Part 15-1 Noir Melodia ノワールの旋律
On the street one block away from the NDC HQ.-Bld. Chelsea Manhattan NYC, NY 00:06 Jul 14
7月14日00:06 マンハッタン・チェルシー地区NDC本社ビル1ブロック離れた路上
テキサス州フォート・ブリス近郊の荒野から異空間跳躍で逃げ延びてきたバルヒェット兄妹はNYのNDC本社ビルに近い1ブロック離れた歩道に現界した。
2人はNDC本社ビルのある通りから70ヤードほど離れた有料パーキングの前にいたが、3方向から連なるように走ってきた消防車や警察車輌を目にして慌ててアサルトライフルを大型コンバットバッグに突っ込み隠した。
"Bruder, wogegen kämpfte diese Präsidentin?!"
(:兄さん、あの女社長ら、何と戦っていたの!?)
リカルダ・バルヒェットは兄ザームエルに困惑の抜け道を求めた。
"Weiß ich nicht.Aber es war keine Person──Und es gab zwei Marias.Ich habe keine Ahnung, was das bedeutet──."
(:わからん。だがあれは人じゃなかった──それにマリア・ガーランドは2人いた。どういうことだか────)
そう言いながら兄はあそこは暗く星明かりの下ではすべてが不確かだったと思う矢先にまた消防車が数台とPC(:警察車輌)が1台NDC本社の通りに走っていった。それを目で追った妹が兄へ顔を戻すとこの場の騒ぎの理由を兄に告げた。
"Zam, im Gebäude des NDC-Hauptquartiers scheint etwas passiert zu sein."
(:兄さん、NDC本社でも何かあったみたいよ)
それには応えず兄はNDC本社へ曲がる交差点から見える緊急車輌のフラッシュライトの瞬きに目をやっていた。すでに消防車を10数台、PCを6台余り見ている。歩いてNDC本社ビルに戻るのは難しそうだった。
テキサスで見た怪物といい、NDC本社の騒ぎといい、数回に渡る女社長の暗殺失敗も今夜はツキに見放されていると兄は思った。
彼は仕切り直してフォート・ブリスに戻り再度あの女社長を狙うかと考えあの悪魔みたいな怪物らにまた巻き込まれ一戦交えることを考えあの場では成功率は低いと思った。
NDC本社ビルのある通りに入る交差点に警官が立ち警察車輌と消防車以外の進入を止め始めていたが、近辺に多量の火器の入った大型バッグを下げているところを職質されるのはまずいと兄は思った。
NDC本社ビルから一刻も遠くに離れるか、それともあのビルに潜伏し女社長が戻るのを待ち構えるか2つに1つしか選択肢はなかった。
"Ricarda, spring in das Gebäude und infiltriere."
(:リカルダ、ビルにジャンプし潜入するぞ)
妹が頷き兄の片腕をつかんだ刹那、2人は歩道から消え失せた。
時間を跳躍するだけでなく自身を含めて逆行させることや進めることができた。だがそれは時という流れだけでなく空間をも含むことを知ったのは意識して時間を渡り歩けるようになって間もなくだった。
ザームエル・バルヒェットは2500マイル程度なら移動時間に関係なく瞬時に跳躍できた。
時間と空間の一部を自在に操れることは暗殺者にとって最大限の強みだった。それが今日、覆された。
マリア・ガーランドへ何度となく抹殺に出向きながら、撃退され逃避を繰り返したあげく悪魔のような怪物と戦うなど想定外だった。
NDC本社ビル98階の備品フロアへ飛んだバルヒェット兄妹は、まずS&W M&Pを抜いてフロアの安全を確認し誰もいないことを確認すると人目を気にすることもなくやっと落ち着いた。妹はコンバット・バッグを下ろすなり備品室に置かれた事務椅子に座り込んでため息をついた。
"Ich bin total angewidert von diesem Ziel."
(:まったく嫌になるわ今度のターゲット)
妹のぼやきは事実だと兄は認めた。
襲撃の日に都合よくか悪く襲撃場所で火災が発生した。行動の自由が多少制限されるので悪くといった方が正しかった。火災も偶然だとは思わない方がいい。
サウジアラビア王国王子と世界最大級の複合企業社長との間にどういう確執があるのか不明だが、今度の仕事はイレギュラー続きだった。段々とオファーの金額で割に合わなくなっている。
それにテキサスにいたあの怪物は何だろう。確か昨年末にここアメリカの東海岸で怪物騒動が起きたのがテレビを賑わせていたとザームエルは思いだした。映画か何かの宣伝のための眉唾もののニュースだと思っていたが、デザートで襲いかかってきたのは本物の悪魔だった。それならこの仕事はエクソシストの領分だ。
"Ich glaube nicht, dass diese Präsidentin heute Abend wieder hier sein wird."
(:あの女社長、今夜中に戻らないと思う)
妹に言われ兄は問い返した。
"Warum?"
(:どうしてだ?)
"Diese Präsidentin wird von einem Monster zu Tode gefressen werden."
