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光らない灯台の下で

作者: ほりきた
掲載日:2026/10/21

夕暮れの気だるさが、リビングの空気を重く沈ませていた。


「あのさ、今度の休み、時間ある? 岬の灯台に行きたいんだけど」


彩はスマホをテーブルに伏せ、僕を見て言った。


出かけるのを楽しみにしているような響きはない。その淡々とした声に、僕はマウスを操作する手を止めた。


最後に遠出をしたのはいつだったか。そんな疑問はすぐに引っ込み、僕はただ「ああ、いいよ」と短く応じた。これ以上踏み込まず、今の均衡を保つことが一番安全だと信じていたからだ。


休日の午後遅く。

駐車場の足取りからして、すでにぎこちなかった。彩は僕の少し後ろを歩き、無言で助手席に乗り込む。


ドアが鈍い音を立てて閉まった。シートベルトを引き出し、カチャリという乾いた音が響く。車内にはエアコンの微かな送風音だけが残された。


僕はキーを回し、そのままシフトレバーを引いた。


「行こうか」

発車前の重苦しさに耐え切れず、小さく呟いてパーキングブレーキを下ろす。彩は窓の外に顔を向けたまま、微動だにしない。


中古のコンパクトカーが、砂利を踏む音を立てて駐車場を出た。


海沿いへの国道には、冬の名残のような冷たい空気がへばりついていた。


少しだけ開けた窓の隙間から冷たい風が入り込み、水平線へと傾きかけた西日が眩しい。バイパスの渋滞。ロードサイドに並ぶ見慣れたファミレスやホームセンター。どこにでもある代わり映えのしない景色が流れていく。


