Part 2-3 Whisper 囁(ささや)き
NSA(/National Security Agency) New York Branch 26 Federal Plaza 23rd floor Tribeca, New York, NY, USA 09:50 Jul 13 2019/
2019年7月13日09:50 合衆国ニューヨーク州ニューヨーク トライベッカ合衆国国家安全保障局ニューヨーク支局
額に何か当たり意識を振り向けるとデスクの上に丸められた紙屑が転がっていた。
「先輩、勘弁してください」
ヴェロニカ・ダーシーが斜め前のデスクにいるヘレナ・フォーチュンに抗議すると一年早くNSAに採用された女が小声で警告した。
「マーサに見つかるから居眠りは止めなさい!」
いや、居眠りはしてないとヴェロニカは眉根を寄せた。ただ寝不足でボーッとしていただけなのだ。半年もの間浅い睡眠に悩まされている。
去年、あの魔物に憑依され身体を乗っ取られNDC社長と壮絶な戦いの挙げ句私は1度死んだのだ。
その時の記憶は途切れとぎれでも、あの異界からきたエルフに刺し貫かれたのははっきりと覚えていた。
身体が波に攫われる砂の城の様に崩壊してゆくあの感覚。
私はマリア・ガーランドごと光波打つクレイモアで貫かれ憑依の呪縛から解き放たれたのにしがみつくものはバラバラにされた。
その光景がなぜか離れた場所から見渡せ、急激に意識がセントラルパークから離れてゆくのを抗いそこに残ろうと必死で願ったのに地上がどんどんと遠のいて行くのをどうすることも出来なかった。
だけれど────いきなり舞う膨大な数の白銀の羽根が見えた刹那誰かに抱かれ────地上に戻っていた。
瞼開き見えた支局長の傍にいたあの光輝く人の姿をした何ものかを思い出すと、あれは天使じゃなかったのかとヴェロニカは何度も思った。
そう────1度死んだのだ。
復活し何もかも元に戻ったわけでない事をその日の内に気がついた。
病院で精密検査を受け、断層撮影で隅々まで調べられているとき、GE製MRIの神経質でノイジーな作動音が囁きと金属の軋みにすり替わった。
あるはずもないざわざわした声と金属が軋みが聞こえる。
それがいつもいつも耳に纏わりつき、汚れのシミの様な不快感にひと月もすると気が変になりそうだとヴェロニカは感じだした。
あれ以来、熟睡できたのは片手の指で数えるぐらいしかない。
何を言っているのか、それが死者らの呼び戻す声の様な気がする。
額に何か当たった感覚が引き戻した。
ヴェロニカ・ダーシーはデスクへ視線を落とし2個目の丸めた紙屑を目の当たりにした。
ヘレナがまた投げたと思って視線を上げると即応課課長のダニエル・キースがヘレナの後ろに立っており見つめ声をかけてきた。
「ヴェロニカ、具合が悪いのか?」
上司に問われ彼女は頭振った。
「いえ──ちょっと寝不足なだけです。課長私を心配しすぎです」
誰も彼もが気をつかう。戻ってきた事でもう他の人とは違うのだと言われているようだった。
歪んだ微笑みを浮かべヴェロニカは身構えた。
意味を取れない短音の羅列が押し寄せた。
気が遠くなりヴェロニカは堪えようとデスクの上で手にする紙玉を握り潰した。意識に溢れ返るアルファベットや数字、さらに多くの象形文字さえ含まれる見知らぬ文字群に溺れそうだった。
マリア・ガーランドは私に何をしたのだろう。
あの人は何を背負わせたのだろう。
椅子から転げ落ちたヴェロニカ・ダーシーへ隣の席の同期のメレディス・アップルトンが飛びつくように抱き起こし他のもの達も慌てて机を回り込んできた。
911がどうのと聞こえた気がして意識が遠のく間際にヴェロニカは何千万、何億、何十兆という囁きの津波が意味あるものに感じた。
規則正しい電子音に導かれ意識を取り戻しヴェロニカ・ダーシーは瞼を開くと狭い天井が眼に留まり自分が病室にいるのだと理解した。
電子音はバイタルモニタのものだと理解するのに数秒が必要だった。
奇跡の日から、病室で意識を取り戻したのは7度目だと彼女は思った。
その都度、医者から調べられ原因不明の烙印を押される。無地の天井だがじっと見つめていると細かい模様が蠢いておりそれが囁きに代わりそうな気がしてヴェロニカは1度瞼を堅く閉じた。
NDCーCOOマリア・ガーランドが1度見舞いに来てくれた。彼女が連れてきた耳長の女を眼にして自分が死を経験したのは現実だと思い知らされた。
身体を奪ったベルセキアという魔物の一部の知識が記憶に刻まれている。
エルフの姿を見て親近感と憎しみを同時に感じたのはなぜだろうとヴェロニカは悩み続けていた。親近感は肉親に感じる様な確かたる信頼が滲んでいた。だが激しい怒りは同朋のものだった。
ベルセキアを追って異世界から来たイエーガーに魔物がなぜ親しみ深い感情を持つ?
