十八歳未満の方はご遠慮下さい、な乙女ゲームでありながら攻略対象の八割方が隠れロリコンの世界に私は転生したらしい。⑤
自分の部屋のベッドの上でしばらく寝っ転がっていた私は、いつの間にかうたた寝に突入していたらしい。寝ぼけ眼で窓の向こうを見やると、とっぷりと夜も更けた空には星が瞬いている。
「……いっけない、夕飯の支度してない!」
しばらくホケっとしていた私だったが、重大事項を思い出してベッドから飛び起きた。自室を飛び出し、階下に駆け下りるとキッチンダイニングの灯りが煌々と灯っているではないか。覗き込むと、そこには予想通り仕事から帰ってきていたお父さんがお料理を作っている。
「お父さん」
「ああ、美鈴。もうすぐご飯出来るから」
「うん、ごめんなさい」
「そこでどうして謝るかな~」
私が居心地悪く、もうお皿によそうだけの段階まで仕上がっているお料理を二人分テーブルに並べると、作った本人はいつもの呑気な顔でメインディッシュをフライパンから皿に乗せて運んできた。
お父さんが作った今日の夕食は、ハンバーグと温野菜サラダとコンソメスープ。ハンバーグソースは私の作り置きだし、コンソメスープはお湯を注ぐだけのインスタントだけれど。
お父さんが勤めている会社は、父子家庭や母子家庭にも理解ある職場だという外面を保ちたいのだろう。私が小学校低学年だった頃は、お父さんは残業なんか殆ど無かったように思う。
そして私が中学に上がった現在、お父さんはこれまでの職場から受けた配慮のお礼のように、ほぼ毎日残業している。
仕事から疲れて家に帰ってきたお父さんへ、お風呂やご飯の用意を調えておくのは私の拘りというか……前世の彼女に負けないように、私も頑張りたかったんだけどな。
「お父さん、ハンバーグ焼くの久しぶりで張り切っちゃったよ~」
「お父さんの方、無駄に大きくない? あと、ハンバーグの形が謎なんだけど」
対面の皿の上の肉をマジマジと見つめ、一人前を軽く超える大きさに嘆息しつつ、私は手元のハンバーグの謎を訝しんだ。ありきたりな楕円形ではないのだ。何というか、敢えて例えると胃袋の形に似ている……
「それはね、本当はハートマークだったんだけど、焼いてる途中で千切れちゃって」
本日のシェフは、笑顔で意味の分からない事を曰う。我が父よ、あなたは何故に世界に広く分布するハンバーグのスタンダード成形が楕円形なのか、理解していないのですか。
「……味は美味しいよ、うん。私、お父さんの料理、味は嫌いじゃない」
「ありがとう! 美鈴の作っておいてくれたソースも美味しいよ」
お父さんと和やかに食事を進めつつ、私は連絡しておかねばならない事項を伝えるタイミングを計った。
「ところでお父さん」
「どうしたの?」
「あのね、私、知り合いに家庭教師をお願いしたから」
「うんうん、そうか美鈴が家庭きょ……え?」
娘からの唐突な通達に、父は予想外のお知らせだったのか、口をポカンと開く。フォークに突き刺さっていた温野菜のブロッコリーが、スープの中にポチャンと落ちた。
まあ確かに、子どもの成績を心配した親が子どもの了承も無く家庭教師を雇うのはありふれた話だが、成績が底辺でもない子どもが親に相談もせずに家庭教師をお願いする、というケースはあまり聞かない。
「あの、家庭教師を探して欲しい、じゃなくて、もうお願いしたの? え? お父さん聞いてないよ?」
「今言ったし。
あのね、大学部の先輩で、英文科の人。名前は石動椿さん、三回生。お隣の皐月さんと同じサークルの人で、私は図書館で知り合ったんだ。
お金持ってないから家庭教師代払えなくて。やっぱりそれじゃあお願い出来ませんか? って聞いたら、お金なんか気にしないで、お勉強見た日はお夕飯作ってくれたらそれで良いよ、だって」
混乱している様子の父に畳み掛けると、徐々に事態を把握してきたお父さんは「ああ、うん」と呟いた。
「夜も美鈴を家に一人にしておくのは、お父さんももともと心配だったし……その、石動、椿さん? が、ちょくちょく来て下さるなら少し安心かな。
どんな方なの?」
あれ? お父さんの事だからてっきり、『お、おおおおお父さんが留守の隙にお家に男を連れ込むだなんて、美鈴をそんな子に育てた覚えはありませんッ!』とか言い張って、最悪泣き出すかと思ってたのに。案外すんなりお勉強見てもらいなさい、な方向に話が進んでくな。お父さん、実は教育パパだったの?
