていた。


彼女と離れ離れでいるうちに弱くなってしまったのか。

それとも、わたしの弱さを彼女が紛らわしてくれていたのか。

今となっては、どっちでもいい。ひとりぼっちのわたしは弱い、ただそれだけのことだ。


玄関でスニーカーを履き終え、立ち上がった。つま先で軽く地面を叩く。

その音は、動くことのない家の空気をかすかに震わせた。そしてまた、すぐに静寂が戻ってくる。

まるで、最初から何もなかったかのような静けさだった。


外に出ようと、鍵を開けてドアノブをひねる。

わたしがドアを開けようと何かするたび、金属同士がぶつかり合う音がした。

きっと、この音は、わたしが玄関にいたという証拠は、すぐになかったことになる。

ふと、そんなことを思ったけど、ここにずっと留まる理由にはならなかった。


玄関から二、三歩踏み出し、掴んでいたドアノブを離した。

風の冷たさも、雨の匂いも、住宅街の暗さも、記憶に新しい。

部屋の窓から少しだけ触れた夜は、変わらずそこにあった。


背後からドアの閉まる音が聞こえて、振り返った。ドアに歩み寄り、鍵を閉める。

ドアノブを回してみると、外にあるせいか、内側のものよりもずっと冷たい。

鍵が閉まっていることを確認して、手を離すまでわたしの体温を奪い続けていた。


これでもう、家でやり残したことはない。

あとは凛ちゃんのいる駅前の交差点まで向かうだけだ。


門を抜けて、家の前を通っている道に出る。いつもより足元が軽く感じた。

珍しく履いているジーパンと、スニーカーのせいかもしれない。

気分の高揚も手伝って、風に乗って飛んでいける気すらし始める。


「わっ」


そんな気分になった矢先、風が横殴りに吹き付けてきた。

目にごみが入って、思わず立ち止まってしまう。


何度かまばたきをすると、目の異物感は取れた。

けれど、それ以上に深刻だったのが髪だった。

髪の毛があらぬ方向に向いているのが、触れなくても分かるくらいだった。


「もう……」


いつも鏡で見ている自分の記憶を頼りに、手櫛で髪を整える。

ただでさえまとまらないクセっ毛だ。この程度で直るはずがないのは分かっている。

だけど、みっともない格好で凛ちゃんには会えない。それだけの理由で、ささやかな抵抗を続けた。


前髪を直している最中で、吐く息が白いことに気付いた。

はやる気持ちやカーディガンのせいで、寒さをあまり意識してなかったからかもしれない。

不思議なもので、気付いた途端に体がぶるりと震える。

頬や指先はすでに暖かさを失い始めていた。


とにかく、早く行った方がいい。そう思った。

だいたい髪を整え終えたけど、どうも前髪がいつもと違う気がする。

視線を上に向けてみる。当然、それで確認ができるわけがない。

ちらつく前髪の向こうに白く輝く電灯が見えた。


そして、電灯のさらに向こう側。

広がる雨雲のわずかな裂け目に、細い細い三日月が浮かんでいた。




髪を直し終えて、薄暗い住宅街の道を進んでいく。

すれ違う人はほとんどいない。もう寝ている家も多いらしく、明かりの消えている家も多い。

住宅街という大きな生き物が、寝息を立てているように思えた。


やがて、道なりに連なっていた家の列がぷつりと途切れる。

代わりにわたしの身長の何倍もある黒く、大きな壁が現れた。


正確には、それは壁じゃない。

駅を中心とした市街地と住宅街を、分断するように流れる川沿いの土手だ。


土手の目前に立って、左右に視線を巡らせる。

左右に果てしなく伸びている土手の一角。

わたしのいる位置からさほど離れていない場所に、コンクリートの階段を見つけた。

周囲が黒一色なこともあって、いつもなら目立たない灰色はいくらか浮いて見えた。


階段のふもとまで歩いていく。

多少は目立っていたとはいえ、やっぱり足元は薄暗く、見えづらい。

足元を注視して、一段目にしっかりと足をかける。

足裏から伝わる硬い感触を確かめてから、階段を上がり始めた。












それほど時間もかからずに階段を上がりきる。

ちょうどその時、右から走って来た自転車がわたしを追い越していった。


「きゃっ」


結構な速さですぐ横を通られて、反射的に飛び退いてしまう。

思わず自転車を目で追う。後ろからでも見えるライトが、みるみる遠ざかっていった。


「あぶないなぁ……」


だいぶ小さくなったライトの明かりを見つめ、最初から伝えるつもりもない不満を呟く。

自分の心臓が、まだ強く脈打っているのが分かった。


視線をさらに遠くへと移す。橋の電灯が光の列となって、何本も闇の中に浮かんでいる。

その中で一際大きい光の列があった。それは向こう岸の光の塊から伸びていた。

このあたりで一番大きな橋だ。市街地の大通りに直結しているからか、車の交通量も多い。


そして、大通りは凛ちゃんのいる駅前の交差点とも繋がっている。


