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掌(てのひら)の迷い、土の答え

作者: カズ

 二月半ばの空気は、硝子ガラスのように張り詰めていた。

 庭の梅の木が、寒空の下で遠慮がちに蕾を膨らませている。その庭に面した離れの小屋から、低いモーターの音が響いていた。


 高校三年生のあおいは、参考書のページをめくる手を止めた。

 文字を目で追っているだけで、中身が頭に入ってこない。明日は第一志望の大学入試だというのに、心臓の音ばかりが耳につく。

 居ても立っても居られず、あおいは縁側用のサンダルを突っかけて、音のする方へ歩き出した。


 引き戸を少し開けると、湿った土の匂いが鼻をくすぐった。

「……じいちゃん」

「おや、どうした。勉強はいいのか」

 電動ろくろに向かっていた健蔵けんぞうが、土にまみれた手を空中で止めて振り返る。七十を超えた白髪頭に、作務衣姿。かつて電機メーカーの営業本部長としてバリバリ働いていた頃の鋭い眼光は、今はすっかり穏やかなものになっていた。


「うん、ちょっと休憩」

 あおいは石油ストーブの前の丸椅子に腰を下ろした。

 健蔵は「そうか」と短く言い、再び手元の土の塊に視線を落とした。回転する台の上で、不定形だった粘土が、健蔵の指先に導かれるようにして器の形へと立ち上がっていく。


「それ、何になるの?」

「湯呑みだよ。だが、どうも今日は土の機嫌が悪い」

「土の機嫌?」

「ああ。俺の指に迷いがあるから、それが伝わっちまうんだな」

 健蔵は苦笑して、回転を止めた。ぐにゃり、と飲み口が歪んだ粘土を、ためらいなく潰して団子状に戻す。


「営業も同じだったよ」

 健蔵が独り言のように呟いた。

「こっちが『売らなきゃいけない』『ノルマを達成しなきゃいけない』ってガチガチになってると、不思議とお客さんは離れていく。逆に、『この人の役に立てばいいな』くらいのゆとりがある時の方が、大きな契約が取れたりするもんだ」

 あおいは膝の上で拳を握りしめた。その言葉が、今の自分に突き刺さるようだったからだ。


「……私ね、怖いんだ」

 ぽつりと、本音が漏れた。

「A判定はずっと出てた。先生も大丈夫だって言う。でも、もし明日失敗したらって思うと、息ができなくなる。それに、本当にこの学部でいいのか、将来何になりたいのかも、実はよく分かってないの」

 一度口に出すと、止めどなく言葉が溢れた。

「じいちゃんみたいに、やりたいことがはっきりしてればいいけど。私はただ、レールから外れるのが怖いだけかもしれない」


 健蔵は黙ってタオルで手を拭くと、棚から一つの湯呑みを取り出してあおいに手渡した。

 それは少し形の歪んだ、ごつごつとした手触りの茶色い湯呑みだった。

「これを見てみろ。俺が陶芸を始めて間もない頃の失敗作だ」

「え、失敗作?」

 あおいは両手でそれを包み込んだ。見た目は不格好だが、驚くほど手に馴染む。親指がちょうど、窪みにすっぽりと収まるのだ。


「真ん丸に、均一に作ろうとして失敗したんだ。ろくろの遠心力に負けて、形が崩れた。先生には『売り物にはならん』と笑われたよ」

 健蔵はストーブの上の薬缶やかんからお湯を注ぎ、茶葉を入れた急須にお湯をさした。

「でもな、俺はこの湯呑みが一番気に入ってる。計算して作った綺麗な円よりも、必死になって格闘した跡が残るいびつな形の方が、なんだか温かいんだよ」


 あおいは湯呑みの表面のざらつきを指でなぞった。

「歪んでても、いいの?」

「ああ。人生も同じだ。最初から完成された綺麗な形を目指そうとすると、折れる。明日のお前がどんな答えを出そうと、どんな結果になろうと、それは『失敗』じゃない。お前という器の、味になるんだ」


 元営業マンの言葉には、何千回と頭を下げ、何万回と笑顔を作り、そして定年後にようやく土という正直な相手に出会った男の重みがあった。

「迷ったら、手のひらの感覚を信じろ。頭で考えすぎず、目の前の紙と鉛筆、その場の空気に身を任せてみればいい。土と一緒だ。無理にねじ伏せようとせず、対話してこい」


 健蔵が淹れたほうじ茶が、あおいの手の中の湯呑みに注がれる。湯気と共に香ばしい匂いが立ち上った。

 一口すすると、熱さがじわりと胃の腑に落ちていく。強張っていた肩の力が、ふっと抜けるのが分かった。

「……なんか、ちょっと不格好だね、この湯呑み」

「だろう? だが、使い心地は悪くないはずだ」

「うん。悪くない」

 あおいは小さく笑った。


 翌朝。

 玄関で靴紐を結ぶあおいの背中は、昨日よりも少しだけ大きく見えた。

「行ってきます」

「おう。気をつけてな」

 健蔵は玄関先まで見送りに出た。

 あおいは一度振り返り、にかっと笑ってピースサインを出した。その笑顔は、どこか吹っ切れたような、歪みのない清々しいものだった。


 孫娘の姿が角を曲がって見えなくなると、健蔵はまた離れの小屋へと向かった。

 今日はいい器が引けそうな気がする。

 冬の朝の冷気が、心地よく頬を撫でていった。

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