「んーとね、すんごく難しそーな洋書をスラスラ読んでる。今は確か、ドイツ語の原書読んでレポート出すんだって。
性格は、気配りの人かなあ。私が普段から花の絵ばっかり描いてるから、今花盛りの公園で待ち合わせしたり、予め温かい飲み物用意して待っててくれたり。あと、いつも笑顔を絶やさないし、人当たりも穏やかで社交的。私の事も、妹みたいに可愛がってくれてるっぽい」
「良い人そうだね!」
マア、ソウデスネ。椿にーちゃんは、一見して人が良さそうな所が余計に厄介なんだよね。実際に対面してると、殺人計画に乗り出す可能性があるとはとても思えないし。
「という訳で、時間が合ったらお家でお勉強見てもらうついでに、ご飯食べて行ってもらうから」
「うんうん、それはお父さんも早い内にご挨拶しないと。石動さんが家に来る日は教えてね。なるべく早く帰るから」
「うん、分かった」
お父さんがこうもあっさり、二つ返事で快諾するとは思わなかっただけに拍子抜けだ。
「そう言えば、今度の土曜日ね」
「うんうん?」
「美術部で駅前の個展のレポート提出しなくちゃいけなくて、部活の先輩と、個展に行くんだけど」
「へー、美術部のお友達はどんな子なの?」
お父さんは、サラダからスープに瞬間移動したかに見えるブロッコリーを、一瞬不思議そうな表情で見下ろしながらスプーンで突っついててから掬い上げ、深くは気にせず口に運んだ。そんな事よりも、私の学校生活の話に耳を傾ける方が大事だと思ってくれているらしい。
年頃の娘を持つ世のお父様方は、自分の娘とのコミュニケーションが上手くいっておらず、娘の友人がどんな人物なのかを知らない、というケースが非常に多い。我が家は特に、父一人子一人の父子家庭なので、私が自分から話し掛けて父が聞く体勢を取る、お互いに自発的に歩み寄らねば。さり気ない潤滑油、仲裁や仲立ちを買って出る役割が居ないのだからして。
「時枝芹那 (ときえだ・せな)先輩、二年生なんだけど」
「うんうん」
「抽象画を描いてて、色んな方面から注目を浴びてるんだ。
見た目だけならすんごい美少女で天使みたいなんだけど、性格がこう……」
「い、意地悪な方なの!?」
時枝先輩の人物像について、上手い表現が思い浮かばず言葉を濁すと、父は心配げに言葉を挟んできた。お父さんの中で、時枝先輩の想像図がどんな感じになっているのかが気になる。
「いや、結構面倒見が良いし、さり気なく後輩を気遣うし、すっごく優しい……とは言えないかもだけど、尊敬出来る先輩だよ」
「そ、そうなんだ。良かった。美鈴が学校で苛められてたりしたら……って、お父さん一瞬不安になっちゃったよ」
ははは、と笑い声を上げるお父さんに私も笑い返して、それ以上の言明は避けた。
ま、私はクラスではかなり浮いてる自覚がある。友人のアイ共々、クラスに幾つかあるグループとは余計な摩擦が生じない程度に、ほどほどの距離感でもって接している。女子中学生の群れって、空気を読んで出しゃばらず遅れず行動を合わせるのはかなり大変なんだよ、お父さん……
「そうか、土曜日に部活の先輩と個展か……よし、お父さんに任せておきなさい!」
お父さんは気を取り直したのか、笑顔でそう請け負って食事を再開した。
……任せるって、いったい何を?
謎の張り切りを見せる父と夕食を済ませると、父を風呂場へとせき立て、私は使った食器を洗って片付けてから二階の自室に戻った。ドアを開くと、暗い室内で充電器に差したスマホがチカチカと点滅している。私はドア脇に設置されている電気のスイッチを点けて、机の上のスマホを取り上げるとベッドに腰を下ろした。
椿にーちゃんからのメール返信がきていたので、心の準備を整えてから開封した。
『title:日曜日どこ行きたい?
本文:さあミィちゃん、心優しいお兄ちゃんが楽しいスポットへエスコートしてあげよう。次のうちから選んでね。
いちばーん、王道定番・遊園地!
にばんっ、スィーツに・ウィンドウショッピング&映画館~。
さんばん、けっこうアクティブ・中部国際空港セントレア。
よんば~ん、と・き・め・き・恋の○○○。
さあ、お好きなところをプッシュ!』
……あのあんちゃんのキャラ性を、私は軽く見ていたのだろうか。何だろう、せっかく精神的な衝撃に備えていたというのに、メール文を読んでいたら耐えきれずに思わずベッドへ倒れ込んでしまっていた。四番辺りのハートマーク乱舞や、『恋の○○○』とかいうスポットは、やぱりノらねばならぬネタ振りなのだろうか。
『title:恋の○○○!?
本文:わ~い、何だか楽しそうなスポットがいっぱいですにゃん。
ミィはセントレアに行ってみたいにゃ~と前から思ってたんだケド、でも恋の○○○っていったいどんなところー!?
ぜひぜひ、詳細をぷりーずにゃん』
ガリゴリと、自分の中の何かが削られていく感覚を覚えながらも、私は対・椿にーちゃん用痛々しいメールキャラ『にゃんっ娘』な文面で返信を綴り、ハートマークはもちろんのこと、絵文字でデコデコと飾り立てて送信。ここまできてこちらだけがこのキャラ性を取り止めたら、私は椿にーちゃんとの羞恥心対決に負けてしまうような気がする。向こうはそんな勝負をしているつもりは無いかもだけど。
そして今夜も椿にーちゃんは、「スマホ持ち歩いてたんかい」と、思わずツッコミ入れたくなるようなレスポンスでメールを返してくる。
『title:ふっふっふ……
本文:恋の○○○というのはね、知る人ぞ知る、愛知県の名所なのだよミィ君。
その名も恋の水神社! 万病に効き、延命すると言われる「恋の水」が湧く泉がある神社だよ。その水で一番効果があるのが恋の病って言うw
ま、何でそんなところへミィちゃんに行ってみようか、って聞いてるかって言うと、単純に俺が一人で足を運ぶのがハズいからwwww
男一人で行けるスポットじゃなさそうでしょ?w』
椿にーちゃん、もう神頼みとかしたいぐらいぐらい、皐月さんからの反応薄い感じなのか? だからって恋愛運上がる神社に足を運ぶとか、意外だなあ。……あー、それともこれも、『中学女子の私が』興味持ちそうなスポットだからネタ出ししてきた感じ?