さっきの自転車を追いかけるように歩き始める。

ひとまずの目的地は、あの大きな橋だ。


土手は住宅街よりもさらに暗かった。川の流れる右側にいたっては、完全な闇だった。

すぐ横の住宅街の光が届かなければ、わたしの歩く道も同じようなものだろう。


きっとそのせいだろう。わたし以外にここを通る人はいなかった。

すれ違うのはさっきの自転車が最後、なんてこともありえない話じゃないと思った。


川の方角から、木々のものであろうざわめきが聞こえてくる。遅れて、風が吹いてきた。

芽吹き始めた草木の匂い、それを支える土の匂いが混じって、わたしの元に届く。

昔、ここでよく遊んでいた頃、胸いっぱいに吸い込んでいた匂いだ。


河原のあたりを見つめ、頭の中で小さい頃のわたしを思い起こす。

やがて、遊んでいる自分の姿が、真っ暗な河原に上書きされていった。


遊んでいた、とは少し違う気がする。もっぱら、凛ちゃんに連れてこられていた。

それでも楽しかった記憶がある。なにせ、彼女といっしょなら、わたしは何をしても楽しめた。


過去を振り返りながら、静かな夜道を単調に、ただ歩くだけの時間が流れていく。

気付けば、意識は広い広い記憶の海を泳いでいた。

やがて、わたしはとある記憶の中へと、深く潜り込んでいく。


今のわたしを動かす、何物にも変えられない、大切な記憶だ。


――――――


わたしと凛ちゃんは付き合っていた。


このことは誰も知らない。絶対に知られないように隠してきたから、当然だとも言える。

もしも、誰かに知られたときにはどうなるか。想像には難くなかったからだ。


わたしと彼女は幼馴染だった。出会ったときのことは、記憶にない。

思い出せる一番初めの記憶の時点で、すでにわたしたちは仲良く遊んでいた。


凛ちゃんとの関係は、その頃から変わっていない。

何かにつけてよく泣くわたしをなだめ、守ってくれる王子様のような人。

本人は男役に少し不服だったらしいけど、それがわたしにとっての彼女だった。


そして、凛ちゃんのことが大好きなのもずっと変わらなかった。

もちろん、今のような恋愛感情じゃなくて、友達としての話だ。

まさかこんな風になるなんて、あの頃は思ってもいなかった。

今思えば、気付かなかっただけで、それが現在まで続くわたしの初恋だったのかもしれない。


わたしが自分の恋心に気付いたのは、中学三年生の秋。

受験の話が日常会話に当たり前のように出始めた頃。

卒業、別れ。そういった言葉が、現実味を帯び始めた頃のことだった。


この時期、わたしは思っていたよりも模試の点数が伸びていなかった。

成績は中の下程度で、特に得意な科目もなかったから、当然と言えば当然かもしれない。

ただ、自分の学力より少し上の、凛ちゃんが志望している高校に行きたい。

その一心で頑張ってきたわたしにとって、とても許せる結果ではなかった。


このままだと離れ離れになってしまう。

そんな焦りと不安で頭がいっぱいになって、おかしくなってしまいそうだった。


悩みを押し殺し続けて、しばらく経ったある日。

わたしは理由を考えてみた。なんで自分はこんなに悩んでいるのだろう、と。

そのとき、凛ちゃんが好きだから、なんて理由が出てきたのだった。


自分はなんてことを考えているのだろう、と最初は驚いた。

けれど、他の理由が欠片も見当たらないのも、また事実だった。

他に理由がないなら、きっと間違ったことを考えているわけじゃない。本当に彼女が好きなんだ。

時間が経つにつれて、そうやって想いに対する理解は深まっていった。


でも、自覚してしまったからこそ、新しい悩みが生まれた。

この気持ちを凛ちゃんに伝えたい。そう思うようになってしまっていた。


結果から先に言えば、わたしは彼女に好きだと伝えた。

その日は朝から雪がちらついていて、とても寒かったことを覚えている。


学校からの帰り道で、凛ちゃんがわたしの手を取ってくれたのがきっかけだった。

たしか、凍ってて危ないからな、なんて言って笑っていた記憶がある。

笑顔が可愛い。かっこいい。こういう優しいところが好きだ。

わたしは彼女の横顔を見て、そんなことを思った。


そして、思っていたことをそのまま口に出してしまったのだった。


きっと、いろんな想いを押し殺すことに、疲れきっていたのだと思う。

ほんの少し刺激してやれば、簡単に崩れる程度には。

何もかもが冷たい中で、触れた彼女の手のひら。

その温かさに寄りかかるように甘えてしまった。


聞かされた凛ちゃんは、唖然とした表情でわたしを見つめていた。

その姿を見て、わたしは我に返った。なんてことをしでかしてしまったのだろう、と。

たまらずにわたしは繋がれた手を振り払った。そして、その場から一目散に逃げ出そうとした。