(:あの怪物に喰い殺されるわ)
一見、その通りだとザームエルは思った。だが、あの女社長の戦闘慣れした能力は禿筆だ。生き延びてこのビルに戻ってくる予感がする。
"Nein, das ist nicht richtig. Wir sind diejenigen, die diese Frau töten."
(:いや、殺すのは我々だ)
兄に言われ妹は手に握るS&W M&Pのフロント・ガンサイトに視線を落とした。いつになく妹の士気が低いのは意識強制があの女社長には効果がないように思えたからだった。戦闘中の混乱で何かの間違いだろうが今までに妹の強制力が利かなかったケースはなかった。
いきなり妹が顔を上げ強ばらせた。
"Was ist los?"
(:どうした?)
"Es ist eine Lüge──So etwas────."
(:嘘だわ──こんなことって────)
妹が瞳を丸く見開いていた。
"Ricarda?!"
(:リカルダ!?)
"Großer Bruder──Ich konnte Stimmen hören und klar sehen────."
(:兄さん──声が聞こえ見えたの────)
声が!? 見えた!? 何がと兄は困惑した。自分たち以外の声など聞こえはしなかった。
"Idioten──Er verachtete den Mann und aß seine Halswirbelsäule."
(:空け者め────と見下して男の首に喰らいついたわ)
喰らいついた!? ザームエルは妹がおかしくなったのかとじっと見つめた。リカルダは精神強制力を持つだけでなく先々のことを言い当てたり、人の考えを見切ったりすることがあった。
"W──o?"
(:どこで──だ?)
兄に問われ妹は眉根を寄せた。ちょっと返答に困っているといった表情にザームエルは辛抱強く待った。
"Es ist nah dran. Ganz in der Nähe. Ich habe das Gefühl, dass es vielleicht das gleiche Gebäude ist."
(:近くだわ。とても近い。もしかしたら同じビルのような気がする)
ザームエル・バルヒェットは困った。今夜はテキサスでの怪物だけで理解力が破綻しそうなのに、このビルに人に噛みつく手合いがいるなど偶然過ぎると彼は思った。
"Hast du sein Gesicht gesehen?"
(:そいつの顔を見たのか?)
兄に聞かれリカルダ・バルヒェットは頭振った。
エレベーター・ドアが閉じて調査会社のクライド・オーブリーはホールから駆け出した。
確かにあの警官はYシャツ姿の男の首を噛み千切っていた。いいや、あれは異常な夜のストレスが見せた幻覚だ。そうじゃない! 何よりも口周りを血だらけにしていたではないか。
廊下にあった観音開きの硝子ドアを割りそうな勢いで押し開けクライドは非常灯以外照明の消えた大きな事務所内に走り込んだ。
誰か人はいないかと周囲を見回しテニスコート6面もありそうな広い事務所に誰1人として見えず、クライドはまずい状況だと目を游がせた。
袋小路に逃げ込んでしまったのかと薄暗い事務所内を見回すと彼が走り込んで来た観音開きの硝子ドア以外に左右の壁にも硝子ドアが見えた。
さっきの警官が追って来る確率は低いとクライドは都合のいい解釈をした。
だがもし追いかけて来たらどうする。
俺は殺人現場の目撃者なんだぞ!
追ってくるはずがないと思おうとするほどエレベーター・ホールの方から歩いてくる人影が硝子ドア越しに見えるのではとクライドは何度も確かめた。
警官が何を狂ったか人を噛み殺すなんて。
クライドはホルスターに入れたトーラスPT92を意識した。警官相手に発砲する場合、よほどのことがないと正当防衛は認められない。だが出遅れるとあの警官が大口開いて襲いかかってきそうな気がした。
喰われようとして発砲したは過剰正当防衛になるのかと必死で証言する法廷を想像し人が喰い殺されるとこを見たからだと言い張る腹積もりになった。
いいや、来やしない。
来るものか────!