私はベッドに転がったまま、返信に頭を捻る。
『title:をを……
本文:そんな霊験あらたかな神社があるなら、恋に恋する乙女として行かねばなるまいにゃんっ!
椿にーちゃん、ミィを恋の水神社に連れてってにゃw』
言い出しっぺはきっと、単なる冗談だったと思うのだが。私は是非ともその場所へと赴き、何としてでも椿にーちゃんが皐月さんへ抱く恋の病を、有り難い神水の御力をもってして平癒して頂かねばならない。
『title:おおっ?
本文:ミィちゃんさん、予想以上の食い付きっぷりですな。さては誰か、気になる男の子でもいるとみた!w
よしよし、日曜日の案内はこの椿お兄ちゃんに、ドーンと泥船に乗ったつもりで任せんしゃいwww』
……泥船。何この、あからさまなまでの誘い受け。私はこんな、わざとらしいまでに稚拙な誘惑には乗らない! 毅然としてスルーだ!
『title:きゃーっ!
本文:椿にーちゃんス・テ・キ。
日曜日、楽しみにしてますにゃん』
最後の簡単な一文には、敢えて音読すると『クスクスw』という笑い声が付きそうな顔文字を飾って差し上げた。私のツッコミはお安くなくってよ。
かつて、恋の水を求めた藤原仲興はこんなうたを残したらしい。「尾張なる野間の知らぬ沢踏みわけて 君が恋しき水を汲むかな」
という訳で、半ばその場のノリと勢いで、日曜日は椿にーちゃんと神社に参拝計画が立ち上がった。恋の病を癒やすのだ。ついでにうちの中年用に、アレにも効く薬になるかもしれない神水を頂いてくるのだ!
……でも遊園地の方が純粋に楽しそう、とかそんな一抹の不安がふと私の脳裏を過ぎったのは、にーちゃんには内緒だ。
土曜日の朝、私は時枝先輩との待ち合わせに備えて早めに起床し、念入りに身支度を整えていた。
昨夜からクローゼットの中身を全てひっくり返して、ああでもないこうでもないと厳選したコーディネート。淡い薄桃色のひざ下丈ワンピースに、足の甲の部分に留め具が付いている白いサンダル、手にするバックも薄桃色。アクセサリーの類いは一つだけ、お花モチーフのペンダント。
清楚な雰囲気を出しつつ、スカートと半袖部分に、さり気ない透け感のある素材が使われている。文句の付けようも無いセレクト。
髪の毛は入念に櫛を入れて艶を出す。上方の髪を両側面から後頭部にかけて纏め、後ろで一つに留めるお嬢様結びを学校では通しているが、休日なのだから異なる髪型である方が自然だろう、うん。
私は鏡台の前で一つ頷き、髪の一部を白いリボンで左右それぞれ束ねた。いわゆるツーサイドアップだ。
立ち上がって数歩下がり、鏡に全体像を映し出してクルリと回転してみる。ヨレ、皺、無し。髪型の左右片寄り無し。ワンピースのバックリボン、可愛く綺麗にバランス良く結ばれている。
綺麗にアイロンを当てたハンカチ良し、ティッシュ良し、お財布と携帯良し。
「うん、問題は無いよね」
出陣の用意が万端整った事を確かめ、私はおもむろに頷いた。
階段を下り、キッチンに居る休日の父に出掛ける旨を告げると、パジャマ姿なお父さんはにっこりと微笑んだ。
「おはよう、お弁当の用意はちゃんと出来てるよ、美鈴!」
「は?」
いそいそと、お弁当が入っていると思しきデカい手提げ包みと、中身謎の水筒を持ち出してきた中年は、笑顔でそれらを私の手に押し付けてくる。
「どうしたの美鈴? 土曜日の先輩とのお出掛けについては、お父さんに任せておけって言ったでしょう?」
「いや、それが普通、お弁当製作には結び付かないから」
私はまた、てっきり駅までの送り迎えでもしてくれるのかと思っていたよ。
そんな娘の心の声など当然届くハズもなく、自宅の玄関先でパジャマ中年に笑顔で見送られ、先輩との待ち合わせ場所である駅に向かって徒歩で歩き出したのである。お父さんはいったいどれだけ張り切ってお弁当の中身を用意したのか、一歩足を進めるごとに両手で持つお弁当箱が入ってるらしき包みと水筒が重量を増してゆく気がする。
……うちの中年の空回りする気遣いと一風変わった愛情が重たいんですがどうしたら良いのでしょう。
でも、お弁当持参したら時枝先輩喜んでくれるかしら?