このとき、自分が何を考えていたのかは、あまり覚えていない。ひとつだけ覚えているのは、怖かったことだけだ。


けれど、逃げることは叶わなかった。

振り払ったはずの手を、凛ちゃんに再び掴まれたからだ。

怒ったような彼女の表情と、力を込めて掴まれた手の痛みは、今でも忘れられない。

今まで乱暴にされたことなんてなかったから、特に印象に残っている。


手を振り払えずにいるわたしに、凛ちゃんは言った。

あたしも綾のことが好きだ、と。

だけど、綾が言う好き、と違うのかよく分からない、と。

だからこそ、この気持ちが違うのかどうか確かめたい、と。


言い方を変えれば、お試しで付き合いたい、ということだった。

とても卑怯な言い方だった、と彼女も後に語っていた。


けれど、わたしはそれでもよかった。

都合のいい女だと思われたって、一向に構わなかった。

だから、涙が溢れてきて、まともに喋れなくても、何度も大きく頷いたのだ。


――――――







意識が記憶の海から、ゆっくりと浮上してくる。

見える景色が、また真っ暗な土手道に戻った。

ただ、遠くに見えていた橋の光は、さっきよりもだいぶ近くなっていた。


凛ちゃんと付き合い始めて、もうすぐ一年半が経とうとしている。

けれど、彼女とは去年の冬から離れ離れのままだ。

十七回目の春を迎えたとき、そばに彼女がいないことが切なくて仕方がなかった。


決して、そうなることを望んではいなかった。それはわたしも、凛ちゃんも同じだ。

彼女がどう思っているか、知る手段はない。それでも、きっと、同じはずだ。


でも、不安に押しつぶされそうな日々も、今日で終わる。ようやく凛ちゃんに会える。

今までの寂しさなんて、彼女に会ったときにどこかへ行ってしまう気がした。


自然と歩く速度が上がる。聞こえる自分の足音の間隔が狭まる。

顔や指先は、住宅街を歩いていた頃よりも冷たい。

代わりに胸の周りだけが、どんどん熱を増していた。


やがて、橋の入口の様子がはっきりと見え始めた。

確かに近付いている再会に、想いを馳せる。

話したいこと、やりたいこと。考え始めればいくらでも浮かんできた。

同時に頭の中で思い描く。それに凛ちゃんはどんな風に返してくれるのか、と。




ふと気付いた。

さっきから、自分の理想ばかり、思い描いていることに。




もしも、理想と違ったら。

そんな不安の塊が、胸の中で膨らみ始める。


橋の入口へと小走りで急ぐ。

ずっと暗くて静かな道を歩いていたからだ。

そのせいで、ちょっと嫌なことを考えてしまっただけだ。


そう、思うことにした。




走って、走って、橋の入口にある電灯の下まで辿り着いた。


「はっ……はあ、っ」


肺は空気を吸ったそばから吐き出して、心臓は痛いほどに脈打っている。

自分で思っていたよりも長い距離を走っていたらしかった。


少し休憩しようと、電灯に背中を預けるようにして寄りかかる。

もっとたくさんの酸素を求めて、顔が自然と上を向く。

飛び込んできた電灯の眩しさに、思わず目を細めた。

これも、ずっと暗い場所にいたせいかもしれない。


呼吸が落ち着くまで、わたしはずっと電灯の明かりを見つめていた。

最初はまぶたの隙間から、目が慣れてからは普通に。


電灯の光は、日差しのように明るくはない。

いくつか並べれば夜を照らすには充分、という程度の無機質な光だ。

けれど、今はどうしてか、その光がとても暖かく思えた。


どれくらいの時間が経っただろう。時計は見ていないけど、だいぶ休んでいる気がした。

汗をかいた体が風に冷やされて、寒く感じる。そろそろ出発するべきかもしれない。

胸のざわめきは消えず、歩き出すことに気乗りはしない。

だけど、このまま動かずにいると、二度と動けなくなってしまう気がした。


視線を橋の奥へと移す。電灯がぽつぽつと連なっている。

ちょうど明かりの届かない場所を、互いに補うように建てられていた。


時折、車が横をすり抜けていく。夕飯時ほど交通量は多くなく、いつもより橋は静かだった。

そう思うのも、今までこんな時間に来ることがなかったからだろう。

そんなとりとめのないことを考えながら、目の焦点を近くに戻した。


ふと、視界の隅に妙なものを見つけた。


電灯の明かりがぎりぎり重なる、他より少しだけ薄暗くなった場所を注視する。

わたしのいる場所から数えて、三本目と四本目の電灯の中間地点。

ここからではよく見えないけど、箱のようなものが人目を避けるように置かれていた。


何故だか、その物体が無性に気になった。

近付くにつれて、物体の輪郭が徐々にはっきりとしてくる。

合わせて、物体の正体は箱、という予想が確信へと変わっていった。


やがて、箱がくすんだ茶色をしていることも見て取れる位置まで来て。

側面に書かれたりんご、という大きな黒い文字に気付いた。この箱は段ボールに違いない。


