第七話 心
そのノートの持ち主は多分僕の通う高校へと通っていたらしく、今現在も僕の高校で美術の先生を勤めている名前がちょくちょく出て来ていた。近所にあるスーパーの名前も、この近くの住民ならだれでも最寄り駅にしている駅名も全部そのまま、僕は持ち主と同じような環境にいるんだということが、すぐにわかるくらいに。
書かれていたことは何も変わらない、僕が日記をつけていても書きそうな、そんな類いのことだった
少し違っていたのは、その人には文章と絵の才能があったってことだけ
ただそれだけだった
その人が日記を付けはじめたのは、使い終わりの7月7日から三ヶ月前の4月7日
書き出しはこんな言葉で始まっていた
『今日は、とても良い場所を見つけた―――――――――高いビルの最上階!誰もいなくて、とても良い場所だ。気軽に絵がかけるし、なにより静かで、気がとっても休まる!それで、今日からそこを僕の秘密の場所にすることにした!明日から毎日通って、たくさん絵を描こうかな』
そして、そのページには最上階の窓から見える景色が描かれていた
黒い鉛筆で書かれているくせに、僕にはとても綺麗な夕日の色が見える気がした
そんな日記は次第に詩が綴られるようになった
日に日に量も増えて、絵もどんどん上手くなっていった
妹の運動会、保護者と担任での三者面談、母の日の贈り物、その人の好きな誰かのこと
楽しそうな日常がその人を包み込んで
その紙一枚でその人の笑顔が想像できるくらいに
でも、ある日突然、笑顔が消えた
その人は何か重い「病」にかかったらしい
文字も震え出して、つい1ページ前の文字とは比べ物にならないくらい情けないような、何かとても良く解らない感情が押し出されたような文字だった
『もう、僕には時間が残されていないらしい』
そんな出だしで、その日の日記は書かれた
『今日、たまたま接触事故にあった友達の付き添いで病院に行った。そのときはまさか僕が逆に診断されるなんて思ってなかった。けれど、どうしようもない結果を突き付けられた。声が出なかった。母さんも父さんも何も言ってはくれなかった』
『―――――――――僕は一体どうして生まれて、生きているんだろう』
理由が判らない
その人がその一言を書いたのは、6月7日
この日記の使い終わりの一ヶ月前だった
『もう理由がわからない。僕はどうしたい?死んでしまいたいのに、もう僕は自分で死を選ばなくても、死は僕にやってくる。余命は』
あと一ヶ月
『少ない、と言えば少ないのに、多い、と言えば多い。中途半端すぎて、何をしたらいいのかもわからない。僕はどうしてこんなことも決められないんだろう。もうすぐ時間が底をつくのに、何も自分で判断できない。でも、延命治療なんて受けたくない。僕は最期まで僕でいちゃいけないの?』
あと一ヶ月
『僕が僕として何かを考えることが、話すことが、動くことが、もしもできなくなるんなら、それは死んでいるのと変わらないよ。母さん。僕は、そうまでして、僕を壊してまで生きていたくなんてない』
だったらいっそのこと殺してくれたほうがいいんだ
『もし、この治療を本当に受けさせたいなんて考えてるなら』
僕はもう世界なんてイラナイ
もしも、僕が僕でなくなるのなら、もうこの時間はいらないよ
砂時計みたいになくなっていく時間でも、僕は自分で絵を描いて、
誰かの中で生きていたいから
『僕は最期まで僕でいちゃいけないの?』
彼は、7月7日の前日にこんな詩を残している
僕は、読んでいる最中にどうしてか涙が出た
選ぶことをした彼がとても輝いて思えたんだ
その決断が光に思えたんだ
『立ち上がる
前を見て深く息を吸う
孵る雛鳥は高くは飛べず、ただ呼応する大地に根をはるように呼吸するだけ
それだけ
何を待っているのかそれとも待たずに飛び立とうと言うのか
誰を待って何を思うのか
知っているのは空だけできっとだれも振り向こうとはしなくて
知ろうともせずに毎日をいきて世界は廻って僕等はただ息を吸う
そう、あの雛鳥と同じようにただ生きるがために息を吸う
なんの思いも感情も無く仰ぐ宇宙を彼等はどうして駆けるように舞うのだろう
手を延ばしてもそれは届かないくらいに遠くて
鮮やかな想いがそこにあった
遠く
果ても無かったあのころよりも遠くに
見落とせば気が付かないほどに
舞う
枯れることなく流れ続けるあの雲のように広いキャンパスにえのぐをたらすように
空に彼等は想いを綴っては叫んで
夜明けの唄を歌ってはただ純粋に走り続けた
そう、だから―――――――
見えない物も見えてた、気がした
もう遅い、世界の果てで僕は一体誰の心に残れるだろう
そんなことを考えて上を向いた
もう終わる
何かが変らなかったとしても、僕は僕である限り
誰かのために光でいたいと思うから
だから
両手を広げて、一歩前へ踏み出す
世界はゆっくりと僕の中で弾けて
消える』
そのノートの持ち主は、自分の意識がなくなると宣告され、
その自分が自分でなくなってしまう最終日に病室を飛び出して失踪した
発見されたのは近くの工事が途中で中断していたビルの付近
その失踪した高校生の少年が飛び下り自殺を図ったということは、十年前からこの辺りではよく聞く噂話だとばかり僕は思っていた
まさか、このノートがその人の日記だったなんて――――――――
僕は日記を持ったまま、その場で踞って
独り泣いた
嗚咽に近い声が喉の奥で疼く。誰も居ないのに、僕は息を殺して、顔を枕に押し付けていた
涙が出たのは、その人が不幸だったとか、可哀想だったとかじゃなくて
そうじゃなくて
ただ、決断できない僕が悔しかったんだ




