転生したら箱の中に詰められた公爵令嬢でした
目が覚めると、高い天井の窓が見え、そこから外の光が入りこんでいた。
小さなベッドから身を起こそうとするが、ひどく体が衰弱しているようで、腕に力がなかなか入らなかった。
それでも何とか身を起こして周りを見回すと、そこは6畳ほどの部屋で、机や椅子も置かれている。けれど、私にはこの部屋にまったく見覚えがない。
それに加えて、私はある違和感を覚えた。
——ドアがない。
何なの、この部屋は? 私はどこにいるの?
必死に記憶を探る。確か、私は会社で残業して遅くなって電車を待っていたときに、駅のホームで少しふらついてしまって……。
まさか……。電車に轢かれて……。
自分の体を見ると、身につけていたのは見慣れないドレスのような服だった。
私は机に近づき、そこに置かれていた鏡を見た。
——私じゃない……。誰なの? でも……きれいね。
そこに映っていたのは、波打つ金髪に青い瞳をした、まるで物語に出てくるような貴族令嬢のような少女だった。
まさか……転生したの?
けれど、そうすると気になるのはこの部屋だ。
貴族令嬢には憧れていたから、少し心が躍ったのだけれど、貴族令嬢の部屋にしては手狭すぎる気がする。そして何より、扉が見当たらないのが気になる。
天井を見て、ベッドの下も見たが、やはり出入り口らしきものは見当たらない。
私は焦り始めていた。
もしここに閉じ込められたままであれば、私はこのまま死ぬのを待つだけではないのか……。転生したばかりなのに理不尽な……。
「……スタ様!」
と、部屋の外から声がした。
誰かの名を呼ぶような……。
「……ネスタ様!」
その声で、わずかにこの体の主の記憶が蘇る。
私の名前は……エルネスタ・リーベル。公爵家の長女だ。
それ以外は……?
なぜ私はこの箱にいたのだろう……? 箱の中にいること自体に違和感はない気がするのだけれど……。
ちょっと待って……。「箱」? 私はこの部屋をなぜ、「部屋」ではなく「箱」と思ったの?
「どなたですか?」
私は声を出した。透き通るような、美しい声だった。
けれど返答はない。私の声が聞こえないのだろうか?
私はまた部屋の中を歩き回り、見まわした。
この部屋が完全に密閉されているのであれば、私はすでに死んでいるはずだ。少なくとも通気口はあるだろうし、食事や水を中に入れるための配膳口があるはず。
そもそも、私はどうやってこの部屋の中に入ったというの?
すると、机の横の低い位置にある、鉄製の蓋のようなものが目に入った。
直感的に、配膳口だと思った。
身を屈めてその蓋を開けると、少しだけれど、外が見えた。
木が生い茂っている。
……森? あるいは庭だろうか。
「エルネスタ様!」
蓋を開けたことで、外からの音もはっきりと聞こえた。
その配膳口に向けて、私は力いっぱい叫んだ。
「どなたですかー!?」
すると、それに応じるように答えが返ってきた。
「僕は……ローゼンハイム家の者です。エルネスタ様、ご無事でしたか……。よかった」
……ローゼンハイム。
その名前に私は胸のざらつきを感じ、私は言葉を詰まらせた。
それは必ずしも心地よい気持ちではなかった。
左手の薬指にはめられた指輪に、指を締め付けられた気がした。
私はローゼンハイム王国の、リーベル公爵家の令嬢だ。そして……私は王太子殿下と婚約しているはずだった。
そして、私のこの胸のざらつきは、その王太子に由来するはず……。
ああ……そうだ……。
ここは、部屋ではなく、「箱」だ。
私は……エルネスタ・リーベルは、幼い頃にこの箱に閉じ込められた。
そして、それはローゼンハイム家——王家からの命令だった。