段ボールの上部は開いていた。ふたの部分が、花びらのように外側に投げ出されている。

中身が入っているのだろうか。けれど、ここからでは見えない。

もしも、何か変なものが入っていたらどうしよう。


脳裏を一抹の不安がよぎり、喉元に綿を詰まらせたような息苦しさを覚えた。

生唾をごくりと飲み込む。息苦しさは消えなかった。

踏み出す一歩が小さく、遅くなる。

怖いもの見たさなのか、それでも足は止まらない。


やがて、箱の中に小さな白い塊が見えた。

少し遅れて、茶色と黒も見えた。それは白い塊の模様だった。

塊はふたつ、みっつと増えていく。けれど、そのどれもがぴくりとも動かない。


「……っ!」


そして、箱の底がほとんど見える位置になって、足が止まる。

思わず息を呑む。こわばった喉が小さく音を鳴らした。


段ボールの中には、猫が、捨てられていた。


胴体から伸びる長い尻尾。ふたつの三角形をした耳。間違えようもなかった。


わたしはさっきまで、塊がただのものだと思っていた。

でも、それは猫だった。猫なのに、生き物なのに、動かない。


ということは、だ。


気付いてしまった途端に、その場から離れたい衝動に駆られる。

けれど、膝から下は力が入らず、小刻みに震えるだけで。

結局、一歩だけ後ずさるのが精一杯だった。


逃げ出すこともできないまま、わたしの視線は箱に釘付けになっていた。

怖くないわけがなかった。視線だけでも逸らしてしまいたい。

ただ、目を離した隙に、箱の中から何かが這い出てくるんじゃないか。

自分の知らないところで、知らないことが起こるんじゃないか。


それが何よりも怖くて、不安で、わたしはこれ以上身動きを取ることができなかった。


不意に、聞き覚えのない音が聞こえた気がした。

聞き慣れた車の走る音とも、風の音とも違う。

その正体が分からずにいるうちに、もう一度同じ音が、確かに聞こえた。

音を意識していなければ、すぐにかき消されてしまうほど小さかった。


「あ……」


自分は今、何に対して意識を集中していたのか。

その答えはすぐに出る。猫が捨てられている段ボール箱だ。

胸の中に、豆電球ほどの頼りない希望の光が灯る。


さっき後ずさった分だけ、一歩を踏み出す。

合わせて、体の重心が前方へと移る。転ばないように反対の足が前へ出た。

きっと歩幅は小さく、動きものろのろとしていると思う。

けれど、着実に段ボール箱との距離は縮まっていた。


背後を車が通り過ぎる音を、飽きるほど聞き続けた頃。

わたしは、ついに段ボール箱の目前に辿り着いた。

箱の中の全体が見えるように、上から覗きこむ。


「う……っ」


途端に、臓器が下から押し上げられるような吐き気を覚える。

とっさに手のひらを口元に押し当てて、さらに唇を固く結んだ。

呼吸も止めて、口の中のわずかな唾を飲み込んで、込み上げてくるものを押し返そうとする。


「……ふぁっ」


しばらくして吐き気が治まってから、ようやく息を吸うことができた。

喉の奥から口の中へ、じんわりと胃液独特の酸味が広がっていく。

呼吸の合間に何度か唾を飲んでみても、後味はこびりついて消えなかった。


落ち着いてから、今度は鼻で息を吸わないようにして、再び段ボール箱の中を覗きこむ。


中には凄惨な光景が広がっていた。

段ボール箱の中には、五匹の猫が捨てられていた。


大きさからして、どれも子猫だと思う。そして、どの猫も体が赤黒い血で汚れていた。

さらに、カラスやネズミがやったのか、お腹が食い破られて、内臓が飛び出した死体。

他にも顔の一部が黒く変色して、無数のハエがたかっている死体も横たわっている。

死、というものを生々しすぎるほどに感じさせる光景だった。


臭いもひどいものだった。

吸い込んだら自分の頭の芯も腐ってしまいそうな腐臭が漂っている。

よく吐かないで耐えた、と自分でも思うほどだった。


聞こえた鳴き声は、やっぱり気のせいだったのかもしれない。

死体に釘付けになりながら、そんな考えが頭をよぎった。


その瞬間だった。


「あっ……!」


箱の隅でうずくまっていた、唯一目立った傷のなかった子猫が、小さく鳴いた。


腰を下ろして、ゆっくりと血で汚れた子猫に手を伸ばす。

最初に、冷え切った指先が、雨水で濡れた体毛に触れる。さらに体温が奪われていった。

体にもう少し強く触れてみる。体毛の下で柔らかく、温かい感触がした。


おそるおそる子猫の体の下に手を回し、抱き上げる。

そこで初めて、見えないくらいに小刻みに震えていることに気付いた。

体で濡れていないところはない。手のひら全体が濡れてしまう。

でも、触れている部分から子猫の体温が沁みるように伝わってくる。


ときおり、子猫は弱弱しく鳴き声を上げる。

胸もかすかに上下するだけだ。なのに、子猫は呼吸も、鳴くことも止めない。


