すきなひとと同じにおいなんて気持ち悪い
わたしは美術部に所属していた。文化部ではあったが、夏休み期間中も学校に登校しなければいけない日が何日かあった。秋に開催される町の芸術祭に出品する作品を仕上げるためだった。季節外れのような気もするが、なぜか夏真っ盛りの風景画を描かされていた。部員は午前十時にいったん美術室に集合して、出欠確認をしてから、思い思いに散らばった。クーラーが直撃する席で机に突っ伏して、なかなか動かないわたしを催促する声が左耳に入った。
「あおいちゃん。外行こう」
クラスメイトで、同じ美術部に所属するひなだった。伸ばす腕の隙間からちょっとだけ彼女のかがみこむ姿を見た。よいしょと重い腰を上げる。気の利くひなはすでにわたしの描きかけの画用紙と板とバケツを持ってきてくれていた。足元に置いた水色のバケツがなんとも涼しげだった。
「水筒は?」
聞くと、ひなは画材をさきほどまで眠ったふりをしていたわたしの机の上に置いて、スクールバックをあさりだした。その様子を見た後、わたしも水筒を取り出し、画材道具一式を持ってひなと美術室を出た。
セミが鳴いていた。みんみんとつくつくぼうしの鳴き声混ざり合っていた。外の水道で蛇口をひねって、ひなはバケツに水を入れた。筆先を濡らし、色が混じらないようにするための水だ。蛇口は太陽の熱で熱くなっていた。
水道に来ると毎回水をかけあって遊んでしまう。水をくむ傍で、わたしは隣の蛇口をひねって指先に水滴をつけた。それを彼女の方に向けてぱっと手を払う。今日も透明な液体が太陽に輝いて散らばった。
「だめだよ、あおいちゃん。わたしバケツに水入れてるんだから。ずるいよ」
「暑いでしょ。水かけてあげるのはどっちかっていうと優しさだよ」
小さく抵抗するひなからは、さわやかな香りがはじけていた。
水が入った小さなバケツを慎重に運び、木陰にバケツを着地させた。板に画用紙を挟んで、二人で木の根元に腰を下ろす。大きな緑の木の下だ。日蔭で描ける利点と、そこから見渡す校舎が絶好のスポットだった。虫が力尽きて落ちてくるのではないと不安になるくらい、頭上ではいろんな夏の虫が鳴きわめいていた。校庭ではサッカー部と野球部が面積を半分にして、熱心に声出しをしていた。一生懸命にスポーツに取り込む姿はかっこいいと思う。
そんな青春の風景を眺めてから、パレットを開いた。前回の色がカチカチになってこびりついている。バケツに筆を突っ込んで、水を含んだ毛先で色をならしていく。そうしてやさしくなった色を画用紙に滑らせ、絵を完成に近づけていく。わたしとひなの座る距離は近い。そのため、切り取った風景も似通っていた。夏のうるささと反比例して、その瞬間だけは静かに絵を描いていた。遠くの方から、ランニングの気配が近づいてきた。
「いーちに、いちに」
「おーれ」
「いちに」
「おーれ」
「いっちにーさんしー」
「ごーろくしちはち」
リズミカルな掛け声で走り込みをしているのは、テニス部だった。大会が近いと、幼稚園から腐れ縁のふみやが言っていたのを思い出した。やがて集団は絵を描く前を走る。絵と現実を比較するために顔を上げた瞬間、ふみやと視線がぶつかった。その瞬間、彼はにっと笑った。一瞬だった。
それから何度もテニス部はわたしたちの前を通り過ぎた。外周を始めたばかりなのかもしれない。何周するのだろう。
「テニス部たいへんだね」
目の前のランニングを見ていたひなからは、その話題が出てくる。
「大会があるらしいよ」
「そうなの?」
「うん」
「もしかして、ふみやくん情報?」
動かす手を止めて覗き込むように尋ねてくるひな。一方のわたしは筆を動かしたまま、うん、と軽く返事をした。
「いつやるか日にちは聞いた?」
「さあ、詳しくは知らないけど」
