朱色
時計が七時を打つ。陽はすでに昇っていて、雨戸から漏れる光の条が部屋に舞う埃を浮かび上がらせた。僕は嫌なものを見た気持ちがして布団から這い出た。すると空気の渦巻きが起こって白い繊維のようなものがぐるぐると光の中を廻りだした。息が詰まって慌てて窓を開放すると、うすら寒い外気がさらりと入ってきて、乾いた土の匂いがかすかに感じられた。しかし朝の陽光と空気を浴びても気持ちは一向に清々しくはならず、身体も沈むように重たいままであった。ひどい悪夢を見たせいか。それとも夜のあいだに埃を吸い過ぎたのかもしれない。
とんとん、という音が奥の間から響いてきた。包丁が俎板を敲くような甲高い音ではなくて、分厚い本が続けざまに倒れた時のように鈍い音がする。それは数日前から病気をして奥に臥している母の咳の音であった。流行の感冒かもっとひどい病気かも知れず僕にうつすといけないからというので、普段は使わない部屋に寝床をつくって閉じ籠っているのである。部屋の空気が悪いのか頻りにとんとんとする音がする。それを聞くたび僕は心配でならなかった。空気のかたまりと一緒に命の一片まで吐きだしているようで、日ましに咳の音の力が弱まる気配がして悲しくも恐ろしくもなった。
母が台所に立てないので代わりに僕が御飯を拵えなければならない。よく手伝いをしていたから作業手順には何となく覚えがあるけれども、料理の肝心なところは分からない。ここ数日の実践でようやく調理器具が手に馴染んできたものの、依然簡単なものしか作ることができなかった。僕は母のために粥を作って滋養になるように卵を茹でて添えた。盆に並べると粥の方まで何かの卵に見えて気味が悪かった。だから真中にくすんだ梅干しをひとつ落とした。するといくらか米の様相を回復した様子だった。
盆を抱えて奥の間へ向かった。いやに暗い廊下は床だけがどろどろと黒光りしている。戸を引くと母はこちらに背を向けて横臥していた。その姿勢は昨晩に見た時とひとつも変わった所がない。髪の毛や布団にも乱れが無く、前よりも却って整然としているように思われた。
「おはようございます」
僕は音色のない声を出して母の頭上へ放ってみた。すると母は微かに唸り声をあげた。しかし寝ているのか起きているのか判然としない。だから今度ははっきりと声に出して言った。
「朝御飯を置いておきます」
しかしその音は四辺に響することなく虚空に消えて入った。抱えて来た盆を母の枕元に置く時しっかりと石鹸の匂いがした。いつの間に風呂に入ったのだろうと不思議に思っていると、緊密な静寂を打ち破って母が大きな咳をした。僕は咳をしても母の身体の頭の微動だにしないのを見てぞっとした。とんとんという音が母のもとを離れて独立して鳴っている。それがこの部屋を歩きまわる死に神の足音のように思われて怖くなり急いで部屋を出た。
逃げるように台所に戻ってきて僕はまた御飯の支度をした。そろそろ先生が起きる頃なのである。普段から先生は起床が遅くて午近くなることもよくあるけれど今日は教室があるから早起きする筈である。気難しくて頑冥な人であるから慕う生徒は多くなかったけれど、週に二回ほど教室を開いて書道を教えているのであった。先生の指導はもちろん厳しく、加えてそれ以外の分野でも常に厳格であったから僕はいつ怒られるか知れずびくびくしていた。自分の流儀にも忠実で、数日前から僕が作るようになった食事もすこし味が気に入らなければ途端に不機嫌になって手をつけなくなってしまう。だから僕は先生が以前好んで食べていたものや、それらの食べ物から類推して朝食を選ぶのだった。竹の子をバターで炒めて、油揚げを軽く炙り、食膳の準備を進めているとちょうど先生の呼ぶ声がした。
「朝食を持って参りました」
座敷の襖を前にしてそうと言うと、しばらくして隣の、教室にしている十畳の間からこちらへ運んでくれというような意味のくぐもった響きが聞こえてきた。先生はふだん起居する座敷でしか食事をしないから妙だと思えてどことなく不安になった。踵を返して教室に入ると先生は奥の広い卓子に着いて背筋を伸ばし屹とこちらを見据えていた。皓皓と輝く障子の光を受けて先生の真白な顔だけがゆらゆらと書道具の並びのうえを遊動している。部屋が広いせいか中々暖まらず、床から鋭い冷たさが上がってきて身体のところどころに寒気がした。
先生のもとに食膳を持っていく間中も僕は所作の一つ一つを検分されているような気がして緊張した。ふらふらする手をなんとか働かせて配膳を終えると、そのまま畳に目を落として抑揚ない声で報告した。
「母さんの具合はまだ良くならないようです」
先生は深く沈黙したまま身動きひとつしない。僕は先生の顔を見られなかった。背中に流れる時間がじんじんと痛むような気がした。僕はもう退きたかったけれど、きっかけを掴めずにいて、ついに助けを求めるように先生の顔を仰ぎ見た。
