第六話 中
最上階の狭い部屋のような場所には、一枚の絵が飾られていた
そこに光りが在るような綺麗、というには儚く、美しい絵だった
僕は一瞬それが絵であるということを忘れて、魅入ってしまった。光が在るような色使いに細く描かれた優しい線は一つの世界を作り上げて行く――――――――そこには青いというには蒼すぎる空が描かれていた
時が経つのも忘れて、僕は絵を見続けていた。どうやらこの部屋は倉庫代わりだったらしく、段ボールが山々と積み上げられていて、誰も訪れたことの無さそうな
人のいた気配がなかった
生活感がまるでない。他の階はそれとなく人の居た感じはしたのに。
絵から視線を離した僕は、絵の真下の床に一冊の古びたノートがあるのを見つけた。もうそのノートの紙は茶色く変色して、角の部分はボロボロだった。僕はそれを手に取って、パラパラとページをめくってみた。
中には誰かの想いが綴ってあった
明日のない歌を唄う
空の色は一体僕に何を言いたくてあんなに悲しい紅色をしてるんだろう
世界はこんなに空虚で無色なのに
どうして僕は生まれて来たんだろう
なんで呼吸をしているんだろう
明日のこともしないくせに
今どうして存在しているの
誰かの糧にもなれないで、僕は僕でいられるの
必要とされないのなら
僕を僕として誰も見てくれないのなら
ここで朽ちて光になろう
明日もない歌を唄って
僕がいつか誰かの心に残るまで
僕は、その一冊のノートを持っていた腕が少し震えた
僕の思っていたことを写し取ったような言葉の羅列。その類い
日記のように綴られていたその言葉たちは果てなく色を僕の中に残していく
僕は一冊のノートを手にしたまま、そのビルかたら立ち去った
またここに来るなんてそのときは考えもしなかったけれど
光に出逢えたことに後悔も歓喜もなかった
ただ、僕は自分の生き方を見つめ返したかっただけだったのかもしれない
僕は家へつくとまず留守電の確認と、ポスト、扉と家周辺に変なモノがないかを確認した
よくある話が盗聴器の類いが無いか調べていたのだ。最近気が付いたのだけれど、僕は思ったよりも大人達の眼の下にいるらしい。
金で人が動くなんて、世界は思っていたよりも簡単に人の力で心が変えられるということを実感させられた。悲しいかな、こんなことを毎日目にするのは。
でももう悲しさも寂しさもなにもない。現実は恐ろしい。慣れてしまえば、それが恰も本当のように思えてきてしまう。全部が全部そうじゃないはずなのを知っているのに。
僕がそれに気が付いてからは、もう誰も家にあげないし、連絡も取り合ってない。それが一番いいと僕は思った。
鍵を閉めて、階段を上る。母さんが死んでしまってから一度も掃除したことのない部屋は散らかっていて汚い。洗わずに置かれている食器は一ヶ月前の物と何の変わりもない。片づけをしたくないなんていうのはただの建て前で、
本当は母さんがいたままを残したくて、僕は何も手を付けられないでいた。
洗濯物も、食器も、部屋の中に干されたままになっているタオルケットも、コンセントが出しっ放しになったままの掃除機も
全部、一ヶ月前までのままで止まっている
僕だけが一ヶ月前のあの日から動けないみたいに、そのまま、何かがぽっかりと抜け落ちたように欠落しているみたいに思えた。
僕は自分の部屋のドアを開けて中に入った。最低限の家具しかない僕の部屋は殺風景でこれといって何も無かったけれど、もうご飯も食べる気になれなかった僕は、そのまま制服のネクタイをはずして、ベットにうつ伏せに倒れ込んだ
右手には、さっきビルの最上階で見つけたノートが握られている。何の変哲もない、ただのノートだ。表にはクラスと学年、名前までは書かれていなかったけれど、裏には使い終わりの日にちが書かれていた。文字はあまりにもこのノートが古い所為か、上手く読めない。僕はそのノートの主が書いたであろう文字を口でなぞってみた
「7月7日」
きっとこのノートの持ち主があの絵を書いたんだろう。僕はそう思いながら、最上階にあった絵のことを思い出していた。光がそこにあるようなあの空の色。手を伸ばせば、向こう側まで届いて、貫いていけそうなくらい澄んだ空の色だった。あんな絵を描く人がいるのか、と素直に驚いていた。僕は正直、偉い人たちが買うような訳の解らないぐちゃぐちゃの絵の具を垂らしただけのような絵は全く、というかさっぱり意味がわからない。
芸術のセンスがないと言われればそれまでなのかもしれないけれど、わからないものは解らないのだ。でも、あの絵は素直に何故か、僕の心に響いた。
真っ直ぐに空を見たいと思ったんだ
僕は最初の1ページに手をかけてみた
そのノートは持ち主の日記だった
誰に宛てたのかもわからない詩や
書きなぐったような、それでも繊細な絵も
その人の心も全てその中に描かれていた