『愛人の別邸から半年帰らない夫へ。公爵家の全口座を凍結し、その屋敷(私の私財)も本日付で立ち退き処分にいたしました』
夫であるアルベルト公爵が、郊外の別邸に囲った男爵令嬢のもとへ入り浸るようになって、半年が過ぎた。
当初は「領地経営の視察」などと見え透いた嘘をついていたが、最近では連絡すら寄越さない。社交界では、「公爵夫人は冷遇されている」「そのうち離縁されて、愛人が本妻に納まるのでは」と、面白半分の噂が囁かれていた。
当の公爵夫人エレノアは、執務室で優雅にダージリンティーを傾けていた。眉ひとつ動かさず、手元の帳簿に赤ペンを走らせている。
「……奥様。旦那様から、また至急の支払い請求が届いております。宝飾店、高級ドレス店、それに高級レストラン。三件合わせて、金貨四百枚ほどになります」
家令のセバスチャンが、眉根を寄せて請求書の束を差し出した。
エレノアは受け取ろうともせず、ふっと微笑んだ。
「セバスチャン。私は怒っていますのよ」
「は……? 失礼ながら、大変穏やかなお顔に見えますが」
「本気で怒っているときほど、淑女は笑顔を崩さないものです。半年も猶予を差し上げましたのに、あの方はお金が湧き出る泉から、勝手にいくらでも溢れてくるとでも思っていらっしゃるのかしら」
エレノアは公爵家に嫁いで以来、傾きかけていた財政を立て直し、自ら商会を立ち上げて投資を成功させた。公爵家の財産を五倍に増やしたのは、ほかならぬ彼女だった。
公爵家の実質的な財布の紐を握っているのは、夫ではなくエレノアである。
「これより、資金の蛇口をすべて閉めます」
「承知いたしました。どの範囲まで止めましょうか?」
「すべてです。旦那様が公爵家の名を使っている手形と信用枠は、本日正午をもって停止。王立銀行と中央商工会議所にも、私の保証がない決済は認めないよう通達してください」
エレノアは一度、帳簿から顔を上げた。
「それから、あの別邸は私の持参金で購入した私有財産です。旦那様への無償使用の許可を、本日付で取り消します。使用人の給与も私の個人口座から支払っていましたから、そちらも停止なさい」
「かしこまりました」
エレノアは羽ペンを取り、王立銀行と中央商工会議所への通達書、それに別邸の使用許可取り消し通知へ、淀みなく署名した。
「あの方の個人口座には、いくら残っていたかしら?」
「……銀貨十五枚ほどかと」
「あら。庶民が三日暮らすには十分ですわね」
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その日の夕方。
王都でも指折りの高級宝石店で、アルベルトは愛人のセリアを隣に座らせ、豪快に笑っていた。
「セリア、この大粒のエメラルドの首飾りはどうだ? 君の瞳によく似合う」
「まあ、アルベルト様! 素敵ですわ。こんなに高価なもの、本当にいいのですか?」
「構わんさ。俺はアルベルト公爵だぞ? 店主、公爵家のツケにしておけ」
鼻高々に告げたアルベルトに、店主は揉み手をやめた。冷や汗を浮かべながら、深く頭を下げる。
「……申し上げにくいことでございますが、閣下。先ほど王立銀行と中央商工会議所より通達があり、閣下の名義による信用決済は停止されました」
「……は? 停止だと?」
「はい。エレノア公爵夫人名義の決済保証が取り消されたため、今後は現金でのお支払いのみ承ります。こちらの首飾りは、金貨百五十枚でございます」
「ば、馬鹿な! 俺は公爵家の当主だぞ!」
アルベルトは慌てて懐を探った。しかし、出てきたのは小銭入れだけだった。中身の銀貨が、寂しく音を立てる。
「アルベルト様……? 買ってくださるのではなかったのですか?」
セリアの視線が冷えた。
「ま、待て。何かの間違いだ! 別邸に戻れば現金があるはずだ!」
青ざめたアルベルトはセリアを連れて馬車に飛び乗り、郊外の別邸へ向かった。
しかし、門前で彼を待っていたのは、さらなる現実だった。
別邸の前には、荷物をまとめた使用人たちが並んでいた。
「な、何をしている! 早く中へ入れろ!」
「旦那様、本邸から給与の支払いを停止するとの連絡がありました。我々の給与は、すべて奥様の個人口座から支払われていたのです。無給で働き続けるわけにはまいりません」
「それに、この別邸は奥様の私有財産でございます。旦那様への無償使用の許可は、本日正午をもって取り消されました。鍵も交換済みです」
執事が差し出したのは、エレノアの署名と花押が入った通知書だった。
「な……エレノアの私有財産だと? ここは俺の屋敷ではないのか!」