お父様のリーベル公爵は、エルネスタがまだ幼いにもかかわらず、王家の、まだ子どもだった王太子殿下との婚約を決めた。
王家はその条件として、エルネスタが他の男性と接触しないよう、結婚ができる年齢まで決して出ることのできない「箱」に閉じ込めるように命じた。
それは、純潔を守るだけではなく、王家に相応しくない邪な考えを持たせないためだった。
箱に入る前、幼い指に王家の紋章が刻まれた婚約指輪をはめられ、決して抜くなと言われた。体の成長とともに、気づくと指輪は関節を越えなくなり、もう抜くこともできそうになかった。
箱に入れられるその日、床と家具が配置されただけのところに置かれ、次第に箱が組み上げられていくときの恐怖は、ずっとエルネスタの記憶に残っていた。
出入り口などない。ここは部屋ではなく、「箱」として作られたのだから。
配膳口から届けられる書物などは、王家の歴史やその崇高さを讃えるものばかりで、配膳口から語りかけてくる教師たちも、やはり王家のすばらしさと国王陛下の偉大さを伝えるばかりだった。
——まるで洗脳じゃないの……。
教師以外には、エルネスタは王太子殿下としか話すことを許されなかった。
この王太子殿下に、エルネスタは複雑な感情を持っていた。
王太子殿下は、ときに優しく、「こんなところに押し込められて、かわいそうだ。早く出してあげたい」と声をかけてくださることもあれば、ときに「おまえは俺の奴隷だということを忘れるな」と脅すような態度もとった。
エルネスタのほうも、淡い恋心を抱いているような思い出もあれば、ひどい嫌悪と恐怖の思い出もあった。
——王太子って二重人格なのかしら?
王太子殿下のほうは、もちろんどこかに閉じ込められることなどなく、自由に生活していた。
エルネスタは他の男性と接触をすることはなかったのだけれど、王太子殿下はそうではない。
やがて、王太子殿下に恋人ができた。そしてわざわざ箱の中のエルネスタにまで、その報告に来た。
「箱の中にいて、顔もわからないおまえとは違う。リリアナは可愛いぞ。俺は彼女とずっと一緒にいたいと思っている」
リリアナ……リリアナ・ベルクマン男爵令嬢だ。
——エルネスタという婚約者がいながら、他に恋人を作るとはどういうことなのだろう……。それに、男爵令嬢という身分でありながら、王太子殿下を籠絡するとは、リリアナはよほどうまく取り入ったのね……。
「それは……リリアナ様を王太子妃にされるということですか?」
エルネスタは王太子殿下に尋ねた。
「……そうなるかもしれんなぁ」
王太子殿下がそう答えると、クスクスと笑う声が聞こえた。女性の笑い声だった。
きっとリリアナもそこに、王太子殿下と一緒にいたのだろう。
「私との婚約を破棄するのであれば、ここから出していただけるのですか?」
エルネスタは屈辱を堪えながら、なおも尋ねた。
「そうは言っても、俺との婚姻の日まで出すなと言われているからな……。婚約を破棄したら婚姻の日は永遠に来ないから……おまえは一生この箱から出られないな」
王太子殿下が言うと、女の笑い声がいっそう大きくなった。
王家と公爵家の勝手な都合で、十年もの間、エルネスタはこの箱に閉じ込められていて、その結末がこれではあんまりではないか……。
私はエルネスタに……今は自分自身でもあるのだけれど、とても同情した。
きっと、ついにエルネスタの人格は崩壊し、転生した私がこの体に入り込む余地ができてしまったのだろう。
エルネスタは思い出したくもないだろうが、忘れられるはずもない……。その王太子殿下の名は……アルフォンス・ローゼンハイム。