待ち合わせ時間にはかなり余裕を持って出発したハズが、駅に辿り着いた頃には約束の時間五分前にまで差し掛かっていた。
時枝先輩の姿を探して周囲をきょときょとと見回す私の背中に、「あーっ、葉山さんこっちこっち!」という明るい声が掛けられたのだった。
「あ、こんにちは先輩……」
声を掛けてきたのは同じ美術部の先輩女子で、例の時枝先輩の毒舌を潜り抜けて部活動を楽しんでいる人。時枝先輩のファンの一人でもある。
こんなところで会うなんて奇遇ですね、と続けようとした私は、振り向いた先の光景に声を失った。
「葉山、おはよう」
同じ美術部の華やかな私服姿の女子生徒達に囲まれ、ややウンザリした表情の時枝先輩が、私に目を留めて挨拶を寄越してくる。私は口の中でなんとか「おはようございます……」と、返事を返すので精一杯だった。
「葉山到着、と。んーと、今日参加予定者はこれで全員だな」
「そうですね部長」
何やらメモ帳を捲って周囲の部員、時枝先輩と私を含む九名を見回した美術部部長は、メモをポケットにしまった。
「じゃ、予定時間より少し早いが、ホームに移動するか。
フラフラはぐれるのは勝手だが、その場合は容赦なく置いてくからそのつもりで」
どうして私と時枝先輩の待ち合わせ場所であるこの場に美術部の部員の方々が居て、サッサと歩き出した部長の後を当然のように時枝先輩がついて行くのか。
何が何だかサッパリ分からないまま、部員の先輩達と一緒に各自が手持ちのSuicaやら名鉄manacaでスムーズに改札を通過し、私は金谷駅に向かう名鉄常滑・河和線の電車の座席ににちょこなんと腰を下ろしていた。休日の車内はほどほどに空いている。
「顧問は『マイペースなあいつらが、マトモに団体行動なんかとる訳無い』とか言ってたけど、声掛けてみたら結構集まったな、葉山」
座席脇のポールに掴まりつつ、時枝先輩が私に明るく話し掛けてくる。先輩達も、当然のように時枝先輩のそばにに立っている。そうですね、時枝先輩が座席に座ったら、その左右の座席は熾烈な争いが勃発しますもんね。座れませんよね。
「そ、う……です、ね、時枝先輩。
私はまさか、部長がわざわざ郊外学習で仕切られるとは、予想外でしたけど」
「ああん?」
想定外の事態に思考が停止したまま、真っ正直な意見がポロッと口から零れ出て、私の正面の座席に腰掛けていた部長から不機嫌そうに睨み付けられてしまった。
「俺だって好き好んで、自分から引率なんざやるわきゃねえだろ」
ドカッと背もたれに体重を預け、部長は足を組んだ。
「顧問の横暴だあのクソアマ……!」
「なんでも、部長は顧問から強権を発動されたらしいから、つつかない方が良いぞ」
不愉快さを隠しもせずに吐き捨てる部長の姿に、時枝先輩は小声で忠告してきた。自分の受け持つ部活動の部長にたいして強権なんか持っていたのか、あの先生。まさか、美術の成績の事じゃないよな?
ところで。私の方が先に、ポール脇の座席に座っているところに時枝先輩が近寄って話し掛けてきたのですから、羨ましそうな目で見ないで下さい先輩方。申し出があればこの座席ぐらい譲って、私は部長の隣に移動しますから。無言の訴えは止めて下さい。
ガタゴトと小さく揺れる電車内で、今日も女子部員に囲まれている時枝先輩をぼんやりと見上げる。
……全く、知らされてなかったけど。日時の意見を求められて、私の意向で待ち合わせ場所や時間が本決まりになってたから、思いもよらなかったけど。
つまり時枝先輩は始めっから、私と二人で個展に出掛けるつもりなんか欠片も無くて、部員皆に一緒に行こうと声を掛けていたんだろう。
ちょっと落ち着いて考えてみれば、それはそうだ。当然だ。だって、時枝先輩がわざわざ私と二人きりでお出掛けなんか、したがる理由なんて一つも無いんだから。
今日の服装を見下ろして、途端に猛烈な気恥ずかしさに襲われた。『自分でもちゃんと分かってる』とか、『デートなんかじゃないし』とか、自分で自分に弁解してたけど。
でも私、思いっきりたっぷり期待して気合い入れまくって、時枝先輩によく見られたいとか心の片隅では考えてて精一杯お洒落して……な、なんて痛々しい自意識過剰!
イヤー! 穴があったら入りたいー!
