輪廻
その美術館のことは以前から気にかかっていた。
漠然とではあるが訪れなければならない場所として私の心の中にいつもあった。
「長野へ行ってくれないか?」
突然の転勤辞令をあっさりと受け止めた理由はそこにもあった。
「行くのだったら一人で行ってよ」
案の定妻はそっぽを向いて言う。予想通りだ。
今までもそうだった、また元の気ままな生活に戻るだけだ。
実際三十年のサラリーマン人生の内約半分は単身での赴任で、
おかげで一通りの家事はこなせるようになっていた。
赴任して初めての土曜日、予てから下調べしておいた、その美術館へ向かった。
まわりを山々が取り囲みまるで中世のヨーロッパの寺院のような美術館。
寒いほどの静けさのなかにその「無言館」はあった。
何かを訴え何かを拒む、押しつぶされそうな重圧を感じながら 中へ入る。
作品の一つ一つが胸に迫る。
進んで行くうちに私の足は一枚の絵の前で動きをとめてしまった。
動悸が激しく、軽いめまいさえ感じる。
「静」と題されたその肖像画には髪を楚々と束ねて静かに微笑む一人の女性が
描かれており、横に「浜岡修二」昭和二十年二月没 享年二十二歳 とある。
この「無言館」は戦争でその若き才能を摘み取られた画学生のための美術館なのだ。
「すすりなきの聞こえる美術館」と言われるように、観覧者の中には
ハンカチで涙をぬぐっている人もいる。何分間そうして立っていたのだろうか。
「あの…」
突然声をかけられて我に返った。
振り向くと和服姿の女性が私をまっすぐに見つめている。
「え、なにか?」
女性はすぐに目をそらして少し笑った。
「ごめんなさい、私…」
どうして声をかけたのかわからないと彼女はまたはにかんで笑った。
江戸小紋を粋に着こなしてそれでいて何処か初々しさを残した美しい人だ。
彼女が自分を誰かと間違えたのならそれはそれでまた幸運だ。
「この絵、好きです…」
「無言館は初めてですか?」
私は尋ねた。
「いえ、もう何度も」
「絵がお好きなんですね。」
「好きですし…それに、私、待ってたんです」
「待ってた?」
私はまた軽いめまいを覚えた。
「少し疲れました。よろしければお茶でもいかがですか」
だいたい人と話す事、まして女性との会話など苦手だったはずの自分が
初めて会ったばかりの女性をお茶に誘うなんて。
「そうですね…わたしの方こそよろしければ」
ティールームで向かい合って私達は長く話しこんだ。
話しているうちに二人の間には何か得体のしれないものがあり
それがお互いを引き寄せている、と言う事が漠然とわかった。
生年月日、生まれた土地 育った環境、すべてが偶然にも似通っている。
不思議な事に私は彼女に何か懐かしいようなずっと以前から見知った
人のようなそんな思いを感じていた。
「また会っていただけますか?」
唐突に私は言った。自分でも驚くほど自然にそんな言葉が口に出た。
半ばあきれ半ば驚いたように、彼女は一瞬私を見たが、一枚の名刺を差し出し
「お電話いただければ、喜んで」
と微笑った。
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「課長!何か良い事でもありましたか?」
職場の若い娘にからかわれるほど私は浮ついた気持ちを隠せないでいる。
社交辞令だ、自分では諌めているつもりでも、自然に顔の筋肉が緩んでしまう。
取り出した名刺には「アトリエ詩乃 篠田麻子」とある。
「フラワーアレンジの小さなアトリエです。」
と彼女は言ったが、事務の女の子にそれとなく聞いてみると、最近
TVの仕事などもこなしているかなり人気のあるアーチストだと言う。
昼休み、私は思い切って受話器を取った。
「はい、アトリエ詩乃です」
胸が高鳴る
「あの…高岡と申しますが篠田さんはいらっしゃいますでしょうか?」
一瞬の後、弾むような声が飛び込む
「はい、篠田です。」
「高岡ですが、覚えておいででしょうか?」
「今日、お電話があるのではないかと、予感してました。」
「予感…?」
「ええ、あたるんですのよ、私の予感。」
彼女はくすっと笑う。
私は何となく楽しくなり、気持ちがなごんだ。
「明日はお休みですか?」
「ここは年中無休でやっておりますの。でも明日の午後でしたら手が空きます」
「そうですか、では夕食でもご一緒にいかがですか?」
こんなに簡単にデートを申し込んでいる自分が不思議である。
「明日の四時に迎えに行きます」
「四時…わかりました。場所はお分かりですか」
「住所がわかれば探して行きます。わからなければ電話します」
彼女はまたクスっと笑った。
名刺の住所を頼りに探したアトリエは、比較的わかりやすい場所にあった。
約束の四時にはまだ少し時間がある。
ドキドキして来た気持ちを落ち着かせるようにタバコを一本取り出す。
もともとヘビースモーカーだったのが健康の為を考えてほとんど吸わなくなっていた。
深く吸い込むと、煙が頭まで回りそうだ。年だな、私は一人で苦笑した。
携帯から電話を入れる。
彼女は駐車場の番号を教え上がってくるように言う。
五階に着き「アトリエ詩乃」とシンプルなボードのかかったドアをノックする。
ドアの向こうは春を思わせるような明るい空間で、ビッグテーブルを囲んで
三人の若い娘が同じような黒いしゃれたエプロン姿で花を生けている。
「こんにちは!」
明るい笑顔が眩しくて私は照れ笑いをかえした。
「いらっしゃい」
奥のドアが開いて彼女が微笑みながらあらわれた。
髪をおろし、黒っぽい洋服姿の彼女は和服の時とはまた違った魅力に満ちている。
「あ、どうも、無理にお誘いしたみたいで…」
「いいえ、無理だなんて、お待ちしてたんですよ」
ドアの向こうは座り心地のよさそうなソファと趣味の良い調度品の
こじんまりとした部屋になっていて、コーヒーの良いかおりがする。
勧められるままにソファに腰掛ける。
「じつは…見ていただきたいものがあるんです。」
コーヒーを勧めながら彼女は言い、棚の上から桐の箱を持ってきて私の前に置いた。
「これは…?」
箱の中には形の良い志野焼の茶碗が収まっている。
「紅志野ですね、それもなかなか良いものだ」
「ご存知なんですね…やっぱり」
「志野は好きな焼き物です。特に紅は、これが何か?」
「見て下さい。」
桐の箱にはうっすらと文字が見える
(静へ 修)と読める。
「静…あっ!あの絵」
「あなたがこの志野をわからなかったらこの話はしないでおくつもりでした」
「私はあの絵の、静さんの生まれ変わりなんです」
この人は、いったい何を言い出すのだ。
「驚かれるのも無理ありませんわ。でも間違いないのです」
「そして…あなたは修二さんの、静さんの夫、修二さんの」
「待って下さい、あなたはいったい何が言いたいのですか、私も生まれ変わりだと…?」
「わかるでしょ?あなたにも。あなたはあの絵の前で動けないでいた」
「私も始めてあの絵を見たときそうでした」
彼女の話は衝撃的なものだった。
五年前友達に連れられて長唄を聞きに行った時「二人椀久」の冒頭の鼓の音
その幻想的な音に魅せられて紹介された先生の元で鼓をならいはじめ、
その先生から「静さん」の話を聞いたのだ。
「あなたの打つ鼓の音は静さんのとそっくり」
静というその女性も優しくそれでいて凛とした音色の鼓を打った、と先生は言い
「無言館」に行けば彼女に会えると教えてくれた。
「何しろ私がまだ十代の頃だから、50年以上前の話ですよ。でも、静さんの事はどうしても忘れられない…あんな風に鼓を打てる人はそうそういなかったから」
「それで、あなたは無言館に行かれたのですね。」
「ええ、何と表現したらいいのでしょうか、あの時の気持ちを…私、はっきりわかったんです。私は静さんなんだって」
そして、その日から彼女は何度も無言館を訪れ静と対面した。
あの絵の作者浜岡修二が戦死した同じ年静も空襲でこの世を去っている。
夫婦とは言えあまりにも短い二人の時間。 あの肖像画は修二の静に対する精一杯の愛の証であった。
二人はきっと誓い合った事だろう。現世では短い縁だったけど、次の世でもまた、二人一緒になろう…と。
「そして、私が修二…?」
無言館を雑誌で見たときのあの鳥肌が立つような感覚、
漠然とくすぶっていた無言館へのただならぬ思い、そして初めて訪れた日の
普通ではない心の動き、静の肖像画を前にした時の衝撃。初めて会った彼女―麻子へ感じた何とも奇妙な懐かしさ。
それらを生まれ変わりという突拍子もない仮設の上に置くとすれば、辻褄が合う
「私達が、修二と静…」
「信じられない、最初は私だってそう思いました。高岡さんは輪廻と言うものをご存知ですか?」
「生まれ変わりですね。」
「そう…静と修二は、亡くなって七年後のほとんど同じ月日に生を受ける二人の赤ん坊に自分達の次世代を託したの、あなたと、私」
「それなのに、私たちはまったく別の人生を歩いてしまったという訳ですか…」
そして麻子の友人が骨董市で見つけてきた紅志野の茶碗が、彼女の仮説を決定的な物にした。もともと焼き物好きな麻子は特に志野焼を好んだのだが