並ぶ事務デスクの陰に姿勢下げ隠れファイル・ラックの隙間からじっと観音開きの硝子ドア越しに明るい廊下を見つめた。
人影が見えてそれが硝子ドアの手前に立ち止まった。
武器庫のロック・10キーを打ち込もうとした指を止めてパトリシア・クレウーザが顔を強ばらせた。
「こんな夜遅くに何をしてるのぉ!?」
「あんたこそ何してるの!?」
アリスに指摘されてパトリシア・クレウーザは裏返った声で問いアリッサ・バノーニーノ──アリスは口を尖らせた。
「だって大きな音と揺れで眼が覚めて、なにが起きたんだろうってビルを隅々まで見回したら、警官が人を殺してるし、知らない男女が備品室に入り込んでるし────ねぇねぇ、マリーのお部屋めちゃくちゃだよ」
パトリシアはヴェロニカ・ダーシーと顔を見合わせアリスに顔を振り戻すと片腕をつかみ作戦指揮室のタンクルームへ引っ張って急ぎ足で向かった。
「え? え? え?」
3人はブロンズガラスで仕切られたブリーフィングルームに入るなりパティが急いで扉を閉じた。
「アリッサ、見たの!?」
「うん、3号エレベーターの中でうちの社員の1人の首を噛み切った」
パトリシアは青ざめた。アリスも見てしまったなら他のiテンプスタッフやセキュリティにバレないようにこの子の口封じをしなければならない。
「なんで武器庫に入ろうとしてたの?」
ブルネットのソバージュを揺らし小首傾げたアリスにパトリシアは困った。ヴェロニカとやろうとしてるのはベルセキアを足止めするだけでなく他への被害を抑えるために撃退するか、できるなら倒したかった。とても危険な状況になるのは眼に見えており、アリスを伴うわけにはゆかないとパトリシアは思った。
パトリシアはアリスの両肩に手をかけ顔を見つめ切りだした。
「アリッサ、これからヴェロニカとビルに入り込んだ敵を倒しに行くの」
「敵? テロリストなの?」
パトリシアは小さく頭振って否定した。
「去年、ニューヨークで暴れたベスがこのビルに来たのよ」
アリスが眼を丸くして驚いた。
「いいことよく聞いて。あなたはここ作戦指揮室で私たちのサポートをして頂戴。その警官の姿をしたベスを追い続けて居場所をつかんで欲しいの」
アリスは眼を丸くしたままこくこくと数回頷いた。
これでアリスはついて来ないだろうとパトリシアは思ってヴェロニカに振り向いて促した。
「得物を選びましょう」
テキパキと判断する少女に国家安全保障局の捜査官はアリスがしたように頷いてブリーフィングルームを出て行くパトリシアを追いかけた。
広い作戦指揮室のブリーフィングルーム寄りに武器庫が設けられていた。多量の火薬類があるので扉は電子セキュリティ式の防爆扉になっていた。
パトリシアがテンキーを操作して手のひらを液晶パネルに乗せるとすべての指の指紋が読み込まれロックが開いた。
エアーシリンダーによって開かれた分厚い扉の先に広がるラックに載せられた膨大な火器や弾薬、爆発物を眼にしてヴェロニカ・ダーシーは思わず呟いた。
「これってアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局に申請されているんでしょうね」
背後から釘を刺されパトリシア・クレウーザは半分以上が未申請だと言い掛かり慌てて口を噤んでマシンガン・ラックからMk48モッド1を引き出した。それをテーブルの上でひっくり返しピカティニー・レールにバイポットを装着した。
ヴェロニカが火器を手に取らず眼を游がせていることに気づいたパトリシアは彼女に指示した。
「バトルライフルはFN SCARーHを、弾薬はM993とラベル印刷のあるパッケージ」
パトリシアはM13リンクの弾帯が入ったアモ缶を3つアリスパックに押し込み空いたスペースにFN P90のノーマルサイトを1挺とその50発ロングマガジンを数本、グレネードの棚から木箱を開け30本入っているMk3A攻撃手榴弾を7本抜いてアリスパックに押し込んだ。
その手慣れた様子にヴェロニカ・ダーシーは少女が長年民間軍事企業に接してきたことを思いだした。
そのパトリシア・クレウーザがベルセキアは足止めすらできないと言い切ったのだ。
バトルライフル1挺を負い革で肩に提げ不安げな面もちで立っている国家安全保障局の捜査官は、少女に50口径ライフルより一回り大きな狙撃銃を手渡され、ウォーター・サーヴァーの水タンクほどの上部に握り手の付いたカーキ色の物を渡された。
「パトリシア、これは何なの? 爆発物?」
「正解! 熱暴走すると核爆発する小型原子力パワーサプライ。あなたが右手に提げたゴリラ級のハイパワー・レーザー・ライフルの電源部」
核爆発と聞きヴェロニカ・ダーシーはそれを提げた左腕が鳥肌立った。
どうして気になったのだろうか?
どうせこの容姿は仮のもの。殺人を目撃され喩え通報されてもまた容姿を変えるだけなのに。
男の警官姿のクラーラ・ヴァルタリは、頚椎を喰い千切られ事切れた男を跨いでエレベーター・ホールに踏み出した。
防火服を着ていたから消防士なのは間違いない。
あの無精ひげの男が得物を持たぬから追い詰め殺すゲームに興じる気になったのか。
いや、捕食の現場を──無防備なところを晒したのでプライドが傷ついたのだ。
どちらにしろもうあの消防士を確実に殺すことに決めていた。
顔に着いた血糊は皮膚から吸収し消すことができそうな気がしたが、血だらけのまま追い詰めて行くときのあの消防士の無様な怯え振りを見たいという欲望があった。
クラーラ・ヴァルタリは冷や汗を吹き出させた男の匂いのする方へ歩きながらあの消防士が観音開きの硝子ドアを開け逃げ込んだ部屋に見当をつけガラス戸の前に立ち止まった。
冷酷な機械仕掛けのように男を追い詰めてその喉笛に喰らいついてやる。
硝子扉を両手で押し開けた刹那ノワールの旋律が聞こえだした。