破戒
神よ。私を創り給うた神よ。どうか、自らの使命を放棄し、斯様に堕落していく私を、お忘れください。
私はヒンノムの谷の言葉で『聞く者』という名を冠して創られ、同時に「自らの声を聞いてはならない」という戒も賜りました。天界では光栄にも裁判官という栄誉ある職に就いておりました。また、能天使たる者の使命として、地に堕ちた同胞を裁くことも幾度となくありました。
私が天より放たれたのは、能天使たるこのサミーアの使命の過酷さ故。現在の私の如く、翼を黒く染めた者に情をかけてしまった為でした。灰色に染まる片翼を嘆きつつ、天が恋しくて何日も人間の「食事」という行為を躊躇っていたことを、今では懐かしく思い起こします。
私が、私自身に課せられた使命の本質を知っていれば。人の世で真っ当に生きようとしていれば。あるいは天に帰ることも、できたやも知れません。
『聞く者』の本質は悩める者の隣に在って、その者の足に、手に、心に力を与える者のことであり、『聞く者』自身が動いて解決してやるという意味ではなかった。私は、私が創られてから堕落するまで、とうとうそのことに気付けませんでした。
故に、私は最初の一歩を誤ってしまった。
他の天使を裁くことしか知らない私は、人の世に来た後も、人間を裁く職を選ぶより他に生きる道を選べませんでした。
否。裁く、といえば美しく聞こえますが、実際にしていることは人殺しに相違ありません。今も昔も、変わらずこの手は血と罪に塗れていたことを、私は人間を殺めて知りました。
そうして、罪深い者であれば何の躊躇もなく人を殺めることができるようになった頃でしょうか。
「あなたにも羽があるんデスカ? 見せてクダサイ!」
彼と――ラズィーヤくんと出逢ったのは。
明るくて人懐っこい彼は、私の穢れた翼を見ても少しも動じず、むしろ嬉しそうに私に話しかけてくれました。
理由は、彼の姿を見ればすぐにわかりました。背中から尾のように垂れた、鮮やかな孔雀の羽。褐色の肌から覗く、月夜をそのままガラス玉に封じ込めたような、反転した色の眼。彼は人間にして、普通の人間ではなかったのです。
普通でない者同士の気安さも手伝ってか、私達はすぐに仲良くなりました。彼は私を『ミーア』と呼び、人の世に来てまだ日の浅い私に、さまざまなことを一つ一つ、丁寧に教えて下さいました。
あれは、彼が香水を購いに行くところに同行させていただいた時の事でした。
「男性でも香水をつけるのですか?」と訊ねる私に、「んー、人によりマス。男性はつけてる人少ないかも」と答え、香水の種類や、香りの系統についてやはり丁寧に教えてくれましたが、私の耳はだんだん彼との会話の端々にちらつく誰かの影を追うようになっていました。彼の辛そうな表情から、彼の想いと、寂しさが察せられて、私の心にまで青くよどむ澱が沈んでくるようでした。
――このときはまだ、紛いなりにも自分の使命を全うするつもりでいたのでしょう。私の目も耳も、人間的好奇ではなく彼のために動いていたように思います。
「自分で選ぶとまた同じものを買ってしまいそうなので、ミーアが選んでくれマセンカ?」
彼はその誰かを語る時の表情のまま、私にそう頼みましたが、いくら人の世に来て日が浅いとはいえ、恋人がいる者に香水を贈ることが良いことではないくらいの判別は私にもつきました。
「……大丈夫、だから選んでクダサイ。少しだけ、あの人のことを忘れていたいんデス……」
躊躇する私の言葉を、ラズィーヤくんは静かに押し切りました。彼の言葉に押された私が手に取ったのは、明るい水色の瓶。マリンノートの香水でした。テスターからはベルガモットやウォーターフルーツの甘い香りが漂っておりました。彼は甘いものが苦手なのでお気に召すか不安でしたが、手渡したテスターを彼は手で扇いで嗅ぐと、微笑みを浮かべて頷いて下さいました。
「これで、少しは記憶からいなくなるデショウカ……」
香水を購った後、彼が呟いた言葉を、私は聞こえないふりをしました。そうして、敢えて明るく振る舞いながら彼の手を取り、手首に香水をつけたのです。
