第4話『「あなたの子じゃない」、その言葉に崩れた夜』
あの一言が、脳裏にこびりついて離れない。
『あなたの子じゃないの』
静かな口調だった。
泣いていたわけでも、怒っていたわけでもない。
ただ、終わらせるためだけに紡がれた言葉だった。
(……本当に、あれがルシアの本心だったのか?)
ノアは屋敷を後にしてから、馬にも乗らずに街道を歩いていた。
まるで、自分の身体ではないような感覚。
足元がふわふわと浮き、手のひらの熱も消えていた。
ただ一つ、胸の中心だけが焼けるように痛い。
彼女の声が、脳内で繰り返される。
『違うの』
『他の男の子よ』
城に戻ったノアは、部屋に直行して扉を閉めた。
執務の報告も、食事の誘いも、すべて無視した。
寝台に腰を落とした瞬間、膝が崩れた。
肩が震えた。
感情をどう処理していいか分からなかった。
怒りか、悲しみか、それとも絶望か。
「……なぜ……」
かすれた声がこぼれる。
どこでどう間違えた?
いや、それでも――
(俺は、どうすることが正解だったんだ?)
それが、一番苦しかった。
「閣下、お加減がすぐれないと──」
「構うな。誰も入れるな」
扉の外で騒ぐ侍女たちを一喝し、ノアは暗い寝室に独りこもった。
時間の感覚がなくなる。
ただ、目を閉じると浮かぶのは、ルシアの顔と、腹に添えられた彼女の手。
妊娠は本当なのだ。
けれどそれが“自分の子ではない”と告げられた。
あんなにも毎晩抱きしめていたのに。
心の奥で、どうしても納得できない思いが渦巻いていた。
(あれが本当に……他の男との子供だったとして、どうする?)
(それでも、俺は――)
「見損ないました、将軍」
翌日、執務に出ようとしたノアを廊下で待ち受けていたのは、ルシアの兄、エリオット・フィーレンだった。
「貴族の間で、すでに話が広まっていますよ。“将軍に捨てられた妊婦が実家に逃げ帰った”と」
「俺は捨ててなんか……」
「そう言い訳して回るつもりですか? この国中に」
冷たく、切りつけるような口調。
「……違う。俺は……彼女に、戻ってきてほしい」
ノアは、うなだれながら呟いた。
「じゃあ何故、初日に訪ねなかった?何故、彼女の孤独に気づけなかった?」
言葉が、痛いほど胸に突き刺さる。
ルシアが泣いた日々を想像する。
自分を信じたい気持ちと、裏切られたかもしれないという恐怖。
“あなたの子じゃない”という言葉は、あの子なりの最後の防衛線。
本当は見破ってほしかったのではないか。
「嘘だ」と言ってほしかったのではないか。
彼女は夫を裏切るような妻ではない。
ノアは立ち上がった。
「もう一度、行かせてください」
「それで何をするつもりですか?」
「……他の男の子供ならばなぜ、そいつは側にいないんですか」
エリオットは驚いたように目を見開いたが、やがて眉を寄せてため息をついた。
「……もう、関係ないだろう」
「……他の男の子供だとしても、彼女と生きていきたい。1人で苦しんでいるのなら、側で支えになりたい」
その言葉に、エリオットはふと表情を緩めた。
「……それを今言うあたり、本当に馬鹿ですね、あなたは」
そして再び、ノアはフィーレン邸の門を叩いた。
門番は前回とは違い、穏やかに応対してくれた。
そのまま庭へ通され、ルシアが体を休めているという離れへと案内される。
中から、微かな声が漏れた。
「……お茶、もう少しだけ冷まして」
その声に、ノアの喉が熱くなる。
「ルシア……俺だ」
沈黙。
「会ってほしい。……少しでいい。話をさせてほしい」
しばらくの後、扉がわずかに開き、ルシアが顔を出した。
目元は疲れていたが、それでも彼女は毅然としていた。
「来ないでって言ったわよね」
「言った。でも、来た」
「どうして」
ノアは少し笑った。
「……君が、他の男に捨てられたなら、俺が代わりに面倒見る。そう思った」
ルシアの目が、見開かれた。
「……え?」
「子供が誰のだろうと、関係ない。君がひとりで産もうとしてるなら、俺が傍にいる」
震える声で、彼女は言った。
「……ほんとに、そう思うの……?」
「ルシア。君を……今も、愛してる」
ルシアの唇が震えた。
彼女の目から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「……馬鹿ね、あなた」
その言葉に、ノアは頷いた。
「そうだな。救いようのない馬鹿だよ」
ふたりの距離が、ようやく、ゆっくりと縮まり始めていた。