「あなたの好きそうな志野を見つけたわ」
友人の差し出す桐の箱にあの「静」の文字を見つけた時麻子にはすべてが解った。
「私の中に静さんは自然に入り込んで来ました。修二さんがきっと無言館 に来るから待っていてって、この志野焼、頼み込んで譲ってもらい先生に確認したの。静さんは志野焼を好んでたって、間違いなく修二さんが静さんに贈った物だった。」
「何だか頭が変になりそうだ、少し時間をいただけないでしょうか」
私はコーヒーカップを手にした。指先が少し震える。
「ごめんなさい、唐突すぎました。私…嬉しくて…」
コーヒーを一口飲むといくらか気持ちが落ち着いた。
「たしかに、無言館に関しては特別な思いがありました。あなたの事にしても初めてお会いしたような気がしなかった。」
でも、だからと言って、そのすべてを肯定してしまうほど、私はロマンチストではなかった。
「このことに関してはもう少し考える余地を与えてください。 あなたのおっしゃる事はわかりました。漠然とですが、そうかもしれないな、と思っている事も事実です。でも、私の中に修二さんがいる、というのはどうも…」
「そうですね、無理ありません。生まれ変わりなんて…信じられないのも
当然です。ごめんなさい、私ったら、一人で舞い上がっちゃって」
麻子は少し悲しそうに目を伏せた。
「いや、話して頂いて良かったですよ。大丈夫、自分の中にいるかもしれない彼と、じっくり話してみます、謝ることなんてありませんよ。」
その日私達は麻子が時々行くという和食の店でゆっくりと食事をした。
一緒にいてこんなに落ち着く人と今まで出会ったことがあっただろうか。
私の中で少しずつ、しかしはっきりと麻子の仮説を受け止める気持ちが強まっていった。
麻子のその話す声、笑い方、まっすぐに見つめる目、そして形の良い指…
そのどれにも見覚えがあった。(待っていたんだろ?お前も)誰かの声がした。
私達は空白の時間を取り戻すかのように毎日電話で話し、週末にはドライブに出かけた。
私は静の生まれ変わりである麻子ではなく麻子そのものを愛し始めていた。
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「あなた、聞いてるの?」
めずらしく妻からの電話だ。姪が結婚するという。
子供のいない私達に懐いてくれていた姪だった。
「蛍子、幾つになった?」
「24歳よ、まだ早いって言ったんだけどね」
「そうか…」
「もう、あなたったら。花嫁の父の気分なんじゃないの?」
そんな感慨はなかった。もちろん、少しの淋しさはあったがそんな事では なく華やいだ妻の声に私は戸惑っていた。
仕事人間の私は今までこの妻を裏切った事などなかった。
今自分の心の中に妻以外の女性がいる。後ろめたい気持ちがいつも以上に私を無口にした。
「いい?もちろん帰って来れるでしょ?返事出しておくわよ。それと、蛍子ちゃんがあなたの所に遊びに行っていいかって言ってるの。電話してやってね。」
「遊びにって…忙しいんじゃないのか?」
「だって、結婚してからじゃ、もっと出られなくなるじゃない」
「ああ…そうか…」
「いい機会だから、私も一緒にそちらに行くわ。」
拒む理由などなかった。蛍子は妻の姉の子供で夏休みや冬休みには
当然のように我が家を訪れ、休み中いることもしばしばだったし、私も妻もそれを心待ちにしたものだ。
「わかった、電話してみるよ。」
「そうして…ねえ、なんかあなたの声変よ、風邪でも引いたの?」
「ああ、そうかな」
「気を付けてよ、もう若くないのだから。ちゃんと食べてるの?」
頼むから優しい言葉などかけないでくれ、私は心の奥でそうつぶやいた。
朝からの喉の痛みが夕方になって本格的なものになった。関節が痛み寒気もする。
仕事を早々に切り上げマンションにもどり、真っ暗な部屋に入る。普段でもこの一瞬淋しさに襲われるが、体調の悪い時は尚更こたえる。
初めてのことではないじゃないか…
食欲もあまりないので、そのままベッドに潜り込んだ。
二時間も眠っただろうか・・・電話のベルが鳴っている。
「はい」
「あ…寝てた?」
麻子の声だ。
「ちょっと調子悪くて。」
「どうしたの?風邪?」
「うん、たぶんね。」
「熱があるの?病院に行かなくて大丈夫?」
眠る前に飲んだ解熱剤が効いているのか、気分はいくらか良くなっていた。
「大丈夫だよ、薬も飲んだし、身体の節々が痛いけどね」
「心配だわ…私、今からそこに行く。いい?」
麻子に傍にいてもらいたい。子供のようにそう思った。
起き上がると頭が少しふらついたが熱は下がっているようだ。
下着が汗で湿っている。下着を替えパジャマを着がえた。
部屋の中を見回す。片付いているな…
殺風景な程物のない部屋はきれいに整頓されている。 麻子がこの部屋に来るのは3度目だ。
1度は近くまで来たからと花を置いて帰っただけなので実際には、2度目になる。
「あら、きちんとしてるのね」
初めて部屋に入った時、麻子は驚いたように言った。
自分の潔癖すぎる性格を指摘されたようで何故か恥ずかしくなったのだが
今見渡しても洋服はクローゼットにしまってあるし、 着替えた下着はちゃんと洗濯機の中に入れてある。水を飲んだグラスもきちんと洗って水切り棚の上にあった。
「あなたといると、時々息が詰りそうになるわ・・」
妻の言葉がふと浮かんだ。
30分もしないうちに麻子はやってきた。
「どう?」
「ごめん、心配かけて、もう大丈夫だよ」
「寝てなくていいの?」
麻子の手が確かめるように額をさわる。これは静の手か…
布団に横になった修二の額に手をあてて除き込んでいる静の心配そうな顔…
一瞬だが、写真のようにはっきりとその光景が浮かんだ。私は慌てて頭を振った。
「いかん、やっぱりもう少し横になるよ。眩暈がしてきた」
「そうね、無理しちゃだめよ」
私をベッドに寝かせつけて麻子は心配そうに除きこむ。
同じだ、あの光景だ…私は目を閉じた。
「麻子…」
目を閉じたまま呼んでみた。
「うん?」
目を開ければそこに静がいるような気がした。
「圭一さん、どうしたの?大丈夫?」
「君が優しくしてくれるのは、私が修二だからなのか?」
麻子は驚いたように私を見た。
「圭一さんは私が静さんだから優しくしてくれるの?」
「いや、君が静であろうとなかろうと、私にとって大切な人だよ、麻子は」
「私だって同じよ…わかってると思ってた。」
子供じみている。ばかばかしいとも思う。
だが二人を結びつけたのは生まれ変わりという到底理解できないような偶然であって、その後の二人の想いの中に修二と静が入り込んでいないと、本当に言えるのだろうか…
「麻子」
私は麻子を抱き寄せた。このやわらかな身体は静ではなく麻子なのだ
この唇もこの指も、雪崩れる長い髪も、静ではなく麻子のものだ。それを確かめたかった。
私が愛しているのは間違いなく麻子自身だったし麻子が想ってくれているのも私自身だと確信したかった。
私達はこの夜始めてひとつになった。
明け方目をさますと寄り添って眠る麻子がいる。麻子の髪をそっと撫でながらその寝顔を見ていると、 不意に切ない感情がこみ上げてきた。
修二と静は二人だけのこんな夜明けを何度むかえる事が出来たのだろうか。
まだ若い二人の姿が自分たちの上に重なる。
ばかな…こみ上げてくるものをかろうじて抑えながら、 彼等の無念さを私は今全身で感じていた。
それからまた少し眠ったらしい。
窓の外が明るくなっていてコーヒーの良い香りが部屋中に満ちている。
「具合どう?」
「おはよう。もう大丈夫、げんきんなものだ」
「あら…でも、よかった。」
「家の方はいいの?連絡は?」
「ええ、今日は仕事も任せておけるの」
麻子には娘がおり、今では「アトリエ詩乃」の中心的メンバーになっている。
死別した夫との間の二人の子供達が、どちらも立派に成長している事が唯一の誇りだと麻子は言う。
「コーヒー飲む?」
「ああ、いい香りがしているね」
「お腹すいたでしょ、ちょっと待ってね」
手早く朝食を作ってくれる麻子の後姿は少女のようだ。
「今日が土曜日でよかった」
「本当に、君は忙しい人だから」
この身体のどこにそんなパワーが潜んでいるのだろうと思うほど、
麻子は多忙を極めていた。
私はコーヒーをカップに注いだ。
いつもと同じはずなのに、いつもの数倍美味しく感じられる。
「うまい!」
こんな朝を迎える事ができるなんて、 偶然でも生まれ変わりでももうどちらでも良かった。
ただ麻子を心から愛しいと思った。
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次の週末、麻子とはじめての朝を迎えた余韻の消えない内に、妻と蛍子を迎える。私は家庭も麻子も失いたくないという、身勝手な思いへの罪悪感に苛まれていた。
「そう…私、うっかりあなたに奥様がいらした事忘れちゃってた。」
麻子は淋しそうに言った。
約束の時間に二人を迎えに駅に向かった。
「いい所じゃない?」
久しぶりに見る妻は相変わらずのんきそうで、屈託がない
