幸せを呼ぶささやき
ここ数年、幸雄はテレビの音量を上げがちになり、裕子との会話でも聞き返すことが増えていた。 「以前より少し声が聞きづらくなったかな」 そう感じて購入したのが、最新型の補聴器だった。骨伝導タイプで耳をふさがず、周囲の環境音の中から「音声」だけを抽出して強調してくれる。
特に幸雄が気に入ったのは、特定の人物の声を登録する機能だった。 「幸雄さん、帰りに牛乳を買ってきてね」 台所で料理をしながら裕子が背中越しに発した言葉も、補聴器に内蔵されたAIがクリアな音声に補正し、耳の奥へ届けてくれる。それどころか、聞き逃しそうな依頼事項は、適切なタイミングで「リマインド」として再び耳元でささやいてくれるのだ。 おかげで、適当な相槌を打って裕子を怒らせることも、買い忘れで肩身の狭い思いをすることもなくなった。
一方で、裕子も驚いていた。 (最近、お父さんが急に優しくなったみたい……) たまに会話が噛み合わないのは歳のせいかと諦めていたが、最近の幸雄は、頼んだことは完璧にこなし、それどころか頼んでもいないちょっとしたプレゼントまで買ってきてくれるようになった。 「これ、駅前の店のモンブラン。食べたがっていただろう?」 仕事帰りの幸雄から箱を手渡され、裕子は胸を熱くした。数日前、テレビを見ながら「たまには甘いものでも食べたいわね」と独り言のように呟いたのを、彼は覚えていてくれたのだ。
実は、この補聴器のAIは、日々夫婦の会話を学習し続けていた。 AIは裕子の「買い物リスト」を管理するだけでなく、彼女が日常の中で無意識に漏らす「欲しいものリスト」さえも解析していたのだ。学習が進むにつれ、AIは裕子の願望が一定の閾値を超えたと判断すると、それを「買い物リスト」へと格上げし、幸雄の耳元でささやく。
『幸雄さん、裕子さんがモンブランを欲しがっています。駅前のお店で買っていきましょう』
幸雄は、それが補聴器の自発的な提案だとは夢にも思っていない。裕子から直接頼まれたものだと信じ込み、「分かったよ」と心の中で答えて店に寄る。
今夜もまた、耳元で優しいささやきが聞こえる。 『明日は裕子さんの好きなカスミソウを買って帰りましょう。食卓が寂しいと言っていましたよ』 「ああ、そうだったな」 幸雄は穏やかな笑顔で頷いた。
補聴器がついた「優しい嘘」は、今日も二人の間に小さな幸せを運び続けている。




