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2 絡みつく微笑


 マスターが差し出した二つ目のロックグラスが、カウンターの上で小さな音を立てた。琥珀の液体の中で、丸く削られた氷が滑らかに自転する。


「……本気か」


 男――熾祈がようやく、隣の女へ短く言葉を投げた。

 ボウモア12年。慣れない者が口にすれば喉を焼き切られる劇薬だ。だが、九条玲奈は臆することなく、細い指先でグラスを引き寄せた。


「ええ。あなたが愛するこの液体の正体、私も知っておきたいのですわ」


 玲奈はそう言いながら、高いスツールの上でゆっくりと足を組み替えた。黒いシルクのドレスには深いスリットが入っており、白磁のような脚が地下の薄暗い照明の中で艶めかしく浮き上がる。アングラな店で男たちの理性を狂わせてきた、計算され尽くした誘惑の所作。


 だが、熾祈はその視界の端で揺れる美脚に、一瞥もくれない。


「……なるほど。潮の香りと、燃える愛の匂い。まるで、終わってしまった世界をそのまま瓶に詰めたような……とても、私好みの味ですわね」


 うっとりと目を細め、女はグラスの縁をなぞりながら熾祈に顔を近づけた。吐息が届くほどの距離。二十歳の瑞々しい肌と、夜の世界の毒が混ざり合った香りが男を包み込む。

 しかし、熾祈は淡々と自分のグラスを口に運ぶだけだった。隣にいるのが絶世の美女ではなく、ただの壁であるかのような徹底した無視。


「お兄さん。そのコートの汚れ……雨で濡れたにしては、少しばかり粘度が高いようですけれど。……MCAの第三課。掃除屋クリーナーさんでしょう?」


 熾祈の指が、かすかに止まった。グラスの向こう側、銀髪の隙間から覗く瞳に、一瞬だけ抜き放たれた刃のような絶対零度の鋭さが宿る。


「……何の話だ」


「とぼけないでくださいな。私の目は、本質を視るんです。今はしがない籠の鳥ですが、かつてはそれなりの家におりましたの。掃き溜めの鼠と、あなたのような狼の区別くらいはつきますわ。それが、九条玲奈という哀れな女の、唯一の取り柄かもしれません」


 自らの名前を告げ、彼女は切れ長の目で男の瞳をじっと覗き込んだ。数秒の沈黙。ボウモアの氷がパキリと高い音を立てて割れる。


「…………灰原だ。灰原 熾祈」


 男は、根負けしたように己の名を口にした。


「熾祈……さん。素敵な響きですわね。どのような漢字を書くのか、伺っても?」


 玲奈はさらに距離を詰めようと、カウンターに身を乗り出した。熾祈の赤いシャツの襟元が触れそうなほど近く、ドレスの胸元を大胆に強調する。


「……熾火おきびの熾に、祈りの祈だ」


「熾火……静かに燃え続ける、消えない火。そして、祈り。……ふふ、汚れ仕事に従事する方の名にしては、あまりに切なくて、綺麗ですわね」


 玲奈はうっとりとその名を口の中で転がすと、わざとらしく熱っぽい視線を熾祈に絡めた。空いた方の手で熾祈の腕にそっと触れようとする。


「ねえ、熾祈さん。せっかくお互いの名前を知った仲ですもの。……今夜はこのまま、どこかへ連れ出してはくれませんか?」


 甘く、蕩けるような誘惑の声。並の男なら理性を失うであろうその一撃を、熾祈は視線すら合わせず、空いた方の手で彼女の指を――まるで飛んできた羽虫でも払うかのように、あまりに冷淡に押し返した。


「……マスター。ボウモアをもう一杯。次はストレートで。喉を焼き切りたい」


「…………っ!」


 玲奈は目を見開いた。

 自分の最強の武器が、一ミリも届かない。それどころか、彼は自分の存在を完全に、酒を飲む時間のノイズとして処理している。


「どうしてそんなに平然としていられるんですの!? 私、あなたの正体も見抜いたし、こうして名前まで交換したんですわよ? 少しは動揺するとか、私に興味を持つとか……何かあるでしょう!?」


 頬を赤らめ、二十歳相応の可愛らしさで迫る怜奈。熾祈は、ようやく面倒くさそうに彼女を一瞥した。


「名前を教えたのは、お前がいつまでも『お兄さん』などと呼び続けて耳障りだからだ。それ以上の意味はない。……お前が九条だろうと何だろうと、俺の知ったことじゃない。命が惜しければ、これ以上関わるな」


 熾祈はそう言い切り、届いたストレートのグラスを静かに口にした。その徹底した壁のような拒絶に、怜奈は一瞬絶句したが、すぐにその唇に不敵な笑みが戻った。


(……ふ、ふふ。やっぱり一筋縄ではいかないわね、あの人)


 これまで対面してきた男たちとは格が違う。

 けれど、その強固な城壁を崩した先に、一体どれほどの情熱が隠されているのか。そう思うと、彼女の心に久々に熱い高揚感が込み上げてきた。


「……いいでしょう。そこまで言うなら、私も決めましたわ」


 玲奈はマスターからチェイサーを受け取り、優雅に飲み干すと、再びスツールに深く腰をかけ直した。


「熾祈さん。あなたがこの店を出るまで、私も絶対に帰りませんから。……一晩中でも、お付き合いして差し上げますわよ?」


「……は?」


 熾祈が、今日初めて露骨に嫌そうな顔をして彼女を見た。


「よせ。お前みたいなのが横にいたら、酒が不味くなる。さっさと帰れ」


「嫌ですわ。あなたのその鉄壁がいつまで保つのか、見届けないと気が済みませんもの」


 玲奈は楽しげに、それでいて退かない決意を込めて、薄緑色の瞳を輝かせた。熾祈は深い、深い溜息を吐き、痛むこめかみを押さえるように片手で顔を覆った。


「……マスター。勘定だ。今すぐ、こいつの分もまとめて払う。だからこいつを外へ連れ出せ」


「あら、それはそれで嬉しいですわね。熾祈さんに奢っていただけるなんて」


「……っ、お前な……」


 心底うんざりしたという表情で熾祈が天を仰ぐ。かつての女には付き合わなければよかったと拒絶されたが、目の前のこの少女は、拒絶すればするほど楽しげに足元へ絡みついてくる。


 金曜日の夜の静寂は、お嬢様の勝ち誇ったような微笑みと、掃除屋の深い溜息によって、賑やかに塗り替えられていった。




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