第5話『捨てられた妊婦?噂と誤解と庇護欲』
「将軍の正妻が、妊娠中に実家に逃げ帰ったらしいぞ」
「まさか、浮気でもされたんじゃ……?」
「いや、女を連れて帰ってきたとか」
王都の社交界で、噂が走った。
ルシア・フィーレンが実家に戻ったこと。
その腹には子がおり、離縁状が残されていたこと。
ノア・ヴァリス将軍がその後、屋敷に現れたこと。
誰もが想像したのは、こうだ。
──身重の妻を裏切り、女を連れ帰ってきた冷酷な夫。
──捨てられた妊婦が、命を守るために逃げた。
──あわれな令嬢を、実家と兄が必死に守っている――と。
そんな中、ノアは屋敷に通い続けていた。
毎朝決まった時間に現れ、ルシアの様子を確認し、必要があれば使用人と話し、
彼女と目が合えば、それだけで黙って頭を下げる。
まるで、償うように。
その姿を見た人々の印象は二極化した。
「……何があったのかは分からないけど、将軍は悔いているようね」
「むしろ、捨てた相手を今さら追ってるのが見苦しいって話よ」
「でも、妊婦を支える男の姿は、それなりに美徳ってことで……」
誤解されたままの夫婦像が、外部で勝手に成立していく。
そんな中、ルシアは屋敷の離れで静かに暮らしていた。
兄の手配で医師が定期的に訪れ、栄養のある食事が届けられ、侍女のミリアも隣に控えている。
穏やかで、平和で、けれどどこか空虚だった。
「……本当に、あの人、毎日来てますよ」
ミリアは気を遣いながらも、そう告げてくれる。
ルシアは窓辺から庭を眺める。
その向こうには、遠く立つ軍服姿の影。
今日も、そこにいる。
なにも言わず、なにも求めず、ただじっと立っている。
(何がしたいの? あなたは)
(他の男の子って言ったじゃない。私が言ったじゃない)
(それでも、あなたは――)
その日の昼。
エリオットが来訪し、ルシアに向かって静かに尋ねた。
「……本当に、ノアの子じゃないのか?」
ルシアは眉をひそめた。
「兄さんまで、何を……」
「いや、すまない。だがな、あいつは“違う”と言われても、まだ毎日通ってる」
「……」
「それが“罪滅ぼし”なら、まだ理解できる。
でもあいつ、“他の男の子供なら、俺が育てる”って言ってたんだぞ」
ルシアは小さく目を見開いた。
「……」
「馬鹿だよな。だが、そんな馬鹿な男を今も待ってる女が、目の前にいるように見えるんだ」
「待ってなんか、ない……」
「……じゃあ、そろそろ本当のこと、言わないか?」
ルシアは沈黙した。
胸の奥がぎゅう、と痛む。
(本当のことなんて、言えるわけない)
(だって――信じてほしかった。だけど、あの夜来てくれなかった)
(……あなたに、期待してしまった自分を、許せなかった)
ルシアはそっと腹に手を当てる。
そこにいる命は、確かにあの夜のぬくもりが宿った証。
だけど、言えない。
この子が“あなたの子です”なんて、もう今さら、どうして言える?
その夜、ノアはついにエリオットと真正面から向き合った。
応接室の重厚な扉の中で、ふたりは向かい合う。
「あなたが、妹に執着しているのは分かります。
まだ支えたいと?」
「支える」
「裏切られたかもしれないのに?」
「それでも構わない。……彼女が俺を捨てたとしても、俺が彼女を愛してることには変わりない」
ノアの言葉に、エリオットは長く息を吐いた。
「……じゃあ、私の口から言わせてもらう。
あの子の腹の子は、おそらくお前の子だ」
ノアの目が見開かれる。
「……え?」
「あの夜のことを、何度も日記に書いていた。
吐き気に耐え、ひとりで医師にかかり、
お前に“帰ってきたら真っ先に伝える”って」
「じゃあ……」
「全部、お前のせいだ」
ノアは立ち尽くしたまま、拳を握った。
「分かってる……分かってるよ。……あの夜、俺が慢心したせいで。
ろくに説明しなかった。全部……俺のせいだ」
「……なら、今度は嘘をつかせないでやれ。
あの子が“他の男の子”なんて言わなくてもいいように、全部受け止めてやれ」
その言葉に、ノアはただ深く頷いた。
夜風が冷たい中、再び屋敷の離れの前に立ったノアは、扉をノックした。
「ルシア。俺だ」
「……何?」
「謝らせて欲しい」
沈黙。
やがて、扉がゆっくりと開いた。
中から現れたのは、パジャマ姿のルシア。
疲れているはずなのに、どこか泣き出しそうな顔で、彼を見ていた。
「……なにを?」
「……君が、俺を信じられなくなったこと、それが全部の答えだったんだろ?」
ルシアの手が震える。
ノアは、そっとその手を取って、自分の額に当てた。
「きみが無事ならそれでいい。
でももう、嘘はやめよう。
……この子は、俺の子なのか?」
ルシアは堪えきれず、涙をこぼした。
「……あの夜、来てくれなかったから。
だから、全部終わったと思って……伝えられなかったの」
「……伝えてくれたら、俺は……」
「ごめんなさい、本当は、お腹にいるのは、あなたの子です」