彩はその景色を眺めているというより、ただ視線を外へ投げ出すことで、この狭い車内の息苦しさから逃れようとしているように見えた。


カーステレオからは、ずっと前に二人で作ったプレイリストが小さな音量で流れている。二人で選んだ曲なのに、二人とも口ずさむことはなかった。


「寒くない? 暖房、強めようか」


赤信号で車が停まったタイミングで、僕は努めて平坦な声を出した。アパートを出てから三十分。それが僕から発した唯一の言葉だった。


「ううん。大丈夫」


彩は窓の方を向いたまま、短く答えた。

あからさまな不機嫌さはない。ただ、通りすがりの他人に返すような、温度のない声だった。


昔なら「ちょっと足元が冷えるかもね」と笑いかけてきたりしたはずだ。そうやって言葉のキャッチボールで車内を温めてくれていたのは、いつだって彼女だった。


だけど今の彼女には、僕に何かを伝えようという意志そのものが欠け落ちている。


信号が青になり、無言でアクセルを踏み込む。

彼女の口数が減ったのは、僕のせいだ。日常の小さな不満やSOSに気づきながら、面倒になるのが嫌で見ないふりをした。


「社会に出たらそんなものだよ」


「気にしてもしょうがない、適当にやり過ごせばいいんだから」


彼女が弱音をこぼすたび、もっともらしい言葉を並べてその口を塞いだ。衝突を避け、自分の居心地の良い現状を守ることだけを考えていた。


ふと、助手席の彩が指先を動かした。


シートベルトの縁を、トントンと軽く叩く。何かを言い淀んでいる時の、昔からの癖だ。


僕は息を呑み、わずかにアクセルを緩めた。けれど彩は小さく息を吐き出すと、そのまま指先を離し、再び窓の外へ視線を戻してしまった。

今、喉の奥で何を飲み込んだのだろう。


肩が触れ合うほど狭い車内にいるのに、僕たちは果てしなく遠い。そばにいるのが当たり前すぎて、この空気がずっと続くと高を括っていた。


道の脇に、茶色い観光案内の看板が流れる。


車は速度を落とし、岬の突端にある駐車場の端へと滑り込んだ。


キーを回してエンジンを切る。途端にすべての駆動音が消え、少しだけ開いた窓の隙間から、遠くで低くうねる波の音だけが入り込んできた。


西の空に沈みかけた太陽が、海面を赤黒く染めている。


隣で彩が小さく息を吸い込む気配がした。


「ねえ」


静まり返った車内に、その短い声が響く。僕は振り返らず、「ん」とだけ喉の奥で相槌を打った。


「降りよっか」


ただ淡々と次の行動を促すだけの、ひどく静かな声だった。


そこに僕を責める響きもない。ただ、かつて向けられていた熱が、もう欠片も残っていないことだけがはっきりと分かる。


彩は迷いなく助手席のドアを開けた。


潮風がどっと流れ込み、車内に淀んでいた空気を一気にさらっていく。バタンと鈍い音が響いた。


僕はハンドルを握ったまま、彼女の背中がコンクリートの遊歩道へと歩き出していくのを見つめる。


一呼吸置いてからドアを開けると、車内とは比べ物にならないほど強い海風が全身に叩きつけた。


バタンとドアを閉め、キーのボタンを押す。ピッ、という電子音。


彩はもう数メートル先を歩いていた。


待つでもなく、急ぐでもなく、ただ一定のペースで白石岬の灯台へと進んでいる。僕は少し遅れて、その背中を追うように歩き出した。


スニーカーの底が硬い地面を擦る音が、波の音に混じって響く。


二、三メートルの距離。小走りで数歩進めば追いつけるのに、今の僕にはその隙間を埋める言葉も、隣に並び立つ図々しさもない。


前を歩く彼女の細い肩が、海風にあおられて少しだけ寒そうに揺れている。


声をかけるべきか迷ったけれど、冷たい拒絶に耐えられる自信がなく、ポケットに両手を突っ込んでうつむいたまま歩き続けた。


遊歩道が尽き、白石岬の灯台を見上げる半円形の展望スペースに出た。


遮るものがなくなり、海風は一段と勢いを増す。眼下の岩肌に波がぶつかり、重く砕ける音が足元から響いた。


彩は錆びた手すりの前で立ち止まり、両手をポケットに突っ込んだまま、広がる水平線を見つめている。西の空の赤みはすでに消えかけ、海と空の境界線はどす黒い藍色へと溶け合おうとしていた。


僕は彼女の隣まで歩み寄り、少しだけ距離を開けて立ち止まる。


「風、強いね」


波の音と気まずさに耐えきれず、手すりに寄りかかりながら口にする。


「うん」


彩は海を見たまま、短く答えた。


「でも、嫌な感じじゃない」


それきり、また会話が途切れる。


上空で海鳥が鋭く鳴いて飛び去っていった。背後にそびえる真っ白な灯台は、まだ光を放っていない。


「ここに来るの、初めてだっけ」


不意に、彩がぽつりと言った。僕を見ることはない。


「いや、大学の時に、一回来てないっけ? 三年生の夏に」


「それ、多分、別の岬だよ。県北の方」


即座に否定され、僕は口をつぐむ。


「ああ。そっか。そっちか」


情けなかった。話題ひとつ出せないばかりか、思い出の輪郭すら曖昧になっていた。


そして何より残酷だったのは、僕が思い出を間違えたことに対して、彩が怒りも呆れもしなかったことだ。そこに感情の揺れは一切なかった。


風が、彼女の少し伸びた髪を激しく揺らしている。


僕は手すりを握る手に力を込めた。鉄の冷え切った感触が伝わってくる。


「彩」


気づけば、その名前を口にしていた。

このまま夜の闇が降りてきてしまえば、彼女の姿が本当に見えなくなってしまうような、そんな焦燥感に背中を押されたんだと思う。


彩はゆっくりと顔を向けた。

暮れ泥む光の中で見る彼女の表情は、どこまでも凪いでいた。何かを期待しているわけでも、言葉を待っているわけでもない。ただ「呼ばれたから振り向いた」というだけの、静かな瞳だった。


何を言えばいい?


