平等を目指す運動の中にある二つの系譜、および真の多様性について
アメリカの多くの左翼はアファーマティブアクションについて語る。だがこの政策は平等主義に反するのではないのだろうか。私なりに検証してみた。
本来、平等とは、「人間を、その人の人種や民族、性別、思想、宗教によって待遇に差を設けずに、個人として取り扱うこと」を指す言葉だったはずだ。このような平等をここでは“消極的平等”と名付けよう。消極的平等において重要視されるのは人をどのように扱うかという“過程”であって、その結果社会がどのような状況になるかという“結果”ではない。この消極的平等に基づく運動としては、例えば、かつて世界中で起こった、男女同権主義に基づいて女性参政権を求めた運動や、かつてアメリカで起こった、人種分離を覆すための公民権運動(正確にはその中のメインストリームの運動)が挙げられる。
一方で、現代では、別の意味の平等を掲げる人が増えている。その平等とは、「すべての人種や民族、性別、宗教は対等な立場に立たなければならない。つまり異なる人種間、民族間、性別間、宗教間のパワーバランスを取る必要がある。」というある種の理想である。このような理想をここでは“積極的平等”と名付けよう。積極的平等において重視されるのは最終的にすべての人種や民族、性別、宗教が対等な立場に立つという“結果”であって、その“過程”ではない。この積極的平等を実現するために、一部の左翼はより弱い立場の人種や民族、性別、宗教を優遇する必要があると主張している。この積極的平等に基づく運動としては、例えば、アファーマティブアクションが挙げられる。しかし、これらの政策は、消極的平等に反する。また、これらの政策はこれらの政策で損をする人と得をする人の間の対立を煽ることになる。
また、真の多様性とはどのようなものだろうか?ひろゆきは「いろいろな法人があることが多様性、つまりアファーマティブアクションを実行するかどうかを各法人任せにすることこそが多様性につながる。」という旨の主張をした。私もそれに賛同だ。さらにいうとこの主張は人が他人をどのように扱うかについては基本的に人の自由に委ねることが多様性につながるという主張である。つまり、その主張に基けば例えば男性だけ、白人だけを雇用する法人があることも多様性につながるということになる。つまり、真の意味で多様性を尊重することは積極的平等にも消極的平等にも反する。
私は消極的平等に賛成で積極的平等や多様性には反対である。読者の方々はどうだろうか?
結果はその結果に至るまでの過程を肯定しない、弱者であるということは優遇されるべき存在であるということを意味しない、ということを私は主張したい。