いいや、そもそも魔物がなぜ人の如き感情を持つんだろう?
ニュージャージーとニューヨークで100人以上を殺した冷血な悪魔が────。
瞼を開くと看護士の黒人男性が1人カルテ片手に様子を見に病室へ入って来た。
「ああ、意識を取り戻したんですね。痛いとか気持ち悪いとかドクターに伝えることはありませんか?」
「いえ────私、病院に連れて来られてどれくらい?」
「ああ、まだ4時間ほどですよ。入院期間が伸びても支払いの心配はいりませんよ。NDCが全額負担すると手続き済ませてありますから」
ヴェロニカはマリア・ガーランドだと思った。
メンタルな支障に関してまで精神科や心理療法まで保証を行ってくれている。まるで不良品に関して一分の隙も見せぬように。
現代の偉大な魔法使いマーリーンは万能ではなかったのかもしれない。
この世に引き戻してくれた張本人がそこら辺の微妙な完成度をわかっているからこそ心配し配慮してくれているのだろう。
復活において訴訟を恐れているのだろうか。
地上の総人口を構成する誰が彼女を訴える事ができようか。あれは神の御業なのよと常に控え目な発言しかしないマーサ・サブリングスがそう教えてくれた。現代の奇跡を1番間近で眼にしたのだ。
黄金色の光る粒子が降り注ぎそれが集まり私になった。
だから変な音が聞こえる様になったの?
この世のものと思えない死者の囁き。
「顔色が良くないですね。安定剤を出してもらえないかドクターに伝えておきましょうか?」
バイタルチェックを済ませた黒人看護士が気を回してくれる。だけれど不眠症と軽い鬱にと出されているベンゾジアゼピンは最悪だった。眠れるが代償を払う事になるとヴェロニカは知った。
眠っている間により深い階層で囁きの洗礼を受ける。
夢の領域まで侵食され目覚めるとまるで24時間体制で洗脳されている気がした。
看護士が病室を後にするとヴェロニカは電動ベッドのコントロールパッドに触れ腰から上を起こし始めた。囁きと血圧が関係してるのかは判然としないが、横臥しているとより近くで聞こえる気がする。
だが血潮の音ではない。沸騰へ向けて加熱される水から幾つも立ち上る細かい気泡の様な感覚。
自宅でもベッドにクッションを多く乗せ上半身を起こし気味で寝る習慣がついてしまった。
人は明確でないものに不安を感じる。例えば輪郭の定かでない霧を通して見る光景。音楽と取れない不規則な脈動。それを囁きが聞こえるようになり意識するようになった。意味のわからない微妙な呟きに苛立ちすら感じる。
もしもこの囁きは世界中の至る所に存在し、殆どの人はそれに気づいていないのかもと思う。
生まれた時から脈々と続く生命の力が1度断ち切れると、そこに囁きがつけ込んでくる。だから死者の囁きだと思うのかもしれない。いったん眼をつけられると纏わりつくそれを振り払えなくなる。
良くないものの気がする。
ヴェロニカは電動ベッドのコントロールパッドをベッドサイドのテーブルに乗せようとして上からボールペンが押されて落ちるのが見えた。看護士の人が忘れていったのだ。
床に転がしたままでいるのも気になり、彼女はサイドテーブルに乗せたコントロールパッドまでもを落とさないように手を伸ばし指で押さえてベッドから脚を下ろそうとした。
コントロールパッド傍の指触りにヴェロニカは視線を向けて見えたものに眼を游がせた。
コントロールパッドにボールペンが当たっている。