箱にやってきたローゼンハイムを名乗る男の声は、アルフォンス殿下の声と酷似していた。
けれど、それならなぜアルフォンスと名乗らず、「ローゼンハイム」を名乗るのだろう。
ふと音がしたので、天井を見上げると、男が部屋の中を覗き込んでいた。
私は恐怖に心臓が止まりそうになった。
その男の顔には、十年前、エルネスタが箱に入れられる前に見たアルフォンス殿下の面影があった。
※
男は私の姿を認めると、「どけ」というように手を動かした。
私が天井からの光も届かない、部屋の隅に移動した。
すると、「ガンっ、ガンっ」とガラス窓を叩く音がした。
私は恐怖に体を縮こまらせた。
間もなく、天井からガラス片が落ちてきた。
見ると、男は窓枠の周りに残った破片も叩き落として除去していた。
男がその天井窓から侵入しようとしていることに気づき、私の恐怖と緊張感は最高潮に達した。
私が考えていた最悪のシナリオ——それは、エルネスタの無事を確認したアルフォンス殿下が、リリアナと婚約するために、エルネスタを殺害しようとすることだった。
衰弱し、非力なこの体で、男性の力に敵うはずがない。相手はおそらく武器も持っているだろう……。
そこに、天井から、縄梯子とロープが垂れてきた。
来る……と思った次の瞬間、男は梯子をすばやく降りて中に侵入してきた。
その男は腰に剣を下げていた。
「エルネスタ様!」
そう言うと、男はベッドのシーツを引き剥がし、真っ二つに切り裂いた。
「ひっ!」
私は思わず悲鳴を上げた。
何なの、この人は……?
「アルフォンス殿下……? 何をされているのですか?」
「申し訳ないが、あまり時間がないのです。失礼ですが、手を上げてください」
「はっ?」
「早く!」
私は言われるがまま、手を上げた。
まるで警察に逮捕されるかのような気分だった。
「失礼します」
そう言ったかと思うと、男は真っ二つに切り裂いたシーツを重ねて私の背中に回し、脇の下から通してきつく結んだ。きつすぎて痛かったが、怖くて文句の言葉も出ない。
そして私を連行するかのようにシーツごと引っ張った。
「こちらへ」
男は私を縛ったシーツを、天井窓からぶら下がったロープに繋げた。
自身はそのまま縄梯子を使って上がっていった。
「梯子を登って! 縄で補助しますから」
言われるがまま、縄梯子を上った。
衰弱した体で、自力で上るのは難しかったが、男に補助されながら必死に上った。
天井窓近くまで来ると、男が私の腕を取って引き上げた。
私の頭が窓から外に出たので、私は顔を上げた。
そこには、空が広がっていた。
天井窓から見える、四角く切り取られた小さな空ではない、広い空だった。
エルネスタが、この十年、ずっと憧れていた外の世界だった。
「すぐにここを離れます」
男が言った。
※
私は馬上で、馬を駆る男に抱えられるようになっていた。
男に何をされるのかわからない恐怖と、初めて疾走する馬に乗った恐怖に襲われていた。
何とか息を整え、声を絞り出す。
「……アルフォンス殿下、私を殺すのですか?」
自分でも驚くほど、心許なくか細い声で、馬蹄の足音にかき消されてしまったように感じた。
けれど、男から返ってきたのは想像もしなかった答えだった。
「ああ……あなたにとって、僕はまだアルフォンス……兄上でしたね」
「……兄上?」
「はい、僕はユリウス……王太子アルフォンスの弟です」
王太子の弟……ということは第二王子?
「実は、エルネスタ様とお話しするのはこれが初めてではありません。それどころか、何度もお話ししています」
「えっ?」
エルネスタの記憶に、「ユリウス」という人物はいない……。アルフォンス殿下は第二王子の存在を隠していたの?
