Part 12-1 Erilainen Kyky 異能力
Mumbai Maersk Container ship of the Maersk Triple E class North Atlantic Ocean 01:25 Jul 12
7月12日01:25 大西洋上のマースク・トリプルEコンテナ貨物船ムンバイ・マースク
その若い船員は震える右手に持つナイフの切っ先を肋骨の下に押し当てるとゆっくりと皮膚に突き立てた。血が溢れだし腹へ筋をひいた。
収縮したライトブラウンの虹彩でじっと見つめるクラーラ・ヴァルタリは表情1つ変えなかった。
瀬踏みは航行に支障のない船員で行うことにした。若い船員は大型船の経験も浅く命を落としてもとるに足らない。
複合企業NDCのExスターズという民間軍事企業のセキュリティの1人ルイゾン・バゼーヌというテレパシストを喰らい手にした新たな能力を試すのを先延ばしにしてきた。若い船員の意識に浸透し分け入った。凌辱に若い船員は抵抗を見せたがクラーラは刃を刺し込んだ。
面白いことに意識のやり取りに言語は関係してなかった。若い船員はクラーラの知らないデンマーク語で思考していたが、細かなニュアンスまでクラーラは理解することができた。
────イエスタ、そのまま握ったナイフで腹部を切り広げ腸を引き摺りだせ。
イエスタという若い船員は顔中に冷や汗を吹き出させ腕を震わせ抵抗し続けたが、人さし指ほどにナイフの刃が己の腹に刺さりいよいよ顔が青ざめた。
────お前は痛みを感じない。自分がしていることに無頓着だ。
クラーラは、強制された意識が肉体に及ぼす影響を知りたかった。ルイゾンの記憶によるとパトリシア・クレウーザの精神支配は神の力ほどもある強制力を持つという。支配した相手の握る銃を顳顬に突きつけさせ引き金を引かせることも自在だという。ルイゾンもかなりの支配力を持っていたがクラーラはそれを取り込んだ。
意識に命じた直後、イエスタの表情が弛緩し顔に溢れていた強張りがなくなった。
いきなり若い船員は大胆に手を動かし己の腹部を切り裂き始めた。その様を目にしているクラーラのライトブラウンの虹彩がさらに収縮し冷たい眼差しが精神支配された男を観察し続けた。
イエスタという若い船員は、ナイフを引き抜くと素手の左手を腹部に押し込み腸をつかみ出した。引き摺りだした臓物を膝まで垂らし男はいきなり体を硬直させ引き攣ったようにうつ伏せに倒れ込んだ。
クラーラは覗くその男の精神に急激に不明瞭な領域が増え始めたのを感じていた。何だろうかという好奇心で観察を続けていたが、その外縁からまるで風に吹かれる灰の様にバラバラになってゆく事に一抹の不安が急激に膨れ上がりだした。
イエスタという若い船員は死んだのだと今更になりクラーラ・ヴァルタリは思い知った。
ルイゾン・バゼーヌの記憶にあった特殊能力の語彙にハイパー・リンクという精神接続を意味するものがあった。そのレヴェル4の憑依で見つめる────体感しているものが死そのものである事にクラーラは気づいた。
見ては────体感してはいけない領域に踏み込もうとしている危機感。咄嗟にクラーラは若い船員イエスタから抜け出そうと踵を返した。
背後に崩壊してゆく世界が広がってゆく。
離れようとするのにその解けてゆくざわざわとした音がだんだんと大きくなってゆく。距離をおけない事実にクラーラは息が詰まりそうだと思った。水面めざし肺に残った空気が持つのかと不安が加速してゆく。狂った様に両手両足で掻いてる水が、もっと抵抗の大きなブロックに変化し重石となってのしかかり、片足首をつかんだ手にクラーラは顔を強ばらせた。
顔を振り向けると、以前に撃ち殺した女が伸ばした片手で足首をつかみ見上げていた。光りない眼孔の視線が見えるようだった。その手を蹴り放そうとした刹那、女の周りから無数の手に手が伸びてきてクラーラの足首を目指した。
"Päästä irti! Kaikki kuolleet!"
(:放せ! 亡者ども!)
犯してきた罪が引き込んでいた。
お前は咎を贖うのだと躯つかもうとする亡者どもが唸るように叫んでいた。
このまま引き摺り込まれたらどうなるのだ!?
死者達の闇の周囲はざわざわと解れる音を広げてゆく。
待ち受けるのは自我の崩壊。
クラーラは足掻き残り少ない息が口から逃げてゆき水面めがけ片手指を広げ伸ばしその指でつかんだ────。
死など受け入れない。
違う!!!