「閣下がお買いになったのは、庭の噴水くらいでございます」
使用人たちは一礼し、アルベルトに背を向けた。
重い鉄門はすでに閉ざされていた。アルベルトはその前に立ち尽くす。
「ちょっと、アルベルト様! どういうことですの? お金持ちの公爵様だからお付き合いしてあげていたのに、一文無しなんですか?」
「セ、セリア、待ってくれ! 本邸に戻れば金はある。エレノアに話せば、すぐに元通りに……」
「触らないで! お金のない男に用はありませんわ!」
セリアは身につけていた装飾品を抱え、通りかかった辻馬車を拾って逃げ去った。
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翌朝。
身なりを乱し、泥だらけの靴で本邸の大広間に駆け込んできたアルベルトは、朝食をとっていたエレノアを見つけるなり怒鳴りつけた。
「エレノア! 貴様、何の真似だ! 口座の保証を取り消し、別邸から俺を閉め出すとは……夫に対する反逆だぞ!」
エレノアはティーカップをソーサーに置き、ふわりと微笑んだ。
「あら、おかえりなさいませ。ずいぶんとお疲れのご様子ですこと」
「ふざけるな! すぐに決済保証を戻せ! 俺は公爵家の当主だぞ!」
「当主? 公務も領地経営も私に丸投げし、半年ものあいだ愛人のもとで酒を飲んでいた方が、どの口で当主を名乗るのですか?」
エレノアが目配せすると、セバスチャンが分厚い帳簿の束をテーブルに置いた。
「過去五年にわたり、あなたが愛人や放蕩に使った公爵家の公金。それに、私の個人資産から立て替えた金額の一覧です。総額、金貨八千枚」
「は……八千枚……?」
「公爵家の領地収入だけでは、とても賄える額ではありません。私が商会の利益で補填していたからこそ、あなたは贅沢を続けられたのですよ。まさか、ご自分の才覚で好きなだけお金を使えていたとでも思っていらっしゃったのですか?」
アルベルトは声を失い、がたがたと震えた。
「腹を立てるのも無理はありません。ですから、選択肢を差し上げますわ」
エレノアは扇を広げ、静かな眼差しで夫を見つめた。
「一つ。この借金を返済する責任を認め、公爵位を実直な弟君に譲ること。そのうえで、あなたは生涯、修道院で静かに暮らす」
「そ、そんな……。もう一つは?」
「もう一つは、公爵位を失ったうえで、借金の返済に充てるため鉱山で働くこと。身ひとつで屋敷を出て、借金取りに追われる暮らしを送ることになります。どちらになさいます?」
エレノアはテーブルの上の書類を指先で揃えた。
「どちらを選ばれても、私が立て替えた金額の記録と証拠は、すでに公爵家の評議会へ提出してあります。あとは、あなたが自分の責任を認めるかどうかです」
「待ってくれ、エレノア! 悪かった、俺が悪かった! 愛人とは今すぐ手を切る。これからはお前だけを愛する。だから、どうか元に戻してくれ!」
床にすがりつき、涙を流して哀願する夫。
かつては誇り高く見えた背中が、今はただ小さく震えていた。エレノアはその姿を見下ろし、ふっと息を吐いた。胸の奥に渦巻いていた冷たい怒りが、わずかにほどけていく。
けれど、憐れみが湧いたからといって、彼のしたことが消えるわけではない。
「誰の稼ぎで暮らしていたのか、身をもってお学びになるといいですわ。――連れて行きなさい」
衛兵たちがアルベルトを立たせ、両脇を抱えて大広間の外へ連れ出す。彼の声は、扉の向こうへ遠ざかっていった。
静けさが戻ると、エレノアは席を立ち、朝の光が差し込む窓辺へ歩み寄った。
庭の木々には朝露が光り、涼やかな風がカーテンを揺らしている。
胸に残っていたのは、勝利の喜びだけではなかった。人を裁き、突き放すことの苦さと、半年ものあいだ張り詰めていた心の疲れがあった。
エレノアは窓枠にそっと手を置き、閉じた瞼の裏に、かつて誓いを交わした日のことを思い浮かべる。
愚かで、身勝手で、すべてを失ったあの人。いつの日か、自分の過ちと向き合い、虚飾のない一人の人間として、穏やかな心を取り戻せるのだろうか。
今はまだ、許すことなどできない。
けれど、いつか彼の魂の平安を心から祈れる日が訪れるように。
エレノアは胸元でそっと両手を組み、ほんのひととき、祈りを捧げた。
目を開けると、秋の空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
「さあ、お仕事を続けましょうか」
振り返った彼女の微笑みには、先ほどまでの冷徹な刃に代わって、新しい朝を迎えた人の穏やかで凛とした光が宿っていた。




