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漱石が資本主義を相対化できた理由

 漱石の「門」を先日読み返したのが、読み返してはじめて気づいた事がある。それは、漱石が意識的に資本主義社会の描写をしているという事だ。

 

 主人公の宗助の親戚で安之助という若者がいる。彼は血気盛んな若者で、色々な事業をやろうとしている。独立して事業を起こして、夢をつかもうとしている。

 

 こうした青年は、我々にとってはあまりにも馴染みの存在で、空気のように我々のまわりに存在している。だから私も特にその描写に注意を払ってこなかった。

 

 また、同時に私達が百年以上前の漱石作品を自分ごととして読めるのは、このような空気感が我々の生きている世界と同じだからだ。

 

 ただ、私は読み返して、漱石はこうした青年を意識的に描いているのだな、とふと思った。こうした資本主義の描写は「それから」の中にもある。

 

 我々にとっては資本主義は当たり前の世界なのだが、漱石の世代にとっては維新の後にやってきた新しい世界だった。漱石はそのような世界を意識的に描いている。

 

 それと関連があると私が考えたのが、主人公夫婦だ。「門」の夫婦は不倫をしてできたカップルだ。宗助は親友の安井を欺き、安井の妻である御米と結婚した。宗助と御米はその為に公的な社会から追放され、社会の裏側で生きている。

 

 二人が不倫をした事と、安之助が事業を起こす事は何の関連もないように思えるが、私はこれが資本主義の世界なのだと漱石は意識的に描いていると思う。

 

 つまり、これらの人々に共通なのは、それぞれが自分の欲望を満たそうとしているという事だ。その為に、他者との闘争に入っていく。これが資本主義の世界であり、こうした世界で、宗助も、御米も、安之助も、みな自分の欲望を満足させようとしている。現代的に言えば「夢を叶えよう」としている。

 

 ただ、漱石が描く世界と我々の世界との違いは、漱石の世界では、夢を追ったり、欲望を満足させようとするその裏には、重たい罪の意識がある。これは封建社会の倫理がまだ背後に残っていた事を示している。

 

 資本主義が当たり前の世界に生きている我々は夢を追う事、欲望を満足させようとする事に対して、何ら罪の感覚を覚えない。我々はそれを当然の権利だと考えている。夢を追って、敗れると、我々はそれを「理不尽」と感じる。そうした行為を選択したゆえの運命だとは思わない。ここには感じ方の違いがある。

 

 私は漱石は、資本主義社会を俯瞰して描いていると思う。だから、漱石の作品にはどこか透明な、遠くから俯瞰して眺めているような視線で描写が続く。

 

 この俯瞰を漱石に可能にしたのは、漱石自身が自分を水陸の両棲生物に例えたように、彼が旧社会の秩序を知っていたからだろう。

 

 旧社会の秩序とは江戸時代の社会で、封建社会の倫理感だ。漱石は旧時代の倫理観の中に、新時代の個人的自由の在り方をはめ込んでうまく作品を作った。これはシェイクスピアと似た態度だと私は思う。シェイクスピアもまたキリスト教的な、「神の裁き」的世界観の中に、ハムレットのような内的自由を求める人間をうまくはめ込んでドラマを作った。

 

 ※

 以上のように、私は漱石は資本主義社会を俯瞰して、客観視して描く事ができた稀有な作家だったと考えている。それを可能にしたのは漱石が「一身にして二生を経る」生涯だったからに他ならない。

 

 それと比べると、例えば村上春樹のような作家は資本主義の価値観の只中に生まれて、その「外」を知らないので、資本主義社会を相対化できていないと私は感じている。

 

 村上春樹をあげるのは、村上が今を代表する人気作家という以上に意味はないのだが、村上の発言を読んでいると、資本主義社会での作品の消費の仕方を、他の時代にも当てはめているようだ。村上は「物語」という言葉を過剰に語るが、それは現代のものの見方の延長に過ぎない。文学は単に消費される物語ではない。


 だがそれがわからなくなっているのは、簡単に言えば、我々が資本主義社会の中で各々が受容しなければならない「運命」を失ったからだ。(この「運命」を与えるのは神か、それと似たような超越的存在であるので、この点において文学は宗教と接続する)

 

 私が不思議に思うのは、文学という領域において、過去の作家の方が未来にいると感じる事があるという事だ。

 

 その代表例がここであげた漱石なのだが、漱石においては資本主義社会を外側からみる事ができたので、その危機や限界を志向する事ができた。


 一方、村上春樹に留まらず、この世界の空気を当たり前のように吸っている私達にはこの世界の限界が見えない。海の中に生まれて、その外を見た事がない魚には自分が「海」にいる事がわからない。認識というのは常にそれとは違う他者によって生まれる。

 

 漱石の作品にはそうした視点があった。それ故に、巨大な世界が小さな書物に埋まっているような錯覚を覚える。対して村上春樹の作品は、大きな水槽の中で、どこにも行く当てがなく、最後には出口らしきものが指し示されるが、それはやっぱり水槽の中の単なる水泡の一つに過ぎず、結局答えは与えられない。

 

 要するに村上春樹は満足しているし、それは我々が満足しているか、少なくとも満足しようとしているのと同じ事だ。満足するとは海から出ない選択なのだが、実際、我々には海の外側が見えないのだから、そこから出る選択も頭に浮かばない。

 

 そんなわけで、私も何度通読したかわからない「門」を読み返して、やっと漱石が資本主義社会を意識的に描いていると気づいた。現代は「門」が書かれて、百年以上の月日が流れている。


 もしもこの先の文学の可能性を志向するとすれば、漱石が資本主義社会が生まれるその入口で世界を相対化できたのに対し、未来の漱石は資本主義社会が崩壊していく過程で、後ろを振り返るようにこの世界を相対化するのかもしれない。


 その為には資本主義社会が自壊していく過程が必要だが、私は、遅々としてだが、そうした過程は実際に起ってきているものと考えている。

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― 新着の感想 ―
資本主義は、かなり、大きい船にすぎないですよね。 だから、うっかりすると、海に落ちますし。一時的にでも、空中に地面でも作らないとですね。 勉強になりました。ありがとうございます。
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