Part 15-4 Arrogance 傲(おご)り
NDC HQ.-Bld. Chelsea Manhattan NYC, NY 00:29 Jul 14
7月14日00:29 マンハッタン・チェルシー地区NDC本社ビル
鼻からの狭い気道を通り抜ける小さな音を気にして、クライド・オーブリーは中途半端に開いた口でハアハアと息を繰り返していた。
空調の切れた事務所内が苛つくほど蒸し暑く感じるのは防火服をジャケットの上から着込んでるからだと彼は思った。
Yシャツの男を喰らっていた警官は追って来るだろうか!? なにせ目撃者だから始末しに来るかもしれない。
調査員の男はその警官が来る前に防火帽を脱いでいた。ファイル立ての隙間から覗くのにシルバーのギラギラした帽子が目立つと思ったからだった。
ファイルの隙間から見えるのは出入り口の片側の硝子戸だけ。警官らしき影が両開きの硝子扉越しに見える通路に伸びて人影が出入り口に見え始めた瞬間、クライドは並ぶファイルの陰に深く頭を下げ狭い隙間からじっと見つめ思った。
来るな。
来るなよ!
直後、警官が観音開きの硝子扉を左右両手で押し開けゆっくりと事務所内に入って来ると、扉から手を放し閉じたドアの前で立ち止まった。クライドの鼻筋を汗が一滴流れ小鼻から唇の端に落ちた。
みろ!
まぐれで部屋を選んだだけだ。俺がいないことに室内を見回していやがる。あきらめて出て行きやがれ。だがその警官はゆっくりと顔を回し、念入りに事務所内を見つめ始めた。
ファイルの隙間からじっと警官の顔を見つめた。通路側の照明の影になり表情は見て取れぬが、口周りに歪な形で暗い模様があった。
血糊だ! 血を吸っていたのか? いいや彼奴がエレベーターの中で顔を上げた時、口から何かが垂れ下がっていた。噛みつかれた男の皮膚か筋肉が垂れ下がっていた! 喰っていたのだ。その血まみれの顔で追いかけてくる。追い込んでくる。
その警官が巡らしていた視線を止め、並ぶ机の間を歩き始めた。
クライドは青ざめた。警官が入り込んだ机の列は1つ隣の並びだった。このまま歩いて来られるといずれは見つかってしまう。クライドは両手を床につけ低い姿勢でデスクの並びを警官とは逆方向に向かい始めた。困ったことに厚い防火服は手足を僅かに動かしただけでもガサゴソと衣擦れの音が出てしまう。だがもたもたしていると警官が机の列の端まで行き回り込んでくるかもしれなかった。
クライド・オーブリーは汗をボタボタと床に落としながら事務所の出入り口へ急いだ。
クラーラ・ヴァルタリは食肉の恍惚を引き摺りながらエレベーターが開いた時に嗅いだ煙草のヤニ臭い匂いをたどって長い通路をゆっくりと歩いた。
あの煙草臭い消防士はまだこの階から逃げ切ってないと思った。フロアにエレベーター・ホールが幾つあるかわからなかったが、初めて来ている消防士がこの大きなビルを詳しく知っているとは思えなかった。
ならどこかに怯えた兎のように隠れているはずだった。
通路を奥へ歩くとヤニの匂いが濃くなった。
この特殊な躯は筋力や人の生命力を吸い取れるだけでなく、五感も敏感になっていた。バイオ研究所から奪ったあの得体の知れぬ菌か何かを取り込んでから出会った殆どの相手の匂いを正確に覚えていた。
まるで草食動物の痕跡を追い詰める肉食獣だとクラーラは思った。
40ヤードほど歩くと通路の右手に観音開きの硝子戸があった。
ヤニの匂いが濃厚だった。
硝子越しに見えるのは照明の消された事務室のようだった。出入り口の開口部から見える並んだデスクだけでも相当な数がある。
"Piilotettu tähän huoneeseen──"
(:この部屋に逃げ込んだな──)
そう呟きクラーラは硝子扉を両手で押し開いた。
ヤニの匂いがさらに濃厚になり、クラーラは事務室に入るとドアから手を放した。
広さはテニスコート3面ほどもあり、ざっと見回しただけでもデスクの数が60以上ある。
クラーラは部屋の左右を見回して鼻で深く息を吸い込んだ。
ヤニの匂いの元がどこかがわからない。だがどこかに身を潜めている。
クラーラは取りあえず椅子の背が向かい合って並ぶ列を歩き始め左右を見回した。
どこかに止まって隠れているなら、いずれ見つけるし、こそこそと移動して逃れようとするならその音を聞き洩らさない。そう思った寸秒、衣擦れの微かな音が聞こえた。左耳よりも右の方が大きく聞こえた。
やはりこの部屋にいるのだ!
