絶対値の淑女
一、 琥珀色の前奏曲、あるいは変態紳士の告白夕刻のゼミ室は、西日に照らされて濃密な琥珀色に染まっていた。窓から差し込む光線には、目に見えないほどの微細な塵が浮遊し、まるで世界の時間の流れがそこで一度澱んでいるかのようだった。黒板の前に立つ彼女の背中が、その残光を浴びて柔らかな輪郭を描いている。私――黒崎は、大学で数学講師という大層な肩書きを拝領してはいるが、その実態は数式の裏に隠された美を偏愛する、ただの審美家だった。否、世間一般の言葉を借りるならば、「数式専門 of 変態紳士」と自嘲するのが最も正確かもしれない。私にとって、白いキャンバスに描かれた調和の取れた数式は、いかなる名画や彫刻、あるいは生身の肉体よりも扇情的に映るのだ。多くの者は、数学を冷徹で、無機質で、血の通わない学問だと誤解している。しかし、それはあまりにも浅はかな見方だ。数式とは、混沌としたこの世界を統べるために用意された、最も純度の高い「肉体」そのものに他ならない。xやyといったアルファベットの一文字一文字は、網タイツの網目のように、その奥にある真理という名の素肌を際立たせるための、至高の意匠なのだ。コツ、コツ、コツ。乾燥したチョークの音が、静まり返った教室内で一定の律動を刻んでいた。その音が私の鼓膜を心地よく、しかし確実に焦らすように刺激する。黒板に向かっているのは、私のゼミに所属する女子学生、高坂だった。彼女はいつも感情の起伏を他者に見せないクールな鉄の仮面を被っているが、その奥にある瞳には、時折、私を試すかのような底知れない知性の火が揺らめいている。大学の講義というものは、大半の学生にとって退屈な単位取得の手段に過ぎない。しかし、高坂だけは違った。彼女は私の講義中、熱心にノートを取るわけでもなく、ただじっと私の板書を、まるで解剖医が検体を観察するかのような、冷徹で凝視するような視線で見つめていた。その視線に、私はいつしか奇妙な興奮と恐怖を覚えるようになっていたのだ。「……先生」彼女はチョークを握る手を止めずに、声だけで私を呼んだ。振り返りもしない。その冷徹な態度が、かえって私の背筋に妙な緊張感を走らせる。「何かな、高坂くん。私に何か、解けない検算でも押し付けようというのかね?」「まさか。先生が数式を前にして、解けないなんて言い訳をするはずがないでしょう。……これ、見ていただけますか」彼女が身を引くと、黒板の特等席に、まだ湿り気を含んだ白い文字が浮き彫りになっていた。|x²+y|+|x²-y|≤x+1私は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、その数式を凝視した。その瞬間、私の脳内のニューロンが一斉に異常放電を始めた。心臓が、ドクンと不吉な、しかし狂おしいほどの歓喜の音を立てて跳ねる。「おや、おや、おや……。これはまた、なんと罪深い、陰影を帯びた肉体を持った数式を連れてきたものだ」額からじんわりと冷や汗が伝うのを感じる。仕立ての良いスリーピース・スーツの胸元が、急激に狭くなったかのように息苦しい。一見して、それはあまりにも肉感的で、複雑怪奇な放物線の曲線を二つも内包した、妖艶なドレスをまとった数式だった。通常、絶対値の中に2次の曲線が含まれている場合、そのグラフは平面上をグニャグニャとのたうち回り、見る者を拒絶するような奇怪な境界線を描くものだ。凡百の数学徒であれば、その泥沼のような計算を想像しただけで、恐れをなして引き返すだろう。だが、私の炯眼は騙せない。この絶対値記号という名の、堅牢にしてサディスティックなコルセットの奥に潜む「真実の素肌」が、かすかに私を誘惑しているのが、見えてしまったのだ。「先生? 顔がずいぶんと赤いですが。部屋の温度を下げましょうか」高坂がようやく私を振り返った。その瞳は、獲物を罠にハメた捕食者のように妖しく、愉しげに潤んでいる。「いや、必要ない……。高坂くん。今から私は、君の目の前で、この傲慢な淑女の衣服を……一枚ずつ、丁寧に剥ぎ取ってみせよう」私は我慢できずに自席から立ち上がり、彼女の手からチョークを奪い取るようにして黒板の前に進み出た。指先が興奮で微かに震え、チョークの白い粉が指頭を汚す。その感触すらもが、極上の前戯のように私を昂らせた。