Part 24-4 Iceberg 氷山
NDC HQ Chelsea Manhattan, NY 02:39 Jul 14
7月14日02:39ニューヨーク州マンハッタン・チェルシー地区NDC本社ビル
ヴェロニカ・ダーシーと暗殺者の男を殺害し食べ能力を身につけたクラーラ・ヴァルタリという女テロリストの行方がわからないと作戦指揮室のブース一角に座るパトリシア・クレウーザはチェルシーのNDC本社内で困惑していた。
普通なら数十万マイル離れていてもその精神を見失うことはない。だがクラーラはポーランドで欧州NDCの特殊上級職員──ルイゾン・バゼーヌを殺害しテレパス能力を奪い巧妙に己の精神をステルス化し追跡の手を逃れていた。
ポーランドのラウルスBT・コーポレーションを襲撃しベルセキアの細胞を奪ったクラーラはこともあろうか、それを注射し第2の狂戦士となった。そのうち人としての原質を失い多量に汚染細胞をばら撒き始めるだろう。
そうなる前に倒さなければならないのに、追跡の要はシルフィー・リッツアの勘に頼るしかないという心もとなさすぎな状況が続いている。
殆どのセキュリティ第1中隊がテキサスから戻りマリアが指揮してクイーンズに討伐に向かったが、クラーラは発火能力や時間駆使能力の力まで持つにいたったクラーラは去年のベルセキアの比ではない強さを持つ。
マリアの力になれないことが悔やまれた。
パティはふとマリア・ガーランドがクイーンズではなく6番街をモーターバイクで疾走していることに気づいた。
何をしているのかとパティは困惑した。
チーフの精神を正確に読み取り、ジャンプして逃げるベルセキアを追って6番街を凄い勢いで逆送している。逆送!? 暗い中、時速25マイルを越える速度で向かってくる乗用車を躱し70マイル以上で大きなモーターバイクを走らせている! しかもその状況でビルの合間の空中にいるクラーラ・ヴァルタリを捜していた。
ベルセキアの討伐が上手くいってないとパティは直感で理解した。
あれが82階に現れた時に精神攻撃ができた。リンクできたのだ。ならステルスを破る方法があるはずだった。
ミュウが精神ステルスは得意だ。彼女が説明する精神ステルスは自閉症患者を喩えにする。その殻を破るには脳のF5野にあるミラー・ニューロンのサイクルを阻害するしかないということだった。
ならクラーラ・ヴァルタリは自閉症の傾向があるのかというとそうではない。彼女は多くの手下を率いて欧州にテロリズムの嵐を吹き荒らせた。
奴はルイゾン・バゼーヌのテレパスの知識から精神を遮蔽する方法を見いだしたに過ぎない。
パティは連続殺人鬼のカエデス・コーニングを思いだした。強固な精神防壁を構築していた。それは迷宮のような精神構造だった。
マンハッタン900万近い精神に埋没する怪物の精神はとても奇異なはずだとパティは思った。
「あ!?」
チーフが6番街からチェルシーへと向きを変えた。
クラーラはこの本社へと戻ろうとしている!?
パティはブースから立ち上がるとエレナ・ケイツ──レノチカを指揮室に探し視線をめぐらした。その姿を1課のブースに見つけパティは足速に向かうと声をかけた。
「レノチカ、ベルセキアがここに来ようとしている」
振り向いた指揮代理官が顔を強ばらせた。レノチカは夜勤の情報部総動員でクイーンズに逃げたベルセキアを街頭の監視カメラをハッキングさせ捜索していた。
「確かなの!?」
パティは口で応える代わりに頷いた。それを見たレノチカはすぐに1課のブースに手を伸ばしインカムをつかむとセキュリティ・ルームにAIで繋がせた。
「レノチカです。ベルセキアが本社ビルに来ようとしている。全員第2種装備で待機」
近接戦闘の第2種装備だとベルセキアに対して火力不足だった。だが屋内で対戦車ミサイルなど使えないとパティは82階通路で体装甲地雷を起爆させたことを棚に上げた。
「どうして怪物は執拗にこのビルを狙うの?」
インカムをデスクトップに置いてレノチカが特務上級職員のパトリシアに尋ねた。
「チーフが狙いだったらクイーンズから逃走しなかった。狙いはおそらくわたし。喰らってわたしの能力を奪う気か、拉致して人質にするつもりだと思うの」
レノチカは唇開いて呆れはてた。少女は自分が喰い殺されることを平然とうけとめている。ベルセキアのそんな狼藉を許さないのが大人の責務だと顎を引き両眼が座った。
「ベルセキアが来てもあなたはここにいなさい。1番安全だから」
その忠告を聞いてパティは頭振った。
