Part 2-4 Bruder und Schwester 兄妹
John F. Kennedy International Airport Queens NY, USA 09:38 Jul 12 2019
2019年7月12日09:38 ジョン・F・ケネディ国際空港
大西洋の海から陸地に切り替わるとアナウンスが流れ到着15分前とシートベルトの着用を告げられた。
ニューヨークは初めてではなく3年前に別な請負で訪れていた。旋回してゆく朝の街並みを見下ろしいるとザームエル・バルヒェットに妹のリカルダが小声で尋ねた。
「ザム──今度のお仕事は難しいかしら?」
兄は鼻で軽く笑い妹に告げた。
「リタ、これまでに1度でも難しかったと思ったかい?」
妹は兄の肘を小突いた。
「いつもよ。兄さんはいつも一線を越えようとするから」
特殊な生業ゆえ確かにそうだとザームエルは思った。多額の金で極めて履行困難な仕事を請け負う。特別な力の扱いをあぐねていた子供のころふと目にしたノワールものの映画からこの道に踏みだした。
無限にも等しい回数──時間を遡る力。
それは何を行うにも最強の能力だった。
最初の資産は両親の遺産だった。ザームエルはその大して多くない財産を数ヶ月のデイトレで莫大な金に変えた。だが先を見通せる力を持っているとマネーゲームは色を失う。ただの財産を増やす方法に過ぎないと学生に間に気づいた。
能力を活かし他人から一目も二目もおかれる存在になるには何がある?
企業経営者であろうと政治家であろうと結果を手繰り寄せ判断を選択できるものには興味はなかった。自分をすり減らし際どい生き方にしか耀きを見いだせないと16で気づいた。
それ以来、闇の世界で生きている。
妹のリタも同じだ。
特殊な力を揃って持ち世の中から疎外されてしまう事を2人して本能で避けた。
旋回が終わり窓から見える光景が機体と並行に流れだす。その見下ろす家々は一瞬であり通り過ぎては別な家と入れ代わるだけで世の中は流れ続ける。
この流れに押し流されるものかとザームエル・バルヒェットは時々思った。
車輪が地を捉える寸前にリカルダ・バルヒェットが触れていた兄の手を握りしめた。
生業は特殊でも高所恐怖症は拭えない。リタが追い込まれる状況を俺がひっくり返す。俺が追い込まれる状況をリタが許さない。そうやって生きてきた。
機体が減速しタクシーウェイを回りターミナルへ向かう中、搭乗をねぎらうアナウンスがあり停止してからシートベルトを外しロッカーから荷物を下ろす様にと重ねて案内するCAをザームエル・バルヒェットは一瞬見つめ、いきなり捜査機関が突入してくる兆候を探った。
2人は身元不明のままインターポールやその時々に敵対する組織が捜し続ける国際的にも指折りの暗殺者だった。
入国審査を終えスーツケースを受け取った2人は流してくるイエローキャブを止め開いたトランクにスーツケースを入れてトランクを閉じ乗車した。
「ミッドタウンのパーク・ハイアット・ニューヨーク・ホテルに」
スーツ姿の若いカップルの男の方が後から乗り込みドアを閉じてそう告げた宿泊先は高級ホテルと知りどう見ても出稼ぎに見える運転手はご機嫌伺いの様な口調で仕事を繋げないか模索し始めた。
「有料道路からでよろしいでしょうか? ご商談でニューヨークへお越しになられたのですか? よろしければ商談中の移動ご用命も承っております。網羅して様々な企業をご案内できます」
後席で2人が目配せし合ったのをその様子をルームミラーでちら見してイケると運転手はハンドルにかけた指を強く握りしめた。
「有料道路でかまわないよ。それじゃあ行く先を変えてくれるかい。チェルシーのNDC本社に」
「了解です!」
チョロいと思いながら運転手はどのみちクイーンズ・ミッドタウン・トンネルを通りマンハッタン入りするのは変わらず楽な仕事だと陽気になった。
「お客様、NDCの関係者ですか?」
ドライバーに投げかけられ男の方が応えた。
「いや違うよ。取引先というだけだ。どうしてだい?」
「いえ、あそこの社長凄いらしいんですよ」