二、 第一の剥奪、あるいは直線の檻「さあ、始めよう。まずは『場合分け』という名の、最も初歩的で、かつ最も残酷な儀式だ」私は黒板の余白に、荒々しい筆致で二つの放物線を描いた。y=x^2と y = -x^2。これらは、絶対値の中身がプラスになるかマイナスになるかを決定付ける、冷徹な「境界線」だ。この二つの刃によって、美しかった座標平面は、4つの異なる快楽のエリアへと無慈悲に分断される。「見てごらん。まず私たちが足を踏み入れるのは、上側のエリア……すなわち、y ≥ x^2 かつ y ≥-x^2という、放物線の谷間に挟まれた秘められた領域だ」私はチョークを黒板に叩きつけるようにして、第一の場合分けを書き下ろす。「このエリアにおいて、第一の絶対値は自らの正当性を主張してそのまま外れる。しかし、第二の絶対値の中身は……負の烙印を押され、あられもない姿でマイナスの符号を伴って裏返るんだ……ッ!」黒板に白々と数式が展開されていく。(x^2+y)-(x^2-y)≤ x+1「さあ、ここからだ高坂くん! よく見ておくがいい、この淑女の真の姿を!」数式を整理した瞬間、私は信じられない奇跡に、思わず声を枯らして叫んでいた。ドレスの奥で、あれほど誇らしげに、傲慢にそのカーブを主張していたはずの放物線 \(x^{2}\) と \(-x^{2}\) が、互いの存在を貪り合うようにして、完璧に、跡形もなく消滅したのだ。2y≤x+1⇒ y≤ ¹/₂x+¹/₂「消えた……放物線が、消えていく……ッ!!」私の叫びがゼミ室の天井に木霊する。紳士としての理性のタガが完全に外れ、激しい呼吸のせいで眼鏡のレンズが真っ白に曇る。それを拭う暇さえ惜しい。残されたのは、あまりにも従順で、あまりにも冷徹なまでに真っ直ぐな、ただの1本の直線だった。「なんということだ……! 曲線という名の虚飾を剥ぎ取ったら、中から出てきたのは、こんなにも単純な直線だというのか! まだ終わらない、左右のエリアも同様だ。放物線の束縛から解き放たれたとき、今度は x の活動を縛り付ける、鉄格子のような垂直の壁が現れる……!」左右のエリアにおいて、数式は次のようにその姿を変貌させていた。\((x^{2}+y)+(x^{2}-y)\le x+1\implies 2x^{2}-x-1\le 0\)これを因数分解という名の鎖で縛り上げれば、\((2x+1)(x-1)\le 0\implies -\frac{1}{2}\le x\le 1\)「ああ……っ! 左右をバッサリと切り落とす、冷酷な垂直の壁だ。上側は傾き二分の一の直線。下側はそれを鏡写しにしたマイナス二分の一の直線……!」私は狂ったようにチョークを走らせ、境界線を実線で結んでいった。現れたのは、曲線など一切持たない、4本の直線によって完璧に支配された「台形」の領域だった。あんなに妖艶だった放物線たちは、この檻の輪郭を決定付けるための『生贄』に過ぎず、最終的な形にはその欠片すら残っていない。「フゥ……ハァ……。高坂くん、見事なギャップだと思わないかね? あれほどグニャグニャとした曲線で見せておきながら、その肉体をすべて剥ぎ取ってみれば、中から現れたのは完璧に計算された、無駄な肉の一切ない『直線の骨格』だったのだから……ッ! ああ、ゾクゾクする、数学の神様、あなたはなんて変態的なトリックを仕込むんだ……!!」息を荒くし、黒板にへばりつく私を、高坂は冷ややかな、しかしどこか満足げな目で見つめていた。その指先が、自分の唇をそっと撫でる。「……先生。やっぱり、あなたに見せて正解でした」彼女は小さく微笑み、私の耳元に近づいて、衣服の擦れる音とともに囁いた。「でも、これで満足されては困ります。これはまだ、外衣を脱がせたに過ぎませんから」高坂は鞄の中から、一冊の古いノートを取り出した。その表紙には、彼女の繊細な筆跡でいくつかの数式が書き留められていた。彼女はページをめくり、ある1行を指で指し示した。「次は、これです。先生のその高尚な理性を、今度はもっと深くから締め付けて差し上げます」私の視線が、その紙面に吸い寄せられる。\(x^{2}-2|x|y+y^{2}=1\)「……っ! ほう、これは……」私の喉が、自然と乾いた音を立てた。今度の数式は、一見すると非常にシンプルに見える。