ボールペンを1本落としたのは間違いなかった。リノリュームの床に当たって転がる音を確かに耳にした。なら今、指に触れたもう1本が載っている事になる。
ヴェロニカは視線を下ろし足下を見た。
床にボールペンは見えず、サイドテーブルかベッドの下に転がったのかもしれないと彼女は脈拍を計測するためのコードを気遣いながらスリッパに足を下ろししゃがみ込んだ。
ベッドやサイドテーブル下にボールペンが見えない。ベッドのもっと奥に転がったのかもとヴェロニカは床に片手をついて上半身を横に傾け下を覗き込んだ。
それでも見つからないボールペンを諦めかかったその時、スリッパの爪先近くに転がっているボールペンに気づいた。
おかしい!? 足元は十分に見てから足を下ろしたのだ。そこにボールペンはなかった。彼女は怪訝な面持ちでそれを摘まみ上げサイドテーブルに乗せようとしてコントロールパッドの傍にあったボールペンがなくなっている事に気づいた。
2本目が落ちた音は耳にしてない。スリッパの上に落としたのなら眼の前で落ちた事になり、その瞬間を見逃すはずがなかった。
困惑と小さな不安が口を開き始めていた。
耳だけでなく眼までおかしくなっているのだろうか。
ヴェロニカはスリッパをサイドテーブルの際に脱いでテーブルに載せたボールペンを指でずらし天板から落としてみた。
落ちてゆくのがはっきりと見える。
スリッパの爪先上に落ちて転がり床で音を立てた。
スリッパに乗ったままなら音も聞こえなかっただろうが、僅かに床を転がった音ですら確かに聞こえた。
落ちたのを気づかぬはずがなかった。
ちょっと神経がナーバスになっているせいだ。そう自分に言い聞かせベッドに腰を下ろしたまま床のボールペンへ手を伸ばし指で摘まんで拾い上げテーブルに置いた。
起こしたベッド半分に背を預けようと上に脚を上げかかり手を横に伸ばして背筋が凍りついた。
起こしたベッド半分が綺麗に倒れてフラットになっている!?
そんな筈はない。モーターの動作音はしてないし、コントロールパッドのスイッチにも触れていなかった。第1起こすのも倒すのもスイッチを押し続けないと動きが途中で止まる仕組みだわとヴェロニカは思い、試しに操作スイッチを押してみた。
ベッドの上半身が寝る部分がゆっくりと持ち上がり始める。
途中で指をコントロールパッドから放すとピタリと止まってしまった。
ベッドから床へ下りた時には30度ぐらい起きていた。そこまで動かすのに10秒以上かかる。下ろすのにも同じぐらいの筈だった。
ヴェロニカは気味が悪くなりベッドから脚を下ろし立ち上がりシーツと毛布の乱れた寝床をじっと見つめた。少し持ち上がって背もたれほどではないベッドは微動だにしない。
NSAの職員としてオカルトじみた事は受け入れられないと彼女は眉根しかめた。
廊下を人が通る姿が磨り硝子越しに見えてヴェロニカは視線を一瞬そちらへ向け戻した眼が見つめたものにヴェロニカ・ダーシーは壁の方へ後退さった。
ベッドがV字に折れ上がっていた。
鼻で息する荒い音がいきなり囁き声になり金属の軋みが重なりヴェロニカはさらに後退さりバイタルチェック用のケーブルが張り詰め左手の指からセンサーが引き抜けた。
床に落ちたその音と突然鳴りだしたメディカルモニタの警報にビクついてヴェロニカは眼を游がせた。