「ねぇあなた、蛍ちゃんきれいになったでしょ?恋する乙女よね、やっぱり」
「ああ…」
蛍子は一段と美しく輝いていた。以前から可愛らしい娘ではあったが、すべての結婚を控えた娘がそうであるように、特別な光に満ちていた。
「おじさん、元気だった?最近メールにもなかなか返事くれないし、心配してたのよ」
「そうか、ごめんごめん。忙しくしていて…悪かったな、心配かけて」
蛍子の目は私を射るように見る。妻とは正反対のすべてを見通されているような目だ。部屋に着く。
「あら、きれいな花…」
ダイニングのテーブルに麻子が生けた花だ。
「ああ、会社の子にもらったんだ」
「ふうん・・・」
めずらしく、妻が不審そうな顔を向けた。言い訳をしている自分が情けない。
「さて…と、どうする?これから」
「少しゆっくりしてから、考えましょう」
妻はTVをつける。今はTVなんか見なくても、私は言いかけてやめた。ひとりの時を長く過ごさせてしまっている。 妻のTV好きは淋しさの裏返しだったのかもわからない。
「私ね、ちょっと出掛けてきていい?」
蛍子はメール友達に会いに行くと言う。
「おいおい、大丈夫なのか?相手は男じゃないだろうな」
「おじさんったら、TVニュースじゃないんだから、心配しないで」
送ろうと言うのを断って蛍子は出かけて行った。
部屋には私と妻の二人が残った。
「あの子気を使ってるのよ、私達を二人にしてくれたつもりなのよ。」
妻が笑いながら言った。
「なんだか久しぶりね、こうやって二人でお茶を飲むのも」
こちらに来て半年が経とうとしていた。以前は週末ごととはいかなくても一月に一度は赴任先から帰っていたのだから、半年ぶりというのはやはり久しい感じがする。淋しいとも言わず一人でいる妻を思うと後ろめたい気持ちが湧いてくる。
「特に変わった事はないか?」
「別にないわね。でもお料理を教えてあげる若い奥さんや近所の娘さんが増えたの。けっこう賑やかにやってるのよ。」
妻の料理上手は近所の評判になっていて、何人かが集まって 料理を作っているのは以前から知っていたが、教えている事は知らなかった。
「今日は美味しい物を作るわ、何が食べたい?」
「まだいいよ、TV見るんじゃないのか?」
「あら…いやねぇ、まずTVのスイッチをいれるのが癖になってる。」
スイッチを切りながら妻は言う。
「何となく音がないと静か過ぎて」
胸の奥がまたチクリと痛んだ。
「じゃあ、一休みしたら買い物にでも行くか。」
私は努めて明るく言った。
「そうね、じゃあワインも買いましょうよ…ね、あなたは忘れてるかもしれないけど、もう少ししたら銀婚式よ、私達。」
「あ、そうか。」
「二十五年長いようで、あっという間だったね。あなた、ほとんどいなかったし。もっとも私がついて行かなかったんだものね。悪かったなって思ってるのよ」
どうしてそんな事を言うんだ。いつもの様に、TVの方を向いたままの生返事を返してくれ…
「買い物、行くか…」
「そうね」
妻とこうやって肩を並べて歩くのは何年ぶりだろう。 派手さはないが楽天家のこの妻に助けられた事もあった。子供の出来ない事で自分を責める妻に、お前が元気でいるだけでいいじゃないかと肩を抱いたんじゃなかったのか…
なんてヤツなんだ。私は自分の中に湧き上がる二つの思いに揺れていた。夕食の支度が出来たころ蛍子が帰ってきた。
「迷子にならなかったか?」
「ええ、大丈夫だった。久しぶりに楽しんできちゃった。」
「おばさんってほんとに料理上手よね!ママとえらい違いだわ」
「あら、姉さんが聞くと怒るわよ」
久しぶりに賑やかな夕食だ。
「ねえ、おじさん、デッサン館って知ってる?」
「デッサン館?ああ、知ってるよ」
「行った事あるの?」
「行きたいのか?あそこは若くて亡くなった画家の作品ばかりだよ」
「友達がぜひ行きなさいって、すごいって」
蛍子は美術を専攻しており私とそういう面でも気が合った。
「それと、戦没画学生の美術館、この二つは絶対行ってみるべきだって言われた」
私の心がまた波立った。
「明日連れて行ってね、おねがい!」
そうだな…と生返事を返しながら、私は麻子を思った。そして、その麻子の向こうにいる静を思った。 妻と蛍子は「静」をどんな風に見るのだろうか。
====================
「あなた。どうしたの?なにか考え事?」
「あ…いや…なんでもないよ」
私はあわててワインを飲み干した。
翌日私たちは二つの美術館へ向かった。蛍子は車の中でも若く華やかな会話で私たちを楽しませてくれたが、無言館が近くなる程に私の気持ちは沈んでいった。
デッサン館では、若くして亡くなった村山槐多や関根正二のデッサンが
蛍子の心を捉えているらしく、彼女は熱心にその作品に見入っている。 妻はそういうものに興味がないというように外の景色の方に感心を寄せていた。
「すごいわ…私と同じ位の年で、あれだけの絵がかけるんだもの、もっと長く活躍させてあげたかったわね、かわいそう」
無言館に向かう途中蛍子がぽつんと言う。才能ある人を早く亡くすと言うのは身内でなくても本当に残念なものだ。
無言館の前に来た。無言館は相変わらずの静けさの中にあった。 中に入ると独特の匂いとひんやりとした空気が身体を包み込む。
蛍子は時々ため息を付きながら絵のひとつひとつを丁寧に見ている。妻の方はそこに展示してある手紙など遺品に見入っている。そして私は遠くから私を見る静の視線を感じていた。
妻と蛍子が静に対面する。私は苦しいほどの動悸を感じながら静の前に立った。
「なんだかこの絵怖いわ」
妻が言う。
「うーん、怖いって言うより何かを言いたそうね。」
「蛍ちゃんと同じ年くらいね、作者の奥さんかしら?」
「そうでしょうね、亡くなったのかしら」
「なんか気味が悪いわ、呪われるんじゃない?」
「おばさんったら!」
蛍子が嗜めるように言った。
「静は…そんな女じゃない」
「えっ?」
それは明らかに私の中の修二の声だった。
「あなた、この絵の人を知っているの?」
妻が怪訝そうな目を向ける。
「あ…いや…でも、そんな事言うもんじゃないよ」
「ほらほら、おじさんもおばさんもコーヒーでも飲みましょう!」
蛍子はティールームの方へ私たちを促した。
「ここは見ているだけで胸が痛くなる美術館だわ…絵の素晴らしさが尚更切なくさせるわね。戦争って残酷よね」
蛍子は努めて明るく言ったが私も妻も黙ったままだった。
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二人はその後一週間をこちらで過ごした。 妻と蛍子は実の親子のように一緒に買い物に出かけ、料理を作り一人暮らしの部屋は団欒の場に一変していた。
妻はあの絵の事には触れなかったが、微妙に何かを感じているらしく時折探る様な目を私に向ける。
正直、この団欒が私には重荷になっていた。麻子への連絡も出来るはずなのに、中途半端な自分の思いがそれをさせなかった。
唯一仕事の時はいつもの自分に戻れる、ただ一つの事だけを考えていればいい。
昼前携帯にメールが入った。
「近くにいるのでお昼しませんか?」麻子からだ。
「どこにいるの?」
私はすぐに電話で返した。
「サンマリオ、待ってていい?」
久しぶりに聞く麻子の声だ。
「わかった、すぐに行くから」
昼にはもう少し時間があったがその方が混まなくていい。麻子はいつもと同じように一番奥の隅の席に座り文庫本を読んでいた。
「あら、いいの?こんなに早くても」
「ああ、いいんだ」
麻子とこうして向かい合っていると不思議な程落ち着く。
「なかなか連絡できなくて、ごめん」
「いいの…わかってるから」
ふたりの間にまた緩やかな時間が流れ始めている。 私達をはさんで静と修二が向かい合っているように思うのは麻子の眼があまりに静のそれと似ているせいだろうか。
私は無言館へ行った事を話した。ほんの軽い気持ちだった。麻子は一瞬驚いたように私を見た。
「無言館には行ってほしくなかった」
麻子の目がみるみる涙で膨らんでくる。
話すべきではなかった。彼女の気持ちを少しでも考えればわかるはずだった。私は自分の軽率さと馬鹿さかげんにあきれながら、ただ黙るしかなかった。
「優しい嘘の必要な時もあるのよ」
次には気持ちを入れ替えて普通に話してくれる麻子の優しさに助けられる。 私の心の中がまた麻子で埋まっていった。
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私にとっては長く妻達にとっては短い一週間が過ぎた。日曜日駅に二人を送って行き、私の役目は終わった。
駅での待ち時間妻が言った「いつ頃帰れるのかしらね」という言葉を私はまた別の意味で考えていた。
私はいつまでここにいられるのだろう…だいたい単身の場合一年、長くても二年で本社勤務に戻るはずだ。
技術を若い社員に伝えるのが主な目的なので、必要がなくなれば戻らされる。今までもそうだった。
一年なんてあっという間だ…
妻のいる家に帰ってなにくわぬ顔で残りの人生を過ごすのか?
