第8話『本当のことを言えなかった』
「あなたの子じゃないの」
その言葉を言った瞬間、自分の中の何かが壊れた気がした。
本当は、言いたくなんてなかった。
伝えたくて、会いたくて、抱きしめてもらいたかった。
なのに、思っていることとはまるで反対のことを口にしてしまった。
その後悔が、解決した今でもなかなか消えない。
ルシアは、屋敷の離れの窓辺で膝を抱えていた。
朝から降り始めた細かな雨が、静かに庭を濡らしている。
お腹に手を添えると、まだ膨らみは目立たないけれど、そこにいる命の気配は確かにあった。
つわりは相変わらず続いていて、気分もすぐれない。
でもそれ以上に、心の奥に引っかかる感情のほうが重かった。
(なぜ、私はあんなことを言ってしまったんだろう)
ノアの顔が浮かぶ。
泣きそうな表情。信じたくても信じきれず、崩れそうな眼差し。
遠征前の夜。
ルシアは、彼の腕の中で眠った。
そのときの温度、胸の鼓動、息づかいまで、今でも鮮明に思い出せる。
「必ず戻る」
そう言って額に口づけた彼を、信じていた。
けれど――
戻ってきた彼の隣には、見知らぬ女がいて。
笑っていた。その女に、彼は肩を貸していた。
(あのとき、全部が嘘に見えた)
自分だけが取り残されたような、あの冷たい感覚。
その夜、彼はルシアの部屋には来なかった。
待ち続けた時間が、苦しくて、惨めで、恐ろしくて――
そして朝には、すべてが終わったように感じた。
「あなたの子じゃない」
それは、心を守るための嘘だった。
信じた自分が馬鹿だったと、そう思いたくて。
先に傷つけて、先に終わらせたかった。
でもそれは、同時に彼を突き落とす行為でもあった。
「どうして私は」
ルシアは呟いた。
誰にも届かない声。けれど、それは自分への懺悔だった。
「信じたかったけど、怖かったの。
“違う”って言われたら、私……自分を保てなかったと思う」
“愛されていないかもしれない”という不安は、何より人を弱くする。
“疑う自分”を責めながらも、信じることを選べない日々。
その中で彼女は、ただひとつ守るべき存在を選んだ。
お腹の子。
ノアとの夜に宿った、奇跡のような命。
(せめてこの子だけは、守らなきゃ)
だから、彼のもとを離れた。
だから、嘘をついた。
誰にも気づかれないように、涙を呑みながら。
だが、ノアは来た。
毎日、変わらず訪れ、何も求めず、ただ見守り続けた。
ルシアはその背に、少しずつ救われていった。
“嘘をついた自分”を、見捨てなかったこと。
“他の男の子”と言ったのに、それでも「俺が面倒見る」と言ってくれたこと。
(こんなにも馬鹿で、優しい人が……)
あのときの夜の沈黙を、彼はきっと後悔しているのだろう。
けれど、同じように自分も、もう二度とあんな嘘はつけないと心から思っていた。
その日、ノアがふらりと訪れたのは、午後の陽が差す時間だった。
雨が上がり、濡れた石畳が陽にきらめいていた。
「今日は……調子、どう?」
「少しだけ、眠れたわ。つわりも、昨日よりはマシ」
「そうか……それなら、よかった」
他愛もない会話。けれど、心にしみるような時間だった。
ノアは庭を見ながら、ふいに言った。
「……俺は、君に“嘘をつかせた”って思ってる」
ルシアはハッとした顔で彼を見た。
「俺が行かなかったから。説明しなかったから。
君が“違う”って言わなきゃ、心が保てなかったって、分かってる。
でも今度は……もう君がそう言わなくてもいいようにする。
嘘なんてつかなくても、全部受け止められるようにする」
ルシアの目に、涙が浮かぶ。
「ノア……」
「だから、これからは、本当のことだけを話してくれ」
「……うん」
涙を流しながら微笑むルシアに、ノアはそっと手を差し伸べた。
「一緒に帰ろう。まだ、すぐじゃなくてもいい。
でも、君と子供と三人で、一緒に暮らしたい」
ルシアはその手を取って、小さく頷いた。
「ありがとう。……今度は、もう逃げないわ」
“本当のこと”を口にできた彼女は、ようやく、心からの笑顔を取り戻した。