内心では悶えている私の事なんか、当たり前だが全く頓着せず、電車はすぐに目的地の駅に私達美術部部員を運んだのである……
電車に揺られてやって参りました、名古屋市は熱田区金山駅。本日訪れた大都会(?) での個展会場は、美術館内で開催。まあ少なくとも、地元よりはこっちの方が都会か。
チラリと時枝先輩の方に目をやってみれば、相変わらず女子の先輩達に取り巻かれているお姿。私はトボトボと部長の後をついて行き、顧問の先生が事前に買ったのか、預かっていた前売り券チケットを提出して、丁度開館したばかりとなる午前中の美術館内へと足を踏み入れる。
美術館の中というものは、物言わぬ美術品がそれぞれ特有の迫力やオーラを発しながらも、静謐な空気に包まれていると私は思う。
今の時期に開催されている個展は四階のギャラリーに展示されているが、まあマイペースな美術部部員のこと。館内でまで集団行動を強制出来る訳も無く、結局、昼過ぎまで各自思い思いの場所を自由に見て回る流れになったのは、やはりというか何というか。
そしてやっぱり、時枝先輩が歩く周囲を陣取る女性先輩方の集団。皆さんは美術館の作品よりも、目の前の生きてる芸術品の方が興味深いんですねわかります。
私は特に目当ての作品がある訳でも無いので、ぶらぶらと気が向くまま足を運ぶ。
「葉山」
花瓶に生けられた花の絵をジーッと眺めていた私の背に、時枝先輩の潜められた声が掛けられた。振り向くと、先輩方の「少しは遠慮しましょうね?」と言いたげでシビアな眼差しが我が身に突き刺さる。
「何でしょう、先輩」
私も声のトーンを落として返事をしながら、今日という日を楽しみにしてワクワクしていた気持ちが、徐々に萎んでいくのを感じていた。時枝先輩は、決して何も悪くはないというのに。
「ああ、やっぱり。お前は花の絵で足を止めると思った」
「個人の好みや趣味で、目がいっちゃうんだから仕方がないじゃないですか」
素通りする気にはならなかったのは事実だが、時枝先輩に『分かり易い』とか言われてしまうと、先ほどからの謎の鬱屈とした感覚も伴って反発心が沸き上がってくる。
即座に言い返した私に、時枝先輩は僅かに目を見開いた。
「葉山、お前もしかしてちょっと機嫌悪い?」
「……いえ、先輩から『葉山は単純だ』って、からかわれたみたいな気分になっちゃっただけです」
「別にバカにしたつもりはねえけど……この花の絵、綺麗だな」
怒っているのではなく単に子どもっぽく拗ねた、という態度をみせると、時枝先輩は自分も花の絵が好きだとさり気ない主張を試みたのか、展示作品に目をやってから微笑みかけてきた。
「時枝君、ここはもう充分でしょう。あっちの彫刻を見に行きましょ?」
「は? おい、ちょっ」
と、時枝先輩の取り巻きさんは先輩が私と話してばかりで不愉快になったのか、やや強引に時枝先輩の背中を押して移動を始めた。
……はあ、何かもう。うちの中年が朝も早よから山ほど作ったお弁当が、さっきから無駄に重い。このままここに居るのはなんか気が乗らないし、先に四階を見てこようかな。
私は館内エレベーターを使って四階のギャラリーに移動した。ここで本日開かれている個展は、海外アーティストの写真作品だ。
私には、プロのカメラマンの芸術作品と、アーティスティックな写真芸術作品の違いが、今ひとつ分からない……だが、我々美術部部員が顧問の先生から提出を命ぜられたレポートのテーマは、この美術館全域の作品ではなく、この個展である。
とにかく、一枚一枚大きな写真を真剣に眺めながら通路を歩いていると、我らの部長が一枚の写真を熱心に見つめているのを見掛けた。
「部長?」
「ああ、葉山か」
付近に利用者の姿は見えないが、私が努めて小さな声で話し掛けると、部長は写真から目線を逸らさぬまま私の名を呟いた。
部長がひたすら凝視している写真は、何の変哲も無いごく日常の風景を何気なくカメラに収めました、としか言いようが無い、家の廊下から僅かに開いた玄関を映した写真だ。庭か何かだろう外の緑が、玄関の隙間から少し覗いている。多分海外の家屋なのだろう、日本でお馴染みのたたきが無い。
この個展の主の写真は、一見してこういった『単なる○○』にしか見えない作品ばかりで、そこからメッセージ性を汲み取るには、私ではまだまだ修行が足りないようだ。
「いや、何とも深い写真だと思ってな」
「……この写真が、ですか?」
私の目には無人の玄関先にしか見えず、それ以上でもそれ以下でもない。
「例えば、玄関扉。これを何らかの心の封じだと取ると、それがこの写真では僅かに開かれている。
だが、この扉を開く者の姿が見受けられない点から察するに、緑成す外側で、今まさに誰かが扉を開け放とうとしているのか。それとも逆に閉じ込めようとしているのか。
それが俺には分からない」
私は部長が何を言っているのかが分かりません。
この人もやっぱり、エキセントリックでマイペースな美術部部員だったんだな……
思い思いに美術館での時間を過ごし、お昼時。一階ホールに集まった部員達は、朝には十名だった参加者は、いつの間にか七名になっていた。皆、本当に自由過ぎる。
部長の隣でメンバーが集まるのを待っていた私に、時枝先輩が傍らにやってきて、またしても声を掛けてきた。私が本日唯一参加した一年生であるからか、どーしても先輩風を吹かせたいらしい。
「葉山、ちゃんと館内は見れたか?」
「はい」
「パンフレットはちゃんと貰ったか? レポート書くのにあった方が良いからな」
「はい」
「忘れ物は無いな?」
「大丈夫です」
「よし」
時枝先輩は私の返答に満足げに頷く。はて、私は先輩からどこまで危なっかしいと思われているのかなぁ?