吸い込んでも酸素が息に含まれていないとでも言うように彼女は浅く早い呼吸を繰り返していた。ざわざわと潮騒の如き囁きが耳の奥でざわめき続けた。
頭振りヴェロニカ・ダーシーは個室の出入り口へ向け素足で駆け出した。病室を抜け出せば死者の囁きが聞こえなくなるなど甘くはないと承知していた。だがあのベッドにいてはいけないと本能が警告していた。
廊下に出たヴェロニカへ離れた所にいる数人の看護士や点滴を曳いて歩く入院患者が振り向いた。
ヴェロニカ・ダーシーは助けを求める様に顔を振り向けた。
即応課のヴェロニカ・ダーシーがまた緊急外来に連れて行かれたと報告があり心配になったマーサ・サブリングスは仕事を中断し見舞いに来る事にした。
去年、突如現れた異界からの怪物ベス。
変幻自在で他の生き物を取り込み成り変わる化け物は多くの死傷者を出してNSA支局はその異界からの怪物をNDC社長や彼女の指揮する民間軍事企業のセキュリティとサブウェイに追い詰めた。
その追跡の最中NSAニューヨーク支局の新人に取り憑いた。
最終的にセントラルパークで凶暴化したヴェロニカを同じ異界から追って来たシルフィー・リッツアが刺し殺してしまった。
だがマリア・ガーランドの奇跡により再生を遂げたヴェロニカ・ダーシーをマーサ・サブリングスは心配し気遣い続けた。1度は死者となったものが喩え奇跡であっても生き返ったとなると尋常な経験ではない筈だとマーサは思った。
案の定、ヴェロニカの様子がおかしくここ半年間に数回緊急外来に搬送されていた。
人の魂は身体があればまともに戻れるものなのかと疑念を抱き続けている。
プレスビティリアン・ダウンタウン病院に来るのは3度目だった。NSAーNY支局に1番間近な脳神経外科と緊急救命のある病院だった。マーサは病院前のウイリアムストリート沿いに車を路駐させ車のドアを開いた。その寸秒爆音が聞こえハンドルに片手かけたままマーサは顔を強ばらせた。
彼女は急いで車から下りて歩道を眼にすると多量の硝子が散乱しておりビルの上階に顔を向けると6階の窓が砕けていた。
マーサは病院に駆け込み騒然とする受付前を無言で駆け抜けようとして職員に呼び止められNSAのIDを掲示して国家安全保障局と告げエレベーター傍にある階段を駆け上った。緊急時にはエレベーターを使わない。もしも何らかの事情で停止すれば対処が大きく後手に回る可能性がある。
呼吸も乱さずマーサは6階まで駆け上りナースステーションの方へ視線を向けその先の廊下の中ほどに職員が集まり騒然と対応していた。マーサはすり抜けようとした看護士に声かけると病室の1つで治療用酸素が漏れ爆発事故があったと教えられた。
マーサは事故のあった病室前の廊下で対応している職員らの後ろに看護士に肩を支えられるヴェロニカ・ダーシーの姿を見つけ安堵から短い溜め息をつき彼女へと歩き寄るとヴェロニカが気づいた。
「支局長────」
「何があったのヴェロニカ?」
「わかりません。病室を出たら突然、隣の病室で爆発が起きたんです」
マーサはスライドドアを引き放った隣の病室へ視線を向けると焼けただれた室内が見え彼女は部下へと視線を戻し尋ねた。
「ヴェロニカ、貴女また囁きが聞こえてるの?」
ヴェロニカ・ダーシーが頷くのを見て病院では駄目だとマーサは思った。
「ヴェロニカ、マリア・ガーランドに会いに行きましょう」
そう告げマーサ・サブリングスは部下の腕に手をかけた。