言葉を探して口ごもっていると、上空を冷たい潮風が吹き抜けていった。


見上げると、真っ白な灯台の巨大なシルエットが、光を放つこともなく、ただ暗い夜空の中に静かに突っ立っていた。



【二年前】

カーテンのまだない窓から、春の柔らかい夕日が真っ白なフローリングに落ちている。


それぞれの部屋から持ち寄った、まだ開けていない大小の段ボール箱が壁際に積まれたままの空っぽのリビング。二人の足音も、服の擦れる音も、痛いくらいによく響いた。


「あー!ねぇ、声めっちゃ響くよー」


コンビニの袋から取り出した缶チューハイのプルタブを開け、フローリングに直接座り込んだ彩が、ふざけて少し大きな声を出す。


「家具が何もないからね。今日全部片付けるのは無理だし、とりあえず寝るとこだけ作ろっか」


「だね。あー、疲れたー」


彩が缶チューハイを一口飲んで、笑う。


「明日から、仕事終わったら、私たち夜ここに帰ってくるんだよね。なんか変な感じ」


振り返ったその笑顔は、僕たちの間にいかなる暗い未来も存在しないと信じ切っているようだった。


二人でアパートの鍵を受け取り、新しい生活を始めた頃。


休日の朝。少しだけ遠出をしようと、僕が買ったばかりの中古のコンパクトカーに乗り込むなり、助手席の彼女は当たり前のように自分のスマホを取り出す。


短い電子音が鳴り、カーステレオのBluetoothが彼女の端末を認識する。


「今日はね、ちょっと遠出するからテンション上がるやつにする!」


彩が画面をタップすると、アップテンポな曲が車内に響き渡る。彼女はよく喋り、よく笑い、いつも二人のための音楽を選んでくれる。


ドライブ中、僕はただ黙々とハンドルを握っているだけでいい。


「あ、見て! あの看板の犬、めっちゃ変な顔してる!」


「ねえ、次のお休みはあそこのカフェ行ってみない?」


彼女は次々と話題を見つけては空間を埋め、僕はシラフのままそのまとまりのない話に相槌を打ち、時折からかうように的確なツッコミを入れて笑わせる。


僕の退屈で平坦だった日常は、彼女が隣にいてくれるだけで驚くほど鮮やかなものに変わっていく。


話題を振り、音楽を流し、空気を温めるのはいつだって彼女だ。


僕はその心地よい熱に浸りながら、「俺たちの間にはいつも完璧なバランスがある」と信じて疑わない。この居心地の良い空間が、彼女からの一方的な供給の上に成り立っているという事実にも気づかないまま。