少し強い風が吹いた。ふたつにしばったひなの長い黒髪が、風に揺られて首と頬に貼りついた。暑い。汗が額に、首に大きな粒をつくり、背中の水滴は背骨をなぞって流れ落ちる。午後のピークに向かって、気温はぐんぐん上昇していた。
「大会の日程、こんど聞いてみたら?」
頬に貼りついた髪を長い指先でつまんで払いながら、ひなが言う。わたしは目の前の風景を見つめながら、うーんとうなった。ひなが前のめりになってくる。汗をかいたわたしは少しだけ、におわないか心配になった。近づくひなからはいいにおいがした。さすが女子。
「応援しに行こうよ」
「わざわざ?」
「ふみやくん出ないの?」
「ああ、そういえば、出るって嬉しそうに言ってたかも」
「それじゃあ、なおさら」
またテニス部が前を通りかかった。ばてたのか、最初のころのような勢いは失速していた。何かを言いかけたひなは、顔を近づけたまま横目で過ぎていくテニス部を見た。視線を追って集団に目を移すと、また彼と目が合ってしまった。すぐ逸らした。
さきほど水をくんだ水道場のところで、集団はばてーとへたりこんでいた。終わったようだ。わたしは顔を横に向けて、疲れ切ったようすの生徒たちをぼうっと眺めた。何人もの部員が蛇口からあふれる水を必死に飲む姿が見えた。その中に一人だけ、わたしたちの方に歩いてくる生徒がいた。わかってすぐ、顔を前に戻した。近くで顔の動きを見ていたひなは、少し嬉しそうにわたしから体を離した。
「よお、あおいー」
ひょうきんな声。ふみやだ。
「あついね」
わたしのかわりにひなが返事を返す。ふみやはおうと言って、わたしの隣にしゃがみ込んだ。座り込む瞬間、ふっと、男の汗臭いにおいが鼻をついた。
「お、絵すすんでんじゃん」
許可なく手元の絵を覗き込んでくる。板を斜めにして、見えないようにした。
「勝手に見ないでよ」
「なんだよー。おまえだって、走ってるの見てたじゃねーか」
「風景描いてるのに風景見なくてどうすんの」
ああ。距離が近い。汗臭い。わたしの頭の中は、おしゃべりとは全く関係のないことを考えていた。会話のやり取りをそばで見ているひなが無言で微笑んでいるような気がした。ああ、もう、やだな。
「……くさい」
「え?」
突然の単語にびっくりしたのは、ふみやだけではなく、つぶやいたわたし自身もであった。はっとした。
「え、あ、おおう?」
ふみやは腕やら脇やら、いたるところのにおいをかぎだした。一通りかぎおわったふみやは、頬を赤らめて聞いてきた。
「ごめん、くさかった?」
「あ、いや、その」
ばつが悪くなって顔を逸らす。
「……。いや、ていうか、おまえのが、さ」
そう言って、顔、厳密にいえば鼻をわたしの肩に近づけてにおいをかんできた。首筋にぞーっと気持ち悪さが走る。
「ちょっと!」
筆を持っていない左手でふみやのことを突き離す。
「ん! おまえ、いいにおいした! 石鹸の香りみたいなにおい」
悪びれるふうもなく、押されたふみやは体勢を戻しながらそんなことを言った。
「なに、香水?」
「ち、ちがうよ。スプレーというか」
目だけでちらりとひなのことを見る。彼女は口元に手を持ってきて、小さく笑っていた。
「なんだそれ! におい気にするとか、おまえ好きなやつでもできたかよ」
「はぁ?!」
「いいなー。なあ、そのスプレーとかってやつ、俺にも教えてよ」
「ば、ばかじゃないの?! なんで教えなきゃいけないの」
「いいじゃん、ねえなに? あ、放課後一緒に買いにいこうぜ」
「ばか! なんで一緒に行けなきゃいけないのよ!」
堪えきれなくなって、ひながとうとう大声で笑いだした。本当は使っているスプレーのことは教えたくなかったが、早く会話を切り上げたくて、妥協した。