「チーフは1人でもベルセキアの手で死人が出ることを望まない。わたしを護るためにセキュリティに死者が出たら本末転倒だわ。わたしも打って出る」
その決意にレノチカはあからさまにドン引きして片瞼を痙攣させた。
「いえあなたはここで職員に護らせます。これは上級命令で────」
エレナ・ケイツは脈が跳ね上がった。少女がエメラルドグリーンの瞳をきらめかせ見つめ返す意味を指揮代理は即座に理解した。私を精神操作してでもセキュリティとベルセキアに挑むつもりだ。
「パティ、武装しなさい。でも無理だと感じたら躊躇せずに逃げる。それと私との精神リンクを状況終了まで維持し続ける。それらが約束できないなら職員全員であなたを拘束します」
「それは重いわね」
そう告げて少女は頷き悪戯っぽく微笑んだ。
特務上級職員の少女が踵返し武器庫へと向かいレノチカは声を張り上げた。
「皆聞きなさい! ベルセキアが当ビル侵入を目指している! 手分けして6千基の全カムを監視する!」
そう指揮代理が命じるなり指揮指揮室壁面の巨大モニタの映像ウインドが次々に各フロアの監視カムに切り替わり始めた。
5分ほどでタクティカル・ベストに弾薬ポーチとDM51(:破砕手榴弾)をびっしりと付けたチェスト・リグを装着し弾帯ベルトをたすき掛けにし、肩後ろに負い革でM72LAW対戦車ロケットランチャーを2本提げたパトリシアがミニミMk3機関銃を負い革で首にかけCVCヘルメットを被って武器庫から出てきた。
そのアフガニスタンにでも出向くような重装備の装いにレノチカは不安になった。
「2種装備の第2中隊の連中の方が心配」
いや、そうじゃない! そんな装備が必要だと認識しながらセキュリティに参加する君の気負いが不安なのだとレノチカは一瞬考え苦笑いにすり替えた。
だが去年末の対ベルセキア戦闘の詳細でチーフとシルフィー2人がいかに手こずったかをNDCの超民間軍事部門全員が知っており、対装甲兵器ですら火力不足だと認識しているからこその少女の準備だった。
倒すどころか足止めにすらならないかもしれないのだ。
パトリシアが重そうな足取りで指令指揮室内壁の階段を上って行くのをレノチカは見送りインカムを手にしクイーンズに出ているシルフィー・リッツアを無線で呼びだした。
「シルフィー、指令指揮室のレノチカです。ベルセキアが本社ビルに向かっています。至急第1中隊と共に戻って下さい」
『了解』
無線応答の寸前、ハイエルフが短く舌打ちしたのをレノチカは初めて耳にした。それほど展開した第1中隊に余裕がなかったのだとレノチカは不安になった。
夜更けでありながら跳躍するクラーラ・ヴァルタリは向かう先にNDC本社ビルをはっきりと見ていた。
チェルシーという地区で唯一の全方位総ブロンズ・ガラス張りの超高層ビルを見間違うわけがなかった。
追ってくるマリア・ガーランドよりも先に辿り着けても人質にするパトリシア・クレウーザを見つけ取り押さえる余裕は僅かしかなかった。
迅速さ、敵の急所を押さえるのは格上の力に匹敵する。
いくらあの女指揮官が多くの兵を引き連れ、化け物じみた能力を持とうとも形勢はこちらに有利になる。
そうして逃れる直前にあの女の眼の前でパトリシア・クレウーザの頭部を喰らい千切ってやるのだ。その時の絶望の表情を思うとゾクゾクとしそうだった。
問題はあの階層の多いフロアのどこにパトリシア・クレウーザがいるかだった。
想定を誤ると立場を逆転できないばかりか、追い込まれる可能性もあった。
まずビルへ侵入し、社員の誰かを人質に取りパトリシア・クレウーザを誘きだす。あの小娘は生粋のテレパシストだ。人質に取った思念波を広げれば無視できないだろうとクラーラは考えた。
博打を打つような手だったが、短い時間の中で小娘を探し迷走するよりよほど現実味があった。
それに最初に人質とするのが社員なら武装していることもないという安心感があった。銃弾は対戦車ミサイルほど脅威ではなかったが、素手の相手を御する方がより達成率が高くなる。
喰らったヴェロニカ・ダーシーの知識から去年末ニューヨークを襲ったベルセキアという怪物は6発の対戦車ミサイルにも死ななかったという。まだそこまでに及ばないが、何か足りない能力があるのなら、これからも襲い喰らえばよかった。いずれは無敵の不老不死の躯に到達してみせる。
十字の屋上をした煉瓦色のビルから大きく跳躍しNDC本社ビル屋上の鉄材で組まれた大きなヘリポートへ着地するとクラーラは階段を駆け下りるのも無駄に感じ屋上出入り口のエントランス前に跳び下りた。
