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    第五話 の

「母さん!」

 僕は勢い良く玄関のドアを開け放って中へ駆け込んだ

 何も変わっていない家の中、母さんはリビングでテレビを見ながらソファに座っていた

 テーブルの上にあるお茶からは白い湯気が出ていた

「誠、おかえり。今日は早かったのね」

「ねぇ母さん!ここに、人がっいな、くて!それでっ今日学校、が」 

 僕の話も聞かずに母さんは立ち上がって困ったような顔をした

「どうしたの誠、そんなに慌てて」

 そう言って、母さんは笑いながら台所へと行ってしまう

「だか、ら!人がっ」

「もうご飯出来てるから、早く着替えていらっしゃい」 

 いつもの笑顔。優しい声。僕を見るときの瞳の色。よく見たテレビのニュース番組。テーブルの上の夕食。二人分の箸。綺麗に畳まれた洗濯もの。よく掃除された家の中。笑顔。母さん。僕。家。町並み。風景。学校。空。色。今この瞬間。

 変わらない、変わってない。でも、だから


 だからおかしい


 どうして母さんと僕だけがこの町にいるんだろう。どうして誰もいないの。なんで母さんは仕事に行ったはずなのに気が付いてないの。ここは僕の夢だから気が付かないの?それともここは現実なの?夢なの?現実?リアルって一体何なんだ?僕の今、この場所で何が本当でなにが空想でどれが夢なんだ?

 わからない、もう何もかも。全部が全部夢なはずなのに。どうして僕は・・・・

 黙りこくってしまった僕に母さんは心配そうな視線を向けて、声をかけてきた。ハッとして気が付いた僕は彷徨いだす思考を一旦無理やり止めて、母さんの向かい側の椅子に腰掛けた

 手を合わせて箸を手にとる。温かい食事は余計に僕の頭の中を掻き回した。どうしていいのかも、なにをしていいのかもわからなくて、ただ僕はいつも通りの食事を一ヶ月前と変わらないように食べ続けていた。

 にこにこと微笑みかけている母さんは今日のことを一通り僕に話す。一ヶ月前まで、僕の日課にもなっていた母さんの愚痴を聞くのは懐かしいよりも突然気が付いたような驚きに似ていた気がした。隣の人と、今日会社にいく前に話して、少し世間話に合わせるのが疲れたとか、会社で後輩達のもめ事が中々片付かないとか、最近急に老け込んだ気がするとか。終いには僕に

「ねぇ、明日学校ないでしょ。一緒に何処か出かけよっか?」

 なんて言いながら食べ終えたお皿を下げはじめて、食器を荒いはじめる。僕の返事も聞かないで、明日は何処に行こうかと勝手に話しながら鼻歌を歌いはじめた

 母さんがそんな事を言うのがあまりにも突然すぎて、僕は少し拍子抜けしてしまった。母さんは言い出したり、一度決めるとなかなか説得しずらい頑固なところがあったのを僕は遠くの方で思い出していた。母さんが食器を洗いはじめたので僕はつられて食べるペースを上げ、明日のこともよくもわからずに食事を食べ終えてお風呂を済ませると、そのまま母さんに声をかけて自分の部屋へと戻った。階段を上って、部屋のドアをあける。変わらないあの声がまだ耳の中に残っていた。


『君は選ばなくちゃいけなくなる』 


 どうして僕はこんな場所にいるのだろう。死を決意して、ビルの屋上まで駆け足で上って、フェンスを飛び越えて、両手を広げて・・・・。そのまま落ちて逝けたなら、僕はどんなに楽だったんだろう。いまのこの状況も悩ませる現状もなかったかもしれないのに。知らない世界へ飛び立ちたい。何処か遠くへ行ってしまいたい。誰も知らない、僕も知らない、何処か別の場所。ここじゃない場所。