季節が巡り、窓を閉め切るような冬が来た頃。

アパートのリビングに流れる空気に、少しずつ異物感が混ざり始める。


ある夜、ローテーブルで鍋をつついていた時だ。彩が箸を止め、器のふちを見つめたまま言った。


「ねえ聞いてよ。今日さ。また先輩に仕事押し付けられてさ」


「んー? いつも機嫌悪い人?」


テレビの中では芸人が大声でいじられ、スタジオに笑い声が響いていた。僕はその画面から目を離さず、ポン酢の瓶を手にとった。


「そう。定時ギリギリになって急に『これお願いね』って。昨日までにやってなきゃいけないデータの入力、私のデスクに置いてそのまま帰っちゃって」


「うわ、最悪じゃん。残業になったの?」


「うん。私だけ。他の人も絶対気づいてんのにスルーだし」


彩は器の豆腐を箸で小さく崩しながら、深く息を吐いた。


声は低く濁っていた。ただ「それはひどいね」と一言同意してほしいだけの、疲れた声だった。


だけど僕は、その重い空気を部屋に持ち込まれるのが嫌で、無意識に会話を早く終わらせようとしてしまう。


「まあでもさ、そういうのにいちいちイライラしてても損するだけじゃない?」


「イライラしてるっていうか、断ったら断ったで、明日から絶対態度に出されるし」


「だから、上手く流せばいいんだって。『わかりましたー』って聞いて、適当にやって帰ればいいんじゃない?真に受けるから疲れるんだよ」


「真に受けてるわけじゃないんだけど。自分の仕事じゃないのにさ」


「でも直接文句言っても、結局向こうの方が立場上なんだからさ。戦うだけ時間の無駄だって」


彩は僕の顔を数秒だけじっと見つめた。それから視線を鍋に戻し、「…そうだね」とだけ言った。

それ以上、彼女は何も言わなかった。僕もそれ以上は追及せず、テレビのバラエティ番組の笑い声に意識を戻した。


それから少しずつ、家の中の音が減っていった気がする。


帰宅した彩に「今日どうだった?」と聞いても、「うん、普通。特に何もないよ」と短く返ってくるだけになった。上着をハンガーにかけ、カバンの整理を終えると、そのまま着替えに奥の部屋へ行ってしまう。


食事中も、必要最低限の言葉しか交わさない。

仕事の愚痴どころか、今日食べたランチの話も、職場の同僚のちょっとした話題も、彼女の口から出ることはなくなった。ご飯を食べ終えるとさっさと立ち上がり、黙々と自分の分の食器を洗って、スマホを持ったままソファの端に座る。


僕のいる空間にいっさいの不協和音を立てないよう、ただ静かに時間を消化しているようだった。


僕はその静けさを、大人になって上手く立ち回れるようになったんだなと都合よく解釈し、部屋の空気が平穏になったことに安堵していた。


春先、僕の地元の友人数人と、駅前のチェーン居酒屋で飲むことになった。


彩を連れて行ったのは、それが初めてだった。

男三人、女二人。狭い個室でビールジョッキが交差する。酔いが回るにつれ、地元のノリ特有の雑な会話が始まった。


「てか彩ちゃん、こいつといて楽しい? 普段何話してんの?」


「仕事何系? 事務? いいなー、事務って定時で帰れるでしょ。俺ら先週とか終電だったし」


友人たちに悪気はない。ただの粗野な雑談だ。

けれど、隣に座る彩の体がわずかに強張るのが伝わってきた。グラスを握る指先に力が入り、薄い笑いを浮かべたまま固まっている。


テーブルの下で、彼女の指先が僕のデニムの裾を、きつく掴んできた。


助けを求めているのは分かった。けれど、ここで僕が真顔で「そういう言い方やめろよ」と言えば、場の空気が冷める。友人たちの前で空気の読めない奴だと思われるのが嫌だった。


僕はヘラヘラと笑いながら、ビールを口に運んだ。


「家でもずっとこんな感じだよ。最近ずっと仕事の愚痴言ってるし。もっと適当にやればいいのに、真面目すぎるんだよな」


友人たちが「あー、わかる」「真面目な奴ほど損するよなー」と沸いた。


その瞬間、僕のデニムを掴んでいた彩の指先が、スッと離れた。


隣を見ると、彩はもう僕の方を見ていなかった。氷の溶けきったサワーのグラスをただ見つめ、貼りついたような笑みを浮かべている。


テーブルの下で、彼女の膝が少しだけ僕から離れるように引かれていた。


帰りの車内。

僕がハンドルを握り、彩が助手席に座る。

カーステレオの画面には「Bluetooth接続済み」と表示されているのに、スピーカーからは何も流れてこない。


ウインカーの乾いた電子音だけが、無音の車内に規則的に響いていた。


「さっきはごめんね。あいつら酒入るとあんな感じだからさ。適当に流しといてよ」


前を向いたまま、僕は言い訳を口にした。

彩は助手席の窓に額を寄せるようにして、流れていく街灯の光を見つめている。


「ううん。別に気にしないで」


声に高低がなかった。怒りも、呆れもなく、ただ暗闇に溶けていくような声だった。


「ならいいけど。まあ、あいつらも楽しそうだったし」


僕はそう言ってアクセルを踏み込んだ。

カーステレオのディスプレイが無機質な青い光を放っている。


助手席の彩はそれ以上一言も喋らず、ただ静かに外の暗闇を見つめ続けていた。



【現在】

あの車内から、どれくらい時間が経っただろう。


夜の白石岬は静かで、かすかに湿った潮の匂いが漂っていた。


手すりの向こうは真っ暗な海で、波が岩にぶつかる重い音が下から規則的に響いている。背後に佇む白石岬の灯台はいつの間にか廃灯になったらしく、夜になっても光を放たない。巨大な円柱のシルエットが、星もない夜空の闇の中にただ黒く突っ立っていた。