ここの出入り口扉もブロンズ・ガラス製だった。
ドアにノブなどの取っ手はなく横にスライドするタイプでもなさそうなので押してみた。だが電磁ロックがかかっており開く気配がなかった。
クラーラは辺りを見回しガラス扉を正拳で殴りつけた。
強化ガラスが砕け散り邪魔するものがなくなるとクラーラはエントランスに入った。
エレベーターが2基ありクラーラはすでに知っていたので扉前に立ち呼び出しボタンに手をかざした。もしもエレベーターが止められていたら力尽くで扉を開き飛び下りるつもりだった。幸いに上向きの三角の樹脂ボタンに淡い光が灯りエレベーターが上ってくるに任せた。
扉開き箱に乗り込むとドアが静かに閉じた。
それらの光景をエントランスの内外に付けられた保安カムが赤い小さなダイオードを光らせ撮影していた。
クラーラはエレベーターのどこかに設けられたマイクに向かい英語で100階を指示した。AIがそれを認識し軽い電子音を鳴らしエレベーターが降下し始めた。
100階を選んだのは先に制服警官姿で来た時にエレベーターに1階から社員が乗り込んできたからだった。深夜で夜勤のものは少ないだろうがこの時刻に人が戻って残業しているとは思えなかった。なら夜勤組がいるはずだ。
全フロアに社員がいるとは思えず、ちょうど中間階層の100階を選んだ。
いなければその前後のフロアを探すまでだった。
だがクラーラはエレベーターが遠隔操作で132階に向かっているとはまったく気づいていなかった。
その上下28階層にセキュリティ要員以外の社員はいなかった。
エレベーター内の出入り口上部にあるデジタル表示もAIが100階に近づくように細工をしていた。
その偽りを見上げ確認しステンレスのドアが開きクラーラはエレベーター・ホールに足を下ろした。
背後で扉が閉じシステムの電源が落とされエレベーターという逃げ道を塞ぐと100ヤード先の右手のドアが開き都合よく社員が現れたとクラーラは鼻を鳴らし片側の口角を吊り上げた。
渡りに舟だと見つめていて気づいたことに女テロリストは顔を強ばらせた。遠くに立つのは重火器のバレル下げた重武装の少女兵だった。
「おのれ────パトリシアめ!」
そう悪態吐いてクラーラは歩き始めた。
その落ち着いた小娘の態度が銃器によるものだとクラーラは思って不安がよぎった。
あの武装は囮だ!?
そう気づいた寸秒、トンネルを抜けるように通路の光景が前方から氷床に変貌し呑み込まれた。
恐ろしく冷えた地面だった。
警察支給の靴に似せた足が張り付きそこから恐ろしい冷気が這い上がってくる。
クラーラは小娘の幻覚だと己に言い聞かせようとした。
そうだ────この時点でパトリシア・クレウーザは心に入り込んでいる!
女テロリストは喰らったルイゾン・バゼーヌの記憶と技巧を手繰り寄せた。欧州NDCのテレパシストはパトリシアによって鍛え上げられていた。逆にいえば世界一のテレパシストの手口をルイゾンは目の当たりにしてきていた。
パトリシアを閉め出すにはこの仮想空間をとことん上書きするしかないとルイゾンは教えられていた。
その混迷の寸秒、クラーラ・ヴァルタリは腰まで凍りついていることに唖然となった。
これは小娘が押しつけている夢幻包影にすぎない。
その手法はとクラーラは考え分子運動に思い当たった。
パトリシア・クレウーザはこの世界の分子の動きに制約をかけている。
なんでも有りかと女テロリストは呆れ返えると同時に返す手に思い至った。
特務上級職員に合図され第2中隊のセキュリティ要員ら8人はFNーP90Evo4を構え少女とベルセキアと思われる女制服警官との中間の左右ドアから出てくるなり1ミルの赤いダットを標的に重ねた。
そのベルセキアと説明を受けている女は呆然とした表情でエレベーター・ホールに突っ立っていた。
パトリシア・クレウーザは右腕振り上げ女制服警官を指さした。
撃てと命じていた。
無抵抗の人を蜂の巣にしろと言っている。
セキュリティらは生唾を呑み込んで躊躇した。
その背後でパトリシアはミニミMk3機関銃を両腕で構え上げ女テロリストに照準した。それに気づいて第2中隊の男らは驚いて通路ここの左右に跳びのいた。
上書きどころの話ではなかった。
クラーラ・ヴァルタリの眼前に氷床を打ち割りせり上がってゆく3万フィートはある氷塊。その峰に圧倒され氷壁に亀裂が走ると女テロリストに雪崩のように崩れ落ち始め。
これが世界一のテレパシストの力だと彼女は思い知らされた。