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4 毒の花


 ボウモアの二杯目が運ばれてくる頃、バー『サイドテイル』の空気は、二人の男女が放つ異質な熱に侵食されていた。熾祈の放つ冷徹な静寂と、玲奈が撒き散らす華やかな動悸。その境界線上で、玲奈はストレートのウイスキーをゆっくりと喉に滑り込ませた。


「……熾祈さん。一つ、伺ってもよろしいかしら」


 玲奈はカウンターに頬杖をつき、切れ長の目を少しだけ細めた。潤んだ薄い緑色の瞳が、熾祈の横顔をじっと射抜く。


「あなたのような方が、金曜の夜にこうして独りきり。……恋人、はいらっしゃらないの?」


 ありふれた質問だ。だが、彼女にとっては、熾祈の城壁に空いたわずかな隙間を探るための、鋭いナイフの一突きでもあった。熾祈は視線すら動かさず、短く、切り捨てるように答えた。


「いない」


「え、熾祈さん程のお方に恋人が居ないなんて。周りの女性達の目は節穴かしら」


 玲奈は驚いたように目を見開き、それから可笑しそうに唇を綻ばせた。その言葉には、からかいだけでなく、本心からの感嘆が混じっている。これほどまでに男の魅力に溢れ、硝煙の香りを色気に変えてしまう男を、世の女たちが放っておくはずがない。


「……これからも作るつもりはない。一生な」


 だが、返ってきた言葉には、一切の迷いも、含みもなかった。あまりに断定的で、冷え切ったその響きに、玲奈は思わず息を呑む。冗談や強がりで言っているのではない。彼は心の底から、自分以外の誰かを人生に招き入れることを拒絶しているのだ。かつての女が残した、付き合わなければよかった、という呪縛をその背に負ったまま。


「……一生、ですの?」


「そうだ。俺にはこの生活が似合っている。誰とも関わらず、誰からも期待されない。それが一番の正解なんだ」


 熾祈はそこで初めて、玲奈の顔を正面から見た。その瞳には、憐れみも情欲もない。ただ、自分を追いかけ回すこの厄介な少女を、どうにかして遠ざけようとする実利的な光だけが宿っていた。


「お前は、自分がどれだけ美しいか自覚しているだろう。俺のような救いようのない男と下らない会話をしているより、まともな男を見つけて早く帰れ。お前を待っている場所があるはずだ」


 それは、究極の突き放しだった。男としての興味を微塵も抱かず、ただの美しい物体として玲奈を扱い、自分という汚泥から遠ざけようとする言葉。だが、玲奈の胸に去来したのは、屈辱ではなかった。熾祈は、自分を拒絶しながらも、その言葉の端々に、あまりに深い諦めを滲ませていたからだ。


 玲奈はさらに身を乗り出した。豊かな胸元がカウンターに押し付けられ、甘い毒のような香りが漂う。玲奈は賭けに出るように、その艶やかな唇を熾祈の耳元に寄せた。


「なら、熾祈さん。今夜、私と一夜を共にしてくださらない?」


 甘く、毒を含んだ誘惑。しかし、熾祈は表情ひとつ変えず、ただ静かに溜息を吐いただけだった。


「……いい加減にしろ。品のない言葉を軽く口にするな」


 その声は、怒りというよりは、分別のない子供を諭すような静かな重みを持っていた。


「一夜だ。吐き気がする。お前みたいなガキが、その言葉の重みも知らずに遊び半分で口にするな。俺のような汚れた男にそんなことを容易く口にすれば、どうなるかくらい分かるだろう」


 熾祈は、自分のような男に関わることで彼女の価値が損なわれるのを、当然の道理として案じていた。彼の中に宿る、不器用で冷徹な配慮が、たしなめるような言葉となって漏れ出したのだ。


 玲奈は、彼から向けられた言葉の温度に微かな衝撃を受けた。これまで自分を性の対象としてしか見ていなかった男たちとは違い、熾祈は彼女を一人の人間として、その尊厳を案じている。


(……熾祈さん、あなた、本気で私を突き放そうとしているのね)


 拒絶されているはずなのに、その根底にある歪な誠実さに触れてしまった彼女の瞳は、真実の熱を帯び始める。熾祈はマスターに向かって静かに告げた。


「マスター。俺にボウモアをもう一杯。それと、この娘にチェイサーを」


「あら、熾祈さん?」


「背伸びをして酒を飲んでも、身体に負担がかかるだけだ。それを飲んで、頭を冷やせ」


 無造作に玲奈の前へと押しやられた、冷たい水の入ったグラス。そのぶっきらぼうな、けれど確かな誠実さが滲む仕草を目の当たりにし、玲奈の胸の奥が熱く疼いた。


「ふふ。そんな風に優しくされたら、もっと熾祈さんのこと、意識しちゃいますよ」


 玲奈は差し出されたグラスを見つめ、それから熾祈の横顔を見て、くすりと、先ほどよりもずっと深く、確かな笑みをこぼした。彼を攻略対象として見ていたはずの心は、今、より純粋で、より執着に近い本気の興味へと塗り替えられていく。



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