死を怖れることなど生まれてこの方なかったのだ。では怖れるように仕向けている何かがあった。何だこの違和感は。思考の奥深く──原形質の意思が考えを左右しようと仕向けていた。
片腕を振り払った瞬間、重い水の重圧も足をつかんでいた亡者も消え去り、抽象画の様な判別もつかないモノトーンの巨大なポリゴンの造形物が浮遊する膝元までが霧で被われた無音の空間に佇んでいた。様々に浮かんだ謎のオブジェクトの角からは絶え間なく放電が霧に覆われた地面に落ちているのに落雷の音は聞こえてこない。
これは若い船員イエスタの心の残滓なのか。それとも自身の思い描いた想像なのかとクラーラは目を游がせた。
どこへ向かえばこの謎の空間から出られるのかも定かでない中、女テロリストは前へ向かって脚を繰り出した。
頭上では高層ビルほどもある立方体がぶつかりそうな間隙ですれ違い流れてゆく。視線を下ろした前方のかなり離れた場所を地面の霧をかき乱しながら三角柱のポリゴンの造形物が横切って流れてゆくと微かな笑い声が聞こえ真っ直ぐに見えない階を下りてくるカラフルなカクテルドレスを纏った若い女が見えた。その下ろす赤いハイヒールの一歩ごとに見えない階の段の天面──踏み面がハレーションを起こし輝く。
見覚えのないはずの若い女が、お前の事を知っていると言わんばかりの上目遣いのエメラルドグリーンの三白眼で睨み据えていた。
顔を見るのが初めてなのにクラーラ・ヴァルタリは大人になりかかった少女が誰かに気づいた。
こいつがパトリシア・クレウーザだ!
ポーランドで精神侵食してきた世界中で最高ランクのテレパシスト! 咄嗟にクラーラは片足を引いて身構えた。あの時、パトリシアは意識を鷲掴みにして振り回そうとして何かに気づき急激に離れた。アメリカ大陸のニューヨークに居ながらに遠く4000マイルも離れた欧州にまで精神の超空間リンクを結べる怪物。
「クラーラ・ヴァルタリ────よくもルイを殺してくれたわね────」
パトリシアに言い切られルイとはルイゾン・バゼーヌの事だとクラーラはすぐに理解した。あの喰らった民間軍事企業のテレパシストだと取り込んだ原質からの記憶に思い当たった。
ならここはもう1人のテレパシスト──パトリシアの生み出した闘技場。取り込まれている時点で精神が侵食されている事になる。いつ侵食されたかは重要じゃない。どうやって侵食を打ち破りこの仮想空間から抜け出すかが重要だった。
ルイゾン・バゼーヌを喰らう前なら、なされるがままに蹂躙されただろう。だが格下でもテレパシスト1人を喰らい手の内は獲得済みだった。
「お前が2人目だパトリシア・クレウーザ!」
最高ランクのテレパシストを喰らってそのすべての能力を我が手の内にしてやると女テロリストは言い放った。それを少女は鼻で笑いとばし告げた。
「お前を────殺していいって──」
パトリシア・クレウーザは霧に覆われた地表に降り立たずに立ち止まり怒気含んだ静かな声で女テロリストに最後通告を言い渡した。
「歯を食いしばりなさい──」
その十段ほど上に立つパトリシアがいきなり右腕を振り上げ揃えた指で手の平をクラーラに向けた。
背後から大型トラックに激突された様な意識が混濁する衝撃を受けクラーラ・ヴァルタリは仰け反ったままパトリシアの方へ凄まじい勢いで飛ばされ手の平の前数ヤードで女テロリストはバットで腹を猛打された様に手足を前に投げ出し空中に静止した。
「もの凄く痛いでしょうクラーラ──」
胴体が両断された様な激痛にクラーラは精神世界の仮想空間だというのにこの度し難い感覚は何なのだと両腕両脚を力なく下げ俯いたまま困惑した。
「覚悟なさい──」
直後、パトリシアは手の平を手首のスナップだけで振り下ろした。
飛ばされてきた以上の凄まじい勢いで両手足を前に投げだしたままクラーラは背後に飛ばされた。
100ヤードも女テロリストが離れた直後、パトリシアは手首を返し手の平を上に向け手首のスナップで開いた指を振り上げた。
激速で飛ばされるクラーラの背後に地面の霧を突き破り巨大なポリゴンの立方体が立ち上がりその側面にクラーラは激突し食い込んで血反吐に吐いた。こんな激痛は生まれてこの方なかったと唯一意識に登った思考が擦り切れ窪んだ激突孔から女テロリストが落ち掛かった刹那、遠くパトリシアの呟きがクラーラには聞こえた様な気がした。
「ルイの痛みはこんなもんじゃなかった──」
呟いたパトリシアは振り上げた片腕の手の平の指を力込め握りしめた。
クラーラが罅割れた孔から空中に落ちた一閃、ぶつかった巨大なポリゴンの立方体が激突孔を中央から左右に折れてクラーラを挟み轟音を放ち面を揃えた。
「これでもルイの痛みに足らない──」
そう囁きパトリシアは振り上げている腕の拳を解き弾き中指と親指をぶつけ滑らして中指を手の腹にぶつけパチンと響かせた。