中学校や高校で習う、因数分解の公式の形に酷似しているからだ。もし、中央の x に絶対値記号がついていなければ、これは単なる平行な2本の直線を表すだけの、退屈な式に過ぎない。だが、違った。中央の x に、あの忌々しくも愛おしい「絶対値の枷」が嵌められている。「高坂くん……君は、このわずかな絶対値1つで、この数式にどれほどの『歪み』と『緊縛』を与えたか、理解しているのかね?」「ええ。だからこそ、先生にお見せしたかったのです。この子がどんな風に身をよじるのか」「素晴らしい……! では、再び解剖を始めよう!」私は黒板の台形を黒板消しで乱暴に消し去った。チョークの白い粉が舞い、夕日にきらきらと輝く。その霧の中で、私は再びチョークを走らせた。「x が 0 以上の世界……すなわち、座標平面の右半分という『光の世界』において、この式は牙を剥く!」\(x^{2}-2xy+y^{2}=1\implies (x-y)^{2}=1\)ここまではいい。ここまでは、大人しい2本の直線だ。右半分の平面で、それは美しく平行に走る。「だが、ひとたび x が 0 未満という『闇の世界』、左半分の平面に足を踏み入れた瞬間、絶対値は反転し、数式は真の狂気を露わにするんだ……ッ!」\(x<0\implies x^{2}-2(-x)y+y^{2}=1\implies x^{2}+2xy+y^{2}=1\implies (x+y)^{2}=1\)これを解くと、右半分とは全く異なる傾きの直線が現れる。「これらをドッキングさせる……。すると、どうなると思う?」右半分では右上がりの2本線、左半分では右下がりの2本線。それらが y 軸という境界線の上で、ピタリと、寸分の狂いもなく交わる。現れたのは、平面の上に綺麗に描かれた、巨大な「X」の文字――あるいは、砂時計のような形だった。「あぁ……っ! なんということだ! 2組の平行な直線が、中央で交差して、お互いを締め付け合っている……! だが、高坂くん、これだけでは終わらない。この数式が内包する真の変態性は、これを『二次曲線』の視点から眺めたときに、真の絶頂を迎えるんだ!」「二次曲線の……視点?」高坂の冷徹な声に、初めて微かな動揺が混じる。私はそれを見逃さず、さらに言葉を強めた。「そうだ! 行列を、あるいは座標の回転を導入するんだ! 君は気づいているか? この数式は、実は……私たちがよく知る『双曲線』が、45度そっと傾けられ、身をよじった姿だということを……ッ!」通常、左右に対称な美しいカーブを描く双曲線。しかし、中央に交差項が現れた瞬間、その双曲線は平面上で45度回転する。空間へと滑らかなカーブを描いて逃げていくはずの双曲線の肉体を、絶対値という鎖でギリギリと縛り上げ、身動きの取れない『直線の交差』へと調教しているのだ。「本来なら、無限の彼方へと逃げていくはずの双曲線の肉体を、絶対値という鎖でギリギリと縛り上げ、身動きの取れない『直線の交差』へと調教している……! ああ、なんというサディズム! なんという倒錯的な美しさだ! 曲線であることを許されず、直線として生きることを強制された数式の悲鳴が、私には聞こえるようだよ、高坂くん……ッ!!」私は息を切らし、黒板に描かれた「X」のグラフを愛おしそうに指でなぞった。チョークの粉が私の指を白く染め、それが黒板の黒と鮮やかなコントラストを描く。高坂は、呆然としたようにそのグラフを見つめていた。彼女の胸が、心なしか大きく上下している。「双曲線の……漸近線の拘束。そこまで見抜くなんて、先生、あなたは本当に……底が知れない変態ですね」「最高の褒め言葉として受け取っておこう。さあ、高坂くん、君のその好奇心という名の触手は、次にどんな獲物を私に差し出すのかね?」三、 隠された不連続性、あるいは無限の奈落への跳躍高坂は小さく息を吐き、乱れた前髪を耳にかけた。その仕草には、これまでの冷徹な彼女からは想像もつかないような、微かな「熱」が混じっていた。「先生、直線と曲線の倒錯だけで満足しているようでは、まだ数学の本当の『底意地の悪さ』をご存知ないわ」彼女はノートの次のページを、ゆっくりと、しかし確実な意志を持ってめくった。「今までは、どんなに形が変わろうとも、グラフは『繋がって』いました。地続きの肉体だった。