先ほど障子紙の反射で先生の顔が白く見えていたように思ったのは、先生の顔から血の気が失せていたからなのだと判った。白い顔にのった目鼻はたった今配分されたように定まらず、色味の失せた唇は皺の集合に変わり果ててしまっていた。先生の顔は表情というものを形成するにまるで間に合っていなかったのである。僕は全身に水を浴びた気持ちがした。先生の乾いた瞳は教室の入り口の襖の方を向いて針を刺したように動かないままだった。僕は頭がくらくらして、知らぬうちに泣いていた。だんだん遠くから僕の名前を呼ぶ声がしてきて、いよいよ駄目になってしまうのかと思うと余計に涙が出てきた。次第に声が大きくなって、玄関に人が来ているのが判ると、はっとして涙を拭き拭き一目散に教室を飛び出した。
「おや。お留守かなと思いました」
玄関口にぼんやりと立つ人影が言った。それが生徒の一人で年長者の唐木君であることが判ると僕は大いに驚いた。
「こんな早くから一体どうしたのですか。教室の時間はまだまだですよ」
唐木君は目を伏せて苦笑いした。よく見れば道具の入った鞄など提げておらず、教室にやってきたのとは違うらしい。
「先生はいま御飯の最中です」僕がそう言うと唐木君は急に真剣な顔つきをした。
「先生がいるのですか」
「奥の教室にいらっしゃいます」
「なら会わせて下さいますか。どうしてもお話がしたいのです」
僕は弱ってしまった。先生は食事中に来客の相手をするのをひどく嫌ったのである。それに今朝の先生の様子も合わせて考えると断るより他にない。しかし唐木君の方も相当な要件であることは確かである。逡巡した挙句、僕は唐木君を招き入れた。彼が家に上がるとき、土壁に深い影がにゅっと伸びるのを見た。
唐木君を連れて教室に戻った。なぜだか廊下を歩いている最中、背中に唐木君の視線のようなものを感じた。
「食事中に失礼します。唐木君が見えました」
先生の返事はなかった。何かを確かめるように僕たちはいっぺん顔を見合わせた。そのとき唐木君はまた苦笑いをしてみせた。襖を開けて教室に入ると、相変わらず先生は卓子の上から白い顔でこちらを睨んでいた。僕は重たい足を引き摺って先生の方に歩み寄った。近づくと先生が怒った顔をしているように見えて、やっぱり表情が戻ったのだと嬉しくなった。しかしよくよく考えれば元々そういう顔をしているだけかも知れなかった。
「唐木君が先生に話があるそうです」
振り返って唐木君を見ると蒼い顔をしてじっと正面の方を見つめていた。向き直るとき先に運んだ朝食にまったく箸がつけられていないのが目に入った。
「先生はどうして何もお食べにならないのですか」
心に沈んでいた不安がみるみるうちに浮かび上がってきて堪らなくなった。
「先生の好きなものを用意してあるのにどうして食べて下さらないのですか。味付けが気に入らなかったですか。盛り付けの仕方が悪うございましたか。それとも僕の手が薄汚れているからでございましょうか」
僕が今にも泣き出しそうにしていると、唐木君が急に教室を出て行ってしまった。もう一度先生を見ると出来の悪い人形のように虚ろな顔をして黙っていた。僕は仕様もなく唐木君を追い掛けるため静かに部屋を出た。襖を閉めてため息をひとつすると奥から先生が確かな声で、朱墨液を持ってきてくれと言った。僕はたいへん大きな使命を得た気持ちがして、やっと先生に報いることができると思うと嬉しくなりすぐに持っていくと襖越しに約束した。
唐木君は玄関に戻って式台に座り込み、固まったように動かなかった。
「どうしたんですか」
駆け寄ってそう訊くと唐木君は僕の顔を覗き込んだ。
「いや先は驚きました」
「先生は母が臥してからずっとあの様子なのです。僕にも滅多に口を聞いてはくれません」
「その先生がいると君が言ったときは大層驚きました」
「なにを言うのです」
「最近よく寝られていますか」
「分かりません。なんだか悲しくて眠れないことはよくあります」
「それもそうでしょう。ところで僕の家へ来ませんか」
「母の看病があって行けません。それにその間は先生の世話もせねばなりません」
「いい加減に目を醒ましてください」
「何です」
「どこに先生や君のお母さんがいるというのですか。二人ともとうに死んでしまってもういないのですよ」
床板がふわりふわりと浮き沈みして気持が悪くなった。唐木君の顔の線がだんだん緩くなって褐色の液が辺りに染みだした。
「先生も母さんも死んでなんかいません。生きています。生きているのです。二人が見えないというあなたの方こそ本当は死んでいるのではありませんか」
唐木君は僕の肩を掴んだ。
「僕の家へきて休みましょう」
僕はある確信をした。こいつは本当の唐木君ではない。唐木君の姿をして先生や母の命を取りにやってきた死に神なのである。僕は肩にかかった死に神の手を振りほどき、土間の隅にまとめて置いてあった割れた硯の一片を取りあげた。
「何をするのです」
僕は硯の塊を強く握りしめて振りかぶり、それを見て今にも逃げ出そうとする死に神の頭に思いきり叩きつけた。倒れた死に神の頭髪のあいだからは朱墨液が滾々と湧いて出た。僕はそれを手の硯の欠片に受けた。液の出の勢いが次第に弱まって、死に神はするすると下に沈み込んで玄関床の模様になった。僕は硯の中身をこぼさぬように気をつけながら跳ねるように教室へ駆け戻った。