ロングコートのポケットに両手を突っ込んだまま、彩は海の方を見つめていた。


時折、思い出したように強い風が吹き抜け、彼女の長い裾と短い髪を揺らす。


「…寒くない?」


声をかけると、自分の喉が思っていた以上に乾いているのが分かった。


彩はすぐには答えず、次の風が通り過ぎるのを待つようにして、小さく言った。


「ううん。大丈夫」


会話が途切れる。また風が止み、波の音だけが暗闇に残る。


何か言わなければという焦りはあるのに、何を口にしても白々しく聞こえそうで、僕は手すりの冷たさに指先を押しつけることしかできない。


「ここ、ずっと来てみたかったんだよね」


彩が海を見つめたまま、ぽつりと言った。


「白石岬?」


僕が聞くと、彩は小さく頷いて、それから少し間を置いて続けた。


「大学のとき、二人で行ったじゃん。県北の、赤礁岬」


「あぁ…うん」


記憶の奥底から、ぼんやりと昔の光景が引きずり出される。


大学三年の夏。僕の乗っていたボロい軽自動車。エアコンの効きが悪くて窓を全開にして走り、ナビが古くて迷い込んで、途中のコンビニで買ったぬるいお茶を飲みながら笑っていた。


車内には、彩のスマホから流れるアップテンポな曲がずっと響いていた。


「あのときの岬、覚えてる? 駐車場から階段すごくてさ。汗だくで登ったとこ」


「うん」


「あのとき、また来ようねって言ったら、次はもっといい車で来ようって笑ってた」


悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ事実を確かめるような淡々とした声だった。


今乗っているコンパクトカーは、あの頃の軽自動車よりずっと静かで快適だ。だけど、今の助手席には音楽すら流れていない。


「なんで、あっちじゃなくてここだったの?」


僕が尋ねると、彩は静かに首を振った。


「あっちに行ったら、なんか嫌じゃん」


また時折の風が吹き抜けて、二人のコートを大きく揺らした。


「あの時の楽しかった記憶のままにしておきたかったから。あそこ行ったら、今の私たちと比べちゃうし。だから、二人で行ったことない場所がよくて。光ってもいない、何もない灯台がよかったんだよね」


風が去り、再び静まり返った暗闇の中に、彼女の言葉だけが冷たく残った。


何もない灯台という言葉に、僕は何も言い返せなかった。


そのまま会話は途切れ、波が岩を叩く重い音だけが足元から規則的に響いていた。


手すりを掴む指先から、金属の冷たさがじわじわと体温を奪っていく。僕の沈黙を責めるでもなく、彩はただじっと、暗い海を見つめていた。


「ねえ」


不意に、彩が静かに口を開いた。


「二年前の、あの居酒屋行った日。覚えてる?」


「居酒屋?」


「駅前の、雑居ビルに入ってたところ」


心臓が嫌な跳ね方をした。地元の友人たちと駅前のチェーン店で飲んだあの夜のことだ。


「あのときさ、私、テーブルの下で服の裾引っ張ってたの、覚えてる?」


声に角や責めるような響きは一切なかった。まるで遠い昔に読んだ本の話でも思い出したみたいに、穏やかで静かなトーンだった。


「…うん」

絞り出すように答えると、彩は小さく頷いた。

「気づいてたんだ」


「いや…あの時はさ、周りも酒が入ってて適当なこと言ってただけだし。そこで俺が本気で怒ったら余計に空気が悪くなるかなって思って。上手く流した方がいいかなって」


口を動かすほど、自分の言葉が浅ましく言い訳がましく響くのが分かった。あの夜、周りのノリに合わせて笑いを取り、彼女のSOSを無視して保身に走った感覚が、冷や汗となって背中を滑り落ちる。