でも……もしその連続性すらもが、暴力的に断絶されたら、先生はどんな声を出すかしら?」私の目の前に突きつけられたのは、ガウス記号――すなわち、床関数を含んだ、一見不格好極まりない不等式だった。\(y\ge [x]\quad \text{かつ}\quad x^{2}+y^{2}\le 4\)「ガウス記号……ッ! 君は、この神聖なキャンバスに、あの『階段』を持ち込むというのか!」ガウス記号とは、実数を超えない最大の整数を表す記号だ。この記号が導入された瞬間、滑らかだった数式の世界はズタズタに引き裂かれ、無限の段差を持つ「断絶の階段」へと変貌する。しかも、彼女はそれを、半径2の美しい真円と組み合わせたのだ。「おやおや、なんということだ……! これは、完璧な調和を保っていた円の肉体を、ガウス記号という名のデジタルな鉈で、ザクザクと輪切りにするようなものではないか!」私は新しいチョークを握りしめた。脳内はすでに興奮の過加熱状態だ。「解剖するぞ、高坂くん! まず、円の領域を描く。これは中心原点、半径2の満月のような美しい円だ。しかし、ここに条件が覆いかぶさる!」区間ごとに場合分けを行う。x が 0 以上 1 未満のとき、床関数は 0 となる。したがって、不等式は y が 0 以上。つまり、円の右上のエリアのうち、x軸より上の部分が切り取られる。x が 1 以上 2 未満のとき、床関数は 1 となる。今度は、1段高い場所から円が切り取られる。x が 2 のとき、床関数は 2。円の最上部の一点以外の部分は円の内部に含まれないため、ここは境界線上の一点となる。逆に、負の領域へ足を踏み入れると、同じように段差が下がっていく。「見てごらん! このグラフの無惨な姿を!」黒板に描き出されたのは、美しいはずの円が、右上がりのガチガチとした階段状の刃によって削り取られ、まるで鋸の歯のようになった奇妙な幾何学模様だった。左側は不自然に低く抉られ、右側は高い壁によって押し潰されている。「あぁ……っ! 滑らかな曲線だったはずの円の境界線が、ガウス記号の階段と交わるたびに、ブツブツと音を立てて千切れている! 連続であることを宿命づけられた幾何学の世界に、離散という名の冷徹なメスを入れ、肉体を断片化する……。高坂くん、君はなんて猟奇的な趣味をしているんだ!」「先生にそう言っていただけるなんて、光栄です」高坂の瞳には、今や明確な歓喜の光が宿っていた。彼女の白い首筋に、微かに汗の粒が浮き上がっている。「でも、驚くのは早いわ。私が本当に先生に見せたかったのは、この断絶の先にある……神の領域です」彼女はノートをさらにめくった。そこに書かれていた数式を見た瞬間、私はチョークを床に落としていた。パキン、と静かな音を立ててチョークが砕ける。しかし、それを拾うだけの筋力が、今の私の指先には残っていなかった。黒板の前に佇む彼女のノートに描かれていたのは、あの数式だった。\(\zeta (s)=\sum _{n=1}^{\infty }\frac{1}{n^{s}}\)「……リーマン・ゼータ関数ッ!!」私は解き放たれた叫びのような声を上げた。それは数学史上最大の難問であり、同時に最も美しいとされる、魔性の関数。「高坂くん、君は……君は正気か!? 大学のゼミ生が手を染めていい関数ではない! これは、人間の知性を狂わせ、数多の天才を精神の奈落へと突き落としてきた、本物の『魔女』だぞ!」「ええ、知っています」彼女は一歩、私に近づいた。彼女の体温が、西日の熱と混ざり合って私の肌に伝ってくる。「この関数のゼロ点――すなわち、関数が 0 となる複素数のうち、自明でないものは、すべて実部が二分の一という一本の直線上に並ぶ。……リーマン予想。先生、この『直線の呪縛』に、あなたならどんな興奮を覚えるかしら?」「あ、あ、ああ……っ!」私の頭を、激しい目眩が襲った。ゼータ関数という、無限の素数の情報を内包した、宇宙の混沌そのもののような関数。それが持つ非自明なゼロ点という名の急所が、複素平面という広大な海の中で、たった一本の、幅の持たない、あまりにも細く鋭い直線の上に、一列に並んで縛り付けられているというのだ。「宇宙のすべての素数の秘密が、たった一本の直線に緊縛されている……。これ以上のサディズムが、この世に存在するだろうか! 