ゆりと王子
とある服屋で買った少年の新しい服のタグを取り終えたたみ始めた時、にわかに少年が目を覚ました。
「あ、おはよー。朝だよ。」
「おはよう…こほっこほっ」
ガラガラがさがさの声で元の声は影も形もない。
「喉痛い?」
「はい…水…」
「はいはい。ちょっと待ってね。」
ペットボトルに作っておいたポカリを取り、
「ほい」
飲み口にストローを挿して差し出す。
「あり…がと…っこん!こんっけほっ」
「あら、辛いね。よしよし」
背中をさすってあげると少年がチラチラとこちらに不安そうな目を向ける。
「ん?どした」
「あの、これ」
「ポカリ」
「はぁ。…白い」
「うん。もしかして知らない?」
少年がこくりと頷いた。
「そっか。粉が溶かしてあってね、水分を吸収しやすくしてくれるの。分かる?」
少年は目をパチパチとさせたが、飲んでみることにしたらしくストローに口をつけた。
喉が動き少年が顔をしかめる。
「……甘い」
「そーなの。あんまり口に合わなかったかな?」
「いえ、そういう訳ではなく。…喉が焼けるようで。」
「あぁー、なるほど。イソジンでうがいしよっか。多分まだあったはずだから。探してみるね。」
「…イソジン?」
「あれ、イソジンも知らなかった?」
「…はい。すみません。」
「あははは、謝ることじゃないよ。でも珍しいね。風邪の引き始めとか喉痛い時とか、必ずお世話になると思ったんだけど…」
「そうなのですか。」
「うん…」
病院でのヤンの言葉がゆりの頭にかすめた。
(育児放棄、か…)
見た目そんな感じは全く受けないが、本当にそうだとしたら言葉には気をつけなければならない。
「…やはり僕は世間知らずなのですね。」
唐突に少年がそう言った。
そう言った少年の表情は悲しげで、自虐的な笑みを浮かべていた。
「病気で、外なんて出たことなくて。みんながいつも気を遣ってそばにいてくれて。大丈夫です、いつでもお側におりますって声を掛けてくれていたんです。僕が心を煩わさないように言葉を選んで…って、すみません。暗い話し…て?どうなさったのです?どこかお悪いのですか。」
「…え?何が」
自分の頬を涙が伝っていたことに気がついて、惚けた顔で拭った。
確かに指先が濡れる。
「やだ、なんで泣いてんだろ。」
不思議で、恥ずかしくて、わざとらしく笑うと、
「僕のせいですね、申し訳ありません。」
少年が必死に涙を拭ってくれようとする。
少年の細い、骨ばった指が拭ってくれるのに、涙は後から後から流れて頬も指もびしゃびしゃにしてしまう。
「ごめん!いいから、大丈夫。きりないよ。気ぃ遣わせてごめんね。しんどいのに。ちょっと探してくるから。」
引き止めたそうな少年の視線を振り切って洗面所へ逃げ込む。
「…ふっ…、っうっ…っく…」
悲しい。
悲しくて哀しくて、涙が勝手に溢れ落ちてくる。
(育児放棄なんかじゃない…病気のせいだ…食べられないんだ…)
外に出ることが出来ないくらい、悪い病気に違いない。
ゆりの頭に一つの推理が駆け抜けた。
(え、じゃあもしかして…でも、でも、それじゃあ…あんまりじゃない…)
外に出たことのない息子に世界を見せてあげたい。
死んでしまう前に、一度だけでも。
悲しい目のない、自由なところで。
もしそんな理由で外に置き去りにされていたのだとしたら。
彼に内緒で、最初で最期の外出の機会を与えているのだとしたら。
(どうしよう。もうまともにあの子見れないよ。)
ゆりは涙が溢れなくなるまでずっと、洗面台の下でうずくまって嗚咽を飲み込み続けた。
「あ、の…」
「…っ、!?」
かなり時間が経って、ようやくおさまってきた頃、洗面所の入口に少年がいた。
床の上に座り込んで肩で息をして、苦しそうに顔を歪めている。
「ごめん!持って行くって言ったのに、わたしったら何やってんだろ。もう平気だから、戻ろうか。苦しい?」
「あの、ごめんなさい。何だか触れてはいけないことだったのですね。大丈夫ですか?傷つけるつもりはなかったんです。申し訳ありません。」
ゆりは言葉を無くした。
「目が、真っ赤に。冷やさないといけませんね。そのタオル使っても平気ですか?」
洗面台の横、スチールのラックに積まれた白いタオルを指差して少年が尋ねる。
思考の停止したわたしはアホのようにただ頷くことしか出来なかった。
「よっ…!」
その場に座ったまま、少年はクイっと指先で空を切った。
一番上に積まれていたタオルが、わずかに発光しながら宙に浮き、水道のハンドルがひとりでに跳ね、水が、音を立てて流れ出る。
流れ出る水の下にタオルが滑り込んで、全体が水を含んだところでハンドルが下に降りた。
ジャアッ
タオルが捻れている。
絞られたタオルはゆりの目元に吸い込まれるようにくっついた。
「…っ…はぁっ、はぁっ…久、し、ぶりで、いささか、疲れ、まし、たね。」
少年の明るい声が聞こえ、
「……え?」
ようやく頭が現実についてくる。
「……え?」
・ ・ ・ 。
「ええええええええっ!?」
タオルをつかんで振り向いたとき、少年は既に穏やかに寝息を立てていた。