「ああもう! 商品名だけ言っとくから自分で買って」
「あと、においの種類も教えて」
「は?!」
呆れた。速攻でいやだと抵抗した。しかし、ふみやは声のトーンを少し抑えて、何とも言えない表情でぽつりともらした。
「なんか、おまえのその香り、いいと思った」
「あ」
ほ、と罵声を浴びせるのと同時に、水道の方からコーチの集合の声がかかった。意識が水道の方に向いて、ふっと戻すと、すでにふみやは立ち上がっていた。顔つきが、すでにテニス部員になっていた。
「ふみやくん、呼んでるみたいだよ」
さきほどから絶えず笑っていたひながそっちを指さして、ふみやはまたなとだけ言って駆け出した。そしてテニス部員たちは校舎の裏にあるテニスコートへと消えていった。
後姿を見送ったひなからさっそく突っ込まれることは、予想していた。
「放課後デート?」
予想通りからんできた。
「するわけない」
ひながわたしとふみやをくっつけようとしていることは見え見えだった。
「スプレー買いに行くんだよね」
「行かないって」
「どうして?」
黙り込む。だって。
「たぶんね、ふみやくん、あおいちゃんと出かけたいんだと思うよ」
「それだったら、スプレー買いに行く以外の用事でいいよ」
「それも。同じスプレー使いたいから」
気持ち悪い。思っていることが顔に出ていたらしく、ひなに頬をつままれてしまった。顔と顔を至近距離で合わせて、ひなはぶにぶにほっぺを引っ張った。両の頬が赤く染まった。
「苦い顔しないのー」
「だっていやだもん。同じにおいなんて、気持ち悪い」
「鈍感だなぁ」
ため息交じりに指を離して、彼女は穴が開くほどわたしのことを凝視した。
わかってない。鈍感なのは、――。
ひなの黒い瞳に映った自分の顔を見つめながら、心の中でつぶやいた。
「とりあえず、放課後は行っておいで」
妙に大人ぶった口調で言うひなが、憎らしい。わたしのことを素直になれない子と勘違いして、背中を押していることが不快だった。そう、勘違い。照れ隠しでツンツンしているわけじゃない。わたしはすきな人には積極的なんだ。ただ、言えない恋だから、表面上では動かないだけ。
また強い風が吹いた。ひなが髪を払いのける。動作とともにふわりと広がる、さわやかな香り。
「あ、まったく関係ない話だけど」
唐突にひなが言う。
「わたしもそうなの、せっけんの香り。制汗剤、同じだったりするのかな」
「さあ、どうだろう」
なんてドライな返答をしながら、心の中で、そうだろうね、と相槌を打つ。
「同じのだったら偶然だね」
「そうだね」
表向きはそっけなく。相手に気づかれないように。
わたしがこのスプレーを使っているのは、わたしのすきな人がそれを使っているから。その人と同じにおいになりたくて。その人に一歩近づきたくて。何かの共通点があったら、心も近づくんじゃないかって、そう信じて。だから。
「あーあ」
右手に筆を持ったまま、のびをする。ひなの視線はわたしの伸びた腕に注がれる。
わたしのすきなひなと、何とも想ってないふみやが同じスプレーで、
「同じにおい」
を身にまとう
「なんて」
想像しただけで
「気持ち悪い」
【完結】
あとがき
こんにちは、はじめまして、しゅんこと申します。『すきなひとと同じにおいなんて気持ち悪い』を最後まで読んでくださってありがとうございました。そして最初に謝ります。ネタバレになると思い、作品冒頭に「同性愛的表現があるのでご注意ください」という旨を載せなかったこと、申し訳ありませんでした。読んでいて不快に思われる方がいらっしゃったらすみません。ふみやくんもごめんね。
なにはともあれ、小説家になろうでの初投稿がようやくできました。これからも作品を書いていこうと思いますので、よろしくお願い致します。
2017/11/05