彩は僕の方を見ようともせず、ただ薄く笑った。


「ううん、責めてるわけじゃないんだよ?本当に。場の空気を悪くしないようにしてくれたんだなって、分かってたし」


彩はロングコートのポケットの中で、少しだけ体を縮めた。


「仕事のこともそう。疲れて帰ってきたとき、色々とアドバイスしてくれてたでしょ。こうすれば楽になるよとか、気にしなきゃいいんだよって」


「…うん」


「分かってたよ。私のこと考えて言ってくれてるのも、それが一番正しい解決策なのも。でもね、私はただ、大変だったねって言ってほしかっただけなんだよね。正しい答えとか、賢い生き方じゃなくて」


言葉の語尾が、時折吹き抜ける風の音に優しく混ざる。怒りや悲しみというより、ただ過去を確かめるような、どこか人ごとのような響きだった。


「助けてほしかったのは、賢い解決策じゃなくて、私と同じ側に立ってくれる人だったの。でも、別に責めたいわけじゃないんだよ?ただ、求めてたものが違っただけだから」


喉の奥がカラカラに乾いて、呼吸がうまくできない。


責めたいわけじゃないという彼女の言葉が、どんな罵詈雑言よりも深く刺さる。正解のつもりで与えていた言葉も、あの夜の誤魔化しも、すべて彼女を静かに追い詰めていただけだったのだと知る。


「私ね、あの居酒屋の帰り道からかな。家で愚痴言うのやめちゃったの。何か言っても、またこうすればいいって答えを出されちゃうから」


彩はゆっくりと振り返り、僕の顔を見た。

暗闇の中でもはっきりと分かるほど、その瞳は穏やかで、何の波風も立っていなかった。もう期待も、失望も、とっくに通り過ぎてしまったあとの目だった。


「あの家でさ、二人でいるのに、なんかずっと一人みたいだったんだよね」


否定も、言い訳もできなかった。

自分がうまくいっていると思い込んでいた二年間は、ただ彼女に我慢を強いて、部屋の中で独りぼっちにさせていただけだったのだから。


喉が引きつって、ごめんという言葉すら出てこない。


「来月、部屋の更新でしょ」

彩は海から目を離さず、ロングコートのポケットに両手を突っ込んだまま言った。


「ちょうどいいかなと思って」


「…うん」


「別れよう」というドラマみたいな言葉すら使われないまま、僕たちの終わりは当たり前の決定事項として淡々と進んでいく。


「荷物、今週末にまとめるね。仕事行ってる間に車で運ぶから」


「手伝おうか?」


口にしてから、自分の間抜けさに吐き気がした。彩は小さく鼻で笑った。怒りでも呆れでもなく、ただ可笑しそうに。


「いいよ。友達に頼むから。鍵は、テーブルの上に置いておくね」


「そっか」


引き留める資格も、縋りつく言い訳も、最初からどこにもなかった。これはやり直すための話し合いではなく、ただの清算だったのだと痛いほど理解できた。


「寒くなってきたね。帰ろっか」


彩は小さく息を吐いた。薄い白い息が暗闇に揺れて、風にさらわれて消えていく。


「うん」


彩は僕の顔を見ないまま振り返り、駐車場の方へ歩き出した。


アスファルトを踏む靴音が、遠くの潮騒の音に混ざって少しずつ離れていく。


背後には、光を失った白石岬の灯台が、巨大な影となって静かに佇んでいた。


二人の足元を照らす光は何もないまま、僕は縮まることのない距離を保ちながら、彼女の後ろ姿を追って歩き出した。


潮騒の音が少しずつ遠ざかり、鍵の解除音とともに、車内に重苦しい静寂が戻ってきた。


冷え切ったシートに身を沈め、エンジンをかける。暖房の風が徐々に温かくなり始めるのを待ちながら、ヘッドライトの白い光が、誰もいない駐車場の舗装された地面を無機質に照らした。