クラーラは足を止めずに左右を眺め続ける振りをしつつ右への流し目で横の視野を長く保った。
「お前の心臓の音が────聞こえるぞ」
英語でそう囁いた。静かな事務所内でその声が届いてないはずはない。言い終わったのとほぼ同時にまた衣擦れの音がした。
消防士の男が警戒して急に動きを止めたのだとクラーラは思った。
今、いる列の隣かさらにその隣だ!
クラーラは足を止め顔を横に向け右手の音に集中した。たとえ用心深く隠れていても痺れ切らし動く。その一瞬で正確な位置をつかむのだと己に言い聞かせ胸の動きを鎮め待った。
118まで数えた瞬間、衣擦れの音が右斜め後方から聞こえた。
クラーラは踵返して大股で2歩素早く駆け戻ると机の1つに跳び上がり向かい合ったデスクの中央に置かれているファイル立てを蹴り落とし隣の列の並ぶ机の下を見下ろした。
這いつくばった銀色の防火服を着た男が右肩を上げ顔を振り向けて強張った顔で見つめていた。
終わりだファイアー・ファイター!
警官の歩く靴音が隣のデスクの列の真横に迫り、それが立ち止まらずに後ろに通り過ぎた瞬間だった。
「お前の心臓の音が────聞こえるぞ」
1音いちおん聞こえるようにゆっくりと言い切った警官の言葉が虚仮威しに思えず探偵の男は条件反射のように動かしていた手足を止めた。その膝の防火服の擦れた音にクライドは心臓の鼓動が爆発しそうなほどに跳ね上がった。
聞かれたか!? いいや、聞こえたはずはない!
動かずに消防士姿の男は警官の出す音で相手の動きを見切ろうとした。
だが先ほどまで聞こえていた靴音がまったく聞こえない。気配を見切ってあの人喰いは立ち止まってこちらの列が右か左かの判断をしている。クライドは辛抱強く1分ほど息も止めて警官の音を待った。待ちながらコイントスの確率で見つかる可能性があると気がついた。
なら少しでも離れておいて、見つかった時には起き上がって走って逃げるんだ。
だが人喰いは警官だ。銃を携帯している。逃げる背に撃ち込まれるのは確実だった。
そう思いつつ彼は防火服の裾をたくし上げ腰のホルスターからトーラスPT92を引き抜いた。その裾を下げるときにまた微かな衣擦れの音を立ててしまった。
2秒なかった。急激なタップの音の直後、いきなり机の上からラックやファイルが踵に降りかかってクライドは反射的にハンドガンを握った手をそのデスクの上に振り向けた。
机の上から仁王立ちの人喰いの警官から見下ろされ視線が絡んだ一閃クライド・オーブリーは咄嗟に相手の顔目掛け銃口を振り向けると引き金を2度続けて引き絞った。
机の傍に大きすぎる火球が膨れ上がりそれが撃音と共に僅かにずれて樽のような残光になった。
直後、もんどり打って警官が隣の列に落ちた音が聞こえ、クライドは確かめようともせずに立ち上がるなり事務室の出入り口目掛け駆け出した。彼は走りながら警官を撃ったと2度思った。法廷で正当防衛を理由に言い逃れるのに相手が素手だと気づきいきなり立ち止まりゆっくりと振り向いた。
人喰いの警官が机の間の床に横向けで倒れいるのが廊下からの明かりでぼんやりと見えた。
少なくとも正当防衛を主張するなら人喰いが素手だとマズい! クライドは踵を返して倒れている警官の方へ戻り始めた。相手が身動きし銃を引き抜くようなら先に撃たなければならない。
