1 金曜日の夜はバーに居る
この作品が、365日の我慢の中の楽しいひとときになれば幸いです
鉄錆の匂いと、焦げた肉の臭気。それが今週、灰原 熾祈が世界から拭い去ったものの総体だった。
多次元の結節点『ノーウェア』。天を衝くMCA本部ビルが「調和」という名の傲慢を掲げるその足元で、煤けた地下街だけが真実を吐き出している。
バー『サイドテイル』の重厚な扉を押し開けた熾祈の肩からは、どす黒い雨の雫が滴っていた。
「……マスター。ボウモア12年。ロックで」
低く、地這うような声。銀髪を濡らした熾祈がカウンターの隅に沈み込む。
漆黒のロングコートを脱ぎ捨てたその下。剥き出しになったのは、網膜を刺すほどに鮮烈な「真紅」のワイシャツだ。
返り血を隠すための赤。同時に、自身の返り血すらも受け入れるための死装束。
喉を焼くアイラモルトの暴力的なピート香だけが、鼻腔にこびりついた「死の残り香」を強引に上書きしていく。
(……これで、また一週間、生き長らえた)
誰とも関わらず、ただ独りで世界の汚泥を啜る。それが、かつての女に「あなたと付き合わなければよかった」と存在を全否定された男が選んだ、唯一の生存戦略――孤独という名の、絶対不可侵の聖域。
だが、その夜。聖域は、場違いな女の熱によって蹂躙された。
「――酷い匂い。……でも、この街で一番『純粋』な匂いですわね」
凛としていながら、どこか壊れた楽器のような退廃を孕んだ声。
プラチナブロンドを揺らし、九条玲奈が熾祈の隣へと滑り込んだ。
故郷を失い、今は卑劣な男の「商品」として消費される元令嬢。絶望の底で男たちの醜悪な欲望を視続けてきた彼女の瞳は、熾祈が纏う「圧倒的な死」と「純粋な孤独」を一目で見抜いていた。
玲奈は、計算された所作で身を乗り出す。二十歳の瑞々しい肌が、熾祈の赤い袖に触れそうな距離まで迫る。
(この男の城壁を壊したい。……いえ、壊されたいのかしら)
征服欲か、あるいは破滅願望か。玲奈がその美貌で熾祈の「闇」を抉じ開けようとした、その刹那。
「……向こうへ行け。酒が不味くなる」
熾祈は視線すら上げなかった。
玲奈という「絶世の美」を、彼は路上に転がる燃えないゴミと同等に切り捨てたのだ。
「…………っ」
玲奈の頬が屈辱に引きつる。
だが、その拒絶は冷たい水ではなく、彼女の魂にガソリンを注いだ。これまで彼女を性の対象か、守るべき弱者としてしか見なかった男たち。彼らとは次元が違う。自分の価値が、一ミリも通用しないという初めての快感。
「マスター。私にも同じものを。……ええ、今夜は彼と同じ毒をいただかないと、気が済みそうにありませんから」
獲物を定めた猛禽の瞳。
熾祈は不愉快そうに眉を寄せたが、もはや言葉をかける価値すら見出さない。その徹底した「無関心」という名の絶対防御を、どうやって崩し、跪かせ、自分を乞わせるか。
(面白いじゃない。……あなたが私に『行かないでくれ』と縋って泣くまで、私は絶対に諦めない)
それは、全てを失ったお嬢様が初めて見つけた、命を懸けるに値する「遊戯」の始まりだった。
硝煙香る掃除屋と、泥沼に咲く令嬢。
狂い始めた金曜日の夜が、今、静かに幕を開けた。