麻子との事は、彼女と離れて暮らしていけるのか…考えれば考えるほど自分の気持ちに整理がつかなくなる。ずるいと思いながら、麻子に電話する。無性に声が聞きたかった。
「今から逢えないか?」
「どうしたの?何かあった?」
「いや、急に逢いたくなった」
車を走らせ麻子のアトリエに向かう。若い頃でさえこんな気持ちになった事はなかった。
麻子を車に乗せ夜の街を走った。目的などなかった、ただ一緒にいたかった。 こうやって隣りに麻子がいるというだけで心が落ち着いた。
「圭一さん、もし嫌じゃなかったら家でお茶でも…あの志野で点てましょうか?」
「何だか疲れてるみたいだから」
麻子の家は少し郊外にあり仕事には不便なため、今ではほとんどアトリエでの生活になっていたが、亡くなった夫との思い出のあるその家に、麻子は私を招いた事はなかったし、私も又それが当然と思っていた。
「嫌じゃないけれど、いいの?」
「ええ…」
造りのしっかりした日本家屋、門から玄関までの敷石が心を和ませてくれる。 昼間ならはっきりと見えるであろう庭も手入れが行き届いて美しい。
部屋の調度品のセンスの良さが麻子によるものだったにしても、私には 麻子の主人であった人の人柄が表れているような気がする。私の中に嫉妬とは違う不思議な気持ちが生まれた。
「静は幸せだったんだね」
「静…?」
麻子は少し笑って私を見た。通された茶室には小さい床の間があり、一輪挿しに紫のトルコ桔梗が品良くさしてある。飾りだなに鼓とその横に置いた笛。
「笛?」
私は思わずその笛を手にとった。
「ああ…それ、篠笛。修二さんは篠笛を吹いたんですって。」
麻子は茶道具を整えていた手を止めて言う。 鼓の横に篠笛を並べて置く麻子の優しさに胸の奥が温かくなる。
「茶道はほとんど自己流なの。夫はちゃんと点てられる人だったけど…」
素人の目には良くわからないが、麻子の指の動きは手馴れており美しかった。
「自由に飲んでいいのよ。」
私の前にあの志野が置かれた。抹茶のほろ苦さと微妙な甘さが心を落ち着かせる。
「いいもんだな、こういうのも。」
「そうでしょ?時々こうして忙しさから離れると、いいなぁって思うわ。」
「鼓も打つの?」
「そうね、たまには…打ちましょうか?」
麻子は鼓をとり紐の強さを調節して、そっと息を吹きかけしめらせる。
その姿や所作は何よりもしなやかで、私の胸は高鳴る。
麻子の鼓は想像以上にすばらしかった。鼓など聞いたことのなかった私だが 心の入った音と言うのはこんなにも心に響くものなのか。
麻子と静が重なり私と修二が一つになった。
私の中の修二が静の打つ鼓に耳を傾けている。あの夜、私はぼんやりと思い出した。 静と向かい合ったあの出征前夜…静の打つ鼓に合わせて吹いた笛の音。遠いあの日の記憶が走馬灯のように頭の中で廻った。
「どうかした?」
急に鼓の音が止まり、麻子が言う。
私はかろうじて涙を抑え、「いや…」と頭を振った。
「すばらしいよ、麻子の鼓は、聞く者の心を掴む」
「あら、圭一さん、鼓の事はよく知らないって言ってたじゃない?」
「知らなくても、良いものはわかるよ」
麻子はまた、クスっと笑った。いたずらっぽい笑顔だ、静と似ている。
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「今度、仕事で京都の方へ行くの。本を出さないかって京都の出版社が言ってきたの」
「へぇ、すごいじゃないか…花の本?」
「そう、野の花を中心にアレンジしたいなって思ってる」
「野の花か、麻子らしくていい。」
「一緒に行きたいけど、無理?」
「いつ?」
「圭一さんが行けるのなら、土、日を挟むわ」
「京都か…いいね」
「修二と静の暮らした家を訪ねてみたいの」
「ああ、そうか…京都だったね」
二人は出征までの短い新婚時代を京都で過ごしていた。
鼓の師が詳しい住所も知っており、今もそのあたりはあまり変わっていないと 何年か前に師が旅行した時に聞いたらしい。
「わかった、私も確かめたくなった。二人がどんな風に暮らしていたのか」
夏期休暇をふくめて、翌週末からの5日間を私はこの小旅行にあてる事にした。麻子はまるで少女の様に喜んで計画を立てている。
「出版の打ち合わせなんてすぐに終わっちゃうの。こちらに来てくれるって言うのを断ったんだもの、手短かに済ませちゃうわ」
「時間はたっぷりあるんだから、しっかり打ち合わせしてくれよ、君にとっては大切な仕事だろ?」
「もちろん、仕事の手は抜かないわよ。大丈夫!」
先ほどまでの憂鬱が嘘のように晴れている。たとえ刹那的であっても麻子との時間を大切にしよう、今はそれでいい。私はそう考えようと思った。二人の住まいだった場所の近くにある老舗の旅館が押さえられた。
「理想の旅館だわ・・・」
麻子は嬉しそうに言う。
「週末まで待てるかしら…あと一週間もあるのよ」
「一週間なんて、あっという間だよ」
京都までは新幹線で行きその後の移動にはレンタカーを借りる事にした。古さが心地良いこの家には場違いなパソコンの前で、古都での出来事を思い描き、私達は浮き立つ気持ちを押さえられずにいた。
うわの空の一週間が過ぎその日がやってきた。午前中に駅で待ち合わせ新幹線に乗る。麻子は小さなボストンバッグ一つで 思ったより身軽だ。
「なんだかワクワクしちゃう」
ジーンズの麻子は又違った顔を持つ。不思議な人だ。京都駅に着いてすぐにレンタカーを借りる。店の人に旅館の位置を大まかに聞き、私たちは車に乗り込んだ。
旅館が近くなるうちに私は何とも言えない気持ちに襲われ始めた。この景色この街並みすべてが懐かしいのだ。私は麻子を見た。麻子も私を見てうなずく。
「まちがいないわ…ここよ」
「ああ…」
私もそう確信した。
「このあたりは花街だろ?」
「ええ、静さんは置屋の娘さんで、修二さんは代々医者の家系だったので、結婚にもずいぶん反対されたらしいわ。」
「医者の家系か…」
「画家になるなんて、そんな夢もきっと反対されてたんでしょうね」
「それで、静さんとこの町でね…」
旅館はすぐに見つかった、修二と静のいる頃から建っていたであろう老舗の旅館で、静かな佇まいは古都の町によく似合う。
==================
「いらっしゃいませ。」
愛想の良い仲居さんに案内された部屋は二間続きの落ち着いた部屋でこれにも 私達は満足した。
「ここは作家の先生も常宿にしてくれはったお部屋です」
「へぇ、そうか…そう言われればそんな感じがする」
窓を開ければ豊かな緑が目に入ってくる。ゆったりとした時間の流れを感じる。今さらながらに日本に生まれて良かったという思いが、自然と湧いてくる。
「中庭のつくばい、水の流れ…何だかクーラーなんかいらないみたいね。」
麻子も同じ事を思っているらしい。
「さて、とどうする?これから。」
「そうね圭一さんが疲れていないのなら、探したいわ、私たちの家」
「よし、じゃあそうしよう。」
私たちはまず旅館の周りを歩いてみる事にした。川の音を聞きながら緑の中を少し歩いた時、麻子がそっと手をつないできた。 私はその手をしっかりとにぎりしめた。二人とも無言だが、まるで行く先がわかっているかのような足取りで 自分たちの家へ向かっている。
「麻子、場所を知ってるの?」
「いいえ…圭一さんこそわかってるみたい。」
緑の道を抜けると落ち着いた家の並ぶ商店街へ出る。
道には打ち水の跡があり、こういう細やかな配慮がうれしい。
「京都って湿気が多くて暑い所って思ってたわ。でも違うわね」
「昔の人の知恵が生きてるんだよ、この町には」
やがて寺の境内に続く石段のところで私達は歩みを止めた。
「何だか不思議な気持ち…」
麻子が静の生まれ変わりならば、ここは静が生まれ育った場所だ。麻子にとっても特別な感情があるに違いない。
「修二さんと静さんはどこに眠っているのかしら」
麻子がぽつんと言う。
「修二の実家は何処なんだろう。」
「修二さんの家は神戸にあったって聞いたけど」
「じゃあ墓も神戸にあるのかな。」
石段を登って寺の境内へ入る。鬱蒼とした木々に囲まれており、木陰はひんやりと気持ちの良い風を運んでくる。蝉時雨が夏であることを主張しているが、私たちはしばしベンチに腰を下ろしてこの心地良さを楽しんだ。
「あ、待って…何となく思い出してきたわ」
麻子はあたりを見渡す。
「たぶん私、いつもここで遊んでいた。ここもう少し上にいくと石の観音様があるはず。私その観音様が大好きだった」
本堂の裏から細い道がありそこから上に行けるのだろうか。
「行ってみましょう」
麻子は私の手をとって登っていく。細い道を少し上がると平らな広い場所に出た。
緑の切れ間から街並みが見下ろせる。そして、麻子の言うように小さな石の観音様が町を見下ろすように立っている。
「ほら、やっぱり…」
この観音様は静が幼い頃から、この場所にあったのだろうか。静の存在をいつも以上に強く感じる。私は麻子の人格が静に変わって行くのではないかと、小さな恐怖を覚えた。
「麻子、君は麻子なのだからね。」
妙な念を押す私に麻子は「大丈夫よ」と笑い返す。
「今なら家も探せそうね。圭一さん、何か思い出さない?」
そう言われても私には漠然とした懐かしさしか浮かばない。確かに始めての場所ではない、以前にも訪れた事がある、というような 淡い思いはここに着いた時から感じていた。
境内を出て細い路地に戻る。京都にはよくある古い家並み。二人並べばいっぱいになりそうな道を通りながら私は記憶を辿ろうとした。
そして、その家の前に来た。二人は顔を見合す。
「ここだわ」
「ああ…」
どうしたのだろう、不思議なことだが、まちがいなくこの家だと私にもわかった。
この玄関入ってすぐに階段があり、私達はあの二階の部屋で暮らしていた。
麻子はバッグから一枚の紙切れを取り出す。鼓の師が書いてくれた大まかな住所だ。住所はやはりこのあたりの番地になっている。
「こんなにはっきりわかるなんて思わなかった。」
私はつないだ手に力を入れた。何かを掴んでいなければ、崩れてしまいそうなほど頭の中が混乱していた。
「どなたが住んでいるのかしら?」
「もうずいぶん前の事だから、全然関係の無い人だろう、きっと」
