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8 売約済みの絶望、死神の品格


 ネグリジェの胸元を握りしめ、熾祈に呪縛を刻まれた玲奈が、熱っぽい吐息を漏らしたその時だった。

 豪奢な私室の扉が、音もなく開かれた。


「――おやおや。重役出勤かと思えば、随分と熱心な警護ぶりだ」


 部屋に流れ込んできたのは、上質な香水の香りと、それを上塗りするような圧倒的な威圧感だった。現れたのは、白いタキシードを完璧に着こなした初老の男、ヴィクター・ノヴァ。そしてその斜め後ろには、慇懃無礼な笑みを貼り付けた右腕、エドワードが控えている。


「ヴィクター様……」


 玲奈の身体が、緊張で強張る。彼女にとってヴィクターは救い主であり、絶対的な敬意を捧げるべき主君であった。ヴィクターが歩み寄るたび、室内の空気が物理的な重さを伴って熾祈にのしかかる。その重心の置き方、無造作に下げられた腕――熾祈の目は一瞬で見抜いた。この男はただの富豪ではない。MCAの一流エージェントに匹敵する格闘術と、数多の修羅場を潜り抜けた銃筋を隠し持っている。


「熾祈さん、下がってください。この方は……」


 玲奈が案じるように声を漏らすが、熾祈は動じない。ヴィクターの放つ凄まじい圧を正面から受け止め、冷徹な視線をぶつけ返した。


「私の玲奈に、あまり無作法に触れてほしくないな。MCAの死神というのは、愛の囁き方も血生臭いようだ」


 ヴィクターの言葉には、所有物への歪んだ愛と、強者の余裕が混じっていた。彼は玲奈の顎を優しく、だが拒絶を許さぬ力で持ち上げる。玲奈は震えながらも、主君の意に従うように目を伏せた。


「……勘違いするな。俺は仕事でここに来ているだけだ」


 熾祈が冷淡に応じると、傍らのエドワードが、眼鏡の奥の目を狡猾に細めて口を開いた。


「閣下、左様でございます。しかし熾祈殿、どうも貴公が動く先には不穏な空気が漂う。閣下の大切な商品をこれ以上危険に晒すのは、いかがなものでしょうか」


 その瞬間、熾祈の視線がエドワードの袖口に鋭く固定された。

 エドワードが指先を動かすたび、カフスボタンが微かに擦れ、金属同士が噛み合う不自然な電子音を立てている。それは、多次元犯罪組織ヴァニシング・オーダーが通信を暗号化する際に用いる、超小型スクランブラー特有の動作音だった。


 さらに、彼が眼鏡を直した際、首筋に刻まれた不可視の刻印が、VIPルームの特殊な紫外線照明に反応し、ほんの一瞬だけ青白く浮かび上がる。それは秩序の消失を掲げる組織への忠誠を示す、消せない裏切り者の烙印。


(こいつが昨夜の襲撃の手引きをした張本人か。主君の『商品』を敵に売り飛ばし、一方で忠臣を演じるとはな)


 熾祈はエドワードの顔にこびりついた、取り繕ったような偽りの脂汗を見逃さなかった。


「エドワード。熾祈君にあまり失礼を言うな。彼は寄付の返礼品のようなものだ。もっとも、商品の価値を理解できない男に護衛を任せるのは、些か不安だがね」


 ヴィクターが冷笑を浮かべ、熾祈の至近距離まで足を進めた。超一流の武人だけが放つ、皮膚を焼くような殺気。並のエージェントなら腰を抜かすであろうその圧に対し、熾祈はふっと、鼻で笑った。


「笑わせる。素人が大層な口を叩くな」


 熾祈はエドワードの横を通り過ぎる際、彼にしか聞こえない低音で囁いた。


「……エドワード。お前のカフス、耳障りな音が鳴っているぞ。掃除のし甲斐がありそうだ」


 エドワードの顔が、一瞬で土気色に変わった。

 熾祈はそのまま、ヴィクターの放つ重圧を背に受けながら、悠然と出口へ向かう。


「仕事は完遂する。ただし、俺の掃除の範囲に、お前たちが含まれないことを祈っておけ」


 扉が閉まる瞬間、熾祈が見たのは、敬愛する主君の傍らで、それでもなお、自分という異物の背中を、魂を吸い込まれるような眼差しで見つめ続ける玲奈の姿だった。



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