クライドはトーラスPT92の前後のサイトを揃え倒れている警官に向けて照準しながらゆっくりと歩み寄った。その間、ぴくりとも警官が動かないことに彼は半ば安心しクライドは倒れた警官の腰のホルスターが上向きにあることに胸をなで下ろした。今、殺したばかりの警官の身体の下に手を差し込みたくなかったし、横向の警官を仰向けにもしたくなかった。
クライドは警官の側頭部に銃口を向けながら膝を折り相手のホルスターから覗く銃握に左手を伸ばした。
クライド・オーブリーは伸ばした左手が動かせずにいることに顔を強ばらせ自分の左手首を見つめた。
警官の右手指がクライドの左手首を握りしめていた。
そんなこいつは動くはずがない────。
振り払おうと左腕に力込めてもびくともしない。
顔を2発も撃ったんだぞ。動けるはずが────。
死んでいるはずの警官がゆっくりと首を回し覗いた目尻の右目でクライドを見つめ返し呟いた。
「お前────消防士なんかじゃないな」
喰われる!
防火服を盗んだことや身分を詐称したことなどどうでもよかった。探偵の頭には自分の首に噛みつこうとするこの警官の大口開いた顔しかなかった。
そう閃いた瞬間、咄嗟にクライド・オーブリーは警官の顳顬に向けて至近距離から発砲した。
撃った瞬間、警官が床に側頭部をぶつけそれをつぶさに見たクライドは何かがおかしいと思った。自分は今、有り得ないものを見た。何を見たのだと彼は懸命に考えた。
床にぶつけた警官の側頭部下から血糊が広がらない!? この至近距離から9ミリを食らったんだ。頭蓋骨に銃弾が止まるとは思えなかった。なぜ射出口から血や脳髄が飛び散らないんだ!? それにこいつの制帽は2度の衝撃にどうして頭から落ちない!?
そう考えた直後、クライドは唖然となり顎を落とした。
警官の顳顬からマッシュルーム化した9ミリパラベラムがゆっくりと頬を転がり床に落ち小さな音を立てたのをクライドは唖然と見つめた。
立ち上がりこの奇っ怪な警官から少しでも早く逃げようとしてまだ手首をつかまれていることに彼は気が狂いそうになった。
「消防士は──そう滅多やたらに────撃ちはしないよな」
告げながら顔を振り向けた警官の顔が男ではなく整った北欧系の顔立ちの若い女で制帽がいつの間にか編み上げアップの金髪に変わっていることにクライド・オーブリーはじわじわと腹に差し込んでくる恐怖に理性が吹き飛んだ。
トーラスPT92の銃口を相手の眉間に押し付け彼は弾倉と薬室に残った14発の銃弾を続けざまに発砲した。その受ける衝撃にその女警官は激しく前後に頭を揺すられるが座った三白眼は一向にクライドを睨むのを止めずに頭を振り戻してくる。
撃ちきりスライドストップが掛かる乾いたノッチの音が爆轟の残響に聞こえてもクライドはトリガーを引き続けた。
女警官が左手を床について上半身を上げると顔から幾つもの変形した銃弾が転がり落ちて連続した音を立てた。だがクライドはそんなことに気がついてはいなかった。女警官が立ち上がり近づく上目遣いの顔の三白眼の目が彼の心に入り込んでくるように睨み据えておりクライドはその視線から目を放せなかった。
廊下からの明かりで女警官のライトブラウンの瞳が燃え盛る炎のように見えた。
女警官がいきなり彼の首を左手でつかむとその腕を上げクライド・オーブリーは爪先立った。
体格で自分の鼻先の身長しかない女が片腕でできることではないと彼は困惑した。
その爪先が床から離れ首が締め上げられていく。