なんだか、今のわたしに似ていると思った。


ひとりでは生きていけないのに、まだ生きることを諦めきれずにいる。

その姿が自分と重なって見えた。


汚れるのも構わず、子猫の顔に頬を寄せた。子猫は抵抗しなかった。

不思議に思って、頬を離して様子をうかがう。さっきまでと変わりない。

きっと、抵抗するだけの元気すらないのだろう。


そのとき、一際強い風が吹いて、濡れた頬に残った子猫の体温を奪っていった。

体全体も大きく震えた。寒さが一層増してきているように感じる。

寄り道もほどほどにして、駅前に急ぐべきだと思った。

ひとまず、子猫が寒くないように胸元に抱きかかえる。


子猫を放っておくという考えはなかった。完全に情が移ってしまっていた。

それに、このままでは確実に死んでしまう。


子猫の生死に関して、わたしができることは特にない。

でも、子猫もひとりぼっちになるのは寂しいはずだ。

せめて、いっしょにいるくらいはしてあげたかった。


腰を上げて、再び駅へと歩き始める。

橋に来る直前に感じていた不安は、だいぶ薄らいでいた。


子猫は単なる言い訳の口実で、本当にひとりぼっちが寂しかったのは、わたしの方だったのかもしれない。




橋を渡り切って、そのまま大通り沿いに歩いていく。

駅に近付けば近付くほど、街の様相は変わっていった。

住宅は減っていき、代わりにコンビニやお店が目につくようになる。

車の往来も激しくなり、今では車が走っていない時間の方が少ないくらいだった。


やがて、駅前の繁華街までやってくる。

車のヘッドライトや、居酒屋の看板。コンビニから漏れる、白い室内灯の明かり。

わたしから見える範囲の街は、人工の光に隙間なく照らされていた。


今いる場所から駅前の交差点までは、あと15分くらいだろうか。

よく訪れていた頃の記憶を頼りに推測してみる。


凛ちゃんがいなくなってから、このあたりを訪れることはほとんどなかった。

ふたりで訪れるのが当たり前だったからだ。最後にひとりで来たのは、もうずっと昔のことだ。

だから、ひとりでここに来ると、違和感を覚えるようになってしまっていた。

それが嫌で、今日までこのあたりを避けるように過ごしてきたのだった。


すれ違う人も明らかにその数を増していた。

時間が時間だからか、スーツを着た会社員らしき人が特に多い。

他にも、手を繋いで歩くカップルや、やたら騒がしい大学生らしき集団。

挙げればきりがないほど、いろんな人たちがネオンの下を歩いていた。


でも、彼ら全員に共通していることがある。


すれ違うとき、誰もが横目でわたしを見ていくのだ。

理由は明白だ。こんな時間に、十代の女の子が、濡れた子猫を抱えて、繁華街を歩いている。

我ながらおかしな光景だと思う。好奇の視線を向けられても、文句は言えない。


けれど、そんなことはどうでもよかった。

視線よりもずっと、わたしを悩ませるものがあった。


孤独感だ。


駅前に近付くにつれて、周囲も騒がしくなっていった。

人が歩く音、話す声、車の走る音。人が発する、生きるための音のすべて。

それらは混じり合って雑音に変わり、わたしの耳に届く。


その中で、自分の発する音だけが、ひどく浮いている。

繁華街にさしかかってから、ずっとそう思えて仕方がなかった。


何もなかった、真っ暗な夜道を歩いていたときのことを思い出す。

きっと、自分と比べる他人もいなかったからこそ、こんな気持ちになることもなかったのだろう。


歩いても、歩いても、孤独感は消えない。むしろ膨らんでいく一方だった。

人とすれ違うたび、どうしても自分と比べてしまう。

そして、自分の異質さを浮き彫りにさせられる。


心臓が沈んでいくような感覚を覚える。重りでも乗せられた気分だ。

この考えも、あながち間違ってないのかもしれない。

きっと重りになっているのは、落ち込んだわたしの思考だ。


耐えきれず、視線を足元へと落とした。

腕に抱かれた子猫に焦点が合わず、ぼやけて見える。

その向こう側で、わたしの足がのろのろと歩を進めていた。


しばらくの間、このままの状態で歩くことにした。


しばらくして、ふと、最近聞いた話を思い出す。

世界で最後の一匹になった、とある亀の話だ。


その亀は、絶滅してしまったと思われていたくらいの、珍しい種類だった。

久しぶりに発見されたときには、生きていたのはその亀を含めて二頭だけだったとか。


しかし、二頭のうちの片方が死んでしまって、その亀は最後の一匹になってしまった。

当然、人の手で手厚く飼育されて、似た種類の亀と子どもを作ろうとしたこともあったらしい。

けれど、それもうまくいかず、亀はずっと一匹のままだった。

そして、最後の一匹になって、40年の月日が流れた。


その亀が死んだと、つい最近のニュースで聞いた。