「兄上があなたとの面会を面倒に思ったときに、兄上になりすましてあなたと話をしていたのです。兄弟で顔も似ていますし……顔は見えていなかったですね……。声も似ているので……。気づかなかったかもしれないですね」
私はそのときに察した。
アルフォンス殿下は二重人格などだったのではない。
実際に別々の二人の殿下が入れ替わっていたのだわ。
そして、きっとエルネスタが淡い恋心を抱いていたのも、ユリウス殿下のほうだったに違いない。
それは、エルネスタの箱の中の生活の中で、唯一と言っていい救いだった。
「あなたも仰るとおり、兄上はあなたを亡き者にしようとしておりました。それで、僕はあなたを助けにきました」
「……どういうことですか?」
「あなたのあの箱は、別の箱と入れ替えられたのです。兄上の手によって……」
私はエルネスタの記憶をたどる。
そうだ……。エルネスタは十六歳となり、婚姻の日を迎えようとしていた。
それで、王宮での婚姻に備えて、箱を移動していたのだ。
ところが、箱が移動を終えてから、配膳口から食事も水も渡されなくなり、エルネスタの体は衰弱していったのだ。
そこに私が転生して……。
「水を飲んでください」
そう言ってユリウス殿下が馬の速度を落とし、水筒を差し出してきた。
私はそれを受け取り、口に運んだ。
驚くほどおいしかった。
馬に揺られて水をこぼしながらも、必死に飲んだ。
「王家はリーベル公爵家の財産が欲しいので、エルネスタ様との婚約を破棄することができません。ですが、兄上は別の女性と結婚することを望んで……」
アルフォンス殿下が結婚したい相手……。
「リリアナ・ベルクマン……ですか?」
「はい。ご存じでしたか。兄上がリリアナと親しくしていたのは知っていたのですが、まさかこんなことをするとは思いませんでした。兄上はリリアナをエルネスタ様として、結婚するつもりなのです」
「私はここにおりますが……? リリアナ様が私に入れ替わるなんてことができるはずがないですわ」
私はそう主張したが、ユリウス殿下はそれを否定した。
「誰も、成長したエルネスタ様のお顔を知りません……。それがたまたまリリアナと似ている顔だったとして、訝しむ者はいるでしょうが、誰もそれがエルネスタ様でないと言い切れる者はいないのです」
「では……リリアナ様の人生はどうなるのです……?」
「リリアナは隣国に移り住んだことになっています。もう王国にリリアナはいないことになっています」
「僕は、この十年、箱を何度も見てきたので、王宮にやってきた箱が偽物だということにすぐ気づきました。その箱には、あるはずのない扉があったので……。それで、本物の箱を探すために箱の車輪の轍を追ったのですが、途中で箒か何かで消されていて……エルネスタ様の箱を見つけるのに時間がかかってしまいました。申し訳ありません」
ああ……エルネスタは、ただひとり誰も来ない森の中に箱ごと置き去りにされて、死を覚悟していて……そこで私に体が引き渡されたのね……。
「……いえ。ユリウス殿下。あなたのおかげで、エルネスタ……私は命を繋ぐことができたのです。感謝こそすれ、非難などできるはずもありません」
「そう言っていただけると救われます。けれど、王家の過ちはやはり謝罪しなければなりません。そして、その過ちを正さなければなりません。急がせてしまって申し訳ないのですが、僕が本物の箱を探していることを勘づかれて、追っ手に追われていまして……。それに、兄上が間違った婚姻を結ぶ前に、どうしても本物のエルネスタ様を王宮にお連れしなければならなかったのです」
ユリウス殿下に言われるまでもなく、私もアルフォンス殿下とリリアナへの怒りを覚えていた。
エルネスタの受けた、十年に及ぶ理不尽な苦痛を、無為な死で終えさせようとした彼らを許すことなどできるはずもない。
※