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正直早くこの場から遠ざかりたい思いもあった。この場所にたどり着いたという事は自分の中にはっきりと修二を確認したと いう事だ。
私の中に間違いなく修二がいる。今私は私ではなく修二なのだ。この懐かしさこの切なさは修二のもので私のものではないのだから。
麻子はどう思っているのだろう。
「帰りましょうか?圭一さん」
私は無言で頷いた。修二と静の暮らしを覗いてみたいという思いの旅行だったが
いざこの場に立つと、これ以上は踏込みたくないという気持ちが強く働く。私達は旅館の方へと歩きはじめた。
「何だかおかしな気分…」
麻子は後ろを振り向いて言う。
「今こうして歩いているのはいったい誰なのかしら?」
「えっ?」
「私は静さんであなたは修二さん」
「いや、さっきあの家の前ではそんな感じが強くしたけど、やっぱり私は私で君は麻子だろ」
「そうよね。それでいいのよね。」
麻子は腕に手をまわす。もう後ろは振り向かずに私達は肩を並べ歩いた。
「仲の良い夫婦に見えるかしら」
麻子は言い、私は頷いた。少しずつ気分が晴れていった。旅館に戻ると部屋には浴衣が2枚用意されている。
「夏にはお客様に合った浴衣をお出しするんどす。このまま散歩に行きはってもよろしおすえ」
なかなか粋な計らいだ。
「じゃあ先に風呂に入ってこようか」
その間に食事の用意を頼んで私達は露天風呂に向かった。時間を少しはずれたためか、風呂の中には人影もなく私はのんびりと疲れを癒した。さほど広くない岩風呂だが、それでも外の景色は美しくかえって心が落ち着く。
大岩を挟んで向こう側が女風呂になっており、かすかな水音がする。
麻子もこの同じ景色を見ているのだろうか・・・そう思うと身体中が熱くなった。
私の為に用意された浴衣は紺地に細い縦縞で、黒の兵児帯を結ぶとまるで家で寛ぐ雰囲気になった。日頃着慣れない為少し照れくさい感じはしたが、適度に糊のきいた浴衣は着心地が良い。麻子の方は藍色の浴衣に薄紫の帯で湯上りの少し上気した肌に良く似合っている。
「最近は半幅の帯もご自分で結べないお客様が多いんどすけど、奥様はよう似合うてはりますねぇ。」
食事の支度をしていた係りの女性が言う。
京都らしい繊細な会席料理が並ぶ。麻子は曖昧に笑っている。
私にしても夫婦に見られる事を望みながらやはりどこか気恥ずかしい思いを隠せないでいた。
二人で冷酒を少し飲んだ。
「しあわせな気分」
「うん」
この幸せが少しでも長く続けばいい、今はただそう思いたかった。
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「明日は鞍馬山まで行ってみようか?」
「鞍馬山?」
「貴船神社まで足をのばしてもいい」
「あら、貴船神社?」
麻子は笑った。確かに、今さら縁結びの神様でもあるまい。
だが出来る事なら一緒になりたい、これは私の偽らざる気持ちでもあった。
「夏の鞍馬は涼しそうでいいわね。」
「人が多いかな、日曜だし」
「そんな事ないんじゃない?行ってみましょう。」
旅は人の心を優しくするというが、短い生涯の最終地となったこの場所での 修二達の思いや懐かしさに触れ、そして今麻子と二人ゆるやかな時を過ごしている。不思議な、というより本当に安らかな気持ちだ。
二人だけの夜が静かに過ぎて行った。色々な事がありすぎて布団に入ってもなかなか寝付かれない。身体は心地良く疲れているが頭の中ははっきりとしていてアンバランスになっている。
「眠れないの?」
「ああ…」
麻子はそっと私の手をにぎった。やわらかな手が力を込めてくる。私はその手を引き寄せた。私の腕の中にいる麻子は頼りないほどに小さく、まるで若い娘のようだ。
それでいて私を落ち着かせてくれる不思議な力を持っている。
この人を守りたい、そんな思いが自然に強くなって来る。今までこんな気持ちになったことがあっただろうか。
身体中のすべてで麻子を愛しそれでもまだ頭の奥が熱く疼いている。自分の中にこんな激しさがまだ残っていたのか、自分でも信じられないほどだ。 麻子の髪の香りをかすかに感じながら私は眠りに落ちていった。
明け方まで眠れずにいたせいか、翌朝は少しゆっくり目覚めた。麻子はすでに起きており窓辺の椅子に腰掛けて外を見ている。
「何時?」
私は時計を探す。
「あ、おはよう。あと少しで七時よ。」
「そうか、もうそんな時間か…」
「ゆっくり休めばいいのに、急ぐ事なんてないんだから。」
麻子はそう言い
「でも、ゆっくり寝てることが出来ないのよね、私達の年代は」
と、笑いながら言い足した。
窓の外はまるで絵葉書のような景色で早朝の爽やかな空気が気持ち良い。
「いい天気だ、よかった。」
「ええ」
私達は朝食を早めに済ませて、鞍馬山に向かう事にした。
鞍馬は以前から好きな場所で、私は何度か訪れた事があるが、麻子は初めてだという。
「牛若丸が修行した所でしょ?」
確かに鞍馬山と言えば牛若丸が頭に浮かぶが、もっと以前から霊験あらたかな場所として知られている場所なんだと私は説明した。
「ここに来ると身体も心もリフレッシュできるんだよ。土地が持つ特別な磁力があるのかな」
「そうね、確かに気持ちの良い場所ね、自然の恩恵にあずかってるって感じ」
夏を感じさせない程の冷気が少し汗ばんだ肌には心地良い。
本殿から奥の院を経て山道を貴船神社へ向かう。私達はまた自然と手をつないでいた。
「海外へ単身で行っていた時、こんな風に手をつないだ老夫婦を見て、いつも羨ましいなと思ってた。」
「奥様とは繋がないの?」
「君はご主人と?」
麻子は黙って下を向く。私はそれ以上は聞かずにただその手を強くにぎり返した。
縁結びで有名な貴船神社がすぐ目の前にあった。
「疲れた?」
「ううん、大丈夫よ。このあたりはとても涼しいのね、いい気持ち」
私達は木のベンチに腰をかけて深呼吸をする。汗ばんだ身体に風が心地よい。
「素敵な所ね。圭一さんと一緒でなければこんな所がある事も知らなかったわ、きっと。だけど、どうしてここは縁結びの神様なのかしら」
「昔ある中将が扇の中の姫に一目ぼれをした。やっと探し出したその姫は鬼の娘で二人は恋に落ちるが、鬼の国にやってきた中将を鬼はとらえて生贄にしようとする。姫はその身代わりになって死んでしまうんだ。そして後に中将の伯母の子供となって生まれ変わり、二人は時を越えて幸せに暮らした…という言い伝えがあるらしい。」
「まあ」
「はかなくて世の浮雲は変わるともまた来む世にも生まれあふべき…」
「えっ?」
「中将が姫と別れるときに詠んだ歌だ」
「そう」
私達はしばらくの間そこに座っていた。
「修二さんと静さんも現世で一緒に暮らしたかったでしょうね」
麻子が前をみたままでつぶやく
「私たち二人に悪い事をしてしまったのかしら。」
「今はこうして出逢ったんだから」
「そうね…」
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神社に参り、明日の打ち合わせのためにこのあたりの草花を見たいという麻子と川辺を歩いた。
今までは気付かなかった足元の草花を、麻子は愛しそうに見つめる。
「ほら、このイヌタテやエノコログサ織部の器に投げ入れするとすごくいいの」
「イヌタテ?」
「そう、“あかまんま”って言ってたでしょ、それと“ねこじゃらし”野の草花は道端に咲いているのが一番って思うけど、アレンジする事でもっともっと可愛らしくなる花達もいるの。それを知ってもらいたくて」
麻子はそう言ってそっとその穂先をさわった。
二日目の京都もあっという間に過ぎ去って行く、黄昏時のいくぶん和らいだ日差しが二人を包んでいた。
翌日は旅館の中でゆっくりと時間を過ごした。 麻子は午後からの打ち合わせの為、持参したパソコンに向かっている。 私はのんびりと本を読む。あわただしい時の流れに逆らうような静けさだ。
麻子を出版社まで送り、私は京都の町をぶらついた。古本屋や画廊が並ぶ通りの何軒目かの店でずっと探していた本を見つけた。それも考えられないほどの安値だ。古本を探していると時としてこういう幸運に恵まれる。なかなか見つからず、あったとしても、とても手の出る値段ではないだろうと諦めていたものだ。
私はさっそくそれを買い求めその通りにある茶店に入った。
和風のコーヒー専門店でブレンドを頼むと趣味の良い和食器のカップが運ばれ 目の前で入れたてのコーヒーを注いでくれる。たった一杯のコーヒーだが、店主のこだわりがうれしい。買ったばかりの本に目を通しながらしばらく時間をつぶした。
麻子からメールが入る。「打ち合わせ終了!」私はコーヒー店を出た。
「どうだった?」
「ええ、スムーズに行ったわ、ほとんど私の希望を受け入れてもらえそうだし。思った通りの本に仕上がりそう」
「そうか、楽しみだな。いつ頃出版できそうなの?」
「そうね、クリスマス頃にはって事だけど、写真も自分で撮りたいし、これからが大変かもね。」
「クリスマスか…」
麻子が見たいと言った画廊の通りを歩きながら、私は不意に切なさに襲われた。
クリスマスにも二人こうして一緒にいる事ができるのだろうか。ある種の予感が私の胸をよぎる。麻子にも私の気持ちが伝わるのか、二人はだまって画廊の絵を見ていた。
翌日私達は早いうちにもう一度修二達が住んだ家を訪れた。
明日の朝には京都を発たなくてはいけない。二人はそれぞれの思いでその家の前に立った。
不思議な事に最初の日に強く感じた恐れにも似た気持ちはなく、自分の中から修二がすっと抜け出し、そしてこの二階の部屋の窓から柔らかな表情で私たちを見ている。
何故かそんな感じだ。私は修二に問いかけた。(私達はこれでいいのか)と。
私達は期せずして二人とも二階を仰いでいた。
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「おいしいコーヒーを出す店を見つけたんだ。」
私は昨日の店を麻子に教え、麻子はちょうどコーヒーが飲みたかったと嬉しそうに言った。そのまま私達はその古い商店街へ向った。
コーヒーの味もだが、その店の雰囲気やそしてなにより拘ったカップにも 麻子は驚きの目をむけた。