 夢でもない、幻想でも空想でもないところへ

 連れて行ってほしかった。誰も居ない、母さんもいない上辺だけの僕をレッテルだけで見る奴等と一緒に呼吸をしてる世界なんて、僕を僕として必要としてくれない世界なんていらなかったんだ。そんなの欲しくなかったんだ。僕は、この世界から解放されたかった

 母さんが僕を世界と繋ぎ止めてたのに、もうあの人は居なくなってしまったから。夢のなかでなら、ここでなら、会えるならそれでいいと思っていた。本当に現実じゃなくても幻想でも空想でも、母さんならいいと思っていたんだ。


 でも違うんだ


 あれは母さんじゃない。僕の夢だ。母さんじゃない、作り物の母さんなんていらない。必要ない。僕は、母さんに一つだけ伝えたくて――――――――あの言葉を言いたかっただけなのに。

 これが本当の最期なら、偽物の母さんなんて嫌なのに。明後日、僕はどうなるんだろう?

 僕は電気を消してベットに入ると、布団をかぶって横になった。暗闇の中で、いつものように時計の秒針の音だけが聴こえる。瞼を閉じて暫くすると、その音は遠退いて聴こえなくなった。















 僕が自分から死のうと思いはじめたのは母さんが死んでしまってから一週間後の夕方、放課後のいつもよりも早い下校の時だった。いつものように家までの道を歩いていると、ふと向こうの方に高く聳え立つビルが目に入った。いつもの景色と変わらないのに、見慣れない、いつもと違うビルが建っていたから、その時はあんなビルもあるのかとひどく驚いていたのを僕は今でもよく覚えていた。いつもは暗くなってから帰るのに、その日だけは何故かものすごく早い下校で、まだ空が明るいからよく目立っていたこともあったのかもしれない。でもその時何故か僕はむしょうに帰りたくなくなった。そのまま帰って、また母さんの会社の人や、親戚の知らない人からかかってくる電話のことを考えると、急に足取りは重くなって、僕は歩くのを止めてしまった。何処か暇つぶしでもいいから遠くへ行きたいと強く思ったのがきっかけなのかそうじゃないのか、僕はそのビルに行ってみることにした。

 少し歩いていくと、目的の高いビルまで簡単に来ることが出来た。行く先々では人通りもすくなく、ビルの周りには誰も居なかったこともあって、中に入るのは容易かった。

 入った途端にほこりっぽい匂いが鼻を突いた

 グチャグチャに置かれたカートに、何か商品を置く棚がバラバラになって床に鏤められている。ここはなにか大型のショッピングセンターにでもなる予定だったのだろう。それらしい看板や、ビルに張り付いていたチラシからそのようなことは伺えた。そういえば僕がとても小さかった頃、母さんが「この辺りにも大きなショッピングセンターが出来るのよ」なんて話していた気がする。けれど、途中でその会社自体が潰れて、作業が中止になったというはり紙が最近家にも届いていたのを思い出した。申し訳ございませんでしたという文字が妙に印象的だったのをよく覚えている。きっと取り壊すお金の予算もないのだろう。放置されていたこともあって、自動ドアもエレベーターも全て止まっていた廃虚のビルは、落書きの王国と化していた。誰かの自己主張なのだろうか、それともなにかのサインなのだろうか。僕には意味がわからなかったけれど、きっとその人にとって意味のあるものであろう絵がスプレーで綺麗に描かれている。端の方には思い思いに書かれた名前や、合い言葉、何かの誓いのようなものから恋人同士の名前まで刻まれていた。僕は一通り一階からあちこちを見渡して、階段を使って、随分と高い所まで来ていた。次第に高さを増して行くにつれて、落書きも少なくなって行く。当たり前か、と僕は階段を上りながら独りごちた。エレベーターも止まったこのビルでわざわざ重たい荷物を持って上に上って落書きをしたいと思う人自体少ない気がするし、実際僕なら上にきてまで絵を描こうとは思えない。

 そんなことを考えているうちに、僕は最上階まで来てしまっていた。

 そこで初めて見たのは一枚の絵だった

『光』がそこに在った

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