彩は何も言わず、助手席のシートベルトを締めて窓の外を見つめている。


国道に出てしばらく走ると、沿道のコンビニの白い蛍光灯が見えてきた。


「何か買っていく?」


僕が声をかけると、彩は視線を窓の外に向けたまま、小さく頷いた。


「缶チューハイ、買っていい?」

「寒くない? 温かいやつのほうが良くない?」


思わず口元が緩むと、彩も少しだけ肩の力を抜いたように答えた。


「車の中あったかいから平気ですー」

少し語尾を伸ばしたその言い方は、昔の彼女のクセそのままで、胸の奥がちくっと痛んだ。


車を止め、二人で店に入った。明るすぎる店内に、僕たちの影がくっきりと落ちる。


彩は迷うことなくお酒の棚へ向かい、二人で住み始めた日の夜、まだ何もない部屋のフローリングに座り込んで飲んだのと同じ、安っぽい缶チューハイを手に取った。僕は温かい缶コーヒーを一本だけ持って、レジに並ぶ。


車に戻り、彩がプルタブを引く。パシュッと乾いた小さな音が、暖房の効いた車内に響いた。


「これ、引っ越した日にも飲んだよね」


一口飲んで、彩がぽつりと言った。


「…そうだね」


「あの部屋、カーテン届くの遅かったじゃん。夕方になると西日で部屋中オレンジ色になってさ」


「段ボールをテーブル代わりにしてね」


「そうそう」


彩は懐かしむように小さく笑った。そこにはもう怒りも悲しみも無く、ただ終わった出来事を遠くから眺めるような、穏やかな諦めだけがあった。


彩はスマホを取り出し、画面を数回タップした。


スピーカーから、Bluetoothの接続音とともに、聞き覚えのあるアップテンポな曲が流れ始める。かつて遠出をするとき、彼女がドライブの始まりに必ず流していた曲だった。


「これ、よく聴いたよね」


「…うん」


「赤礁岬行ったときも、ずっと流れてた」


「エアコン効かなくて、窓全開にしてさ」


「ぬるいお茶飲みながらね」


会話が途切れ、サビのメロディが車内に広がった。


昔はこのサビにくると、彩は助手席で体を揺らしながら、大きな声で一緒に口ずさんでいた。僕はそれを横目で見ながら、ハンドルを握って笑っていた。


今は誰も歌わない。

ただ、スピーカーから流れるボーカルの明るい歌声だけが、僕たちの沈黙を嘲笑うみたいに元気に響いている。


彩は缶の表面に浮いた水滴を、親指でゆっくりとなぞっていた。


「あの日さ」

前を見つめたまま、僕はアクセルを少しだけ踏み込んだ。


「すごく楽しかったよ」


彩は親指の動きを止め、窓の外へ目を向けた。

「…うん。楽しかったね」


声は震えていなかった。あまりにも穏やかで、綺麗に過去形にされたその返事に、僕はもう何も重ねることができなかった。


彩は窓ガラスに額を預け、流れていく街灯の光を静かに追いかけている。


僕たちの会話を弾ませるために存在していた音楽が、二人を繋ぐ最後の気まずさを埋めるためだけに流れていた。



アパートの駐車場に車を滑り込ませ、エンジンを切ると、その音楽もぷつりと途切れた。一瞬で、車内は夜の静寂と冷気に包まれる。


「ありがと」


彩は短くそう言うと、持ち込んだ空の缶チューハイをレジ袋に仕舞い、助手席のドアを開けた。


外の空気が頬を刺す。階段を上る二人の足音が、静まり返った夜の敷地に規則的に響いた。二人でこの階段を上るのも、あと数回なのだと頭のどこかでぼんやりと考えた。


鍵を回してドアを開ける。壁のスイッチを押すと、見慣れた白い蛍光灯の光が部屋を明るく照らした。二人の生活が詰まった、いつも通りの部屋。けれど、すべての前提が変わってしまった空間。


