第7話『兄の怒りと妹の涙』
ルシアがノアとの誤解を解いたその翌朝、
フィーレン家の広間に声が響いた。
「ルシア!」
兄エリオットの声が、屋敷に響き渡った。
扉を挟んでその声を聞いていた侍女たちが、びくりと肩を揺らす。
その部屋の中央に座るルシアは、微動だにせず目を伏せていた。
怒って当然だった。
最初、兄には、妊娠を伝えることもせず、離縁状を置いて実家に戻ってきた。
何もかも、独断で決め、嘘をつき、そして今になって「やっぱり夫の元に戻ります」と言い出したのだから。
兄は義弟に肩入れしているのだろう、妹の過ちが度がすぎていたのが幼稚で許せなかったのか。
「少々厳しいことを言うが、聞かなかった俺も悪い」
「……ごめんなさい」
「ノアが全てをかぶって処理してくれたからいいものの、自分のした事も少しはきちんと理解するんだぞ」
ルシアは目を閉じ、静かに言葉を紡いだ。
「みんなを巻き込んで、ごめんなさい」
「……おまえだけの問題ですまないんだ」
「子を宿しているのに、この子と共に捨てられるのかと思うと、冷静ではいられなかったの」
エリオットは口をつぐんだ。
そして、あのときの妹の様子を思い出す。
極端に無口で、体調を崩しながらも無理に笑っていたあの数日。
「……“他の男の子供”とまで言ったのは言い過ぎだ」
「…あの時は、彼が他の女性と一緒になるとばかり思ってたのよ」
その言葉に、エリオットの表情が一気に険しくなる。
「……それにしても、話し合うべきではなかったのか」
鋭い叱責だった。
ルシアは唇を噛み、うつむいたまま動かない。
けれど、その言葉を返すように、かすれた声が漏れる。
「分かってる……自分勝手なのは、分かってる。
でも、あの夜……誰かの声が欲しかったの。
信じたいのに、信じきれないって……一番つらいのよ、兄さん……」
エリオットはゆっくりと腕を組み、背もたれに寄りかかった。
「……ルシア、お前にだけは幸せになってほしいと思っているんだよ」
「……兄さん……」
「お前に、そんな思いをさせたことは確かに悪い。怒って悪かった。お前が嘘をつかざるを得ないくらい追い詰められたのは確かだが、我が家としても、ただ可愛がるだけではお前の為にはならない」
ルシアは唇を引き結んだ。
自分のしてきたことが、誰にも正当化できるものではないことを、彼女は分かっていた。
「……幼稚なことをしてしまいました」
「“他の男の子供でも、面倒を見る”とまで言わせたんだぞ?」
「……はい」
「あんないい男、他にいないぞ」
「……ほんとにね」
二人の間に、しばし静寂が流れた。
やがて、エリオットは立ち上がった。
妹の傍に歩み寄り、静かに頭に手を置いた。
「……俺はもう何も言わない。
ただひとつだけ言わせろ。
次は、試すんじゃなくて、“信じろ”。これから夫を支え、母となり柱になるのだから」
ルシアは涙をこぼしながら、小さく頷いた。
「……うん。もう嘘は、つかない」
その夜、ノアはフィーレン邸の離れを再訪した。
いつものようにノックし、いつものように名乗る。
「ルシア。今夜も、来たよ」
扉の向こうから、かすかな笑い声が返ってきた。
「毎日、来てくれてありがとう」
「当たり前だ。通うって言っただろう?」
ノアは扉の前でしばらく待ち、そして中へ通された。
窓辺には、少しだけ頬にふっくらとした色が戻ったルシアの姿。
「……兄さんに、怒られた」
「そうなのか?なんて?」
「私に、すごく怒ってた」
「それは誤解だといわなければ、ルシアは何も悪くない。悪いのは俺だけだ」
「兄さんのほうが、あなたのこと好きみたい」
ノアは微笑んだ。
「……それはなかなか有難いが、悲しいな。俺は君に一番に愛されたい」
ルシアはそっとお腹に手を添えて、ふたりの距離を見つめる。
「……ありがとう。あなたから逃げた私を、見捨てなかったこと」
「俺がそんなことするわけがないだろう」