「まだまだ先の事なんだけど」
麻子はカップを眺めながら言う。
「こんな風な和食器の店を持ちたいの。」
「へぇ、食器?」
「もちろん、花器も揃えたいけれど、普段使いの和食器の店、若い人達にも手軽に使ってもらえるような」
「今は100円ショップでも本当にいろいろな器を売ってるでしょ?あれはあれでとてもいい事だと思う。でも、安価なだけに壊れても平気って思ってしまうのも事実よね。そんなに高価なものでなくってもこだわりのある食器、ほらこのカップのようにずっと使い続けていくうちに手放せない愛着の湧くような食器を置きたいの」
麻子はフラワーアレンジのアトリエの他、少し郊外にフラワーショップを持っている。
もちろんそのすべてを彼女が切り盛りしている訳ではないが、経営者として忙しくたち働いてる。
その上今回の出版、そしてインターネットでフラワーアレンジを教えるというオフィシャルなホームページ運営、趣味の鼓もある。
「君のどこにそんな力があるのかと驚いてしまう」
「あら、好きな事を仕事としてやれるって、これ以上幸せな事はないでしょう?」
麻子はさらっと言ってのける。完全に私の負けだ。仕事の話をする時の麻子は何よりも輝いて見える。私はなぜか少しの淋しさに襲われた。
「あ~ぁ、あっと言う間の5日間ね」
「ああ、そうだね。どうする?今日は」
「そうねぇ、やっぱりお寺かなぁ。」
麻子はクスっと笑う。私の寺好きをからかっているのだ。
私は寺というより古い建物に興味がある。その建物にまつわる言い伝えや昔話を調べるのが好きなのだ。
「それでは思う存分、寺院参拝めぐりをさせてもらおうかな。」
私も笑って答えた。
二人だけで過ごした京都の日々もあっけなく過ぎた。
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旧盆を過ぎると急に暑さが遠のき秋の気配が濃くなって行く。
九月に入ってすぐ姪の蛍子の結婚式があるため、盆は家には帰らずこちらで 短い休暇を過ごした。
麻子は写真撮りや原稿の執筆で忙しく動き回っており、私は買いためておいた本を読む事に没頭した。
九月の最初の日曜日が蛍子の結婚式で、金曜日の夕方の新幹線で私は家に戻った。
ずいぶん長く帰っていない気がする。心なしか玄関のドアがよそよそしい。
「おかえりなさい」
遅い時間なのに妻は起きていて私を迎える。
「ああ、変わった事はなかったか?」
「お風呂、入る?」
妻は私の問いには答えずバスルームへ向かう。後姿が一回り小さくなったような気がして胸が痛んだ。
久しぶりの自宅の風呂は日頃マンションの小さいバスタブに慣らされている身体をゆったりと包んでくれる。湯船に浸かりながら私はふと麻子を思った。今頃麻子は何をしているのだろう。そろそろベッドに入るころだろうか。
「下着置いておくわ」
「ああ」
麻子の事を思いながら妻とも話をしている。自分のずるさを感じても以前のような後ろめたい感覚が薄れてきている。
妻と麻子…私は二人を同時に愛そうとしているのではない。そう思い込もうとしていた。
長年連れ添った妻に対する思いは麻子に対するそれとは確かに違っている。女としてと言うより同志としてと言う方が近いかもわからない。風呂から上がるとリビングに妻がいてお茶を入れてくれる。一人ではないという安堵感のようなものを感じる。
「いよいよ…と思うと何だか自分の娘を嫁に出すようで、おかしな気分ね」
「姉さん達はどう?」
「それが、ぜんぜん。まるで他人事のようにケロッとしてるの。」
「そうか…そんなものかもわからないな」
明日は蛍子が前撮りの時の写真を持って来るという。
「最近の結婚式は衣装を二度着て先に写真を撮るんですって。」
少しテレビを見ているとすぐに眠気が襲ってくる。 私は「ふうん」と生返事を返しながら、妻の話を聞いていた。
「そろそろ休んだら?」
「そうだな、眠くなってきた」
寝室のベッドに向かう。ひんやりとした空気が部屋に満ちている。布団に潜り込むと急に頭が冴えて眠気が遠のいていった。この部屋で妻はいつも一人の夜を過ごしているのだ。淋しくないのだろうか。
なぜ今頃そんな事を考えるのか、今までずっとそういう生活だったし 妻もそれを納得していたのではないか。妻の背中が一回り小さく見えた時、その背中に忍び寄る老いを見てしまった そんな気がした。
しばらくそんな事を考えていると妻が上がって来た。
「あら、まだ起きてたの?」
「ああ」
妻は隣りのベッドにそっと入って背中を向ける。
ぎこちない空気が流れた。ベッドを共にしなくなってもう何年もがたっていた。
「あなた、今夜はそこで寝てもいい?」
突然妻が言う。
「えっ?ああ…いいけど」
妻はためらうように私のベッドに入ってくる。その足がおどろくほど冷たくて私は思わずそっと抱き寄せた。
「私、もう女じゃなくなっちゃった。」
「え?」
「不順だな…と思っていたけど。あなたの赤ちゃん作れないまま終っちゃった」
正直言って驚いた。妻の生理の事に関してもだが、妻がまだ子供を産みたいという気持ちでいた事に対しての驚きだ、そして私は驚きと共に言いようのない哀しみに襲われた。妻の悲しみを共有したようなそんな哀しさだ。
「淋しいわ」
妻は涙を流した。私は何も言えず妻の髪を撫でていた。
===================
翌日蛍子がやってきて約束通り写真を見せる
「ほう!本番と同じなんだなぁ」
写真には純白のウェディングドレスの蛍子と少し緊張した面持ちの新郎が 寄り添って写っている。蛍子はうれしそうに微笑んでいて私達も自然に頬がゆるむ。
「同じ事を2度するのか、ものいりな事だ」
「あら、おじさん、式の費用は私たちもちよ、だから、おじさんにはうんとお祝いはずんでもらわなきゃ。」
白い花のブーケに目がいく。
「姪御さんの結婚式、出来るのならブーケのアレンジして差し上げたいのだけれど」
そう言った麻子の淋しそうな顔がうかんだ。
式の当日私達は最も近い親族の席で蛍子の晴れの姿をみていた。
花嫁の父母をさしおいて妻は式が始まってからずっと泣きっぱなしだ。以前からこんなに涙もろかっただろうか…
その涙につられそうになりながら私はそんな事を考えていた。
新郎新婦を新婚旅行に送り出して、すぐに私は長野に戻った。
妻の事は気になったが、仕事を長く休む訳にはいかなかった。夜遅くにマンションに戻ると無性に麻子の声が聞きたくなった。
今帰った、まだ起きている?とメールを送る。すぐに麻子からの電話が鳴った。
「おかえりなさい。明日帰るのかと思ってた」
「ああ、そうそう休んでいられないからね」
「結婚式はどうだった?」
「いい式だったよ、披露宴も」
「そう」
逢いたいと言いたかったが、かろうじてそれを押し留めた。
「疲れたでしょ、今夜はもうお休みなさい」
麻子も逢いたいと口にしない。
「そうだね、麻子も早く休みなさい。おやすみ」
もう少し若い頃なら、なにがなんでも逢いにでかけただろう。
私は熱くなった身体をベッドに横たえながら、素直じゃないな…と苦笑した。
思いっきり麻子の身体をだきしめたかった。ほんの何日か前抱いた妻の感触がまだ消えていないのに、麻子の柔らかな身体を求めている。身勝手な男だ…妙に冴えてきた頭の中で私はそう繰り返していた。
翌日は休み明けのためか、気が抜けたような気だるさで一日が過ぎていった。 退社時間を待っていたように麻子から電話が入る。
以前から撮りためていた写真と、今度新しく撮ったものを見て欲しいと言う。 私は久々にアトリエへ向かった。
写真の花達は麻子の意思をしっかりと捉えていて、これが野に咲く花々かと思う程美しく可憐でしかもどんな花にも見劣りしない主張を持ってそこに写し出されていた。
「いいね」
「そう?よかった。やっぱり野の花だけでは一冊の本にはなりにくいかな、と心配だったの」
「器もいい。これは麻子の物?」
「そう、ほらこの白磁、私のお気に入りだったの。紫カタバミにとても似合うでしょ。」
「夏の花?」
「ええ、去年撮影したんだけど、この後すぐに壊れちゃって」
「割れたの?」
「悲しかったけど、こうして写真に残しておいて良かった。」
すばらしい本になりそうだ。私は内心誇らしさでいっぱいになった。
「圭一さん、これ、あなたに、と思って」
桔梗の花を差してある器は、あの紅志野だ。
「桔梗の花は静さんの好きな花。紅志野に良く合うわ。 いつもあなたに思い出してもらいたくて」
「麻子…」
まるで別れが決まっているような麻子の言葉に一瞬ためらったが、私はその写真をありがとう、と受け取った。
「発売日はいつ頃?」
「そうね、この調子だと年内には出せそう」
「楽しみだな、本屋の店先に並ぶのを見るのが」
「そんな…並ぶほど出ないわよ。大きな書店の片隅に置いて貰えればいいんだけど」
「決まったら予約しよう。」
「あら、プレゼントするわ、買わなくても」
麻子はお茶を入れながら笑った。 温かいお茶をおいしいと思う季節になろうとしていた。
麻子との時は緩やかに穏やかに絆を深めながら過ぎ去って行った。
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十月も終わりに近づいた頃、私に一つの転機が訪れた。
「圭一さん、良江です」
妻の姉良江からの電話だ。
「あ、義姉さん何か?」
「実は和子の事なんだけど、どうも具合が良くないらしいの」
「具合って…どこか悪いんですか?」
「特に何処って言うのじゃなくって、神経的に参っているみたいなのよ。あの子はああ見えて結構いろいろ考えてしまう方だから。何だか元気がなくって、訳を聞いても何でもないからって言うんだけど。」
「はぁ…」
「あなた、いつまで和子を一人にしておくつもりなの?」
「いつまで、と言われても」
「仕事なのは良くわかってるわ。単身赴任で不自由をかけているのは和子の方だって事も。だけど、あの子にはあなたしかいないの。それはわかるでしょ?」
「和子はこちらに来たいと思っているのでしょうか?」
赴任が決まった時妻は行くのなら一人で言って、と言ったはずだ。
「私は、どういう形にしろいつまでも妹を一人にして欲しくないの」
いったいどうしろと言うのだ。とりあえず妻に連絡をとって見るからと約束をして電話を切った。