「何が凄いんだい。噂程度なら幾つか耳にしてるが」
運転手は合流路からIー678Nに入りおおよそ4マイルを流し始めた。朝の道路はペースが速く黙っていると客もこっちも気まずくなるとばかりに話し続けた。
「去年の10月も終わろうころに、街中で誘拐された女の子を助けるためにボディガードのサブマシンガン片手にバイクを追いかけてチェルシーからブルックリン橋近くまで走り抜いて銃撃戦やらかして女の子を奪回したらしいんですよ」
標的に関する資料はクライアントから渡されていた。民間軍事企業を立ち上げ本人はボディガード頼りにせず銃撃戦、格闘戦に卓越しているらしい事はザームエルとリカルダは理解していた。問題は銃を操るのが上手いとか、格闘技のレヴェルが高い事ではない。
標的を追い詰めるのは愚の骨頂。
不意を突いて殺される事も意識させないほどに鮮やかな遭遇戦に持ち込むのに最も邪魔なのは標的とガードのトータルバランスの高さなのだ。
世の中、撃ち合いが上手いものや、殴り合い強いものは掃いて捨てるほどいる。だがその手合いは案外とミスに自分から嵌まってしまう。
己の1つの特技に過信するあまり、墓穴を掘る。
今まで困難な標的を仕留めてきて厄介だったのはトータルバランスのとれた奴らだった。
その手合いは機転がきき、どの様な攻守をするか読み辛く、狩るのに100パーセント以上の能力を要求される。時間をひっくり返す能力だけではこちらに不利な事も都度あった。
もちろん法外な金額で要求される標的が生半可なものではないのはいつもの事だが、呆れかえるほどに迎え撃つのに機敏であり同じ特殊能力を持っているのかと危惧した事も1度2度ではない。
そのマリア・ガーランドという女をただの戦闘マニア程度に思わない方が良いと渡されている資料が警告していた。
「チェルシーからブルックリン橋まで距離でどれくらいをその女社長は走り抜いて銃撃戦を行えたんだい?」
ザームエル・バルヒェットに問われ運転手は聞かれるとばかりに即答した。
「3マイル近くも全力で走って誘拐犯を何人も射殺したんですよ。普通だったら息が上がって20フィート先にあるドラム缶ですら正確に狙えないと市警の刑事が言ってるのを耳にしました」
3マイルか──その距離を全力で走り抜く奴は海兵隊や陸軍にゴロゴロしている。だが走り抜いて銃撃戦を優位にこなせるとなると一流のスナイパー並みの安定性がある事になる。
まあ噂には尾ひれがついて雪だるまとなるだろうが、ボディガードや市警に任せず恐らくは誘拐現場に遭遇した瞬間、身の危険も省みず追尾始める思考回路の持ち主────厄介な手合いなのかも知れぬとザームエル・バルヒェットは無表情に思って運転手に告げた。
「NDC社長は民間軍事企業の派遣先戦地に顔を出すだけでなく特殊班を振り回せる能力があると聞いた事があるが、事実なのだな」
「他にもあるんですよ。ライフル使わせると3マイル先のボーリングのピンのネックを撃ち砕くなんてのも聞いた事があります」
3マイルをか!? それこそ眉唾だとザムは思った。
精々、2マイルだろう。
狙撃は特殊な能力が必要だ。多量に練習したからと抜きん出た技術が身につくわけもなく天賦の才が必要だ。軍人の家系に生まれたからと伸びる能力ではない。能力のある奴がライフル射撃に出会いその力を開花させるだけだと兄は思った。
「まあ、父親がネイヴィシールズの指揮官だったらしいからか。英才教育の賜物だろう」
「えぇ!? 海軍特殊部隊の!? お客さんどうしてそれを? だからあの社長、就任式で世界中のテロリストに喧嘩ふっかけたんですか? 狂ってますよ」
狂ってるか────確かにまともな神経の持ち合わせはないようだな。
「どうして狂ってるんだい?」
「だってタイムズ・スクウェアの雑踏で狙ってくれって事でしょう。誰を信じていられるんですか」
薄いブラウンの虹彩が微かに収縮する。兄と運転手のやり取りを景色を眺めながら聞いていたリカルダ・バルヒェットは自分の事を言ってるのだと一瞬思った。
特殊能力ゆえに頻繁に人間不信に陥りかける自分を支えられるのは世の中でただ1人──兄のザムだけだと常々思う。