たくさんの人が、その亀が長生きしてくれることを望んだはずだ。

だから、亀はとても大切に育ててもらっていたはずだ。

それでも、亀は死んだ。まだまだ生きてもおかしくない年齢のはずだったのに。


きっと、その亀は寂しかったんだと思う。

どんなにたくさんの人に、大切に思われても、決して満たされなかった。

そばにいて欲しかったのは、自分を本当に理解してくれる仲間だった。


だから、亀はすべてに踵を返して、仲間の元へ旅立ったのだ。

誰かに話せば、馬鹿げた話だと笑われるかもしれない。

それでも、わたしにはそう思えて仕方がなかった。


わたしが思っている通りじゃなければ、嫌だ。

子猫を抱きかかえる腕に、つい力がこもる。

はっとして腕を緩め、子猫の体を撫でた。

まだ少し濡れている体は、冷たかった。


少し経って、目の前にたくさんの人の足が現れた。

顔を上げると、人だかりの向こうに歩行者用の赤信号が見えた。

いつの間にか駅前の交差点に着いていたらしい。


辺りを見渡す。凛ちゃんの姿は見えない。

信号を待つ人だかりの向こうにいるのだろうか。

そう思って背伸びをしてみたり、体を左右に振って、向こう側を見ようとしたりしてみる。

けれど、わたしの背ではどうあがいても、視界を人だかりに阻まれてしまうのだった。


はやる気持ちを抑えて、信号が青に変わるのを待つことにした。

普段ならなんてことない待ち時間が、とても長く感じられる。

ついつい、つま先で地面をせわしなく叩いてしまう。


ひとまず落ち着こうと、行き場を失くした視線を夜空に向けた。

街の明かりで照らされた夜空は、純粋な黒ではなかった。

黒ではあるけど、ぼんやりと光っているような、奇妙な色をしていた。


家の前で見上げた、何の混じりっ気もない夜空と比べると、それはくすんだように見えた。


ふと、視界の片隅で、人の塊が緩やかに動き出した。

視線を前方へと戻す。信号は青に変わっていた。

人の流れに合わせて進み、横断歩道の手前で立ち止まる。


そのまま、ほぐれていく人ごみの中に凛ちゃんの姿を探し始める。

だけど、こちらに向かってくる人、向こうに渡っていく人。どちらにも彼女の姿はない。

ただひたすらに、たくさんの人が、中央に居座るわたしを煩わしそうに避けていった。


やがて交差点に歩行者の姿はまばらになり、青信号が点滅し始める。

急いで交差点を渡っていく人たちの中にも、やはり彼女はいなかった。


「……ぅ」


心臓が潰れそうなほど締め付けられ、不意に目の奥が熱くなる。

一瞬だけ、視界が滲んだ。顔を伏せて何度かまばたきする。

再び鮮明になった視界に、黒くなったガムの付いた点字ブロックが映った。


ここまできて、諦められるわけがなかった。

わたしはどうしても、凛ちゃんに会いたい。

大きく一度、深呼吸をした。もう諦めない、と決意を込めて。


顔を上げた。


「え」


戸惑いの声が、勝手に漏れた。


頭の芯がぼうっとして、周囲から切り離されたような感覚が体を包んだ。

そのまま、空に浮かんでいってしまいそうな。そんな浮遊感だった。


今は車が行き交う交差点の向こう側。人ごみの最前列。

ある一点に、視線が釘付けになる。

灰色をした外はねの髪が目立つ、自転車を傍らに持った女の子。


わたしの大好きな、恋人の姿が、そこにあった。


自然と笑みがこぼれて、視界が一気に細まる。

狭まった視界の中心で、彼女がわたしを見て驚いていた。


その姿も、すぐに滲んで見えなくなってしまった。

嬉し泣きなんて、もうどれくらいしていないだろう。

嬉しくても、悲しくても泣いていた、小さい頃の自分を思い出した。


「り、ん……ちゃん……」


叫びたい想いを抑えて、小さく彼女の名前を呼んだ。

泣いているせいで、うまく呼べなかった。

慰めてもらって泣き止んだら、会えなかった間の分もたくさん呼ぼう。


そう決めてわたしは、彼女の元へ急ごう、と。






凛ちゃんの元へと、駆け出した。






棒立ちしている凛ちゃんの姿が、だんだんと大きくなっていく。

走っているのに、地に足が付いている気がまるでしなかった。

浮遊感がまだ体を包んでいた。体が軽い、というのはこういうことなのかもしれない。


やがて、彼女の目前に辿り着く。

立ち止まった途端に、体中に熱が広がっていった。

心臓は痛いほどに鼓動が高まっている。


それでも、辛いとは思わなかった。

今までの辛かったことや、苦しかったことは、全部どこかへ吹き飛んでしまっていた。

少し走った疲労なんて、今さら大したことじゃなかった。


「りっ、りん、ちゃんっ」


まだ荒い呼吸の隙間を縫って、彼女の名前を呼ぶ。

涙は止まっていたけど、今度もきちんと呼べなかった。


凛ちゃんは未だに驚きの表情を浮かべていた。