「じゃあお前ら、もう面倒だから今日はここで解散! ほれ散れシッシッ」
既に帰宅している部員がいた事が、部長の嫌気を加速度的に煽ったようで、ぞんざいに本日の集まりを締め括った。
部長による解散の合図を受け、女子の先輩方が飽きずに時枝先輩を取り囲む。
「時枝君、お昼食べに行かない?」
「そうだよ、せっかくだからあたし達と一緒に食べようよ!」
「わたし、この近くにある美味しいお店知ってるよ」
「いや、あのな……」
凄い人気だなあ……私は時枝先輩のお困りの姿を横目に、お弁当が入った袋の紐をぎゅっと握り締めて、先輩達の背中に頭を下げた。
「それでは先輩方、今日は私はこれで失礼します」
「あら、葉山さんも一緒にお昼どお?」
「いえ、有り難いお誘いですが、せっかくなので午後は足を延ばして公園でスケッチしようと思って、お弁当作ってきましたから」
「そう、それじゃまた学校で」
「はい、お先に失礼します」
お義理でお誘いして下さった先輩は、全く残念ではなさそうな表情であっさりと私を解放して下さった。ま、そりゃそうだ。
駅に向かって足早に歩を進めつつ、私はひっそりとため息を吐いた。このままお弁当に手をつけずに家に帰ったら、せっかく早朝から早起きして用意してくれたお父さんが、がっかりしてしまうかもしれない。
一人でどこかで食べきれる量だと良いのだが、この腕にずっしりとくるお弁当の重さからいって、相当量がありそうだ。
「……居た、葉山!」
駅のホームのベンチで電車が来るのを待っていると、どこからか時枝先輩の声がした。キョロキョロと周囲を見渡せば、こちらに駆け寄ってくる時枝先輩の姿。
私の傍らで立ち止まった時枝先輩は、かなりの距離を走破したのか膝に両手をついて背を丸め、ゼーハーゼーハーと荒い呼吸を繰り返している。……我々は所詮、文化部のもやしですもんね……
「時枝先輩、皆さんとお昼ご飯に行かなくてよろしいのですか?」
「お前な、それイヤミか?
オレは今月金欠だって、ついこの間言っただろうが」
「あー……」
そういや、この前お昼休みにお腹空かしてヘロヘロしてたっけ。
「あの女子連中のランチとやらに付き合わされてみろ!
当然の顔して『時枝く~ん、男の子なんだから、女の子にデザートぐらい奢ってくれるよねー?』とか、面白半分に言ってくるに決まってる!」
「時枝先輩、美術部女子と過去に何があったんですか」
ホームの線路を睨み付けつつ、時枝先輩は力強く言い切った。実話? 過去に体験した実話なの?
「何とかあいつらを振り切ったら、もう葉山は影も形も見えねえし。マジで焦った……」
「ええと?」
私、午後に時枝先輩と何かする約束なんかしてたっけ?
……あ! 分かった!
「ははん。さては時枝先輩、私がお弁当を持参してきたので、朝から目を付けていたんですね?
良いですよ、たくさんあるので一緒に食べましょう」
どうも、今日は時枝先輩取り巻きに囲まれながらなのに、何度も私にからんで来ると思ってたんだ。きっと、『お弁当分けて』って言い出しにくかったに違いない。
私が自分からお昼に誘うと、時枝先輩はぽかんと口を開いて私を見返してきた。何だ、そんなに要求が簡単に見抜かれたのが意外ですか先輩。ふふん、つい先日の腹減り時枝先輩のお姿、私もしっかり思い出しましたからね。お任せ下さい。
「いや、だからオレは女子に飯たかるとかは……」
「良いです良いです。時枝先輩が空腹のあまり眩暈を起こして、ホームから転落したら大惨事です」
「聞けよ!」
「ええ、時枝先輩の心の声をしっかり聞いております」
はっきりと首肯する私に、時枝先輩は綺麗な髪をかき上げ、不満げにふぅぅぅと、長い吐息を漏らした。ふむ、流石ツンデレはコミュニケーションも一筋縄ではいかない。
「……もう、それで良いから。
葉山、この後時間あるなら、せっかく金山まできたんだし、ついでに幻の像でも見て来ねえ? 昼飯は白鳥庭園で食ってさ」
「幻の……像ですか?」
果たしてそれはいったい何であろうかと、小首を傾げる私に、時枝先輩は気持ち胸を張った。この人、本当に先輩風吹かせて知識や知恵をひけらかすのお好きだなぁ。
「はい、見てみたいです」
時枝先輩が言う『幻の像』、それが何かなんて事はさしたる問題ではない。それよりもこの人が楽しそうにしている事が、私は何だか嬉しくなってくるのだ。
笑顔や得意気な表情がことのほかお似合いになるだとか、美人はやはり非常にお得である。
金山から一駅分を電車に揺られ、時枝先輩と並んでのんびり歩くこと数分。白鳥公園が見えてきた。
恐らくこの場所は、コンサートホールたるセンチュリーホールとしての顔や知名度が一番高いかもしれない。いや、国際会議場なんだけど。年若い一般市民にとってはコンサートの方が、先にパッと頭に思い付く。
さて、そんな噂の名古屋国際会議場、その中庭。建物の手前に、その像はドーンと立っていた。台座の上で馬に乗っている軍人。その右手に握っているのは……馬を走らせる鞭か、武器なのか? 何の素材を使用しているのかは知らないが、真っ白で綺麗でさえある。
最初に視認した時の感想は、こんな感じだ。そして、一歩一歩近付いていく毎に湧き上がる違和感。……何かあの像、やたらとデカくありませんか?