何が現実で何が虚構か見分けられなくなるとリカルダ・バルヒェットは思う。
兄は時間をひっくり返してもいつも今が正しいと言い切る。実際起きた事を覆し別な分岐を生みだすと元あった事実はどうなるのと問うと力持つザムでもそれを知りはしないと答える。
世界が複写され新たに仕切り直してゆくのか。
ただはっきりしてるのは取り消した記憶が残る不思議さ。
実体のない記憶は混乱を生み現実が信じられなくなる。
そのはずが兄は絶えず自分の立ち位置に自信を持って手を引っ張ってくれていた。ここ数年はそれでいいと割り切る。父と母を奪ったあの事故をなかった事にと望まなくなった。今は兄がいてくれるだけでいい。
だからこの道に疑念を差し挟まない。
「──でもあの社長、支持率高いんだろ」
兄が問うと運転手は困ったように唸り言葉を繋いだ。
「う────ん、ビッグアップルも色んな人がいますから。あの社長を持ち上げる人は多いけれど、少数だけど目立つ人を引き摺り下ろす事を生きがいにする人もいますから」
その当たり障りない答えにザームエル・バルヒェットがすかさず突っ込んだ。
「それじゃあ、君は無難に御輿を担ぐ方なんだね」
「いやぁ、あの巨大企業に乗せるお客さん多いですから」
イエローキャブがいきなりトンネルに入りリカルダ・バルヒェットが顔を前に振り向けた。
この地の底を抜けると戦場なのだと妹は唇を引き結んだ。
マリア・ガーランドがどれほどの女だろうと、何百人何千人の兵に護られていようと意味はないとリカルダは思った。
顔は覚えた。
プラチナブロンドのショートは珍しく遠目にも見つける事ができる。
まわりすべてが敵になる恐怖に足掻くがいい。
イースト河の下をくぐり抜けマンハッタンに入ると一気に都市の雰囲気に包まれる。その道々に溢れるごとき車と歩行者に流し目を向け妹は兄に尋ねた。
「ザム、今日済ますつもり?」
「まあ在社しているか問い合わせてないし、成り行きにしておこう」
混み合う車に気遣いながら運転手は後席の会話にずいぶんと急ぐ仕事で余裕のない日程だと不憫に思った。マディソン・スクウェア・パーク前を抜け5番、6番アヴェニューと続けざまに西へ抜けるとマンハッタン西のチェルシー地区はすぐだった。
高層ビル群を背にしたばかりで開け始めた空に突き刺さる様な硝子壁面の高層ビルが見えてくると妹はじっとそのブロンズに見える巨大複合企業の本社を見つめた。
「それじゃあ兄さん、いつもの様に散策しましょう」
散策? 今日は挨拶まわりの顔見せでなく本社見学なのか? 一瞬、ドライバーは観光客かと思いいやと否定した。話からNDC傘下の企業から来たのだと考え、兄妹で同じ会社勤めだと大変だなどと思いながらウエスト23番ストリートに入り1ブロックすべてがNDCの敷地である区画まで行くとエントランスへ向かう回り込むスロープを進み正面玄関前に車を止めた。
「悪いが1時間、玄関近くで待ってもらえるか? トランクの荷物は預けておく」
そう告げザームエル・バルヒェットが運転手の腕の際に100ドル札を2枚人差し指と中指に挟み差し出した。
「わかりました。スロープ出口の歩道際でお待ちします」
それを聞き先に兄がドアを開いて下りて後から妹が下りた。2人立つ正面玄関はブロンズガラスの半円柱状の大きな自動ドアが複数並びその中央に近いものに近寄ると円柱のドアが静かに開き妹が先に入り後から兄がエントランスに踏み入れた。
エントランスはテニスコート十面ほどもある広いもので天井も高く三階建ての家が余裕で入りそうなほどもある。その天井の不規則な位置に何重にも織りなった豪勢なシャンデリアが幾つも吊り下げられている。床は淡いマーブル模様の広がる総大理石だった。
ザームエル・バルヒェットの予想に反してエントランスを歩く人は多かった。殆どの人々はスーツ姿の2人を見向きもしないが重要な取引先のものかと一瞬いっしゅん視野の一部に収めているはずだった。