たどり着いた王宮は、華々しい雰囲気に包まれていた。
王宮の外にまで、美しい音色の音楽が漏れ聞こえてきた。
王宮の門番がユリウス殿下を目にすると、敬礼をして通した。馬上でユリウス殿下の前に抱えられた私を見て、少し訝しげな表情をしていたけれど。
王宮の敷地内を進むと、大きな広場に出た。そこには多くの人だかりができていた。
私たちは馬を降りた。
ユリウス殿下が人だかりをかき分け、私はその後ろについて進んだ。
やがて、広場の中央に置かれた大きな箱のところまでたどり着いた。
箱の横には、ユリウス殿下とそっくりな顔の男性が立っていた。
——アルフォンス殿下だ……。
確かにユリウス殿下と顔は似ていたが、私にはまったくの別人だとすぐにわかった。アルフォンス殿下には、ユリウス殿下がお持ちの柔和さがない。
「あの箱の中にリリアナが入っています」
ユリウス殿下が言った。
「ではこれより、王太子殿下結婚の儀を開始いたします。まずは、王太子妃となられるエルネスタ様のご登場です。王家への忠誠と純潔のため、十年間この箱の中で過ごしたリーベル公爵家の令嬢が、ついに外に出られます。アルフォンス殿下と結ばれるのです!」
進行役らしき男が興奮気味に宣言を行い、鍵を手に、施錠された箱の扉を開錠した。
扉からひとりの若い女性が出てきた。
華やかなドレスに身を包み、愛らしい姿の女性で、顔には満面の笑みを浮かべていた。
本物のエルネスタであれば、突然多くの人に囲まれて、気後れしたことだろう。
その女性は、エルネスタではなく、リリアナなのだ。
「お待ちください!」
ユリウス殿下が叫び、前に出た。
私もその後をついていく。
アルフォンス殿下が気づいた。
「何だ、ユリウス。祝辞を述べたいのか?」
「いいえ、兄上の……王家の横暴を止めに参りました」
そう言ってから、ユリウス殿下が観衆のほうに向いた。
「皆様、この女性はエルネスタ様ではございません。数日前にこの箱に入っただけの、リリアナ・ベルクマン男爵令嬢です!」
会場がざわついた。「確かにあの女性を見たことがある気がする」という声も聞こえてきた。
「そもそも、本物のエルネスタ様の箱に扉などついておりません。王家は絶対に箱から出られないように扉をつけなかったのですから」
ユリウス殿下が言葉を続けた。
「ユリウス、どういうつもりだ? この晴れの日に邪魔をするつもりか?」
アルフォンス殿下がユリウス殿下に詰め寄った。
「エルネスタ様は十年も箱の中に閉じ込められていたのです。その上で、兄上は箱の中でそのまま亡き者にしようとしたではないですか! そんな横暴は許せません」
「ユリウス、何を意味のわからないことを言っているのだ。これは正真正銘、エルネスタだ。俺の妻になる女だ」
「本物のエルネスタはこちらです。私が救出しました。兄上の好きにはさせません」
ユリウス殿下が、その背後にいた私を示した。
観衆は静まりかえった。
「誰だ、その小娘は? 誰かこの女を知っているか?」
アルフォンス殿下が観衆に問いかけた。
私が本物かどうかなど、はっきりとわかる者などいるはずがない。
エルネスタはずっと箱の中にいたのだから……。誰も私の顔を知らない……。わかっていてアルフォンス殿下は問いかけているのだ。
「誰もその女がエルネスタだと思う者はいないようだぞ、ユリウス。だが、この女が本物のエルネスタだと証明できる者はいるのだ」
アルフォンス殿下は横のほうを向いて、ひとりの壮年の男性に声をかけた。
「リーベル公爵、この女がおまえの娘に間違いないな?」
そう言ってアルフォンス殿下がリリアナを指差した。
エルネスタのお父様の公爵……。けれど、お父様がエルネスタに会いに来ることは一度としてなかった。大人になったその声すら知らないはずだ。
「アルフォンス殿下。はい、その娘が我が娘エルネスタに間違いございません」