「実物見たのは初めてだけど、流石に迫力あるなー」
「躍動感たっぷりの騎馬像ですね」
像の真下から見上げると……目算で高さ10m近くはあるのではないか? 時枝先輩と並んで、思わず口ポカーンだ。
熱心に観察しながら説明して下さる時枝先輩の解説を要約すると、この騎馬像はかの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの幻の未完成作品、スフォルツァ騎馬像……を、手稿やデッサンを元に再現した像なのだそうだ。あの天才様は、時代のせいか未完成作品多いらしいですしね。
で、レオナルド・ダ・ヴィンチはこの作品をブロンズ製で製作するつもりだったのだが、復元にあたり重量を計算したら二本の馬の脚で自重を支えきれないので、白い繊維強化プラスチックを使っている、と。うん、左前脚と右後脚、上がってますもんね。今にも駆け出しそうですよ。
「流石レオナルド・ダ・ヴィンチ、細かいところまでしっかりデッサンしてる」
騎馬像を様々な角度から鑑賞し、時枝先輩は感心しきりだ。熱心にスマホで撮影とかしている。はい、時枝先輩。手稿から忠実に再現した人も、かなり凄いと思いまーす。
時枝先輩はまだまだ自分の目に、騎馬像の雄志を焼き付けていたかったらしいのだが、彼本人の腹の虫が盛大に騒ぎ出したせいで、中断を余儀なくされた。
移動したり何だかんだで時刻は午後一時をとうに過ぎ、二時に近い。
せっかくなので、庭園でお弁当を広げようと足を伸ばす。因みにこの白鳥庭園、中学生以下は入園料無料だ。ああ、だからただいま絶賛金欠中の時枝先輩が誘って下さったのか。
「うわあ……!」
五月の中頃、この時期では桜は望めないが……ツツジ、ハナモモにシャクナゲ。この庭園、どこを見ても飽きない!
北門から入ってきた私達は、一番近場でお弁当を広げられる四阿、浮見四阿でお昼ご飯となった。ランチの時間からはズレているせいか、時枝先輩と二人、ゆっくり場所を占領出来る。
中池に浮かぶ小さな島、そして庭園の緑。空の抜けるような蒼さが共に水面に映し出され、その素晴らしい景色が一望出来るそこは、お昼ご飯を食べるにはちょっと贅沢で、ステキな時間だ。
南の方には竹林や梅林があるらしいし、春の桜や秋の紅葉、冬の雪景色も素敵だったんだろうなあ……
「すげぇ、重箱ってどんだけ気合い入ってんだよ葉山。だがでかした!」
ぽけーっと、四阿から見渡せる、次第に来る夏に染まりつつある庭園の風景に意識を取られながらお弁当を並べると、花より団子な時枝先輩が歓声を上げた。うちの中年が気合い入れて力を入れる場所は、大抵が常人の斜め上である。
私は時枝先輩にウェットティッシュと、取り皿と箸をまず手渡し、「お好きな物をどうぞ」と勧めてから、水筒からカップにお茶を注いで傍らに進呈しておいた。
「さんきゅ。じゃ、いただきます」
「いただきます」
両手を合わせて唱和し、時枝先輩はまず山ほど詰め込まれたおかずの中から、何故だか煮物の椎茸を真っ先に箸で挟んで取り上げた。一口で運び込むと、時枝先輩は目を見開き、次いで熱心に咀嚼し始める。
「うっ、うっまー!?
なんだこれすっげー美味いぞ葉山! オレ、椎茸がめちゃくちゃ美味いとか思ったの、初めてなんだけど!」
「そうですね、私もこの煮物は我が家の料理の中で、一番お勧めだと思います」
添え物的に入っている干し椎茸ではなく、お父さんの本気たる渾身の煮物、噛めば噛むほど口の中に出汁が溢れ出てくる、肉厚な椎茸こそが主役の旨味たっぷり和食。私もコレは好物だ。どうやら、時枝先輩の口にも合ったらしい。
続いて時枝先輩は、卵焼きにも箸を伸ばした。
「~~~っ!?」
どうやら時枝先輩は、咄嗟に声も出ないほど甘い味付けの卵焼きに翻弄されているらしい。人間、本当に美味しいと感じる物を食べた時は、夢中で噛み締めるものだ。
それにしても、と、私はお弁当に夢中になって凄い勢いで口に運んでいく時枝先輩から、手元のご飯が詰め込まれた一段を見下ろした。普通、重箱に詰めるお弁当って、複数人で食べるのが前提で、おむすび辺りを入れておくのが定番であろうに。
……父よ、だから貴方は何故に箱一面に白米を敷き詰めて、オレンジ色のシャケそぼろでハートマークとか描いているんですか!? そこはピンク系の何かにしろと、先日もツッコんだだろう!?