「アリガトウ……甘い香り……本当に、甘い……」
彼は、泣いていました。慌ててハンカチを差し出しても受け取らず、人気のない路地まで歩いて行って、しばらく静かに泣き続けました。
涙も枯れ果てて、呼吸も平静を取り戻した頃、彼はぽつりぽつりと、彼の苦しみを話してくださいました。同じファミリーに恋人がいること。気のせいかもしれないが、恋人に飽きられているかもしれないこと。連絡が取れないこと……。
ラズィーヤくんは、恋人の今までにない冷たい対応にひどく心を痛め、寂しさと、捨てられることへの恐怖を抱いているようでした。はじめは『聞く者』の使命を全うするつもりで聞いていた私でしたが、純真な彼が斯様に思い悩む様子を見て、心を針で刺されるような痛みを覚え、友人としてなんとか手助けしたいと思いはじめておりました。
「まず話し合わないと、そのお方との仲も回復できませんよ」
人の手を借りることを良しとしない彼を説き伏せ、私一人の力で、彼と、彼の恋人に話し合いの時間を設けてみせると約束しました。最初こそ怖がっていた彼でしたが、「私に話したように、率直に寂しいという気持ちを伝えれば良いのです」と励ますと、最後には笑って頷いてくれました。
去っていく彼の後姿を見届けてからの私の任務は、非常にシンプルでした。私の持つ幻の力を用いて姿を消し、ラズィーヤくんの所属するファミリーのアジトに乗り込んで彼の恋人と思しき人物の任務を確認し、先回りしてターゲットを殺す。私の翼は人の足より速いので、先回りは容易でした。私はガベルと名付けた鉄槌を、無感情に振り下ろしました。
すでに絶命しているであろうターゲットに対し、血に塗れた鉄槌を幾度となく振り下ろしながら、私は少しも可笑しくなどないのに嗤っていました。そうして一頻り笑い終えた後、濁った瞳で自らの正義を示す法服にこびりつく赤を見下ろし、体の底から競り上がるような痛みを覚えました。
決して怪我を負ったり、疾病を患ったわけではない筈の身体が、息をするのがやっとなほどの苦しみを訴え、知らずのうちに呪詛のような声を発しておりました。
「……友人として、だなんて。結局は偽善の言葉じゃないか。――僕は、僕の感情に嘘をついていたいだけだ。だから、ラズィーヤくんの幸せを祈るフリをして、こんなにもひどい真似ができるんだ。僕は天の使いどころか、人間としてもよほど下等だ……」
その呪詛は、間違いなく私の戒を破るものでした。
私は自らを省み、自らの声を聞いてしまいました。
故に、気付いたのです。彼を、ラズィーヤくんを愛してしまっていたことに。
任務を失った恋人は、数日の休暇を得たようでした。私はただ茫然と、彼に購った香水を自分でも買って香りだけでも寄り添おうとしたり、彼と再び会った時には、せめて笑顔でいてほしいと、やはり偽善的な願いを考えたり、ボスが溜め込んだ書類を無心で整理する傀儡になったりしながら過ごし、気付けばひと月が過ぎていました。
私はいつものように書類仕事を片付け、黄昏時を少し過ぎて、かすかに残った青い光に照らされる街を歩いて帰ろうとしておりました。
「ミーア……?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこにはきょとんとした顔のラズィーヤくんがこちらを見ておりました。けれど、次の瞬間には滔々と涙を流して私の胸に縋りました。
「ダメだった……ゴメンナサイ……ミーア……ッ」
私が作りだした機会を活かせなかったと、泣きながら詫びる彼を見て、私は不覚にも歓喜に身を震わせておりました。
私はたまらず彼に自らの想いを告げ、いつか香水を振り掛けた手首に、口づけを落としました。愛に飢えた彼は、私の醜悪なる恋慕を、赦して下さいました。
かくして私は堕落し、両の翼も今では宵闇より深く暗い色に染まってしまいました。しかし、後悔はしておりません。
私か、彼のどちらかが自らの業の報いを受けるその時まで、彼の心がどこまでも澄みわたり、凪ぐことに比べれば、私の翼の色も、堕落も、私を創り給うた貴方でさえ、何もかもが小さく感じるのです……。