時計を見る。まだ妻は起きている。もう一度受話器を手にして私は考え込んだ。何を話せばいいんだ?コールを重ねるたびに気持ちが沈んでいく。7回目…もう休んだのだろうか。
半ばほっとした気分で受話器を置こうとした時、妻の声がした。
「あら、どうしたの?めずらしい。」
第一声がそれだった。
「ああ、何か変わった事でもなかったかと思って」
「どうして?」
「いや、何もないのならいいんだ。」
私は少し拍子抜けした。妻は今までと何も変わっていない。いつもののんびりとした声で義姉が言うような、参っているといった感じは少しも感じられない。
「変な人ね…何かやましい事でもあるんじゃないの?」
「今週末にはそちらへ帰るよ」
「そう」
「じゃあ」
他に話すことも見当たらなかった。成り行きから週末に帰ると言った時 ほんの少しだが妻の口調が変わった。張りつめた糸が緩んだようなそんな微妙な変化だ。
「電話、どうもありがと!」
妻はわざとおどけた様に言ったが、それがよけい私の胸をチクリとさした。
ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。
今まで妻が必要としているのは私ではなく生活する糧であろうと思っていた。遊びをほとんどやらない私の月々の生活費は知れている。収入のほとんどを妻に渡し、その事だけで夫としての役割をきちんとはたしていると思い込んでいた。
しかも今私の心は別の人に向いている。このままでいいはずがない。
麻子の顔が浮かぶ。出会わなければ良かった。一番卑怯な言葉が一瞬浮かんだ。
====================
週末仕事を早めに終えて自宅に戻った。玄関を入ってすぐにいつもとは違う何かを感じた。
「おかえりなさい」
妻は起きていていつもの様にテレビを見ていた。台所では食器がシンクに溜まっている。さほど広くないリビングにはいたるところに洋服が投げ散らかしてあり、私は呆然とした。
「どうしたんだ?」
「なにが?」
何がってと言いかけてやめた。こんな夜遅くに言い争いはしたくなかった。
リビングの洋服をハンガーに掛けながら
「まだ寝ないのか」
と妻に言う。妻はぼんやりと私を見ていたが、急に台所に立って洗い物をはじめた。
「ごめんなさい、私、自分でもよくわからない。おかしいのこの頃」
「今そんな事しなくていいから。どうしたのか、何がおかしいのか話してごらん」
「何にもする気がおこらないの、掃除も洗濯も料理も…」
「料理、教えてたんじゃないのか?」
「断ったのみんな。朝から寝るまで、ずっと何もできない…それでまた朝が」
義姉からの電話の意味が今やっとわかった。
「わかった、その事はまた明日かんがえよう。今夜はもう休みなさい。側にいるから」
妻と一緒にベッドに入る。これは更年期障害からくるものだろうか、テレビや本で聞いたことのある鬱病の症状ではないのか。
「それに…」
妻がベッドの中で言う。
「いつもこうやってベッドに入って目を閉じると、あの絵が…」
「絵?」
「そう、あなたの所へ行った時美術館で見たあの絵の人が、私を見てる気がするの」
「そんな、ばかな」
静がそんな事をするはずがない。だが静の、麻子の存在を妻はやはり漠然と感じとっているのだろうか。
そのうち妻は静かな寝息をたてはじめ、私は眠れないまま闇を見つめていた。
翌朝目が覚めると妻の姿がない不安に思って階下に下りてみると妻が朝食の支度をしている。私は肩透かしにあったような気持ちになった。
「あら、おはよう。早いのね。コーヒー入れる?」
「ああ」
シンクに溜まっていた食器類もきちんと納められ、コーヒーの良い香りがキッチンに満ちている。
顔を洗い歯を磨き、鏡を見る。「どうしたと言うんだ」
お前が必要だって事、これ以上彼女を一人にはさせられないって事さ。 頭の中でそんな声がする。とにかく妻とゆっくり話し合わなくては。
「今朝は気分がいいのか?」
「どうして?」
「どうしてって、台所に立っているじゃないか」
「そうね、朝ごはん作らなきゃってそう思ったから。誰かの為に何かをするってそれがないとだめなのかも」
若い頃の妻はこうではなかった。まるで私など必要ないと言った顔で周期的に訪れる独身生活を謳歌していた。
水泳、絵画、お茶、興味のある教室には積極的に参加して 楽しんでいた。もっとももともとあきやすい性格なのでどれも長くは続かなかったが。
「来るか…長野に。」
「え?まだ長くなりそうなの?」
「まだわからないが、一人でいるのが嫌なのなら」
「そうね、考えてみる。」
ちらっと麻子の顔が浮かんだ。
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週末を自宅で過ごし長野に帰った。少し疲れて月曜日は休みを取ることにした。
何処へ行くともなく車に乗って出かけたが、気が付けば無言館への道を走っていた。
平日の無言館はひっそりとしている。私はまっすぐに「静」に会いに行った。変わらない眼差しの静がそこにいた。
「妻を呼び寄せる事にしたんだ。」
私は静に語りかけた。静の顔はやさしく穏やかだ。
「そう、それでいいのよ。」
そんな声が聞こえた気がした。その声は麻子の声にも思えた。
「麻子…」
卑怯だと思いながら、麻子に逢いたい衝動にかられる。
私の心を見透かすように麻子からのメールが届いた。
(仕事中?)
(いや、今日は休んだ。)
すぐに携帯が鳴る。
「どうしたの?具合でも悪いの?」
「いや、ちょっと疲れたし、消化しなきゃいけない年休があるんで」
「あ、そうなんだ。それならいいけど…今何してるの?」
「実は、無言館にいる」
麻子は驚いたように自分も今近くまで来ていると言った。
「無言館に寄ろうかそのまま帰ろうかと迷っていたの。」
「そうか、逢いたいよ、麻子。」
「じゃあ今からすぐに向かうわ、待ってて。」
麻子に会って妻の事を話すのか?これは単なる偶然ではなく、静と修二の計らいかもしれないな。私は無言館のロビーで一服しながら、ふと思った。
麻子は初めて出逢った時のように和服姿でやってきた。随分久しぶりの様な気がする。
「元気だった?」
「ああ、君も?」
電話やメールでやりとりはしていたが、こうして逢うとまた違った切なさがこみあげる。
「十一月の終わりに会があるの。今日はお稽古の帰り」
「そうか。行ってみたいな…誰でも行けるの?」
「ぜひ…招待状出すわ」
私達はゆっくり無言館の中を歩き「静」の前でしばらく彼女と向かい合った。 私は初めて「静」と対面した時の事を思い出していた。年を越せば一年になる。時の流れからすれば一年などあっという間に過ぎ去って行く。たった一年…だが私にとってのこの一年は何と変化に満ちた充実した一年だったか。
「今度は二人椀久をやるの…静さんがもっとも好んだ。静さんと私とふたりで打つわ。あなたと修二さんに聞いてもらえるように」
「静」に話すように麻子は言う。私は黙って頷いた。ティールームでコーヒーを飲んでいると、時が逆回転してあの初めて出逢ったときに戻ったのではないかと、錯覚するほど胸が高鳴る。
「圭一さん、何かあったの?」
「どうして?」
「あなたが無言館に、静さんに会いにくるなんて…何か心配事でもあるのかなって思って。」
麻子には人の心を読む目があるのだろうか。
「いや、ただ何となく車を走らせているとここに来てしまってたんだ。」
私は咄嗟に答えていた。妻の事はそのうちに話そう。
「そう、それならいいけれど。」
麻子はまっすぐに私の目を見る。私は負けた猫のようにいつも目を逸らせてしまう。私は心の中を見せまいと慌ててコーヒーカップを口に運んだ。
マンションに帰ると留守電に妻の声があった。風呂に入り落ち着いて電話をしてみる。
「どうしたんだ?」
「昨日あなたが言った事だけど」
「ああ」
「来年になってもまだ帰れないようなら、そちらへ行こうかと思うの」
「来年?」
「ええ、姉さんにも言われたの、このままではだめだって。私も自分ではしっかりしなきゃと思うのに、なかなか…でもあなたが来ないかって言ってくれて、返って気持ちがすっきりしちゃった。とりあえず更年期障害のカウンセリング受けてみるわ」
「カウンセリングか。」
「姉さんの知り合いに私と同じ様な症状だった人がいて、その人の紹介なの」
「そうか、こちらはいつでも構わないよ、無理せずのんびりすればいい」
気のせいか妻の声はすこし弾んでいるように思える。トンネルから抜け出せるな…私はホッとして受話器を置いた。
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「椀久ってね、椀屋久兵衛って実在の人物なのよ」
チケットを手渡しながら麻子が言う。チケットを持っていくと言って麻子はやってきたが、ここの所わりと頻繁に機会を作っては私の元を訪れてくれる。麻子は麻子なりに何かを感じているのかもわからない。
「へえ、二人椀久って花魁に入れ揚げた挙句発狂するってあれだろ?」
「あら、知ってるの?」
「歌舞伎で一度観た事がある。」
麻子は意外と言う風に私を見た。
「花魁を恋慕うあまりに気が狂ってしまうって、久兵衛が思う程相手も思っていたんだろうかね」
「そうねぇ、財産を散々使った挙句に親に座敷牢に監禁された久兵衛は、傾城の松山にとっては恋しい人だったのかしら」
「そんな事考えていたら芝居はなりたたないか。」
「何だかね、私には松山はもっとドライな女性だっただろうって思える。彼女にとっては大事なお客のひとりに過ぎなかったんじゃないかな、久兵衛は」
「確かにね、哀れなのは男の方か…」
「女はしたたかなのよ。」
麻子はまたまっすぐに私の目を見て言う。
「麻子もか?」
麻子は「そうよ…したたかでなきゃ…」と呟くように答えた。
緋毛氈の段の一番下の中央に麻子がいる。
長唄の会と言うのは初めてだが、三味線と唄、そして鼓、太鼓、笛 女性は黒の揃いの着物、男性は紋付袴でずらっと並んだ姿に圧倒される 若い男性がたくさんいるのには正直驚いた。スポットライトが麻子にあたり鼓の音が静かな会場を魅了する。
笛の音と鼓が狂った椀久の悲しさを表している。素人の耳にもその音の 哀れさが迫ってくる。 一転して楽しかった頃の廓での逢瀬、賑やかな場面が見えるような唄…そしてまた一人になった後の沈んだ音色。
