2話:恋心
燦々と光るアスファルトを見つめながら、二人並んで歩く。
「日奈子よ……この前貸した月間ヌーは、いつ返してくれる?」
「ごめん……まだビッグフットの記事読んでなくて……」
「一番おもしろいとこじゃないか、ビッグフットの特集」
「うん、ビッグフットかっこいいよね」
「かっこよくはない、キモい」
「え、あ……うん」
そんな不毛な会話を続けているうちに、いつの間にか日奈子の家の前まで来ていた。
「……じゃあ、また明日」
「……」
斜め下を向いたまま、別れの挨拶を返そうとしない日奈子。
「?」
「あ、あの、あのののの」
服の裾をぎゅっと握りしめた体勢のまま、俯いて何かを伝えようとしている。
「あたしゃ、日本語しか分からない」
「えと、そのの、あ、あのの~」
「……なるほど、暗号か」
俺は頭の中で彼女の奇妙な単語を解析し始めた。
「きょ、きょきょ、あの、あのののの、あの」
「なになに、オーディンが動き出した?」
「うちで、え~と、あの、そ、そ、その」
「第二のラグナロクが始まる……だって!?」
「ええ、と、うちによ……う、うちに寄っていかない?」
「……」
俺の理解できる明確な言語が返ってくるまでに多少の時間を要した。
どうやら暗号ではなかったらしい。
「う~ん、じゃあ、お邪魔する……ついでにヌ―を返してもらおう」
「……ほぅ」
日奈子の口からため息が漏れる。
「じゃあ、こっち……」
玄関の扉を開けて、中へ促すジェスチャーをする日奈子。
その顔は清々しいほどの笑顔だった。
「う~ん、守りたい。この笑顔」
――守りたかった。
「い~い香りだ」
変態めいた一言を呟く。
「千恵がいないと変な感じだな」
三人いると狭い部屋も、二人だと奇妙に広く感じられた。
それは、ふたりきりでこの部屋にいるのが初めての事だったからかもしれない。
――初めて、か。
頭の中、皮肉めいた口調でそう呟く俺がいた。
「千恵ちゃん、大変そうだったね……委員会」
「ああみえて、頭はいいからな」
「それ……千恵ちゃんが聴くと、喜ぶよ」
妙に違和のある言い方が耳に刺さる。
「そういえば、ヌ―は?」
「あ、今持ってくる」
日奈子が立ち上がり、机の方に向かって歩いていく。
机には日奈子の両親の写真が飾ってあった。
――もう既にこの世にはいない日奈子の両親の写真。
「はい」
いつの間にか目の前にきていた日奈子が雑誌を差し出している。
……その顔が名残惜しそうなのが、今の俺にはハッキリと分かった。
「……ふん、やはり要らぬ。くれてやるわ」
「え……」
「情報は全部……俺のココに入ってるからな」
俺は人差し指で、自らの蟀谷を軽く二度叩いた。
彼女の頬が緩む。
「あ、ありがとう! 祐一」
「くくく、あーっはっはっはっは、狂おしきかな、日奈子よ」
立ち上がり、大声を日奈子に向ける。
「別に、狂おしくないよ」
「そ、そうか……」
狂おしくはないらしい。
「……ちょっと、お手洗い行ってくるね」
「気をつけろよ……背後にな」
「う、うん」
ひきつった顔でトイレへ入っていく日奈子。
「……」
こんこんと部屋の窓に何かがぶつかる音がした。
……カラスだ。
カラスがこっちを視ている。
「ふん、闇の使者よ……いったい何の用だ」
カラスは俺の質問には答えず、向きを変えて、夕陽の彼方を見つめ始めた。
「だんまり……か、くくく、いいだろう」
バサバサと音を立て、飛び立つカラス。
「……行ったか」
トイレから水の流れる音が聞こえてくる。
「……ん~」
日奈子が怪訝な顔で、俺の隣に腰をかける。
「……」
「流れなかった?」
「ち、ちがっ……」
「ん?」
「な、ながれたよぉ……って、ていうか、大きいのじゃなくて……その、あのの、小さい方で……」
「分かったから、おちけつ」
「だ、だから、けつじゃなくて……そ、そのぉ、前の方で……」
両手を顔の前でぶんぶんと左右に振り回す。
「おぉ、前の方とな……」
興奮してきた。
「え~と、その、前、だけど……あ、あの」
これ以上からかうと、ほんとに爆発しそうだ。
「……それで、なんかあった?」
「えと、なんか寒気がして……」
「ほう、間違いない……それは巫女の力だ」
「え? み、巫女……?」
「そう、ヴォルヴァの力だ」
「ヴォルヴァ?」
「おかしい、なぜ……なぜ今になって……」
「ゆ、祐一?」
「ふん、なるほど……な」
「……」
日奈子が小首を傾げながら、こちらを見ている。
「まあ、無駄話はこれくらいにして……俺はそろそろ帰るかな」
立ち上がり、玄関へ向かう。
「ま、待って……」
足を止める。
「……実は俺も言いたいことがあって」
「え……な、なに?」
「好きだ」
十数年分、あるいはもっと長い間溜めていた気持ちを声に出す。
緊張はしなかった。
「え? ええ!?」
目を瞬かせている。
「ずっと好きだった、小さいころから……ずっと」
「そ、そそそ、そんなこと……きゅ、急に」
顔を真っ赤にして、体を縮こませる日奈子。
そういう恥ずかしがり屋なところが、また堪らない。
「日奈子……」
俺は彼女の名前を一言呟き、自分の顔を近づけた。
唇と唇がそっと触れる。
「ん!?」
「ご、ごめん……」
「いや、わ、私は……ぜ、全然……その」
「えと……じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
「う、うん」
俺が玄関マットに足をかけたとき、ふいに音が聞こえた。
「?」
暗く沈んだ声のような音。
ゆっくりと振り返ると、そこにはいつもの日奈子がいた。
「え、どうしたの?」
「い、いや……じゃあ、な」
気のせいだろう。
俺はそう思って、日奈子の家を後にした。
いつもの道を通って家にたどり着く。
見慣れたアパート、それが俺の家だった。
――部屋の明かりをつける。
壁に張られた古臭いペナントがお帰りと囁いているようだった。
もちろん、ペナントなんて買ってくるのは俺ではない。
亡き父と母の遺品だからこそ、こうやって飾っているのであって……。
「俺は誰に言い訳してるんだ……まったく」
呟いて、目を閉じた。
ご飯は食べなくても大丈夫。
歯も磨かなくていい。
ただ呼吸をするだけ……。
ただ同じ夢を繰り返し見ているだけだ。
「そうだ」
そう思い込むことにした。
……。
…………。
――ふと目を開ける。
いつものように俺の眼は、壁に掛けられている時計の文字盤を容易く射抜いた。
「抗えない、運命……か」
時計の針はもうすぐ午後から午前に移り変わろうとしている。
カチ、カチ、カチと小気味のよい音が部屋に鳴る。
化け物の足音にしては、実に落ち着きのある上品な音だ。
「くくく……あーっはっはっはっはっは!」
堪らない。
感情のなかで最も醜く、そして恐ろしい類のものが、俺の中で呼び起こされていく。
カチ
カチ
カチ
カチっと時計の音が最後に聴こえた時、俺は何を思ったのだろう。
「……くそ」