神は、神は世界を創るとき、どれほどの冷徹さをもってこの数式を縛り上げたんだ! ああ、脳が、脳のニューロンが焼き切れる……っ! この直線をなぞることは、神のストーカー行為そのものではないか……!!」私は壁に手を突き、かろうじて身体を支えていた。呼吸は完全に過換気状態に陥り、視界がチカチカと明滅する。数学の美しさと恐ろしさが、濁流となって私の脳内に流れ込み、私の理性を完全に粉砕しようとしていた。その時だった。高坂が、私の震える手をそっと両手で包み込んだ。彼女の手は、驚くほど熱かった。「先生、しっかりしてください。まだ、最後の『扉』が開いていませんよ」四、 絶頂の極座標、あるいは終わらない数式の夜彼女は私を誘うように、ノートの最終ページを開いた。そこに佇んでいたのは、それまでの直交座標や複素平面の住人ではなかった。角度と、半径を表す r。すなわち、すべてを包み込み、すべてを還流させる「極座標」の世界の住人だった。\(r=a(1-\sin \theta )\quad (a>0)\)「極座標……。君は、私をデカルトの二次元平面という額縁から連れ出し、この、角度と距離が支配する、無限の渦平原へと連れてきたのか」「ええ。直線と断絶に傷ついた先生に、本当の『肉体』の抱擁を与えて差し上げようと思いまして」高坂の言葉は、すでに挑まれる側のそれではなく、完全に私を支配する側のものだった。それは、互いの知性を極限まで擦り合わせる、暗黙の情事の完成を意味していた。「カージオイド。和名を……『心臓形』」その名前を口にした瞬間、私の脳内に、ある強烈なイメージがフラッシュバックした。「この数式は……ヤバい。ヤバすぎる。これまでの絶対値の直線美やガウス記号の断絶とは正反対の、全方位的な、圧倒的な『曲線の包容力』だ……!」私は床に砕けたチョークの中から、奇跡的に無傷だった一本を拾い上げた。今度は、これまで使っていた無機質な白ではない。箱の奥に眠っていた、鮮烈な「赤」のチョークだ。「さあ、この数式の衣服を剥ぎ取るのではない。今度は、この数式が描く軌跡を、一歩ずつ、その肌のぬくもりを感じるように追っていくぞ……!」角度が 0 から始まるとき、半径は a になる。「スタートは、右側の水平軸上、距離 a の点だ。ここから、角度が増していく……。すなわち、反時計回りに、ゆっくりと、愛撫するように角度を上げていくんだ」角度が 90度に近づくにつれ、半径は小さくなっていく。「見てごらん、高坂くん! 角度が真上を向いたその瞬間、半径は……『ゼロ』になる! すなわち、原点へと、最深部へと、吸い込まれるように急降下していくんだ……ッ!」真上を向いた瞬間に、すべての距離が消失し、原点へと突き刺さる。この急激な変化。しかし、物語はそこからさらに加速する。角度が90度を超え、180度へと向かうとき、半径は徐々にその肉体を取り戻していく。180度を向いたとき、半径は再び a に戻る。「臨場感はここからだ、高坂くん……!!」私は赤いチョークを黒板に激しく擦り付けた。キュイン、と高い音がゼミ室に響き渡る。「角度が 180度を超え、下半分の平面……すなわち、真下(270度)へと向かうとき、サインは負の値をとる! 真下を向いたその瞬間、半径は……『2a』になるんだよ, 高坂くん!!」半径は、最大値である 2a まで、大きく、豊満に膨れ上がる。上半分で見せた、原点への急激な緊縮とは裏腹に、下半分では、元の大きさの2倍にまでその肉体を拡張し、あられもない曲線を描いて空間を支配するのだ。「ああ……っ! なんという豊潤なカーブ! 原点に向かってツンと尖った尖点を持ちながら、下側では豊かに、丸々と膨むこの形! これを黒板に描き出すと……!!」私の手によって、黒板に鮮烈な赤で描かれたのは、紛れもない、歪んだ「心臓」のマークだった。「心臓……! 数式という冷徹な論理の檻から、まさか、こんなにも情熱的で、エロティシズムに満ちた、生命の象徴たる『心臓』が拍動を始めて飛び出してくるなんて……!! 誰が想像した!? デカルト座標の檻を飛び出し、複素平面の奈落を潜り抜けた私たちが、極座標という聖域で行き着いたのが、この血の通った心臓だなんて……ッ!!」私は黒板の前に両膝をつき、両手でその赤い心臓のグラフを包み込むようにした。