銃を手放し女の左手首をつかんでも息ができず、クライド・オーブリーが白目をむき始めた刹那、彼は背後で誰かが誰かの名を言い放ったのを遠のく意識で聞いた気がした。
「クラーラ・ヴァルタリ! 私はここよ!」
寸秒、クライド・オーブリーは床に放り出されうずくまり激しく咳き込み始めた。
ベレッタ・モデル92でこれでもかと顔を撃たれそれでもクラーラ・ヴァルタリは男の最後の足掻きを楽しんでいた。
1弾倉撃っても死なぬ相手がお前の命をつかんでいるのだ。
衝撃から顔を振り戻す合間も瞬き1つせずにクラーラは消防士の成りをした男の眼を覗き続けた。
スライドオープンした拳銃の引き金を引き続ける男のすがりつく望みをどうやって引き裂いてやろうか。
だが笑いは込み上げてはこない。
地獄の悪魔が人に取り憑く時に笑い声は相応しくないと思ったからだった。
左手を床について上半身を起こしかかると顔に食い込んだパラベラムがバラバラと落ちた。それを男は強張った面もちで見つめ生気のないその目が自分の運命を理解し始めていることを物語っていた。
クラーラは男の左手首を握ったまま立ち上がると中腰だった男もつられるように立ち上がった。
もう逃れようともしない。
お前に死を与えるのはこの我なのだとクラーラは男の双眼を見つめながら相手の喉元に開いた左手を伸ばし首を鷲掴みにした。そうしてクラーラはじわじわと左腕を上げ始めた。
爪先立った男が足をじたばたさせてもクラーラは上げる腕の速さを変えなかった。
男を完全に吊し上げると役立たない拳銃を捨て男はクラーラの左手首を右手でつかんで死を少しでも遠ざけようと足掻いた。
それでもお前の生殺与奪は我が握るのだとクラーラ・ヴァルタリが思った刹那、初めて耳にする声なのに聞き覚えのある張りのある声で名を呼ばれクラーラは瞳を揺り下ろした。
「クラーラ・ヴァルタリ! 私はここよ!」
硝子扉を両手で押し開けた記憶に焼き付けた小娘がそこに立っていた。
クラーラ・ヴァルタリは一瞬で紛い物の消防士の男の死ぬ様なぞどうでもよくなり左腕で吊し上げている男を放り出すと踵返して通路に逃げる小娘に怒鳴りながら追い駆けた。
「パトリシア・クレウーザ! 逃げるな!!!」
ついに世界1のテレパシストに手届くまで詰め寄ったのだと一気に脳に溢れかえったエンドルフィンにクラーラは目眩覚えながら観音開きの硝子ドアに駆け寄りその強化ガラスを2枚とも突き破った。
廊下に飛び出し滑る足を止めるために壁に左手をついてパトリシアの逃げた方へと強引に向きを変え通路を駆けてゆく小娘の背姿を視野におさめた。
あまりもの興奮に女テロリストはパトリシア以外のものを意識から排除していた。
そこにはクラーラが歩いた時にはなかった土嚢が積まれておりそれを跳び越えたパトリシアが滑り込み振り向くと傍らには半身起こしていた別なスーツ姿の若い女がおりそのスーツ姿の女がこちらにバイポッドで立った重機関銃の銃口が向けていた。
巨大企業の通路に有り得ない土嚢と重機関銃に気を取られすぎてその前に置かれたものに気づくのがまたもや遅れた。
M18クレイモア!?
2脚で立ったその横長の長方形のものが米国製の対人地雷だと意識に登らせ、クラーラはそれを投げ捨てた。
クラーラ・ヴァルタリはスウェーデン製のそれを熟知していた。
FFV013フォードンスニィナ!
気づいた一閃、そのM18より二回り大きな対戦車地雷が起爆し、1200個の鉄球が毎秒3千3百フィート近い猛速で怪物となった女テロリストに襲いかかった。