エルネスタのお父様が、リリアナの顔も、私の顔もろくに見ずにはっきりとそう答えた。
そのとき、私の中で何かが切れた。
同時に、父親にすら見捨てられたエルネスタを、絶対に救わなければと強く思った。
「十年間、一度も会いに来なかったくせに、お父様のような顔をしないでください!」
自分でも驚くほどよく通る声だった。
「私が紛れもなくエルネスタです」
私はリリアナの前に歩み進んだ。
「リリアナ様ですね? いくつかお伺いしてもいいですか?」
「私はエルネスタよ。何なの、あなたは?」
その声を聞いて改めて確信した。箱の中のエルネスタを笑ったリリアナだ。
「第七代国王の名前をご存知ですか?」
「何よ、いきなり」
「ご存じですか?」
「知るわけないじゃない。そんなの」
「では王国を設立した初代国王の名前は?」
「もういい加減にしなさいよ。こっちは十年ぶりに外に出たのよ。世間のことなんて何も知らないわ」
平然とリリアナはそう言った。
エルネスタは世間のことは知らなくとも、王家の歴史は執拗に勉強させられたのだ。
「第七代国王はフリードリヒ三世。初代国王はオットー一世です。私はそれ以外にも、王家の歴史に関することであれば、何でも知っています」
「だから、何だって言うのよ! 王家の歴史くらい、王太子妃教育でこれから学ぶわよ」
「それでは、現在の時点では、あなたの王家への忠誠は示せないわ。王太子妃に相応しくないはずです。どうですか、アルフォンス殿下?」
「そんなもので王家の忠誠など測れんわ」
「では、ヴィルヘルム国王陛下はどうお考えなのですか? ヴィルヘルム陛下のご指示で、エルネスタは必死に王家の歴史を学んだのです!」
私はリリアナの手を掴み、左手の薬指にはまった婚約指輪を抜いた。驚くほど簡単に抜けた。
同じように私は自分の指から指輪を抜こうとしたが、指輪は関節に引っかかり、外すことはできなかった。
「エルネスタは……私は幼い指にこの指輪をはめられ、毎日、それが外れていないか確認されました。成長すると、もうこれを抜くこともできなくなりました。……これが十年もの間、箱に閉じ込められた結果なのです!」
私は、泣きながら叫んだ。
これは私の涙で、エルネスタの涙だ。
——誰もこの涙が偽物だなどと疑うことは許さない。
「狼藉者は去れ!」
そう怒鳴って、アルフォンス殿下が私を突き飛ばした。
衰弱した体で、少し私は無理をしてしまっていたようだった。
力を使い果たしてしまい、私はその場に倒れてしまった。
こいつらの不正を白日の下に晒さなければならないのに……。まだ言いたいことがいっぱいあるのに……。
「ごめんね、エルネスタ……」
私は消えゆく意識の中でそう呟いた。
「もうじゅうぶんです。エルネスタ様、よくやってくださいました」
そんな声がどこかで聞こえた気がした。
※
目を覚ますと、私はベッドに横たわっていた。
まさかすべて夢で、まだ箱の中にいるのかしら、と一瞬嫌な予感に襲われた。
「エルネスタ様、目を覚ましましたか。よかった」
その優しい安堵の声に、私は聞き覚えがあった。
「ユリウス殿下……」
顔を横に向けると、私を心配そうに見つめるユリウス殿下がいた。
「私は、エルネスタではないのでしょうか? また箱の中に入るのでしょうか?」
そう尋ねる私に、ユリウス殿下は微笑んだ。
「いえ、あなたはエルネスタ様ですし、もう箱なんかに入る必要はありません。自由です」
「でもアルフォンス殿下とリリアナが……」
「兄上は王太子の地位を失うでしょう。リリアナが王家に入ることもありません。貴族ですらなくなるでしょう。それ以外にも、国王ヴィルヘルムも、リーベル公爵も裁きを受けます」
「えっ?」