麻子はただ一心に鼓を打っている。一瞬麻子の顔が静に変わった。
「えっ?」
私は思わず目を凝らした。麻子と静は確かに二人で鼓を打っている。
麻子は私に、そして静は修二に聞かせるために・・・後ろを振り向くとそこに修二がいるような気がした。
演奏が終わり私はロビーに出た。煙草を一本吸いやっと一息つく。
プログラムを買い求めパラパラとめくってみると麻子が写真入りで紹介されていた。
そこに写っている麻子の顔はやはり何処となく静に面差しが似ている。
「あら、おじ様!」
驚いて目を上げる。
「美奈ちゃんか」
「やっぱりいらしてたんですね。母からご招待したって聞いてました」
「すばらしい演奏だったね」
麻子に良く似た目で美奈に見つめられると何となく面映ゆい。
「母にはかないません。何もかも」
美奈はそう言って目を伏せた。
「楽屋に行きませんか?」
「いや、ここで失礼するよ。お母さんに宜しく伝えて下さい。すばらしかったと」
美奈は頭を下げてじゃあと行きかけたが、とつぜん振り向いて言った。
「あの…こんな事言ってもいいのかどうかわかりませんが」
「え?」
「おじ様は、父にとても似ていらっしゃいます、母が惹かれるのも無理ないなって今日はっきり思いました。」
私は半ば呆然と立ち竦んだ。麻子の夫の存在が胸の中に広がる。一瞬の後その思いは柔らかな妙な嬉しさとなって私を包んだ。
麻子を愛しいと思う気持に嘘はない。麻子の事を考えるとどうしようもない気持の昂ぶりを感じる。だが一方でどうする事もできない事への苛立ちや情けなさでその思いから逃げようとしている、そんな自分がいるのも事実だ。
麻子が愛した夫と似ている。普通なら屈辱的とも思える事なのだろうが、なぜか私は自分と似た夫と並ぶ麻子を想像して、幸せであったであろう麻子の過去にほっと胸を撫で下ろしている。(彼女は幸せだったんだ)そう思う事でほんの少しやりきれない思いが薄れた気がする。
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会場を出てもすぐにマンションに帰る気になれず、古い商店の立ち並ぶ道をぶらぶら歩いた。民家をほんの少し改造したような小さな店先にそれはあった。
「この白磁器…」
中に入って手にとって見る。
まったく同じではないにしろ、麻子が撮影で壊したといっていたあの器に良く似ている。
私は嬉しくなって、それを買い求めた。
「いい色でしょ?それに、こんな形もなかなか出ないですよ」
まだ若い店の女性が嬉しそうに話しかけてくる。
「いい器置いてらっしゃいますね。あなたが買い付けを?」
「はい、作者はみんなまだ若い方ばかりですが」
「お好きなんですね、焼き物が。」
「はい。大好きです」
女性ははっきりとした笑顔で答えた。幸せそうな笑顔だった。麻子に教えよう、きっと麻子のお気に入りの店になるだろう。その笑顔に応えながら私は思った。
何日か後麻子から会いたいとメールが入った。
「どうしたの?」
「本が出来上がったの。」
「えっ?早かったんだね。もう手元にあるの?」
「今から持って行っていいかしら?」
「ああ、待ってる」
麻子は上気した顔で私に真新しい本を差し出した。
A四判を少し横長にした形で表紙に野の花が溢れるほどに咲いている。
「綺麗な本だ」
「でしょ?嬉しくなっちゃって」
「麻子らしい柔らかな色合いが良く出てるね。すばらしいよ」
「嬉しいわ。こんな風に思ったとおりに仕上がるなんて、ホント言うと考えてなかったの」
花の写真のそれぞれに短い文章がそえてあり、しゃれたエッセー集にもなっている。
一枚一枚丁寧にページをめくりながら、私もなんとなく幸せな気持ちになっていた。
花は、しかも野に咲く地味な花でさえも、よく見ればこんなに可憐な花をつけ、見る者の心を落ち着かせてくれるのだと今更ながらにわかった気がする。
「そうだ、丁度良かった。君にと思って買っておいたんだ」
私は先日買い求めた白磁器の器を麻子に手渡した。
「まぁ!」
箱から出したとたんに麻子は驚きの声を上げた。
「どうしたの?これ」
「似てるだろ、あの壊れた白磁器に。」
「覚えていてくれたのね?本当にそっくり。うれしい…」
麻子は目を潤ませながら言う。
「あなたとの思い出の品がまた一つ出来たわ」
「おいおい、まだこれから先が長いんだよ。私達は始まったばかりだ。」
麻子は私の言葉には答えずその白い器を大切そうに両手で包み込んだ。
発売日はもう少し先になるけれど、少しでも早くあなたに見て欲しかったの、と言う麻子の肩を私は抱きしめた。まるで別れを予感しているような言葉を口にするのはやめてくれ…私はその柔らかな唇をそっとふさいだ。
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十二月半ばになると社内の動きが少し慌ただしくなった。本社で新しく大きな仕事を抱える事になったと会議で発表され、私の胸は波立つ。そして不安は的中した。
「高岡君、急なんだが本社に戻ってくれないか」
「今すぐにですか?」
「知っての通り新しい仕事が入った。かなりの大仕事だ。君にもプロジェクトチームに加わってもらいたいんだ。」
年明けから本格的に取り組みが始まる。年内には戻らなければならない。麻子はこうなる事を予感していたのだろうか?どちらにしても長くて2年の単身赴任なのだから覚悟しなくてはいけないと思っていたがいざ宣告されると、思った以上に私自身打ちのめされた。
仕事がまったく手につかない。
麻子との別れを考えると泣きたいような淋しさをどうすることも出来なくなる。
麻子に話さなければ…
「麻子、話があるんだ。今から出られる?」
「あ、待っててすぐ終わるから。」
麻子を車に乗せ行くあてもないまま走った。高台の夜景が綺麗な場所に車を止めた時
「決まったの?」
と麻子の方から切り出した。
「ああ、今月中に帰る事になった。」
「そう…」
「終わりじゃないから、麻子。終わりじゃないんだからね」
自分でもおかしい程声が震えた。泣くまいとすると喉がふさがれたような感じがする。
麻子が強く手を握った。絡めた指に力を込める。麻子は何も言わず静かに涙を流していた。
「いつでも逢えるんだから。何も変わらない、電話もメールも…」
「そうね…」
遠くの灯りがにじんで見えなくなる。自分はこんな感傷的な男ではなかったはずだ。
こんなに辛いのなら逢わなければ良かった…また卑怯な言葉が頭に浮かぶ。
麻子の手を握り返しながら私は必死に涙を堪えた。
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引越しの慌ただしさに昼間は感傷的な気分もなりを潜めたが夜になるとさすがに淋しさを感じた。いざとなると意気地がないのは男の方だと思い知らさせる。
麻子も同じ気持だろうか?
不安に思っているといつも見透かしたように麻子からの電話が鳴る。
「麻子には超能力があるのか?」
「どうして?」
「なんとなくそんな気がする」
「圭一さんの事なら何だってわかるの。今どんな気持でいるか、あなたの身の上にどんな事が起きようとしているのか」
考えて見れば不思議な力でお互いが引かれあい出会ったのだ。
麻子は静に私は修二に導かれ、この地で出逢った。
それは不思議な出来事だが私達はお互いを必要として愛し合った。それだけは紛れもない真実だ。
「これからもずっと私の事をみつめ続けてくれるか?気にかけてくれるか?麻子」
「もちろんよ、あなたが必要と思う時私はいつでもあなたの傍にいるから、だからあなたも私の傍にいてね、私があなたにいて欲しい時はいつも」
「逢えて良かったのだろうか、僕たちは」
「ばかね…逢えてよかったわ。ほんとうに」
私は広い豊かな麻子の胸で子供の様に甘えていた。そして優しさに包まれながら眠りに落ちていった。
最後の日私達は無言館に出かけた。いつもの様に穏やかな顔の静がいる。静に別れを告げると
「ありがとう」
静の声がしたような気がした。修二さんと逢わせてくれてありがとう、 静はそう言いたかったのだろうか。隣りの麻子の目が涙で膨れている。 麻子も静の声を聞いたのだろう。
私はここで麻子とはじめて逢った日の事を思い出していた。
あの日から何年もの月日がたったような感じがする。
「一年か」
「そう、本当にあっという間」
「でも色々な事があった」
「そうね…」
「麻子…」
「圭一さん、きっとまた逢えるわよね。」
「うん、逢いに来るよきっと。」
「明日は見送らなくていい?いつものように、また…って、明日またねって言えないのは辛いから」
「いいんだよ電話する。電話やメールならいつでも明日またって言えるだろ?」
別れ際麻子を思いっきり抱きしめる。甘い花の香りが私を包んだ。
「今度生まれ変ったら、迷わず探して、私を…」
「麻子も間違えるな…」
翌朝荷物を送り出してしまうと、私の心の中はぽっかりと穴があいたようになった。
あっけないものだ。駅での待ち時間いないとわかっていながら何度も麻子の姿を探す。新幹線に乗り込んだときメールが届いた。
(行ってらっしゃい、ずっと待ってます。あなたが帰ってこられる日まで)
応える事の出来ない自分が情けない。
(ありがとう)
とメールを返した時、新幹線が動き始めた。
私はぼんやりと窓の外を眺めていた。
「あれは…」
ちょうど小高い丘のようになった場所に人影が見える。人影ははっきりとした輪郭となり、静かに微笑みながら私の方を見ている。
「静…修二…」
まるでスローモーションの画像をみているようにゆっくりとゆっくりと景色が変わる。
淡い光が二人を包むように降り注いでいる。
「逢わせてくれてありがとう。」
声が聞こえた。修二の声か…
一瞬の出来事のはずなのに二人の優しそうな表情まではっきりと窺える。
私の胸はある種の感動でいっぱいになった。悲しみでも喜びでもない震えるほどの感動に声をあげて泣きたい衝動にかられた。
涙があとからあとからあふれ出て、二人の姿が見えなくなる。
景色がまた早く流れ始め、車内のアナウンスが聞こえ初めても私は涙を流したままで、過ぎ去っていく窓の景色を見つめ続けていた。 了