口を半開きにしたまま、せわしなくまばたきを繰り返している。

ずいぶんと長い付き合いだけど、こんな彼女は初めて見た。

離れていた恋しさもあってか、その姿が無性に愛おしく思えた。


数瞬、無音の時間が流れて。


凛ちゃんがゆっくりと、自転車のスタンドを降ろした。

そして、わたしに改めて向き直る。その瞳はしっかりとわたしを捕らえていた。

ようやく事態を飲み込むことができたらしい。


「……なんで、ここにいるんだ?」


凛ちゃんが尋ねてくる。その口調は、喜んでいるような調子ではなかった。

悪いことをした子どもに言い聞かせるような、優しさと厳しさを含んでいた。


きっと、凛ちゃんは怒っている。その理由はたくさん思いついた。

高揚していた気分が、少し落ち込むくらいには。

だけど、わたしがここまで来た理由は、ただひとつしかない。


「会いたかったから、来ちゃった」


分かってもらえない気は、薄々している。

それでも、わたしははっきりと彼女の問いに答えた。


凛ちゃんが何か言いたげに、唇を小さく動かした。

視線をわたしから地面へと移し、大きくため息をつく。

それから、頭をがしがしと掻いて、凛ちゃんは顔を上げた。


「おい、綾」


「えっ?」


名前を呼ばれ、いきなり凛ちゃんに両肩を掴まれた。

突然のことに驚いて、反射的に身を縮こまらせる。


こわばった肩の掴まれた部分に、ぴりぴりとした痛みが走る。

あまりの剣幕に、浮かれていた思考が現実に引き戻される。


凛ちゃんはこれからいったい、何をするつもりなのだろう。

このまま怒られるとしたら、手をあげられてもおかしくないような雰囲気だ。

こんな彼女を見るのも、初めてだった。

だから、何をされるのか、想像すらつかなかった。


「自分が何をしてるのか、分かってるのか?」


凛ちゃんはまっすぐにわたしを見つめて、そう聞いてきた。

黒く輝く瞳の中に、わたしの姿が映っている。彼女の吐息が頬を撫でていく。


問いかけてくるその表情は、ひそめられた眉のせいだろうか。

怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。


「わかってるよ……」


「家族だって、今ごろ心配してるに決まってる」


「……わかってるって」


「本当に……本当にこれでよかったのか?」


凛ちゃんは、尋ねることを止めようとはしなかった。

わたしから何か違う言葉を引き出そうと、躍起になっていた。


わたしだって、周りを顧みたことがなかったわけじゃない。

彼女に言われたことだって、何度も、何度も考えたことだった。

考えすぎて、体調を崩したこともあったくらいだ。


だからこそ、誰よりも。自分が何をしているか、分かっている。

分かっているからこそ、返事をする声も小さくなっていってしまう。


「……よかったよ」


出せる限りの声を振り絞って、答えた。


「全部わかってる。それでも……」


肩が、凛ちゃんの手ごと震える。

しゃくりあげるのといっしょに、次の言葉を飲み込んでしまう。

それでも凛ちゃんは、わたしを黙って待っていた。


「わだしっ、凛ちゃんに、会いだかったんだよぉ……!」


長い時間をかけて、息を吐く瞬間に合わせて、なんとか最後まで言い切った。

なるべくはっきりと喋ったつもりだけど、発音はひどいものだったと思う。


彼女に会えるということに、少なからず浮かれていたのは事実だ。

だけど、何もかも覚悟の上で、すべてに踵を返して、ここまで来た。

それもまた、事実だった。少なくとも、それだけは分かって欲しかった。


ついにこらえきれなくなって、声を出して泣き出してしまった。

最後まで言い切って、気が抜けたのかもしれない。

涙と鼻水がさらに溢れてくる。ハンカチやティッシュを取り出す余裕はなかった。

まぶたも鼻の下も、手の甲でごしごしとこすってしまうのだった。


こすり続けた部分が、少し痛くなるくらい経った頃。


わたしはようやく落ち着いてきた。

まだ鼻をすすったりはするけど、しゃくりあげることはなくなった。

視界もおおむね良好だった。まだ少しまつ毛に付いた涙が、街明かりを乱反射していた。


でも、凛ちゃんの顔を見ることはできなかった。

わたしが泣いている間、彼女は何もしようとはしなかった。


同じ体勢のまま、泣き止むまでずっと待ち続けていた。

わたしの気が済むまで泣かせてくれたのだと思う。

その優しさは、わたしにとってはとてもありがたかった。


だけど、冷静になった今、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

だからわたしは、さっきから彼女の胸元から上を見ることができずにいた。


不意に、頭上からため息が聞こえた。


「綾」


それから、凛ちゃんに名前を呼ばれる。