寸秒、クラーラを呑み込んだ巨大なポリゴンの立方体が接合面を左右上下違いに回転させ割れ目からポリゴンの破片をばら撒いた。
「経験のない痛みに殺して終わりにして欲しいとあなたは懇願するでしょう──」
言い放ちパトリシアは振り上げた腕をオーケストラの奏者の様に見えないタクトを左右上下に激しく揺さぶった。
女テロリストを挟んだ巨大なポリゴンの立方体の左右に杭打ち機の様に別な立方体が爆音を響かせ激突しクラーラを挟んだ立方体が歪み数百万のポリゴンに分解し押し潰された。
「狂いそうな痛みよね──」
パトリシアが片腕を上下に激しく揺さぶり反開きの手の平を手首のスナップでクラーラを蹂躙する立方体の方へ振り上げる。
クラーラを挟んだまま数百万のポリゴンに圧壊した立方体の下部から巨大な円柱の立方体が音速で立ち上がり、上からは遥かに巨大な三角柱の立方体が爆速で降下し、クラーラを呑み込んで押し潰し続けるポリゴンの群小を叩き潰し面を揃えた。
「体中から血を流すこの痛みでさえルイの無念に届かない──」
呟き続けるパトリシアが再び上げた腕の指を力込め握りしめた。
刹那、クラーラを押し込めたポリゴンの群体へ上下の巨大な立方体が押し潰され裂ける轟音を放ちながら巨大な円盤状のポリゴンの集合体になり上下左右に別々に回転し回転面の境界から微細なポリゴンが溢れだした。
「クラーラ・ヴァルタリ──あなたはもう正気でいられない」
カオスの中心を見つめパトリシアは見切りをつけ背を向け見えぬ階の上の段に足をかけたその時だった。
カオスの中心から迫る波動にパトリシア・クレウーザは半身振り向いた。
黒い異形の刀剣が空気を歪ませ豪速で飛んでくると振り向いたパトリシアの正面で高次元の楯にぶつかり半透明の円形の多重の歪みがエネルギーの呑み込みパトリシアの背後の透明の階の先にある浮かんだオブジェクトに突き立って巨大な立方体を半壊させ多量のポリゴンが霧の地面に落下して消えた。
「舐めてくれたな──尻の青いガキがぁ」
女テロリストが押し潰された筈のカオスから言い放っていた。
堆く積もったポリゴンの残骸の疎らな足場を片足を引き摺りながらクラーラ・ヴァルタリが姿を見せた。
「お前は稀代の詐欺師だ」
俯いたまま女テロリストは言い放った。
「お前の創った世界──もっと早くから気づけばよかった────若い船員イエスタでの実験自体がお前の生みだした幻だったのだと────」
傷み思い通り動かぬ片足を引き摺りクラーラ・ヴァルタリが顔を上げNDCのテレパシストを睨み据え足を繰り出し続け叫んだ。
「そうだろパトリシア・クレウーザ!」
クラーラはもしかしたら這い上がり乗り込んだ貨物船すら最高ランクのテレパシストが生みだした幻想なのかと慄いた。だが────だが、仮想空間の造り方もその御する方法も知っていた。
精神の傷が肉体の実際の痛手を生みだし尽きるところ本物の死に至らしめる。
若いテレパシストは、ベルセキアの傾向を放ち続ける女テロリストを睨みつけながら言い切った。
「死になさい!」
空に浮く幾つものオブジェクトの角から歪な雷光が走りクラーラを目指し群がった。
素手だった片手にいきなり黒い異形の刀剣が現界すると大きく脚を開きクラーラ・ヴァルタリは落雷を薙ぎ払った。
階の中段にいるテレパシストへ振り向いて女テロリストは上目遣いで睨みつけて怒鳴った。
「無駄だテレパシスト! 我の内にルイゾン・バゼーヌのすべてがあるんだ! ────舐めるんじゃない!!!」
そのクラーラ・ヴァルタリに向けパトリシアは片腕を振り出した。その指先から巨大な三角錐の巨大な立方体が生まれると光の速度で女テロリストへと突き進んだ。その先端がクラーラの立つポリゴンの残骸に激突し焔と爆煙が広がった。
伸びる爆煙を靡かせ切り裂いて跳び上がってくるベルセキアの匂いを感じさせる女が振り上げた両手で頭の上に構えた黒い異形の大剣が空気を切り裂き左右に圧縮した津波が広がってゆく。その降下して来る怪物にパトリシアは顔を歪め両腕を勢いよく振り出した。
若きテレパシストの手の平から巨大な角柱のポリゴンが急激に伸びてクラーラ・ヴァルタリに迫った刹那、女テロリストは剣を振り下ろし角柱の立方体を引き裂いてパトリシアに迫った。
その黒光りする切っ先がパトリシア・クレウーザの額を捉えた直後、突き抜けて階に突き立ち女テロリストは振り出した両脚で踏み面に着地し顔を振り上げ叫んだ。
「卑怯だぞパトリシア! 逃げずに戦え!!!」
直後、仮想空間が数多のポリゴンに姿を変え崩れ始めた。
船長室で我に返ったクラーラ・ヴァルタリは、まず今、自分がいる貨物船の一室が本物なのかと疑ってかかった。そうして自分の手の平が視線に入ると赤い液体が付着しており目を強ばらせて躰を見下ろした。
己の着衣が血だらけなのに驚愕した。