1話:日常
螺旋階段が続いてる。
壁も何もない、ただ暗闇に段差があるだけ。
下を覗いても、何も見えない。
――この先には何があるのだろう。
人間とはすごいものだ。
そんなことを想像できるようにうまく作られている。
過去を振り返ることもできるし、未来を望むこともできる。
……でも、何もなかったとしたら?
ただ永遠に続くだけの階段だったとしたら?
俺は歩くのをやめるのだろうか。
それとも、暗闇に身を投げだすだろうか。
それとも……朽ち果てるまで歩きつづけるのだろうか。
「くくく、選ばれた……俺は選ばれたのだ……くくく、あーっはっはっは」
不意に背中に衝撃が走る。
「ま~た、朝っぱらから飽きないね~」
「お、お前は……」
「言っとくけど……この世界の救世主でも巫女でもないからね」
「……」
「黙っちゃったよ……どうする、日奈子」
「千恵、あんまり、その……いじめないであげて」
可憐でお淑やかな声が、ガサツな声の持ち主の隣から聞こえてきた。
「日奈子っ!? い、いたのか……」
「うん、おはよう、祐一」
「おはよう」
……妙な笑みを浮かべながら、千恵が日奈子と俺の顔を交互に見比べる。
「ほほぉ~、なるほどなるほど」
「な、なんだろうか……邪なるものよ」
「祐一……どつくよ?」
「……」
黙るしかなかった。
しょうがない、千恵のパンチはゴリラを凌駕するほどなのだから。
「それは、まさにトールのハンマーのような一撃なのだ!」
「頭……大丈夫か?」
「ううむ」
凡人には分からないか、まあしょうがない。
「……それより、祐一さ」
千恵が俺の耳元に口を近づけて囁いた。
「そろそろ、告白……してみれば?」
「なっ!? はぁ? そ、そそそ、そんなんではありませんが?」
「うわぁ、なんて分かりやすいリアクション……さすがに引くわ……」
千恵が侮蔑の目をこちらに向ける。
「日奈子はただの幼馴染であってだな……」
「またまたぁ~、HDSなんでしょ? 分かってるって~」
聞き覚えのない単語が耳を掠めた。
「なんだ、それは……」
「ひなこ……だい……すき」
どきりと胸が跳ねる。
「……あ~、なんだ、俺はてっきり……星空に舞う……大宇宙の……雫たち……の略かと思ったよ」
千恵「うそつけ」
「……これ以上反論すると、きっと俺の背中に風穴が開く……そう思って俺は口を閉ざした」
「口に出てますが?」
明らかに他意のある笑顔をこちらに向ける千恵。
「すまん」
「……ふたりとも、授業遅れちゃうよ?」
時計を見る。
冷や汗がたらりと頬を流れた。
「げっ……」
「トイレ掃除は、もうしたくないな」
「走ろう」
「そうだな」
六本の足が忙しなく動き始める。
――ぎりぎりのところで校門をくぐり抜けた俺たちは、いつものように自分の席に着席する。
ガラガラとドアが音を立て、教室に担任の姫子先生が入ってきた。
「出席をとります、え~、安倍翼君――」
先生は挨拶もせずに、生徒の名前を次々と呼び始めた。
呼ばれたものは、まるでゾンビのような気怠そうな声で返事をしている。
「はい、次……え~、相模祐一君」
立ち上がる。
「漆黒の闇に消える……終末を告げる吟遊詩人とは俺のことです。はい」
「……はい、じゃあ、次、柴田亮子さん――」
「……」
ゆっくりと腰を下げる。
右に一つ、前に二つ離れた席に座る千恵が、後ろを振り返った。
「ば~か」
「馬鹿ではない、漆黒の闇を司る……え~と、終末の鐘をならす者だ」
「さっきと変わってんじゃん……ちょっと前の記憶も怪しいなんて、やっぱバカだねぇ」
「黙れ、ゴリラ」
「……あとで絶対ぶんなぐる」
「こら~、委員長、静かに……」
「あ、はぁい! てへっ! ……チッ」
舌を出し、自分の頭を小突く千恵。
……最後に舌打ちが聴こえたような気がするのは、多分、俺の気のせいだろう。
「え~、次……大江日奈子さん」
「……は、はは」
がたがたと日奈子の机と椅子が振動し始める。
またか……というような皆の視線が日奈子に集まっていた。
「ん、日奈子さん?」
「はっ、はっつ、はひぃいいい!! 元気ですぅ!」
顔を赤らめ、右手を直角に曲げる日奈子。
「うん、元気でよろしい」
「あの、私、元気です! ちょっと遅刻しそうになったりもしましたけど、元気ですっ!」
「あ、うん……分かったわよ、日奈子さん」
流石の姫子先生も対処に困っているらしい。
「あ、は、はいぃ」
恥ずかしそうに俯く日奈子。
もしこの世に上がり症グランプリがあったなら、間違いなく優勝候補の一人だろう。
そんなこんなで、騒がしい一日が過ぎていった。
「ふぅ~、やっと終わった」
夕陽を浴びながら、千恵が伸びをする。
「お疲れさま」
「あ……今日は委員会で集まる日だった……たはは」
「大変だね」
「祐一、代わりに行ってくれない?」
嫌に決まっている。
「……」
「そうかそうか……行ってくれるか」
「そんなとこ行くくらいなら、ハッテン場に行った方がマシだ」
「ハッテン場?」
「あんまり変なことばっかり言うと、ほんとにどつくよ」
千恵の岩のような握りこぶしが、きらりと光った。
「……ごめん」
「さてと……じゃあ、アホはほっといて、そろそろいこうかな」
「頑張ってね……千恵ちゃん」
「ありがと……日奈子も帰り道は気をつけてね」
「うん」
「頑張ってね……ゴリラ」
「うん……祐一は帰り道に豆腐の角に頭をぶつけて逝け」
笑顔で呪詛を唱える千恵。
なんとも愛のこもった言い回しだ。
「じゃね、ふたりとも」
最後にそう言い残して、廊下に消えていった。
「ほへ~」
日奈子がほへ~という息を漏らしながら、千恵が出ていった扉を見つめている。
「どうした?」
「……なにかいたような」
扉をみてみる。
……これといって何もない。
「瞼に映るは夢か現か……」
「気のせいかな……ま、いいや」
きっと気のせいではない。
奴がいたのだろう。
「記憶を司るもの……ムニン、か」
「何言ってるの?」
「くくく、わーあっはっはっは」
「え?」
「面白い……面白いじゃねえか……あーっはっはっはっはっは!」
そのとき、扉から何者かの影が現れた。
姫子先生だ。
「相模君、静かにして……隣の教室で補習やってるから」
「……すみません」
なんだか謝ってばかりの今日この頃。
「日奈子さん、彼がまたよく分からないこと言い始めたら止めるように……」
「は、はい……」
「ご心配には及びませんよ……せんせぇ……もう、帰りますから……くくく、あーはっはっはっは」
「……」
姫子先生が、ただただ冷酷な目でこちらを見つめている
なにか得体の知れないものが潜んでいそうな眼だった。
「とりあえず……静かにして」
「……はい」
「……」
やれやれ……といったような溜息を吐き出し、千恵と同じように廊下に消えていった。
橙色が滲む教室に二人、取り残される。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
俺は素直に頷いた。