手のひらがチョークの粉で真っ赤に染まる。まるで、数式の鮮血を浴びたかのように。「ハァ、ハァ、ハァ……!! 高坂くん……君は、君は私に、この数式を使って……何を伝えたかったんだ? この心臓は、この激しい拍動は……一体、誰のものだ……!?」私は我を忘れ、彼女を見上げた。眼鏡は完全に床に落ち、私の目は狂気と歓喜にギラギラと輝いていた。高坂は、膝をつく私の前に、ゆっくりと歩み寄ってきた。彼女のローファーの先が、私の目の前で止まる。彼女は屈み込み、私の目線にその美しい顔を合わせた。彼女の鉄の仮面は、完全に崩れ去っていた。その頬は紅潮し、呼吸は浅く、そして強烈な知性の熱を帯びていた。「先生。数学の世界では、言葉による告白なんて、あまりにも不確実で、不合理だと思いませんか?」「何……?」「私は、あなたに剥がされたかった。私の用意した数式たちが、あなたの手によってその硬い外皮を剥ぎ取られ、真実の姿を晒していく……その瞬間を、私はずっと、あなたと同じ熱量で、ゾクゾクしながら見ていたかったんです」彼女は私の赤い手を取り、自らのノートの、白紙の最終ページを開かせた。そこには、一つの新たな、見たこともない複雑な連立微分方程式の記号が踊っていた。\(\begin{cases}\displaystyle \frac{dx}{dt}=x(1-x)-\frac{xy}{x+\alpha }\\ \displaystyle \frac{dy}{dt}=\beta y\left(1-\frac{y}{\gamma x}\right)\end{cases}\)「微分……方程式……ッ!」私はノートを凝視したまま、声を震わせた。それは、個別に解き明かすことを完全に拒絶した、非線形の縺れ(もつれ)だった。変数xとyが、分母の奥深く、あるいは掛け算の網目の中でお互いを貪り合い、縛り合っている。xが動けばyの運命が歪み、yが身をよじればxの未来が狂う。その相互依存の有り様は、まるで互いの肉体に深く爪を立て、片時も離れることを許さない、盲目的で倒錯的な恋人たちの交わりそのものだった。「先生、カージオイドの心臓は、まだ標本のように静止した美に過ぎません」高坂は私の背中にその柔らかな胸を押し付けるようにして、背後から囁いた。彼女の吐息が耳元を掠め、私の知性を心地よく麻痺させていく。「この方程式に、時間tという名の命を吹き込んでください。そうすれば、その心臓は……どうなるかしら?」「あ、あ、ああ……っ! 脈打つ、動き出すんだ……ッ!」私は叫び、奪い取るようにノートに万年筆を走らせた。この方程式は、決して一万の静止点(平衡点)には収束しない。パラメータであるアルファ、ベータ、ガンマの値を、彼女の意図通りに調整していけば、平面上に現れるのは一本の静止したグラフではない。それは、時間が経つほどに、原点を中心としてぐるぐると永久に回り続ける、閉じた軌跡。数学の世界においてリミットサイクルと呼ばれる、終わりなき「快楽の振動」だった。さきほど黒板に描いた赤い心臓が、時間tの経過とともに、生き物のように伸縮を始め、ドクドクと不吉な、しかし圧倒的に甘美なビートを刻んで波打つ光景が、私の脳裏に鮮烈なホログラムとなって浮かび上がる。「神よ……! あなたはどれほどの悪趣味をもって、この時間の檻を創り出したんだ! 解けない、代数的には絶対に解けないというのに、数値の海の中を二人の変数は永遠にループし続け、決して逃れることができないなんて……っ! これこそが、論理という名の鎖で編まれた、究極の永久機関ではないか……!!」私の指先は歓喜で痙攣し、万年筆の先から黒いインクの雫が、紙面の数式の上にポツリと滴り落ちた。それはまるで、処女のシーツを汚す鮮血のように、数式の美しさをいっそう背徳的に引き立てていた。「先生、夜はまだ始まったばかりです。夜明けが来るまで、この方程式の海で、私と溺れてください」高坂の細い指が、インクで汚れた私の手の上から、万年筆を重ねて握りしめた。窓の外では、琥珀色だった夕闇が完全に漆黒の夜へと溶け落ち、静まり返った大学の片隅で、ただ二人の荒い呼吸と、紙を引っ掻く万年筆の鋭い音だけが、不連続な律動を刻み続けていた。この方程式が描く、果てしない渦の向こう側へと、私たちはどこまでも、どこまでも深く堕ちていく――。




