3 喉に焼き付く余韻と、招かれざる再会
先週の金曜日、あの後の幕切れはあまりに呆気ないものだった。
熾祈が玲奈の分までまとめて勘定を叩きつけ、マスターに実力行使での連れ出しを命じた際、彼女は激昂するでもなく、ただ小さく、分かったわ、とだけ呟いて店を後にしたのだ。最後に向けられたあの薄緑色の瞳には、執着よりも寂寥に近い色が混じっていたように見えた。
おかげで、その後の数時間はひどく不味い酒を飲む羽目になったが、結果として彼女を生活から排除できたのだと、熾祈は自分を納得させていた。
それから一週間、灰原熾祈は再び死の淵を歩み続けていた。
MCA第三課の掃除屋としての任務は、多次元の調和を守るため、表沙汰にできない汚れを拭うことにある。今週の業務は苛烈を極めた。他次元へ情報を流出させていたスパイ、組織を裏切った情報屋、そして多次元の破滅を目論む狂信的組織。彼らと接触していた内通者を、熾祈は一昨日、人知れず処理したばかりだ。
熾祈にとって、金曜日という日は特別な意味を持つ。
それは多次元にまたがる数々の任務を完遂し、積み上げた死と欺瞞の記録にひとまずの終止符を打つ、区切りとして最も都合が良い日だった。一週間の果てに訪れる、喉の奥まで焼き付くようなスモーキーさと、それを凌駕するほどの開放感。やり遂げたという乾いた達成感。それらを一人静かに噛みしめる瞬間こそが、彼が掃除屋という地獄の住人で居続けるための、唯一の燃料となっていた。
その儀式のたびに、彼の心にはまた一つ、冷たく硬い澱が積み重なっていく。
かつての女が投げつけた「あなたと付き合わなければよかった」という呪い。それこそが熾祈にとって唯一無二の真実であり、彼が他者を排し、孤独に身を浸す理由となっていた。
ようやく訪れた金曜日の夜。
地下のバー『サイドテイル』の扉を開けたとき、彼が求めていたのは、琥珀の液体と、静寂、そして完全なる孤独だった。
(……あのお嬢様も、流石にもう来ないだろう)
熾祈はそう確信していた。先週、あれほど露骨な拒絶を突きつけ、最後はあんな形で追い出したのだ。二十歳そこそこの、何者かに飼われているような身の上の娘が、遊び半分で近づくには、自分という男はあまりに無機質で、救いがない。
彼は安堵と共にカウンターの隅へ腰を下ろすと、赤いシャツの袖を無造作に捲り上げた。
「……マスター。ボウモア12年。ストレートだ」
差し出されたグラスから立ち上る、燻り出したようなピートの香りが鼻腔を突く。熱い液体が喉を焼き、胃に落ちるその瞬間だけ、熾祈は掃除屋という役割から解放され、ただの一個人に戻ることができた。
だが、その至福の静寂は、あまりに呆気なく破られることとなる。
カラン、と。
軽やかで、それでいて自信に満ちたカウベルの音。
熾祈の背筋に、厭わしい予感が走った。振り返るまでもない。空気を一瞬で華やかに塗り替えるこの強烈な存在感は、この地下街でただ一人しか心当たりがない。
「あら、熾祈さん。待ちぼうけで寂しい顔をなさっているかと思えば、随分と自分に酔っていらっしゃるのね」
凛としていながら、どこか退廃的な艶を孕んだ声。熾祈は持っていたグラスを置き、天を仰いで、今週で最も深い溜息を吐き出した。
「…………また、お前か。九条玲奈」
「酷いですわね、そんな露骨に落胆しなくても。今夜の私は、先週よりもずっとあなた好みに仕上げてきましたのよ?」
九条玲奈は、磁石に引かれるように熾祈の隣へと座った。
今夜の彼女は、鮮やかなエメラルドグリーンのドレスを纏っている。背中を大胆に露出したその装いは、彼女の薄緑色の瞳をより深く引き立てていたが、それ以上に熾祈の視界を侵食したのは、その豊満な双丘の存在感だった。
深いVネックから覗く、吸い付くような白い肌。二十歳の瑞々しさを凝縮したかのような胸元は、彼女が呼吸を整えるたびにドレスの生地を押し上げ、危うい境界線をなぞっている。玲奈はあえて熾祈の腕に自らの柔らかな膨らみを押し当てるように身を乗り出し、切れ長の目で彼の横顔をじっと覗き込んだ。
「マスター、私にも同じものを。今日は、チェイサーなんて要りませんわ」
彼女はカウンターに肘をつき、豊満な胸を預けることでさらにその谷間を強調してみせた。高級な香水の香りと、剥き出しの肌の熱。夜の世界で数多の男を狂わせてきたであろう、本能を揺さぶる濃厚な色香。
「ねえ、熾祈さん。一週間、私のことを少しは思い出してくれました? 私はずっと、あなたのその赤いシャツの下に隠された熱のことばかり考えていましたけれど」
耳元で囁かれる、蕩けるような誘惑。玲奈はスリットから覗く脚を熾祈の膝に絡ませ、挑発的に微笑んだ。だが、熾祈は視線すら動かさなかった。その瞳は、眼前に差し出された極上の肉体美を、道端に転がる石ころと等価値であるかのように切り捨てている。彼はただ、空いた手で彼女の腕を、事務的な作業のように無造作に退けた。
「……そうか。なら、そのグラスを飲み干したらさっさと帰れ。お前を飼っている男が、夜道で心配しているだろうからな」
「…………えっ?」
玲奈の完璧な微笑みが、一瞬で凍りついた。
最大限の官能を持って迫った。それでもこの銀髪の男は、彼女を女として、いや、一個の生物としてすら認識していない。
「な、何ですの、その反応。私、これ以上ないほど誘惑したつもりですけれど。あなた、本当に血が通っていらっしゃるの?」
頬を赤らめ、憤慨と驚きが混ざったような声で迫る玲奈。彼女の豊かな胸が怒りで激しく上下するが、熾祈はその光景にすら呆れという感情しか抱いていない。
「……言ったはずだ。お前が誰だろうと、俺には関係ない。俺に必要なのは、金曜日の静かな酒だけだ。お前みたいなノイズじゃない」
熾祈は再びグラスを煽り、彼女を見捨てるように視線を切った。
「…………っ、ふふ、あははっ!」
絶句するかと思われた玲奈だったが、不意にその喉から、弾けたような笑い声が漏れた。自分の魅力が完全に無視された屈辱。けれど、その鉄壁の拒絶こそが、彼女の枯れかけていた心に、未知の高揚を注ぎ込んでいく。
(やっぱり、この人、最高に手強いわね。面白い。一筋縄で落ちないからこそ、粉々に打ち砕き甲斐があるというものですわ)
拒絶すればされるほど、征服欲が熱を帯びる。
「いいでしょう、熾祈さん。今夜は負けを認めて差し上げますわ。でも、一つだけ言っておきます。あなたのその城壁、いつか私が跡形もなく崩して、私の色に塗り替えてみせますから。覚悟しておいて?」
玲奈はムッとした顔のまま、けれどどこか嬉しそうに薄緑色の瞳を輝かせ、届いたストレートのボウモアを一気に飲み干した。
熾祈はただ、隣に居座る執念深い女の熱量に、今夜もまた酒の味が狂っていくのを、深い溜息と共に受け入れるしかなかった。