玄関で靴を揃えて脱ぐ彩の後ろ姿を、僕はただ黙って眺めていた。


彩はコートを脱いでハンガーにかけ、リビングの隅に置いた自分のバッグの口を整えた。


「先にお風呂入る?」


振り返らずに彩が言った。


「あ、大丈夫。彩先でいいよ」


「じゃあ、お先に」


そう言って彩はバスタオルを一枚手に取り、洗面所へと向かった。ドアが静かに閉まり、しばらくしてシャワーの音が規則的に聞こえ始める。


修羅場も、涙も、大声の言い争いもない。

話し合いが終わったあとの部屋には、拍子抜けするほど淡々とした時間が流れていた。だけど、そのシャワーの音の向こう側で、二人で積み重ねてきた時間が静かに、不可逆な速度でほどけていくのが分かった。


僕はコートを着たまま、壁際に寄せられた小さなローテーブルの前に腰を下ろした。


テーブルの上には、コンビニで買った温かい缶コーヒーが一本、手付かずのまま静かに冷めていっていた。



土曜日の夕方、仕事から帰ると、玄関の鍵は開いていなかった。


ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。カチリと鳴った小さな金属音が、誰もいない廊下に空しく響いた。


ドアを開けても、「おかえり」の声はない。


靴箱からは彩のスニーカーが消え、傘立てには僕の傘が一本だけ残されていた。


部屋へ足を踏み入れると、洗面所の鏡の前から彼女の化粧水や歯ブラシがなくなり、二人で選んだ小さな観葉植物だけが、ポツンと取り残されていた。


約束通り、彩はすべての荷物をまとめて実家へ引き上げていった。


リビングの隅にあったテレビも、綺麗になくなっていた。


持っていく家電を決めるとき、テレビの電源を入れて録画リストを開いたら、画面を埋めていたのは彩が毎週観ていたドラマや深夜番組のタイトルばかりだった。


昔は残り数時間の録画容量をめぐって、どちらの番組を優先して消すかでくだらない小競り合いばかりしていたのに。


僕が画面を指して「まだ観てないドラマ、結構残ってるじゃん持っていきなよ」と言うと、彩は画面に並ぶタイトル一覧をじっと見つめ、「…でも、これ二人で買ったやつじゃん」と小さく口にした。「俺、最近全然テレビ観ないし。実家で続き観なよ」と返すと、彼女は「わかった」と短く呟き、足元にあったダンボールの側面に、黒のマジックで黙々と『テレビ・配線』と書き足した。


テレビのあった壁際、配線コードだけが虚しく床を這っている。


生活の半分が綺麗に切り取られた空間は、想像していたよりもずっと広く、息が詰まるほど静かだった。


壁際のローテーブルの上には、合鍵が一本、静かに置かれていた。


二年前、引っ越しの日に失くさないでねと言って渡した、角の少し丸くなったキーホルダーがそのままついている。


指先でその鍵に触れる。ひんやりとした金属の冷たさが伝わってきた。


『あの家でさ、二人でいるのに、なんかずっと一人みたいだったんだよね』


暗い海の前で、彩がぽつりと言った言葉が頭の中で静かに再生される。


部屋の真ん中に立ち、周囲を見渡す。


カーテンの隙間から差し込むのは、街灯の薄白く冷たい光だけだった。かつて二人で段ボールを囲んでいたとき、部屋じゅうを染め上げていたあのあたたかいオレンジ色の西日は、もうどこにもなかった。


彩はずっと、この静けさの中にいたのだ。

僕がうまくいっていると思い込み、背中を向け続けていた二年間。彼女はこの部屋で、たった一人で息を潜め、僕への期待をひとつずつ捨てていたのだ。


一人になるのが怖くて彼女を引き留めていた気でいたけれど、本当はとっくに、僕の方が一人だった。


手の中の鍵を、ゆっくりとポケットに仕舞う。

僕はローテーブルの前に直接座り込み、壁に背中を預けた。


あの日、コンビニで買って手付かずのまま冷めてしまった缶コーヒーを取り出し、プルタブを引く。


乾いた音が、ガランとした空間に小さく響いて、そのまま静寂の中に消えていった。


一口飲んだコーヒーは、ただ苦かった。

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