……まあ、私の嫌いなピンク色したでんぶを散らされるよりは、なんぼかマシだ。色合いも地味な茶色から、まだしも鮮やかなオレンジ色に変更しただけ、あの中年が秘めたる向上心の熱が、私にもジワジワと伝わってこない事も無い。
「葉山の母さん、料理上手なんだな」
ようやく飢餓状態一歩手前からは回復したのか、時枝先輩が嬉しそうに話し掛けてきた。
「ああ。このお弁当は私の母のお手製ではなくて……いわば愛父弁当です」
「……葉山お前、嫁が居るのか!?」
「は?」
時枝先輩がギョッとしてのけぞり、驚愕の叫びを上げる。何故私が嫁を貰わねばならないと言うのか。
「だって今、『ワイフ弁当』って……」
ワイフ……『wife』?
「いや、あいふ、です。
このお弁当作ったのは、私のお父さんなんですよ。なんか、知らない間に張り切ってたみたいで」
「へー。葉山の親父さんは料理人か何か?」
「いえ、普通のサラリーマンですよ。うちは父子家庭なので、私が小さい頃はお父さんもお料理に四苦八苦して、会得したようです」
私のサラリと明け透けに言い放った家庭事情に、時枝先輩は言いづらい事を聞いてしまったと思ったのか、慌てたように視線があちこちさ迷う。
「あー、ずけずけと踏み込んだ事聞いてすまん」
「いえ、別に大したことじゃありませんし」
「しっかし……」
時枝先輩は、取り皿の上に乗せたきんぴらをしばし眺めて、おもむろに箸で口に運んだ。じっくり味わうようにもぐもぐと咀嚼し、表情を綻ばせた。
「うん、優しい味だ。葉山は親父さんから、すっげー大事にされてんだな。
お前の為に、美味しいご飯作れるように頑張ってたとか……良い親父さんじゃん」
「はい」
面と向かって褒められると、流石に照れるな……などと、言葉少なく恥じらう私に構わず、時枝先輩は敷き詰められたご飯を、「流石愛父弁当。ハートマークって……」などと言いつつ、私が箸を伸ばした反対側の端っこから取り皿によそって、微笑ましげに口にする。
「正直、羨ましいな……」
時枝先輩のご両親は、うちの父とは全く異なるタイプの方々なのだろうか。まあ正直、うちの中年は世間一般様から見ても規格外だからさもありなん、だけども。
……だが、時枝先輩がうちの父のお弁当に舌鼓を打っているその姿……何だろう、この謎の焦りと首筋にチリチリと感じる危険を感知した感覚。時枝先輩は、うちの父の手料理を気に入って、娘を慈しむ姿勢を透かし見て羨んだ。
……そう言えば、すっかり忘れてたけど。時枝先輩の中には、うちの父・雅春と同じ女性へ恋い焦がれるが故の殺意が芽生える可能性があるのはもちろん、うちの中年を薔薇的な意味で慕う可能性の芽も、存在する……かもしれないのだった。
「葉山、お前もう満腹なの?」
「はい。絶対ご飯を詰め込み過ぎですよ、うちのお父さん」
「オレはまだまだ入るけど、お前少食なんだな」
「いや、私の食べる量が少ないのではなくて、単純に時枝先輩が成長期だからじゃないですか?」
うまーっ! と、大喜びをしている時枝先輩と、そのバックには整えられた和の美しい景色。
ちゅ、う、ね~~~んっ!? ちょっ、時枝先輩と顔を合わせた事すら皆無なクセに、お弁当だけで盛大に薔薇フラグ立てるとか、お父さんどんだけ危機感無いのよ!?
いや、時枝先輩がロクに交流も無いまま年上男性をオトしたり、好感抱く悪女っぷりを発揮するのは、今に始まった事じゃないけど! お父さんの方もきっと、人伝に聞く時枝先輩の心の内とか全くの想像不可領域だろうけど!
「昼飯食ったらさ、庭園の中回ろうぜ。ここ、良いスケッチがたくさん描けそうだ」
「先輩の絵の肥やしになるのなら、梅や滝も本望でしょう」
「人聞きの悪い事言うな」
……時枝先輩の描く絵はほら、抽象画だからねえ。きっと、凡人な私には思いもよらぬ和テイストをぶっこんでくるに違いない。
「しかし、静かで落ち着いてて……本当、綺麗だよな、ここ。
こうなると、秋の池も見てみたいな」
「はい、何より我々の年齢だと入園料タダなのが一番素晴らしいですね」
「真っ先にそれ挙げるのがさもしいぞ葉山。しかしオレも同意見だ」
時枝先輩は、ゆったりとお茶のカップを傾けながら僅かに微笑んだ。
「秋になったらまた、一緒に紅葉を見に来ような」
「はい、ぜひ」
どうやら、秋になったらまた美術部の皆で校外学習にここへスケッチに来ようと、時枝先輩はお出掛け計画を目論んでいるらしい。あのマイペースな部員の皆さんも、きっとまた時枝先輩が声掛けまくれば、集まってくれますよね。その時には、顧問の先生もご一緒してくれると良いなぁ。
清涼なそよ風に吹かれ、四阿で静かな景色に包まれ穏やかに緑茶を味わう私と時枝先輩……って、何だかこれ縁側で茶を啜る茶飲み友達な老人同士にも似た、侘び寂にも通ずる空気を感じるのは、私の気のせいか?