第二話 等
ぼんやりと向こうの方で笑い声がした気がする
瞼は重くて開かない。僕はどうなったんだろう?不意に襲ってくる疑問は、よく解らない眠気で思考が停止してしまう
空へ身を投げたのに痛くも痒くもない。それに、地面へ落ちた衝撃が無い。今もただ落ちて行くような感覚が身体を支配していた。まだ死んではいないようだ。僕は今がっかりしているのか、この状況を悔やんでいるのかよく解らない。自分の気持ちなのに、どうしてだろう
そんなことを思っていると、誰かが僕を揺さぶった
「起きなさい、誠」
全身に電気が走ったような感覚、宙に居るはずの僕はどうして声をかけられているんだ?
誰が僕を呼んでいるの?誰、僕のことを呼んでいるのは誰?
途端、僕の瞼はさっきよりもいとも簡単に開いて、視界が明るくなった
「え?」
声が無意識に口の端から零れ落ちた。嘘だ、そんなはずはない。どうして、僕はここに居るんだ?なんで僕は・・・・?
僕は自分の寝室のベットに横になっていた。どうやら朝らしく、僕の母親が僕を起こしにきていた。カーテンの向こう側からは天気がいいのか、日が射し込んで来て僕の部屋の中を明るく照らしていた
開いた口が塞がらなかった。どうして母さんはここにいるんだろう?夢?現実?でもそんなはずはない。僕はついさっきビルの屋上から飛び下りて自殺したはずなのに
それでも、僕の目の前で母さんは微笑みながらカーテンを横に引きながら僕の方を振り返った
「誠、早くしないと学校に遅れるんじゃないの?」
ご飯を作って下で待ってるからね。と笑顔で言いながら階段を降りて行く母さんを僕はただ呆然と見ていることしか出来なかった。
どうして・・・・
「どうして世界に母さんが居るんだ?」
呟いた声はあっという間に消えて、部屋の中には一人僕だけが取り残された
綾瀬 誠。今現在で16歳の高校一年生。真っ直ぐな人になって欲しいという母さんの願いで付けられた名前は、真実という『マコト』の意味らしい、というのを昔聞いたことがあった
その『マコト』という願いは一体誰に向けられたものなのかは聞いたことがなく、僕は今でもその意味を知らない。これからもずっとその意味を知ることは無いと思っていた。
母さんは一ヶ月前、交通事故で死んでしまったから
もう、その意味を聞くことは出来ないんだと強く噛み締めたのはつい昨日のことみたいに思い出すことが出来た
母さんが死んでからの僕は抜け殻のような生活を送っていた。もともと2年前に離婚して母子家庭だった僕の家は母さんと二人暮し。父さんは一人、僕達と離れた場所で生活していた
周囲の反対を押し切って結婚した僕の母さんと父さんは18歳で僕という息子を授かった
母さんが妊娠したのは17歳の時だったそうだ
まだ学生だった二人にとって、二人だけの力で生活していくことと、僕を育てていくことは難しい問題だった。今考えると、僕が2年後に父親になるだなんて想像もつかないから、三人で生活していくだなんてことは絶対に安定したものだとは言えないことくらいは予想がついた。
そんな厳しい生活の中で少しずつ僕が成長するにつれて、お互いの愛情は薄れつつあったのは小さかった僕にも分かっていた。いつから父さんとは別々の食事になったのかさえ解らない。母さんはいつから父さんと一緒に出かけようとしなくなったんだろう。
僕が小学生に上がって高学年になった頃、父さんは浮気をするようになった
知らない人の香水の匂い、馬鹿にならなくなっていくカード明細、家にいる時間なんて塵にもみたなかった。母さんは僕には気付かせないようにと笑顔で振る舞っていたけれど、僕はその姿が痛々しくて、見ていられなかった。そんな生活が3年以上続いて、僕は中学生になった
その頃から母さんは僕の居ない場所でお酒を飲むようになった。昔から、お酒もタバコも大嫌いだった母さんが時々、酔いつぶれて帰ってくることがあった。そのたびに僕は何処かが千切れそうになっていた
そんな生活のなかでも母さんは笑顔だった
自分の身体を壊しても、どんなにつらくても前向きだった。もともと目指していたアパレル関係の仕事で働きたいという夢に向かって、毎日頑張っていた。母さんはその頑張りで会社に勤めて2年もすると、店長、営業専務、社長秘書と出世コースを駆け上って行き、ついに半年前社長になったばかりだった
父さんはそれを僕の口から苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた。僕は内心、父さんを憎んでいたのに、その時は何故か可哀想だと思った。
そんな毎日がめまぐるしく過ぎていく時だった
母さんがトラックにはねられたのは
僕は大嫌いな英語の授業中に担任から呼び出されて、淡々と報告を受けた
頭の中が真っ白だった。どう、何を言えばいいのかもわからずに、タクシーに乗せられて搬送先の病院へと連れて行かれた。僕が母さんを見たとき、既に母さんは冷たくなって眼を閉じていた。後から来た父さんは泣いていた。大粒の涙を流して、みっともないと思われるような声で泣きじゃくっていた
僕は泣けなかった。泣くことが出来なかった。
嘘みたいだった。本当はこんなこと夢で、目が覚めたら無かったことになるんじゃないかと思っていた
告別式の時でさえ、そんなことが頭の片隅に過っていた。もしかしたら、と何度も何度も心の中で呟いていた
母さんが灰になって、家に一人になったことを実感させられたとき、僕は初めて自分のことを孤独だと思った。部屋の中にある仏壇がやけに大きく思えた。学校もすぐに行かなくなって、外にも必要な時以外出ないようになっていった。
そんな時だ、大人達が僕に喰らいついてきたのは。母さんの会社の後釜はあまりに突然母さんが死んでしまったこともあって、僕が決めるという結論になっていたらしく、我こそと思う連中は毎日と言っていいほど、家に電話をしてきた。父さんはその後めっきり姿を現さなくなったけれど、断絶していた親戚が社長だった母さんの遺産目当てにハイエナのように僕の方へ寄って来た。掌を返したように優しくなっていく大人達に僕は距離を取ることしか出来なかった。電話の回線をぶち抜いて、家の鍵を二重にして、窓もほとんど開けないようになっていた。
その頃からよく考えるようになった。生きてる意味はなんなのだろう、と
今まで母さんによって支えられてきた僕の平凡は、はたして生きてると言えたのだろうか?
お荷物だっただけなんじゃないのか?今も、昔も僕は
生きている心地がしなかったんだ