エントランス正面二十ヤードと離れた所に湾曲した受付カウンターがあった。そこには7人の揃いのネービーブルーのスーツを着込んだ美しい受付嬢達が受付をしていた。妹はその中央の受付嬢の方へ行くと受付嬢が会釈して話しかけた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。ちょっとお伺いしたいの。社長はお見えになるかしら」
「はい。ご予約はありますでしょうか? 失礼ですが御社名とお客様のお名前をお伺いできますでしょうか?」
「アポとる暗殺者はいないわ」
受付する女性が何のジョークだと困惑げな面持ちになった。
「貴女、マリア・ガーランドの居場所と横にいるどちら側の御同僚でもいいから適当な理由でIDを受け取り貴女のものとを私に差し出して」
命じられた受付嬢は笑顔で頷き立ち上がると右側の同僚に声をかけ二言三言でIDを受け取ったのでザームエル・バルヒェットは見ていてどうやってIDを手渡してもらったのか興味を持った。
それを戻った受付嬢は妹に差し出しカウンターに隠れたコンソールに何かを打ち込み告げた。
「社長は在社しております。169階の社長室でございます。ご案内は必要でしょうか?」
「いえ、結構よ。ああ、それとその階の社員用エレベーター前にアサルトライフルで武装したセキュリティを2名待たせてくださる?」
「かしこまりました」
そう返事をして受付嬢が会釈した。
バルヒェット兄妹はNDC本社の見取り図を掌握していたので社員用エレベーターが観光客用大型エレベーターの反対側である事は承知していた。
それでも職員用のエレベーターは車が余裕で入りそうな大きなものでドアにはエンボスの装飾が施されている。
兄は成金趣味だと腹の内で笑い飛ばした。
エレベーターを呼ぶボタンはタッチパネル式だった。ザームエルは妹を躱し前に出てパネルに触れようと指を伸ばすと指先に半インチを残しパネルに淡い緑色の光が灯った。
到着しドアが開き始めると中に1人下りてきた職員がいるのを兄妹は目にし一瞬観光客かと2人とも思った。
1人乗っていたのは赤毛のソバージュの髪の可愛いローティーンの女の子だった。
兄妹が観光客だと思ったのはその女の子の年齢もそうだがゴシック・ロリータ調のドレスを着ていたからだった。顔を合わせた瞬間、女の子が微笑みかけ兄と妹も微笑みかえし両側に分かれて通り道を作り女の子が下りるとエレベーターに乗り込んだ。
兄妹が振り向くと女の子が立ち止まり振り向いた。
そのソバージュの子は光の加減で金色にも見える瞳でエレベーターの扉が閉じるまで興味深そうに2人を見つめ僅かに小首を傾げドアが閉じきったので兄がリカルダ・バルヒェットに尋ねた。
「両親にでも会いにきたのかな?」
兄の見立てに妹が否定した。
「ドレスにとめていたID──ヴィジターじゃなかったわ。写真付きだったもの」
そう説明しながら妹はドア左右を見回し困惑げな表情で兄に告げた。
「このエレベーター、階ボタンがないわ」
兄も箱の左右へ視線を游がせ困惑げに妹へ告げた。
「どうやって169階に行くんだ?」
その寸秒、電子音が鳴りエレベーターが上昇を始めたのを加わる加速度で理解した。
閉じた職員用エレベーターのドア前でアリッサ・バノニーノは小さな顎の下に右手の人差しゆびの先を当て唇を軽く曲げていた。
そこへ歩いてきた情報3課のチーフ・エンジニアのシーナ・カサノバがアリスに声をかけた。
「アリス、おはようさん」
「あ!? おそようさん。シーナ、今からお仕事? もう10時過ぎてるよ」
「いやぁ、昨日ハッキング用のソース組んでて午前様だったから。アリスも今から?」
シーナが問うと少女が頭振った。
「ううん。マースちゃん探してるの。夕方から一緒に服買いに行こうって誘うと思って」
「あんたたち、よくゴシック厭きないね」
「ゴシック・ロリータ可愛く見えるもの」
それを聞いてシーナは自分のパッとしない私服を見下ろして苦笑いした。
「ねえ、今、さっき乗り込んだ2人────受付のコリーンとイヴリンのID付けてるの」
それを聞いてシーナ・カサノバは眼を細め受付カウンターへ振り向いた。
そこで数人の職員が集まって騒ぎになっていた。