最初とは打って変わって、穏やかな口調だった。もう怒ってはいないらしい。


それでも、やっぱり顔を上げることへの抵抗は消えない。

何もせずに、わたしは彼女の着ているシャツに書かれた、読めもしない英文を眺めていた。

そうやっていると、少し間をおいて、もう一度ため息が聞こえた。


「えっ?」


視界の隅で動くものがあった。

そして、頭にぽん、と何かが置かれた。

何かは髪の流れに沿って、ゆっくりと動き始める。


気付けば、左肩を掴んでいた手の感触が消えていた。

そこで初めて、凛ちゃんが頭を撫でているのだと知った。

右肩はまだ、彼女の左手が掴んでいる。

でも今は、添えられている、と言った方が正しいような掴み方だった。


おそるおそる顔を上げる。

凛ちゃんは笑みを浮かべていた。


「お前の気持ち、よく分かったよ」


「……ありがとう」


嬉しそうにも、泣き出しそうにも見える、複雑な笑みだった。


「一緒にいようか。来ちまったなら、もうどうしようもないしな」


「ごめんね……」


少し釘を刺されはしたけど、それは一番聞きたかった言葉だった。

申し訳ないという気持ちはある。でも、どうしても頬が緩んでしまいそうになる。

だから、釣り上がる口の端を隠すように、顔を伏せて謝った。


「……あ」


突然、抱えていた子猫の体が、小さく動いた。

体が温まって、元気が出てきたのかもしれない。

子猫はもぞもぞと動き続けると、胸元にうずめていた顔を上げる。


目と目が合って、お互いに固まる。

子猫は寝ていたらしく、目頭に小さな目やにが付いていた。

やがて、じっとしているのに耐えかねたのか、子猫が大きくあくびをする。

その様子がとても可愛くて、思わず吹きだしてしまった。


「こいつ、どうしたんだ?」


凛ちゃんが少し屈んで尋ねてくる。

子猫の顔を見たいのか、左右から覗きこむように様子をうかがっている。

人前ではあまり話さないけど、前に可愛い動物が好きだと言っていたことを思い出した。


「ここに来る途中で拾ったの」


「へー……可愛いな。あたしも抱いていいか?」


「もちろん。はい」


子猫のお尻と前脚のすぐ下を持って、凛ちゃんに差し出してやる。

慎重に子猫の体を受け取った彼女は、ぎこちなくわたしの抱き方を真似した。

表情には緊張の色が浮かんでいた。だけどすぐに、締まりのない笑顔で上書きされる。

子猫にあれこれと話しかける口調は、赤ちゃんに話しかけるようなトーンだった。


その光景を横目に、視線を落とす。

子猫の抱かれていた部分はまだ濡れていた。


さらに、抜け落ちた白い毛も、カーディガンに数え切れないほど付いている。

あとできちんと凛ちゃんには謝っておこう。そして、すぐに洗って返そう。そう思った。

もう、洗って返そうと思ったら彼女がいない、なんてことはないけど。


「さて」


そう呟いて、凛ちゃんは自分の自転車のかごに子猫を入れた。

スキンシップにはもう十分に堪能したらしい。声はまだ興奮の余韻が残っていた。

それから、おもむろに自転車のスタンドを上げる。


「ずっとここで立ち話してるのもあれだしな。どこか落ち着けるとこに行こうぜ」


凛ちゃんが顔を上げ、わたしの来た道の方を見ながら言う。

そのことに関しては、わたしも同意見だった。

時間はたっぷりあるけど、いつまでもここで過ごす道理もない。


「うん」


断る理由もないので、提案に乗ることにした。

むしろ久しぶりに、人目も気にせずにデートができることに、幸せを感じていた。


「どこにすっかなぁ。言ってみたはいいけど、なんにも考えてねぇや」


「時間はあるし、歩きながら考えてもいいんじゃないかな?」


凛ちゃんの隣に移動して、そう提案してみる。

繁華街には慣れ親しんだお店もある。

それに、気になるお店だって新しく見つかるかもしれない。


凛「それもいいかもな」


凛ちゃんの返事に合わせるみたいに、子猫が鳴いた。

本当に言葉が分かっているような気がして、なんだかおかしく思えた。

凛ちゃんは今のことをどう思ったのだろう。気になって、彼女を見てみる。


凛ちゃんと目が合った。彼女もわたしを見ていた。

その顔には、すでに笑顔が浮かんでいる。


彼女が何を言いたいのかは、聞かなくても分かった。

言葉の代わりに、わたしも笑顔を返した。

おまけに、ハンドルを握った彼女に手に、わたしの手を重ねて。




そしてわたしたちは、どちらからともなく歩き始めて、無人の交差点を後にする。


視界の先には、どこまでもふたりきりの街が、世界が、広がっていた。

元ネタはスピッツのロビンソンです。

読み終わったら歌詞の解釈について調べて、もう一度読んでみてください。

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