「エルネスタ様が倒れた後、宰相エーベルハルト侯爵が、エルネスタ様のお話を受けて、リリアナの身元を確認するべきだと提案してくださったのです。兄上は大きな見落としをしていました。エルネスタ様のお顔を知る者はおりませんでしたが、リリアナの顔を知る者は多くいたのです。複数の貴族が、あれはリリアナ・ベルクマン男爵令嬢だと証言しました」
確かに……男爵家といえど、社交界に出入りはしていただろうし、アルフォンス殿下とリリアナが親しいことを知っている人物もいたことだろう。それを押し切って自分がエルネスタだと言い張るのは、そもそも無理があったはずだ。
「宰相が中心となって調査を行うと、あなたがあの場で話したことを裏付ける証拠がすべて出てきました。王家の歴史の教育の記録や、王家から渡された指輪のことも、箱の設計図も……。それから、リリアナの身元ももちろん、兄上のしたことも。僕が本物の箱まで案内しましたので。兄上の指示で箱が入れ替えられて、そのままエルネスタ様の箱を誰も来ない森の中に放置し、殺害しようとしたことが明らかになったのです」
「ユリウス殿下が来てくださらなかったら、そのまま私は死んでいましたね……」
「宰相は、そもそも、王家や公爵家が、あなたを十年間も箱の中に閉じ込めたことも問題にしました。その正当性を王国評議会に諮ることもせず、王家は隠れてそんなことをしていたのですから。……もちろん、それを知っていて、秘匿に加担した僕自身も罪に問われると思います」
「ユリウス殿下も……?」
「宰相は重臣を集めて、王国評議会を行います。国王や王子、公爵といえど、この王国の法の下に裁かれなければなりません。そうでなければ王国の規律と平和は守れませんから」
「ユリウス殿下……。私はあなたが罪を償う必要などないと思っています。箱の中にいたときも、あなたは私の唯一の希望で、命を救ってくださった方です」
私の中のエルネスタがそう言っている。
「そうはいきません。でも……もし僕が罪を償って戻ってきたら……。いや、あなたは王家の人間などもう信じられないですよね……」
「あなたなら信じられます」
※
体力を回復した私は、王国評議会の場にも呼ばれた。当然だけれど、すべての証拠が、私が本物のエルネスタだと示していた。
殺人未遂と王太子妃の入れ替えの主犯となった王太子アルフォンス殿下は廃嫡と幽閉が決まった。リリアナはもちろん、ベルクマン男爵家も共謀していたことがわかり、廃爵となった。
「おまえさえいなければ、すべてうまくいったものを……」
判決を受けたアルフォンス殿下は私にそんな捨てぜりふを吐いた。
「あなたさえいなければ、私は箱の中で十年もの無為な時間を過ごすことはありませんでした。牢の中でその何倍もの時間をお過ごしください」
私はそう返した。
エルネスタの監禁を指示し、あるいは実行した国王ヴィルヘルムは退位、そしてリーベル公爵は当主の座を追われ、ともに幽閉されることとなった。公爵家自体は存続し、被害者の私、エルネスタ・リーベルが公爵位を引き継ぐことになった。
また、今後、王族の婚姻や、貴族への強制力を持つ命令は、王国評議会の承認を必要とすることになった。
ユリウス殿下は、監禁を知りながら告発しなかった責任を問われたけれど、殺人未遂事件の発覚後に救出および告発に尽力したことは考慮された。結果として、その処罰は私有財産の一部没収にとどまった。また、王位を空位のままにすること自体が王国運営上の問題となるため、評議会はユリウス・ローゼンハイムを次期国王として指名した。
事件のすべての決着がつき、私は誰からの強制でもなく、王家の命令でもない決断をした。
それは、ユリウス陛下を隣で支えていくことだった。
彼が私の命の恩人であることには変わりない。
そのことをユリウス陛下に伝えると、陛下は「ありがとう」と言い、涙を流した。
“ありがとう”
私の中でも、エルネスタがそう言った声がはっきりと聞こえた。




